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装甲巡洋艦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
フランス海軍 装甲巡洋艦 デュ・ピュイ・ド・ローム

装甲巡洋艦(そうこうじゅんようかん、英語: Armored cruiserAC)とは、巡洋艦の一種[1]

それまでの防護巡洋艦と比し、水線部舷側を防御する装甲帯と装甲板で覆われていることで区別される[注釈 1]。 1890年から1910年ごろまで建造された。 快速の巡洋艦に匹敵する速力と、戦艦に準ずる攻撃力と防御力を有し、艦隊決戦から通商破壊に至るまで多様な任務に投入される[注釈 2]

弩級戦艦の登場と共に[4]、大口径砲を搭載した巡洋戦艦に進化した[注釈 3][注釈 4]。 巡洋戦艦の発展とともに存在意義が薄れ、消滅した[注釈 5]ともされるが、実際には規模の大き過ぎる巡洋戦艦を補完する目的で装甲巡洋艦は存在し続け、特にロンドン海軍軍縮条約締結国では、既存の装甲巡洋艦の一部は同条約において重巡洋艦に再分類された[注釈 6]。また、ロンドン海軍軍縮条約に参加していないイタリアはその後のザラ級装甲巡洋艦まで「装甲巡洋艦」の艦種を使い続け、1940年日独伊三国同盟締結に際して日本に合わせるかたちで「重巡洋艦」へ呼称変更を行った。

装甲帯巡洋艦

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装甲帯巡洋艦の先駆者、「クニャージ・ポジャールスキー

元来、艦砲では沿岸要塞に対抗できないのがセオリーとされていた。しかしクリミア戦争フランス軍が実戦投入した装甲浮き砲台が要塞攻撃を成功させたことで、状況は一変した。この戦訓を踏まえて、フランス海軍1859年に進水させた「ラ・グロワール」と、これに対抗してイギリス海軍が1860年に進水させた「ウォーリア」により、世界の海軍は装甲艦の時代に突入した。これらの装甲艦により攻撃された場合、要塞の優位性は盤石とはいえなくなっていた。鋼鉄艦・蒸気船時代の到来とともに、造修・補給を担う基地を世界各地に維持することが重要になっていたことから、各国海軍の遣外艦隊はこれに対抗する必要が生じた[8]

このことから、イギリス海軍初の巡洋艦である「シャノン」などは水線部に帯状の装甲を施しており、装甲帯巡洋艦belted cruiser)と称される[9]。またこれに先行して、1870年ロシア帝国海軍が竣工させた「クニャージ・ポジャールスキー」は、世界で初めて水線防御を施した軍艦と称される[10]。しかし、特に英艦は装甲艦の延長線上の設計思想で建造されていたために、巡洋艦として必須の航洋性能が低い傾向があったほか、防御重量の増大を避けるために装甲帯の幅を極端に圧縮した結果として、排水量が計画値よりも増えると、装甲部分が容易に水没して意味をなさなくなるという問題があった[9]

このため、イギリス海軍の装甲帯巡洋艦は1884年度計画のオーランド級が最後となり、以後は防護巡洋艦に移行した[9]。一方、当時第2・3の海軍国であったフランスやロシアは水線部装甲をもつ巡洋艦を重視し、建造を継続した[11]。特にロシアが1875年に竣工させた「ゲネラール=アドミラール」は、装甲帯巡洋艦というよりは、むしろ世界初の装甲巡洋艦として評価されている[12]

装甲巡洋艦

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1880年代後期以後の速射砲の普及は、防護巡洋艦に破滅的な影響をもたらした。防護巡洋艦では、船体内の艦枢要部は防護甲板の下で守られており、上部構造物については、ここに浸水が生じても隔壁により防止できるという目論見から無防備に晒されていた。しかし大日本帝国清国との間で日清戦争が勃発し、1894年黄海海戦が生起して巡洋艦を主戦力とする連合艦隊と、定遠級戦艦 (定遠級鐵甲艦) を基幹と北洋艦隊が対決すると、思わぬ戦訓が得られた[注釈 7]。 短時間に大量の榴弾を投射された結果、艦枢要部が直撃弾を受けずとも、非装甲部が徹底的に破壊されて戦闘能力を喪失する例が多発した。この戦訓から、垂直防御をもたない防護巡洋艦の価値は急激に衰退した[9]

