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響舛市太郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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響舛 市太郎(ひびきます いちたろう、安政6年8月17日1859年9月13日) - 明治36年(1903年7月4日)は、加賀国石川郡押野村[1](現在の石川県野々市市)出身で鯨波部屋(京都)から中立部屋境川部屋を経て高砂部屋[2][3]に所属した大相撲力士。本名は河→井ノ口→河 市太郎(粂次郎とも)。最高位は関脇。身長173cm、体重114kg。所属は

人物

響舛 市太郎
基礎情報
四股名 響舛 市太郎
本名 河 市太郎
生年月日 (1859-09-13) 1859年9月13日
没年月日 (1903-07-04) 1903年7月4日(43歳没)
出身 加賀国石川郡押野村
身長 173cm
体重 114kg
BMI 32.66
所属部屋 鯨波部屋(京都)→中立部屋境川部屋高砂部屋
得意技 右筈押し
成績
現在の番付 引退
最高位 関脇
幕内戦歴 60勝43敗80休8分9預
データ
初土俵 1882年1月場所(京都・序ノ口)
入幕 1889年5月場所
引退 1899年5月場所
備考

京都相撲を経て東上し、怪力を活かした右ハズからの押しを武器に入幕3場所目には小結に昇進。相手に土俵際まで追い詰めさせてからのもうっちゃりも得意で、待ったを何度もすることから「待った博士」の異名も[3]。愛嬌の無い容貌で人気に乏しかった[4]

略歴

  • 1882年(明治15年)1月 鯨波部屋(京都相撲)から初土俵を踏む(序ノ口[3]
  • 1889年(明治22年)1月 新十両。翌5月新入幕[3]
  • 1890年(明治23年)1月 小結に昇進。
  • 1893年(明治26年)6月 関脇に昇進。
  • 1897年(明治30年)5月 脱走により全休。
  • 1898年(明治31年)5月 復帰。
  • 1899年(明治32年)5月 引退[3]

主な成績

  • 幕内戦績:60勝43敗80休8分9預(20場所)

各段優勝 

  • 十両優勝:1回(1889年1月場所)

関連項目

出典

  1. ^ 東京相撲で活躍した押野出身の力士|野々市市
  2. ^ 大相撲力士名鑑平成13年版、水野尚文、京須利敏、共同通信社、2000年、ISBN 978-4764104709
  3. ^ a b c d e ベースボールマガジン社『大相撲名門列伝シリーズ(3) 高砂部屋』p18
  4. ^ 関取名鑑(響舛 市太郎)”. web.archive.org (2006年9月12日). 2020年6月30日閲覧。
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