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アウグステ・フェルディナンデ・フォン・エスターライヒ=トスカーナ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
アウグステ・フェルディナンデ
Auguste Ferdinande
ハプスブルク=トスカーナ家
アウグステ・フェルディナンデ(1850年頃)

全名
出生 (1825-04-01) 1825年4月1日
トスカーナ大公国フィレンツェ
死去 (1864-04-26) 1864年4月26日(39歳没)
バイエルン王国の旗 バイエルン王国ミュンヘン
埋葬 バイエルン王国の旗 バイエルン王国ミュンヘン、テアティーナ教会
配偶者 ルイトポルト・フォン・バイエルン
子女
父親 レオポルド2世
母親 マリア・アンナ・カロリーナ・ディ・サッソニア
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アウグステ・フェルディナンデ・フォン・エスターライヒ=トスカーナドイツ語: Auguste Ferdinande von Österreich-Toskana, 1825年4月1日 - 1864年4月26日)は、トスカーナ大公女で、バイエルン王国の摂政ルイトポルトの妃。最後の国王ルートヴィヒ3世の母。

イタリア語名はアウグスタ・フェルディナンダ・ダズブルゴ=ロレーナAugusta Ferdinanda d'Asburgo-Lorena)。

生涯

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バイエルン王子ルイトポルト妃アウグステ・フェルディナンデ(ヨーゼフ・カール・シュティーラー画、1850年代)

1825年、フィレンツェで生まれる。トスカーナ大公レオポルド2世が最初の妃マリア・アンナとの間に儲けた3姉妹の次女で、夭折せずに成長した唯一の娘だった。最後のトスカーナ大公フェルディナンド4世は異母弟にあたる。フランス王ルイ14世とイングランド王ウィリアム征服王の直系の系統の1人である。

厳格なカトリック教育を受けた後、若いうちから芸術と科学に興味を持った。同時代の人々からは、背が高くて美しく、自意識が高いと言われていた。

1844年4月15日、フィレンツェでバイエルン王子ルイトポルトと結婚した。結婚前すでにアウグステに肺結核の症状が出ていた事から、ルイトポルトの父のバイエルン王ルートヴィヒ1世は当初この縁談に反対した(最終的にこの病気により39歳で亡くなった)。

ルイトポルトとは後のバイエルン王ルートヴィヒ3世を含む4人の子女を儲けた。子ども達とはいつもイタリア語で話した。

アウグステは政治活動の面でルイトポルトを良く支え、1848年革命の際には、反ローラ・モンテス派にまわり、その上で共和制主義者側を孤立させようと動いた。

1864年4月、肺結核のために39歳で死去した。遺体はミュンヘンテアティーナ教会英語版納骨堂に埋葬された。ルイトポルトは再婚せず、娘テレーゼと妹アーデルグンデが家事を取り仕切った。

アウグステの死後、ルイトポルトはバイエルン王国の摂政となった。

子女

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アウグステ・フェルディナンデとその家族(1850年代)

外部リンク

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