アウグスタ・コンスタンティア・フォン・コーゼル
アウグスタ・コンスタンティア・フォン・コーゼル Augusta Constantia von Cosel | |
---|---|
出生 |
1708年2月24日 |
死去 |
1728年2月2日(19歳没) |
埋葬 |
神聖ローマ帝国 ザクセン選帝侯領、ドレスデン郊外、シェーンフェルト教会 |
配偶者 | ハインリヒ・フリードリヒ・フォン・フリーゼン |
子女 | アウグスト・ハインリヒ |
家名 | ヴェッティン家アルブレヒト系 |
父親 | ポーランド王アウグスト2世 |
母親 | コンスタンティア・フォン・コーゼル |
アウグスタ・コンスタンティア・フォン・コーゼル(Augusta Constantia Gräfin von Cosel, 1708年2月24日 - 1728年2月2日)は、ポーランドとザクセンの統治者アウグスト強王と、愛妾のコーゼル伯爵夫人アンナ・コンスタンティアの間の最初の非嫡出子。結婚に伴いフリーゼン伯爵夫人(Gräfin von Friesen)。
生涯
[編集]母が父王の失寵を蒙って1713年ザクセン宮廷から追放されると、アウグスタ・コンスタンティアと弟妹はホルシュタイン地方の母の実家デーペナウ荘園に預けられ、母方祖母アンナ・マルガレーテ・フォン・ブロックドルフの手で養育された。
1721年からは、当時のザクセン宮内長官で後に内閣府大臣となるヴォルデマール・フォン・レーヴェンダール男爵(アウグスト王の従兄でもあった)とその妻ベネディクタ・マルガレータに引き取られて育った[1]。
1725年、17歳の時に27歳年長の外交官ハインリヒ・フリードリヒ・フォン・フリーゼン伯爵と結婚[2]。夫は当時鷹場長官(Oberfalkenmeister)で、後に歩兵大将に昇進する。父アウグスト強王は自分の娘に相応しい婚礼とすべく、ピルニッツ城で3日間に及ぶ結婚披露宴を催した。婚礼自体はザクセン宮廷首席説教師ベルンハルト・ヴァルター・マルパーガーが司式を務め、アウグスト強王臨席のもと1725年6月3日に行われた。この婚礼時の説教の原稿の写しがバイヤーナウムブルク城の文庫に保管され、この写しは現在ザクセン=アンハルト州立公文書館ヴェルニゲローデ出張所にて管理されている[3][4]。
アウグスタ・コンスタンティアは短い結婚生活で2人の息子に恵まれた[1]。しかし1728年の年明けに天然痘に罹り、20歳の誕生日を迎える直前に死去した[1]。遺骸はドレスデン郊外シェーンフェルト教会(Schönfelder Kirche)の内陣胸壁に安置された。同教会はフリーゼン家代々の墓所であった[5][6]。
息子のアウグスト・ハインリヒ・フォン・フリーゼン(1727年 - 1755年)は伯父のモーリス・ド・サックス元帥を頼ってフランス軍の将官となったが、若くして亡くなっている。
脚注
[編集]- ^ a b c Köpping, Reinhard (2010), Lauchhammer, Stiftung Kunstgussmuseum (ed.), Erz und Adel. Zum Leben und Wirken der Freifrau von Löwendal. (ドイツ語), Husum: Verlag der Kunst Dresden, p. 38
- ^ Heinrich Theodor Flathe (1878). "Friesen, Heinrich Friedrich Graf von". Allgemeine Deutsche Biographie (ドイツ語). Vol. 8. Leipzig: Duncker & Humblot. pp. 87–88.
- ^ Brückner, Jörg; Erb, Andreas; Volkmar, Christoph (2012), Sachsen-Anhalt, Landeshauptarchiv (ed.), "Adelsarchive im Landeshauptarchiv Sachsen-Anhalt – Übersicht über die Bestände" (PDF), Veröffentlichungen der staatlichen Archivverwaltung des Landes Sachsen-Anhalt – Reihe A – Quellen zur Geschichte Sachsen-Anhalts (ドイツ語), Magdeburg: Selbstverlag des Landeshauptarchivs Sachsen-Anhalt, vol. 20, p. 203
- ^ „Eintrag des Trauungssermons auf der Hochzeit einer illegitimen Tochter Augusts des Starken der Gräfin Auguste Constantia von Cosel mit dem Grafen Heinrich Friedrich Friesen durch den Oberhofprediger Dr. Marperger“ vom 3. Juni 1725 (Memento des Originals vom 29. 12月 2016 im Internet Archive) 情報 Der Archivlink wurde automatisch eingesetzt und noch nicht geprüft. Bitte prüfe Original- und Archivlink gemäß Anleitung und entferne dann diesen Hinweis. im Verzeichnis über den Bestand des Beyernaumburger Gutsarchivs im Landesarchiv Sachsen-Anhalts
- ^ "Schönfelder Kirche". Dresdner-Stadtteile.de. 2017年1月2日閲覧。
- ^ Internetauftritt der Kirchgemeinde Schönfeld-Weissig (Memento vom 2. 1月 2017 im Internet Archive), abgerufen am 2. Januar 2017
参考文献
[編集]- Hoffmann, Gabriele (1988), Constantia von Cosel und August der Starke – Die Geschichte einer Mätresse (ドイツ語), Bergisch Gladbach: Bastei Lübbe, ISBN 9783404611188。