アズラキー・ヘラヴィー
アズラキー・ヘラヴィー(ペルシア語: ازرقی هروی, ラテン文字転写: Azraqī Heravī、生歿年不詳)は、11世紀のヘラート出身のペルシア語詩人[1]。「ヘラヴィー(あるいはハラウィー)」は「ヘラート」に基づくニスバであり、「アズラキー(あるいはアズラギー)」は筆名である[1]。アズラキーの本名は、12世紀の詩人ネザーミー・アルーズィーによると「アブーバクル・イブン・イスマーイール」と伝わる[1]。その他の呼び名としては、13世紀の文人アウフィーによると「シャラフッザマーン・アブルマハースィン」がある[1]。
11世紀中葉から後半のホラーサーン、ケルマーンあたりは、オグズ系遊牧民の支配(のちのセルジューク朝)下に入りつつあった。当時のヘラートは、スルターン・アルプ・アルスラーンを父とするシャムスッダウラ・トゥガーンシャー王子が領しており、アズラキーは若いころから臣下として、この王子とつるんでいた[1]。また、トゥガーンシャーのみならず、セルジューク家のケルマーンを治めた一分家の王子アミーラーンシャーにも気に入られていた[1]。アズラキーはカスィーダ形式の頌詩に優れていたが、頌詩における賞揚の対象の多くは、これらセルジューク家の王子たちである[1]。
ネザーミー・アルーズィーによると、アズラキーの父はヘラートで書肆(ワッラーク)を営んでいたという[1]。さらにネザーミーによると、このアズラキーの父の書庫には、11世紀の詩人フェルドウスィーがガズナ朝のマフムードから逃亡した際に逃げ込み、半年間閉じこもって難を避けたという[1]。
アズラキーの歿年について、古い研究、たとえば19世紀ガージャール朝の詩人レザーコリー・ハーン・ヘダーヤトが編んだ文学史では、ヘジラ暦526年(西暦1132年前後)と推定されているが、詩の中の文言に基づくとヘジラ暦465年(西暦1073年前後)以前に亡くなっている可能性が高いという説もあり、はっきりしない[1]。