コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

アグス・サリム

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
アグス・サリム
Agus Salim
生年月日 1884年10月8日
出生地 オランダ領東インドの旗 オランダ領東インド 西スマトラ州アガム英語版
没年月日 (1954-11-04) 1954年11月4日(70歳没)
死没地 インドネシアの旗 インドネシア ジャカルタ
所属政党サレカット・イスラム→)
インドネシア国民党
称号 インドネシア国家英雄

インドネシアの旗 外務大臣
内閣 シャフリル内閣
サラフディン英語版内閣
ハッタ内閣
在任期間 1947年7月3日 - 1949年12月20日
テンプレートを表示

ハッジ・アグス・サリム(Haji Agus Salim、1884年10月8日 - 1954年11月4日)は、インドネシア外交官政治家インドネシア共和国憲法英語版制定に主導的役割を果たし、1947年から1949年にかけて外務大臣を務めた。

生涯

[編集]

青年期

[編集]

1884年に西スマトラ州アガム英語版で生まれる。生まれた時の名前はムスドゥル・ハクであり、「アグス」は通称だった[1][2]。父スタン・ムハマッド・サリムは高等裁判所の検察官を務め、オランダ女王ウィルヘルミナから最高文民勲章を授与されている[1][3]

1890年にヨーロッパ人小学校に入学し、イスラム教の研究を進めて1897年に卒業する[1][3]。卒業後はホーゲーバーガー学校に進学し、19歳の時に主席となる[1]。サリムは研究のため植民地政府に奨学金を申請するが、拒否されてしまう[1]。その後、母の懇願により22歳で外交官となり、サウジアラビアジッダのオランダ領事館に通訳として赴任する[1][4]。領事館ではオランダ領東インドから来る人々のハッジ管理を担当していた[4]。母の意図は、サリムの叔父でメッカイマームをしているアフマド・カティブ英語版からイスラム教を学ばせることにあった[1]

政治家

[編集]
エレノア・ルーズベルトと談笑するサリム

1915年にサレカット・イスラムに参加する。サリムは指導者ウマル・サイード・チョクロアミノト英語版と親密な関係を築き、チョクロアミノトに次ぐNo.2の地位を確立した[2]。1934年にチョクロアミノトが死去すると後任の指導者となった[1]が、運動方針を巡って主流派と対立したため、1937年にサレカット・イスラムから追放された。

この間、サリムは故郷アガムに現地人向けの公立学校を設立し、現地人教育に力を注いだ。3年後、サリムはバタビアで通訳として働いた。1917年に「Neradja」「Balai Pustaka英語版」の編集長を務め、同年から1919年までオランダ語新聞「Bataviaasch Nieuwsblad」の編集長を務めた[1]。同時期にインドネシアの独立と人権について記事を掲載している。1917年10月11日には「Progress as a Property Case」と題した記事を掲載し、「オランダがインドネシアの独立に反対する理由は経済感覚の欠如であり、歴史を知らない」と批判した。サリムは記事の中で奴隷制を例に挙げて「インドネシアの人々が独立と政治的権利を有しない限り、経済発展を遂げることは不可能」と主張した[5]

サリムの遺体と対面するスカルノ

太平洋戦争末期には日本軍政下で独立準備調査会委員を務め、その他多数の独立準備組織に参加し、パンチャシラを含むインドネシア共和国憲法英語版の起草に関わった[6]。1947年3月にリンガジャティ協定が決裂すると、サリムは代表団を率いてアラブ諸国を訪問し、インドネシア独立の正当性を訴えた。サリムのアラビア語を駆使した交渉の結果、1947年6月10日にエジプトが、7月にイラン帝国が、11月24日にはサウジアラビアとレバノンがインドネシアの独立を承認した。交渉を終えて帰国したサリムは、国民からの熱狂的な歓迎を受けた[7]。また、ニューヨークで開催された国際連合安全保障理事会にインドネシア代表団の一員として首相シャフリルと共に出席した[8]。この間の1947年7月3日に外務大臣に就任し、シャフリル政権、アミル・サラフディン英語版政権、モハマッド・ハッタ政権の外交政策を担った[1]

1954年にジャカルタで死去した[1]。遺体はカリバタ英雄墓地に埋葬され、サリムは同墓地に埋葬された最初の人物となった。

評価

[編集]
サリムが描かれた切手

サリムは「インドネシア独立運動とイスラム教の偉大な老人」と呼ばれている[9]スカルノは「知的なウラマーであり、イスラム科学と西洋の教えを融合したリーダー」と評し、ハッタは「アラブ諸国からの独立承認を取り付けたことは、インドネシア独立に対するサリム最大の貢献だった」と評した[10]。1961年にはインドネシア国家英雄に選ばれており、主要道路にはサリムの名前が付けられている[1]

出典

[編集]
  1. ^ a b c d e f g h i j k l Biography — Agus Salim”. biographyinstitute.com. June 10, 2011閲覧。
  2. ^ a b Kahfi 2000, p. 8
  3. ^ a b Kahfi 2000, p. 9
  4. ^ a b Kahfi 2000, p. 17
  5. ^ Kahfi 2000, pp. 35–37
  6. ^ Kahfi 2000, p. 76
  7. ^ Kahfi 2000, pp. 2–3
  8. ^ Kahfi 2000, p. 3
  9. ^ Benda, Harry J. (1958). The Crescent and The Rising Sun. Indonesian Islam And The Japanese occupation 1942-1945.. The Hague and Bandung: W. van Hoeve Ltd.. p. ix. OCLC 22213896.  in Kahfi 2000, p. 4
  10. ^ Kahfi 2000, p. 4

参考文献

[編集]
公職
先代
シャフリル
インドネシアの旗 外務大臣
第3代:1947年 - 1949年
次代
モハマッド・ハッタ
先代
創設
インドネシアの旗 外務副大臣
初代:1946年 - 1947年
次代
タムシルインドネシア語版