アッシュル・ニラリ1世
アッシュル・ニラリ1世 | |
---|---|
アッシリア王 | |
在位 | 前1529年-前1503年 |
子女 | プズル・アッシュル3世 |
王朝 | アダシ朝 |
父親 | イシュメ・ダガン2世 |
アッシュル・ニラリ1世(Aššur-nārāri I、maš-šur-ERIM.GABA、「アッシュル神は我が助け」)は古アッシリアの王。前2千年紀半ばに26年間在位した。推定される絶対編年は前1534年頃-前1509年頃(Landsberger)または前1523年頃-前1499年頃(Gasche)。『アッシリア王名表』において60代目の王としてリストされており、伝統的にアッシリアの王たちが採用していた称号である「総督(ensi)」及び「(アッシュルの)副王(iššiak)」に加えて 「修復者(muddiš)」と「建築者(bāni)」という称号が加えられている[1]。
来歴
[編集]彼はイシュメ・ダガン2世の息子であり、兄弟のシャムシ・アダド3世の後を継いで王位につき、26年間在位したとされている。これは3つの『アッシリア王名表』のバージョン(コルサバド[i 1]、SDAS[i 2]、アッシュル[i 3])全てにおいて一致している[2]。『対照王名表(Synchronistic Kinglist)[i 4]』が彼の同時代のバビロニア王として「Kaštil[...]」という王名を記載しており、恐らくカシュティリアシュ3世に同定できる。彼はブルナ・ブリアシュ1世の息子であり後継者である。これらのカッシート人のバビロン王はカッシート王朝が南部メソポタミア(バビロニア)に対する支配を及ぼし始めた頃の王である。
アッシュル・ニラリ1世の建設活動についての証拠が残されている。古い渓谷から発見されたレンガに記載された4つの碑文が、Bel-ibrīia神殿の建設作業アバル(Abaru)の前庭の修復、そしてé.ḫúl.ḫúl.dir.dir.ra(大いなる歓喜の家)と呼ばれるシン=シャマシュ(月神/太陽神)の神殿の再建を記念している[3]。この神殿は後世、トゥクルティ・ニヌルタ1世とアッシュル・ナツィルパル2世によって再建されることになる[4]。アッシュル・ニラリ1世の跡は息子のプズル・アッシュル3世が継いだ。
史料
[編集]- ^ Khorsabad Kinglist, tablet IM 60017 (excavation nos.: DS 828, DS 32-54) ii 36.
- ^ SDAS Kinglist, tablet IM 60484, ii 28.
- ^ Nassouhi Kinglist, Istanbul A. 116 (Assur 8836), ii 32.
- ^ Synchronistic Kinglist, Ass 14616c, KAV 216, i 21.
脚注
[編集]- ^ Barbara Cifola (1995). Analysis of variants in the Assyrian royal titulary from the origins to Tiglath-Pileser III. Istituto universitario orientale. p. 18
- ^ A. Fuchs, K. Radner (1998). “Aššur-nerari”. In K. Radner. The Prosopography of the Neo-Assyrian Empire, Volume 1, Part I: A. The Neo-Assyrian Text Corpus Project. p. 208
- ^ A. K. Grayson (1972). Assyrian Royal Inscriptions, Volume 1. Otto Harrassowitz. pp. 33–34
- ^ A. R. George (1993). House Most High: The Temples of Ancient Mesopotamia. Eisenbrauns. p. 100
先代 シャムシ・アダド3世 |
アッシリア王 前1534年-前1509年 |
次代 プズル・アッシュル3世 |