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アドミラル・ナヒーモフ (装甲フリゲート)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
近代化改装前のアドミラル・ナヒーモフ(1890年)
艦歴
発注 セント・ペテルブルク造船所に1883年12月7日に発注。
起工 1884年7月
進水 1885年10月21日
就役 1888年10月
退役
その後 1905年5月28日戦没
除籍
前級 ドミトリー・ドンスコイ
次級 パーミャチ・アゾーヴァ
性能諸元(()内は改装後のデータ)
排水量 常備:7,780トン(7,900トン)
満載:8,410トン(8,520トン)
全長 103.0m
水線長 97.84m
全幅 18.6m
吃水 7.7m(8.4m)
機関 型式不明石炭専焼円缶12基
+3段膨張式レシプロ2基2軸推進
(1984年:石炭専焼円筒缶8基+直立型3段膨張式レシプロ機関2基に換装)
最大出力 8,000hp(9,000hp)
最大速力 機関航行時:16.3ノット(17.0ノット)
航続距離 10ノット/2,800海里
燃料 610トン(石炭)
乗員 士官:23名、水平543名(650名)
兵装 竣工時
1885年型 20.3 cm(35口径)連装砲4基
1877年型 15.2 cm(35口径)単装砲10基
8.6cm(20口径)単装砲4基
10cm単装砲6基
オチキス 1879年型 3.7cm(23口径)機砲10基
1880年型 6.4cm(19口径)野砲2基
38.1cm水上魚雷発射管単装3基
機雷40発   


1900年:1885年型 20.3 cm(35口径)連装砲4基
1877年型 15.2 cm(35口径)単装砲10基
オチキス 4.7cm(23口径)機砲12基
オチキス 1879年型 3.7cm(23口径)機砲6基
1880年型 6.4cm(19口径)野砲2基
38.1cm水上魚雷発射管単装3基
機雷40発

装甲 複合装甲(鉄板+木板)

舷側:229~254 mm(水線部)、127~152mm(艦首尾部)
主砲塔:63mm(側面部)
バーベット:203mm
司令塔:152mm(最大厚)

アドミラル・ナヒーモフ (Адмирал Нахимов) は、ロシア帝国海軍砲塔装甲フリゲート[要出典]で同型艦はない。艦名は帝政ロシアの提督パーヴェル・ナヒーモフに因む。

概要

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本艦はロシア帝国海軍が自国の沿岸防衛のために建造した艦である。本艦はイギリス海軍装甲巡洋艦インペリウス級」を参考にして設計された原型では23.4cm砲を4門搭載していたが、本艦では意欲的に口径こそ20.3cmと小さくなったがこの時代の主力艦では珍しい、を伏せたような形状の砲塔に収めたのが本艦の一大特徴となった。この他、ロシア海軍において魚雷防御網を導入した最初の艦となった。

艦形と武装

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改装後のアドミラル・ナヒーモフ(1903年)。艦首にはまだアンカー・ベッドもなく、T字型の錨を左右に舷側に吊り下げていた。

本艦の基本構造はタンブルホームを持つ平甲板型船体に2本のブリッグ型帆走用マストと1本煙突を持つ艦形で、水面下に衝角を持つ垂直に切り立った艦首にはまだアンカー・ベッドもなく、を左右に舷側に吊り下げていた。

艦首甲板上には主武装の「1885年型 20.3 cm(35口径)ライフル砲de:8-Zoll-Kanone M1885)」を連装砲塔に収めて1番主砲塔を1基、その後ろに前部マストと煙突が立ち。船体中央部に2番・3番主砲塔が片舷1基ずつ配置され、その上に両側に船橋を持つ操舵艦橋が配置された。艦載艇は舷側部に中央部砲塔を挟むように2本1組のデリックを片舷4基ずつ計8基で運用された。後部甲板上には後部マストを挟んで4番主砲塔が後向きに1基配置された。舷側部には5か所ずつ砲門を開けて副砲の「1877年型 15.2cm(35口径)単装砲(de:152 mm/35 Kanone M1877」を単装砲架で片舷5基ずつ計10基を配置した。