装甲巡洋艦の断面。赤が装甲、灰色が防御区画としても用いる石炭庫。水線部舷側に装甲を有する[14]

防護巡洋艦の戦術価値低下とともに、防護巡洋艦のうち大型の艦では、再び垂直防御の導入が図られた[9]。これが装甲巡洋艦であり、その端緒とされるのが、フランス海軍が1890年に竣工させた「デュピュイ・ド・ローム」である[15]。また上記の通り、ロシア帝国海軍が1875年に竣工させた「ゲネラール=アドミラール」は、その先鞭をつけたものとして評価されている[12]

かつての装甲帯巡洋艦で断念された広範囲の装甲と航洋性能の両立を実現した背景の一つが、製鋼技術の進歩であった。この時期にはハーヴェイ鋼英語版クルップ鋼のように耐弾性の高い装甲鋼板が開発され、従来の普通鋼より薄い装甲板でも所期の防弾性能を発揮できるようになっていた。しかしそれでもなお、装甲重量の抑制のためには防弾性能の妥協が必要であり、中口径速射砲に抗堪する程度に留められた。この結果、艦砲の大口径化に伴って装甲板の厚みを増すことができず、自艦の主砲に堪えられない防御力を持つ軍艦として発達していくこととなった[9]

これらの装甲巡洋艦は、通常の巡洋艦と同様に通商破壊や商船護衛、前路哨戒や植民地警備といった任務に投入されていたが、19世紀末ないし20世紀初頭には、更にこれを準主力艦として位置付けて、同種艦数隻で戦列を構成して戦艦部隊とともに行動する運用法が生じた。日本海軍の六六艦隊計画1896年開始)も主力艦として戦艦6隻・装甲巡洋艦6隻を整備する計画であり[14]日露戦争日本海海戦にも主力艦として投入されている[14]

さらに、装甲巡洋艦の攻撃力を戦艦に匹敵するほどに増大させたイギリスのインヴィンシブル級大型装甲巡洋艦が1908年に竣工した[16]。これは、戦艦「ドレッドノート」の影響を受けた単一口径巨砲搭載艦であり、高速力であったが、防御力は従前の装甲巡洋艦と同等であった[16]。この種の艦は、後に巡洋戦艦(Battlecruiser)と類別されるようになった。しかしこれらは、攻撃力に比して弱体な防御力という弱点を有しており、特にこれが顕著だったイギリス海軍の巡洋戦艦は、ユトランド沖海戦において砲塔への直撃弾によって轟沈した艦もある[15]

日露戦争で、日本海軍とロシア海軍の装甲巡洋艦は大いに活躍した[注釈 8]ロシア帝国海軍ウラジオストク巡洋艦隊(通称浦潮艦隊)は装甲巡洋艦3隻と防護巡洋艦1隻を基幹とし、日露開戦と同時に日本列島近海で通商破壊を実施、日本軍に脅威を与えた(常陸丸事件[18]。日本海軍の第二艦隊司令長官上村彦之丞中将が率いる装甲巡洋艦6隻(出雲八雲磐手吾妻浅間常磐)の巡洋艦戦隊は上村艦隊と呼ばれ、ウラジオ艦隊を必死に捜索し、蔚山沖海戦でウラジオ艦隊を撃破した[18]。また旅順口攻撃黄海海戦日本海海戦で、上村艦隊(第二艦隊)の装甲巡洋艦は東郷提督の第一艦隊と共に連合艦隊を編成し、ロシア海軍と太平洋艦隊(旅順艦隊)やバルチック艦隊の主力艦と交戦した。日本海海戦時の連合艦隊は旅順封鎖作戦で開戦時保有戦艦6隻のうち戦艦2隻を喪失していたので、輸入したイタリア製装甲巡洋艦2隻を第一艦隊に編入した[注釈 9]

