アグネス・フォン・ブランデンブルク (1584-1629)
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アグネス・フォン・ブランデンブルク Agnes von Brandenburg | |
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出生 |
1584年7月17日 神聖ローマ帝国 ブランデンブルク選帝侯領、ベルリン |
死去 |
1629年3月26日(44歳没) 神聖ローマ帝国 ザクセン=ラウエンブルク公領、アムト・ノイハウス |
配偶者 | ポンメルン=ヴォルガスト公フィリップ・ユリウス |
フランツ・カール・フォン・ザクセン=ラウエンブルク | |
家名 | ホーエンツォレルン家 |
父親 | ブランデンブルク選帝侯ヨハン・ゲオルク |
母親 | エリーザベト・フォン・アンハルト |
アグネス・フォン・ブランデンブルク(Agnes von Brandenburg, 1584年7月17日 - 1629年3月26日)は、ポンメルン=ヴォルガスト公フィリップ・ユリウスの妃、のちフランツ・カール・フォン・ザクセン=ラウエンブルクと再婚した。
生涯
[編集]アグネスは、ブランデンブルク選帝侯ヨハン・ゲオルク(1525年 - 1598年)とアンハルト侯ヨアヒム・エルンストの娘エリーザベト・フォン・アンハルト(1563年 - 1607年)との間に生まれた。
1604年6月25日、ベルリンにおいてポンメルン=ヴォルガスト公フィリップ・ユリウス(1584年 - 1625年)と結婚した。2人はウォルガスト城に居を構えた。リューゲン島のウダルスにあった農場は、アグネスにちなんで「アグニセンホフ」と名付けられた。1615年、アグネスは夫の要請でフランツブルクの造幣局の資金調達に参加した[1]。フィリップ・ユリウスの死後、アグネスは自らに寡婦財産として与えられていたバルトに住んでいた。夫の顧問であったダブスラフ・クリストフ・フォン・アイクシュテット・アウフ・ローテンクレンペノフがアグネスの枢密顧問兼護衛隊長を務めた[2]。
1628年9月9日にバルト城で、帝国陸軍の将軍であった10歳年下のフランツ・カール・フォン・ザクセン=ラウエンブルク(1594年 - 1660年)と再婚した。この2度目の結婚で、アグネスはバルトに対する権利を失った。しかしフランツ・カールはヴァレンシュタインを説得し、ポンメルン公ボギスラフ14世にアグネスが生涯バルトを保持することを許可することを余儀なくさせた[3]。
2度の結婚で子供は生まれなかった。
脚注
[編集]- ^ Joachim Krüger: Zwischen dem Reich und Schweden: die landesherrliche Münzprägung im Herzogtum Pommern und in Schwedisch-Pommern in der frühen Neuzeit (ca. 1580-1715), LIT Verlag, Berlin, Hamburg and Münster, 2006, p. 120 ff
- ^ Julius von Bohlen: Die Erwerbung Pommerns durch die Hohenzollern: zur Erinnerung an die vor 50 Jahren erfolgte Wiedervereinigung des ganzen Pommern unter die Herrschaft seines erlauchten Königshauses, Decker, 1865, p. 56
- ^ Johann Samuel Ersch: Allgemeine Encyclopädie der Wissenschaften und Künste in alphabetischer Folge, vol. 48, J. f. Gleditsch, 1848, p. 95