1898~1899年11月に近代化改装され、機関を強化して帆走設備を全て撤去し、帆走用だったマストはミリタリー・マストに一新され、見張り所に3.7cm~4.7cmクラスの速射砲を配置し、一部の4.7cm単装砲は主砲からの爆風を避けるためにマストの前の見張り所の上に並列で前後2基ずつ配置された。この時に船体中央部にあった操舵艦橋は前部マストの背後に移動された。

兵装

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主砲

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現在も残る「アドミラル・ナヒーモフ」の主砲身。

本艦の主砲は新開発の「1885年型 20.3 cm(35口径)ライフル砲」を採用した。その性能は90kgの主砲弾を最大仰角15度で9,150mまで届かせる性能であった。これを新設計の連装砲塔に収めた。砲塔の俯仰角能力は仰角15度・俯角5度で旋回角度は200度の旋回角度を持っていた。発射速度は毎分1発であった。

副砲、その他武装等

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本艦の副砲は新設計の「1877年型 15.2 cm(35口径)単装砲」を採用した。その性能は41.5kgの砲弾を最大仰角12度で7,470mまで届かせる性能であった。これを新設計の連装砲塔に収めた。砲塔の俯仰角能力は仰角15度・俯角8度であった。旋回角度は狭い砲門から砲身を出すので射界に制限があった。発射速度は毎分1発であった。

その他に10cm単装砲を6基、近接戦闘用に「オチキス 1879年型 3.7cm(23口径)機砲」単装砲架で10基を搭載した。さらに対地攻撃用に「パラノフスキー 1880年型 6.4cm(19口径)野砲de:Schnellfeuerkanone Modell Baranowski)」を単装砲架で片舷1基ずつ計2基を配置した。対艦攻撃用に38.1cm水上魚雷発射管単装3基、水路封鎖用に機雷40発を搭載した。

艦歴

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1884年7月、サンクトペテルブルクのBaltic Worksで起工[1]。1885年11月2日[2]進水[3]。1887年12月15日就役[4]

「アドミラル・ナヒーモフ」は1888年10月11日にクロンシュタットを出発し、喜望峰周りで1889年5月25日にウラジオストクに到着した[5]。冬は長崎へ向かい、11月3日に到着[5]。1890年1月28日に長崎より出航し、香港や上海などに寄港し、長崎に戻る[5]。それからウラジオストクへ向かった[5]。8月27日、ウラジオストクウからペトロパヴロフスクへ向かう[5]。10月2日にウラジオストクに戻り、11月4日に横浜に到着[5]。12月、長崎に移った[5]

1901年1月、長崎出港[5]ニコライ皇太子を乗せた「パーミャチ・アゾーヴァ」やその同行艦「ヴラジーミル・モノマフ」と合流し、バンコク、香港、日本などを訪れた後、5月23日にウラジオストクに到着した[6]。それから「アドミラル・ナヒーモフ」は極東を離れ、9月29日にクロンシュタットに着いた[5]

オーバーホールの後、「アドミラル・ナヒーモフ」は1893年6月1日にクロンシュタットを出発し、まずアメリカ合衆国へ向かった[5]。7月3日、ニューヨークに到着した[7]。アメリカ合衆国滞在を終えた後、カディスに着いた「アドミラル・ナヒーモフ」はそこで「パーミャチ・アゾーヴァ」と衝突し、バウスプリットが失われた[7]。1894年5月24日、ウラジオストク到着[7]

「アドミラル・ナヒーモフ」は11月3日にウラジオストクより出航し、Chefooを訪問[7]。その後は1895年4月まで日本水域にあった[7]。それから日本に対する示威行為のためChefooに集まっていたロシア艦艇に加わった[8]

「アドミラル・ナヒーモフ」は7月19日にウラジオストクに戻った[7]。9月、日本へ向かう[7]。1895年末にはChemulpoへ向かった[7]

1898年1月に「アドミラル・ナヒーモフ」は旅順より出航し、5月にクロンシュタットに到着[7]。近代化改装が行われた[9]

1900年、「アドミラル・ナヒーモフ」は再び太平洋に向かう[10]。8月、義和団事件に際して大沽に集まっていたロシアや外国の艦艇群に加わった[11]。「アドミラル・ナヒーモフ」は10月に大沽を離れた[10]