これらの海戦で装甲巡洋艦の攻撃力不足が目立つようになり、日本海軍は防御力を妥協して攻撃力と速力を重視した筑波型装甲巡洋艦を建造した[注釈 10]。 さらにイギリス海軍がインヴィンシブル級装甲巡洋艦を完成させたことで[17]、装甲巡洋艦から発展した「巡洋戦艦」という艦型が誕生した[注釈 4]

第一次世界大戦になると、ドイツ帝国の装甲巡洋艦と、イギリス海軍の巡洋戦艦との間で、幾度かの海戦がおこった。1914年12月8日のフォークランド沖海戦では、ドイツ東洋艦隊 (Ostasiengeschwader) のシャルンホルスト級装甲巡洋艦2隻および小型巡洋艦2隻と、インヴィンシブル級巡洋戦艦を基幹とするスターディ提督のイギリス艦隊が交戦した[21]。巡洋戦艦が装甲巡洋艦を圧倒し、ドイツ東洋艦隊は全滅した[22]

1915年1月24日のドッガー・バンク海戦では、ドイツ帝国の大洋艦隊 (Hochseeflotte) に所属するヒッパー提督の偵察戦隊と、グランドフリート (Grand Fleet) に所属するビーティー提督の第1巡洋戦艦戦隊 (1st Battlecruiser Squadron) が交戦した[23]。イギリス巡洋戦艦5隻がドイツ偵察戦隊を追撃し、ドイツ巡洋戦艦3隻は逃げ切ったがドイツ装甲巡洋艦ブリュッヒャー (SMS Blücher) が撃沈された[24]。 このように装甲巡洋艦は巡洋戦艦に勝てないことが明白となり、その存在意義は消滅した[注釈 11]

ユトランド沖海戦では[26]、ドイツ帝国のザイドリッツ (SMS Seydlitz) などドイツ巡洋戦艦が堅牢性を発揮し、逆にイギリス海軍の巡洋戦艦が防御力不足を露呈した[27][28]。各国とも建造中の巡洋戦艦の設計変更を実施、巡洋戦艦は高速戦艦に変貌していった[注釈 12]

装甲巡洋艦では巡洋戦艦に勝ち目がないことが明白となり[25]、廃止の運命を辿った[注釈 5]。巡洋戦艦も、従来型戦艦を凌駕する天城型巡洋戦艦G3型巡洋戦艦が建造(計画)された時点でワシントン会議が開催され、ワシントン海軍軍縮条約の締結により一部の艦が排水量1万トン以上の主力艦保有制限枠の対象となる[注釈 13]。新型巡洋戦艦は軒並み建造中止となり、既存の巡洋戦艦も次々に廃棄された[注釈 14]

1930年ロンドン海軍軍縮会議において、一等巡洋艦(重巡洋艦)と二等巡洋艦(軽巡洋艦)という新しい定義がなされた。第二次世界大戦時の巡洋艦は、おおむね重巡か軽巡の二種に絞られていた[31]。一方、装甲巡洋艦は前述のように存在意義を失った[注釈 5]。日本海軍の装甲巡洋艦も、旧式化により海防艦に類別変更されている[32]。ただし、チリ海軍の「ジェネラル・オヒギンズ」やスウェーデン海軍フィルギア等、一部海軍では第二次世界大戦期でも運用されていた[33]。日本海軍の装甲巡洋艦(海防艦)も練習艦隊として長期間運用されたほか、出雲は第三艦隊支那方面艦隊旗艦として日中戦争に参戦し、常磐は機雷敷設艦に改造されて太平洋戦争時も活躍した。太平洋戦争では1942年に海防艦の定義が変更され、出雲、八雲、磐手が「一等巡洋艦」に類別変更されている[注釈 15]

