アウグステ・ヴィクトリア・フォン・ホーエンツォレルン=ジグマリンゲン
アウグステ・ヴィクトリア Auguste Viktoria | |
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ホーエンツォレルン=ジグマリンゲン家 | |
全名 |
一覧参照
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出生 |
1890年8月19日 ドイツ帝国 プロイセン王国、ポツダム |
死去 |
1966年8月29日(76歳没) 西ドイツ、バーデン=ヴュルテンベルク州アイゲルティンゲン |
埋葬 | 西ドイツ、ランゲンシュタイン城 |
配偶者 | マヌエル2世 |
ロベルト・ドゥグラス | |
父親 | ヴィルヘルム・フォン・ホーエンツォレルン=ジグマリンゲン |
母親 | マリーア・テレーザ・ディ・ボルボーネ=ドゥエ・シチリエ |
アウグステ・ヴィクトリア・フォン・ホーエンツォレルン=ジグマリンゲン(ドイツ語: Auguste Viktoria von Hohenzollern-Sigmaringen, 1890年8月19日 - 1966年8月29日)は、ポルトガル王マヌエル2世の妻。王制廃止後に結婚したため、王妃とは認められなかった。
ポルトガル語名ではアウグスタ・ヴィトリア・デ・オーエンゾレルン=ジグマリンゲン(Augusta Vitória de Hohenzollern-Sigmaringen)。
生涯
[編集]1890年、アウグステ・ヴィクトリアは当時ルーマニア王位の推定相続人であったホーエンツォレルン=ジグマリンゲン侯ヴィルヘルム[1](ルーマニア王フェルディナンド1世の兄)と、最初の妃マリーア・テレーザ(両シチリア王フェルディナンド2世の孫でオーストリア皇后エリーザベトの姪)の長女として、ポツダムで生まれた。大叔母にポルトガル王ペドロ5世妃エステファニアがいる。
1913年9月4日、イギリスに亡命していたポルトガル王マヌエル2世と結婚[2][3]。マヌエルは1908年2月1日に父カルロス1世と兄の王太子ブラガンサ公ルイス・フィリペが同時に暗殺された為、王位を継承していた。その後1910年10月5日革命によって退位を余儀なくされ、結果的にポルトガルでは第一共和政が成立していた。結婚時はアウグステ・ヴィクトリアが23歳、新郎マヌエルは24歳だった。双方ともポルトガル女王マリア2世とフェルナンド1世夫妻の曾孫で、又従兄弟である。マヌエルは1932年7月2日、ミドルセックス州トゥイッケナム、フルウェル・パークで亡くなった。2人の間に子どもはなかった。
1939年4月23日にロベルト・ドゥグラス伯爵(1880年 - 1955年)と再婚。ロベルトはスコットランドのダグラス氏族の支流であるスウェーデンのドゥグラス伯爵家の第13代当主でバーデン大公国の貴族家門ドゥグラス=ランゲンシュタイン家の家長でもあり、ランゲンシュタイン城の城主だった。2人はまた、バーデン大公カール・フリードリヒを共通の先祖とする三従兄弟でもあった。この結婚時、アウグステ・ヴィクトリアは48歳、ロベルトは59歳だった。この結婚でも子供はなかった。ロベルトは1955年8月26日に亡くなった。
1966年8月29日、バーデン=ヴュルテンベルク州アイゲルティンゲン(フライブルク県コンスタンツ郡)にて76歳で亡くなった。
参考文献
[編集]- Kenny, Peter Francis (2016). Monarchs. Xlibris. ISBN 978-1514443767
- McNaughton, C. Arnold. The Book of Kings: A Royal Genealogy
- Van der Kiste, John (2003). Crowns in a Changing World: The British and European Monarchies, 1901-36. The History Press. ISBN 978-0750934312
脚注
[編集]- ^ “The Ill William of Hohenzollern”. The Illustrated London News (London): p. 8. (9 July 1932) 2022年8月5日閲覧。
- ^ Kenny 2016.
- ^ Van der Kiste 2003.