冬季は旅順で過ごし、1902年中にはウラジオストクや横浜、青島などを訪れた[10]。1902年11月、「アドミラル・ナヒーモフ」はバルト海へ向け出発した[10]

1904年の日露戦争の勃発の後、本艦はバルト海艦隊より抽出され第2太平洋艦隊に配属され、1904年10月に極東へと出航した。本艦は他の巡洋艦よりも強力であったために3隻の旧式戦艦(オスリャービャシソイ・ヴェリキーナヴァリン)とともに第2戦艦隊に属された。

1905年5月27日の日本海海戦では日本海軍の装甲巡洋艦に30発以上の命中弾を与えられて中破し、25名の死者と51名の怪我人が出た。これに対して本艦は装甲巡洋艦「磐手」に20.3cm主砲弾3発を命中させ小破させた。夜間に残存艦が日本海軍の駆逐艦水雷艇に攻撃を受けた時、サーチライトを点灯させた本艦は魚雷を受けた。大破炎上しながらも応急処置によりしばらくは浮いていたが、被雷時の浸水と消火のために使用した海水で浮力を維持できなくなったために対馬沖まで向かい、そこで翌朝未明に自沈処分にされた。

乗員のうち103名は艦載艇で脱出、523名は仮装巡洋艦「佐渡丸」に捕えられ、18名は死亡した。日本側の戦史では仮装巡洋艦「佐渡丸」が退艦作業中の本艦を発見し、捕獲のため作業員を送ったがそれを断念、調べでは砲弾による被害は極めて軽微だったという。艦載艇の沈没などによる溺者を救助するなど523名を「佐渡丸」に収容し、99名は対馬にて捕虜となり、退艦を拒否した艦長と航海長は漁船に救助されて29日には彦島に到達したとしている[12]

1970年代末から1980年代初頭にかけて、対馬沖の深度97mに沈んだ本艦に多数の金塊が残されているという噂が流れ、引き揚げ作業などを巡る話題がメディアをにぎわせたことがある。1980年には笹川良一が日本海洋開発に資金提供をおこなって沈没地点とされる付近で調査をおこない、金属のインゴットを収集したと発表した。この報道に対してはソビエト連邦が一時当艦とその積載物に権利があると主張した[13]。この調査では搭載していた20cm砲の砲身も回収されており、船の科学館(屋外)や、沈没後に乗員が漂着した対馬茂木浜に展示されている。なお、結局金塊は発見されぬまま終わっている。

参考図書

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  • 「Conway All The World's Fightingships 1860-1905」(Conway)

参考文献

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脚注

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  1. ^ Christopher C. Wright, "Imperial Russian Cruisers, part 4", p. 53
  2. ^ グレゴリオ暦、以下同じ
  3. ^ Christopher C. Wright, "Imperial Russian Cruisers, part 4", p. 53-54
  4. ^ Christopher C. Wright, "Imperial Russian Cruisers, part 4", p. 54
  5. ^ a b c d e f g h i j Christopher C. Wright, "Imperial Russian Cruisers, part 4", p. 68
  6. ^ Christopher C. Wright, "Imperial Russian Cruisers, part 4", pp. 68, 72
  7. ^ a b c d e f g h i Christopher C. Wright, "Imperial Russian Cruisers, part 4", p. 70
  8. ^ Christopher C. Wright, "Imperial Russian Cruisers: part 3", p. 135, Christopher C. Wright, "Imperial Russian Cruisers, part 4", p. 70
  9. ^ Christopher C. Wright, "Imperial Russian Cruisers, part 4", pp. 70-71
  10. ^ a b c d Christopher C. Wright, "Imperial Russian Cruisers, part 4", p. 71
  11. ^ Christopher C. Wright, "Imperial Russian Cruisers: part 3", p. 136, Christopher C. Wright, "Imperial Russian Cruisers, part 4", p. 71
  12. ^ 極秘 明治37.8年海戦史 第2部 戦紀 巻2・第2編 日本海海戦/第3章 5月28日に於る戦闘」 アジア歴史資料センター Ref.C05110084600 
  13. ^ 参議院会議録情報昭和55年10月28日

関連項目

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