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うめが香丸

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
うめが香丸
基本情報
船種 貨客船
船籍 大日本帝国の旗 大日本帝国
所有者 帝国海事協会
運用者 帝国海事協会
鉄道省
建造所 三菱造船所
母港 東京港/東京都
信号符字 LJWT
IMO番号 12198(※船舶番号)
建造期間 556日
就航期間 1,176日
経歴
発注 1907年10月23日
起工 1907年12月29日
進水 1909年3月27日
竣工 1909年7月6日
就航 1910年12月5日
最後 1912年9月23日海難沈没
その後 1913年5月18日浮揚後解体
要目
総トン数 3,273.0トン[1]
純トン数 1,730.0トン[1]
載貨重量 4,920.0トン[1]
垂線間長 102.10m[1]
型幅 13.10m[1]
型深さ 7.28m[1]
満載喫水 5.18m[1]
主機関 三菱パーソンス式DCタービン機関 3基[1]
推進器 3軸
最大出力 8,864PS(連続)[1]
最大速力 21.315ノット(試運転)[1]
旅客定員 一等:47名
二等:53名
三等:268名[1]
テンプレートを表示

うめが香丸(うめがかまる[2])は、帝国海事協会貨客船[1]、義勇艦[3]。「梅ヶ香丸」[4][5]とも。

船歴

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日露戦争中の1904年、帝国海事協会は募金により平時は商船だが有事の際には仮装巡洋艦となるような義勇艦隊を作ることを計画[6]。募金を募ったところその集まりはよく、造船奨励法の適用も受けて「さくら丸」、次いで「うめが香丸」が建造された[7]

2隻とも三菱造船所で建造され、「うめが香丸」は1907年10月23日に発注、同年12月29日に起工、1909年3月27日に進水し、同年7月6日に竣工した[8]

1910年1月25日に鉄道院に傭船され[9]青函航路に就航[1]。1911年1月20日、「会下山丸」が関釜航路から青函航路に移り、「うめが香丸」は関釜航路に移された[10]

1912年9月23日、大里沖に碇泊中、暴風雨により閉じられていなかった舷窓から浸水して転覆、沈没した[1]。この件は海員審判に加えて刑事裁判ともなったことから二重の罰だとして騒ぎになった[11]

1913年5月18日に浮揚に成功したものの、結局解体となった[1]

その他

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「さくら丸」と「うめが香丸」の商船としての評価は良くなく、3隻目の「さかき丸」は使用者の要求をいれて設計された[12]

脚注

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o 山田早苗「日本商船隊の懐古No. 25」47ページ
  2. ^ 『商船建造の歩み』174ページ
  3. ^ 『創業百年の長崎造船所』530ページ
  4. ^ 『創業百年の長崎造船所』531ページ
  5. ^ 『青函連絡船五十年史』41ページ
  6. ^ 高城清「大正時代神戸で生まれた鉄道連絡船」67ページ。山田早苗「日本商船隊の懐古No. 25」46ページ
  7. ^ 高城清「大正時代神戸で生まれた鉄道連絡船」67ページ。山田早苗「日本商船隊の懐古No. 25」46-47ページ
  8. ^ 『日本海事協會五十年史』45ページ。『創業百年の長崎造船所』531ページ
  9. ^ 『青函連絡船五十年史』41、99ページ
  10. ^ 『青函連絡船五十年史』227ページ
  11. ^ 『海難審判史』372ページ
  12. ^ 高城清「大正時代神戸で生まれた鉄道連絡船」67ページ。山田早苗「日本商船隊の懐古No. 25」47ページ

参考文献

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  • 高等海難審判庁(編)『海難審判史』海難審判研究会、1964年
  • 高城清「大正時代神戸で生まれた鉄道連絡船」船の科学 第53巻第10号(No. 624)、62-69ページ
  • 日本海事協會(編)『日本海事協會五十年史』日本海事協會、1949年
  • 三菱造船株式会社(編)『商船建造の歩み 1887~1958』三菱造船、1959年
  • 山田早苗「日本商船隊の懐古No. 25」船の科学 第34巻第7号(No. 393)、46-47ページ
  • 『創業百年の長崎造船所』三菱造船、1957年
  • 『青函連絡船五十年史』青函船舶鉄道管理局、1957年