各国の装甲巡洋艦

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世界で最初に蒸気機関のみで航行する装甲巡洋艦を竣工させたフランス海軍から順に各国の装甲巡洋艦を竣工順に並べる。

フランス海軍

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帝政ロシア海軍

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  • パミャート・アゾヴァ級(1890年竣工、6,670トン、20.3cm(35口径)単装砲2基、15.2cm(35口径)単装砲13基、17ノット)1隻
  • リューリク(I)(1895年竣工、11,690トン、20.3cm(35口径)単装砲4基、15.2cm(45口径)単装砲16基、18.7ノット)1隻
  • ロシア(1897年竣工、12,195トン、20,3cm(45口径)単装砲6基、15.2cm(45口径)単装砲14基、19ノット)1隻
  • グロムボイ(1900年竣工、11,359トン、20.3cm(45口径)単装砲6基、15.2cm(45口径)単装砲20基、20ノット)1隻
  • バヤーン(I)1902年竣工、7,835トン、20.3cm(45口径)単装砲2基、15.2cm(45口径)単装砲8基、22.5ノット)1隻
  • アドミラル・マカロフ級(1906年竣工、7,835トン、20.3cm(45口径)単装砲2基、15.2cm(45口径)単装砲8基、22.5ノット)3隻
  • リューリク(II)(1906年竣工、15,170トン、25.4cm(50口径)連装砲2基、20.3cm(45口径)連装砲4基、21.5ノット)1隻

アメリカ海軍

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  • メイン(1895年竣工、6,682トン、25.4 cm(30口径)連装砲2基、16ノット)1隻
  • ニューヨーク(1893年竣工、8,150トン、20.3cm(35口径)連装砲2基+同単装砲2基、20ノット)1隻
→1911年2月、サラトガと改名→1917年12月、ロチェスターと改名

イタリア海軍

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  • マルコ・ポーロ(1894年、4,580トン、15.2cm(40口径)単装砲6基、17ノット)1隻
  • ヴェットール・ピサニ級(1898年、6,720トン、15.2cm(40口径)単装砲6基、19ノット)2隻
    • ヴェットール・ピサニ、カルロ・アルベルト
  • ジュゼッペ・ガリバルディ級(1901年、7,350トン、25.4cm(40口径)単装砲1基+20.3cm(45口径)連装砲1基、19.7ノット)3隻
    • ジュゼッペ・ガリバルディ、ヴァレーゼ、フランチェスコ・フェルッキオ
  • ピサ級(1909年、9,960トン、25.4cm(45口径)連装砲2基、19cm(45口径)連装砲4基、23ノット)2隻
  • サン・ジョルジョ級(1910年、9,832トン、25.4cm(45口径)連装砲2基、19cm(45口径)連装砲4基、23.2ノット)2隻
    • サン・ジョルジョ、サン・マルコ
  • ザラ級(1931年、11,870トン、20.3cm(53口径)連装砲4基、33ノット)4隻

日本海軍

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  • 浅間型(1899年イギリス、アームストロング社造船所にて竣工、9,700トン:、20.3cm(45口径)連装砲2基、21.5ノット)2隻
  • 八雲(1900年ドイツ、フルカン造船所にて竣工、9,695トン: 20.3cm(45口径)連装砲2基、20.5ノット)1隻
  • 吾妻(1900年フランス、ロワール社サン・ナゼール造船所にて竣工、9,326トン、 20.3cm(45口径)連装砲2基、20ノット)1隻
  • 出雲型(1900年イギリス、アームストロング社造船所にて竣工、9,775トン、 20.3cm(45口径)連装砲2基、20.8ノット)2隻
  • 春日型(イタリアのジュゼッペ・ガリバルディ級装甲巡洋艦を輸入したもの。1904年イタリア、アンサルド社造船所にて竣工、7,700トン、春日は25.4cm(40口径)単装砲1基、20.3cm(45口径)連装砲1基、日進は20.3cm(45口径)連装砲2基、20.0ノット)2隻
  • 筑波型(日本で建造。1907年竣工、13,750トン、30.5cm(45口径)連装砲2基、20.5ノット)2隻
  • 鞍馬型(日本で建造。1911年竣工、14,636トン、30.5cm(45口径)連装砲2基、20.3cm(45口径)連装砲4基、21.25ノット)2隻(1912年8月28日、巡洋戦艦に類別変更[32]。)
  • 金剛型[35](26,330トン、35.6cm(45口径)連装砲4基、15.2cm(50口径)単装砲16基、27.5ノット)4隻
    • 金剛(伊号装甲巡洋艦。イギリス、ヴィッカース社。1913年8月竣工。)[注釈 16]比叡(卯号装甲巡洋艦。日本)、榛名(第二号装甲巡洋艦、日本。)、霧島(第三号装甲巡洋艦、日本。)[35]

ドイツ海軍

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イギリス海軍

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オーストリア=ハンガリー帝国海軍

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チリ海軍

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  • エスメラルダ(イギリスから1895年購入、8,500トン、20.3cm(40口径)単装砲2基、22.25ノット)
  • ジェネラル・オヒギンズ(イギリスから1896年購入、8,500トン、20.3cm(45口径)単装砲4基、21.6ノット)

スペイン海軍

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インファンタ・マリア・テレサ(Infanta Maria Theresa)、ビスカヤ(Vizcaya)、アルミランテ・オクェンド (Almirante Oquendo)
プリンセサ・デ・アストゥリアス(Princesa de Asturias)、カルデナル・シスネロス(Cardenal Cisneros)、カタルーニャ(Cataluña)

スウェーデン海軍

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  • フィルギア(1907年竣工、4,980トン、15.2cm(50口径)連装砲4基、22ノット)1隻

ギリシャ海軍

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脚注

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注釈

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  1. ^ 第十 防護巡洋艦の構造能力任務[2] 防護巡洋艦構造の要義は中程度の攻撃兼自衛力と高速力とを有し敵彈に對する防禦は極小程度に止まらしめるにある詳言すれば攻撃力たる砲熕は敵の戰艦或は装甲巡洋艦に敵する爲ではなく敵の小巡洋艦以下驅逐艦、水雷艇等を攻撃する位ひの強さを有せしめ魚形水雷は敵の戰艦装甲巡洋艦等の強敵に迫まられたときの如きに窮鼠却つて猫を嚙む的に發射することもあり或は小巡洋艦に對して發射することもあるが搭載數は餘り多くない 武力の小なる代はり速力は成るべく高大ならしめるのが必要條件であるから推進機關はなか〱強力なるものを選ぶのを例とする 防禦力は洵に微弱であつて何れの要部にも装甲鈑がない 但だ防水區劃が數多くあるのと艦内に於て水準線に當る部の甲板が較や厚き鋼鐵で遮られ兩舷側及艦の首尾に於て下方へ斜めになつて居ることも恰も亀の甲の如くである 即ち水準下に在る機關室、彈藥庫等を防護する目的であつて此甲板を防禦甲板(プロテクチーヴデッキ)と稱へ是れあるが爲に防護巡洋艦の名を獲たのである
     左れば防護巡洋艦は装甲巡洋艦より小なる非装甲巡洋艦の謂であつて船體の各部何れも比較的軽薄材料にて製つてあるから排水量は大きくない、其能力上述の通りであるから無論主戰艦隊の幹部となる事はできず偵察通信、水雷艦載艇撃攘、運送船の撃破、海上通称破壊等の任務に服するを本職とする
  2. ^ 第九 装甲巡洋艦の構造能力任務[3] 装甲巡洋艦構造の要義は鋭利なる攻撃力と急速航行の自由を有せしめ而かも敵彈の迫害を蒙るを免れしめん爲に相當の防禦を施すにある詳言すれば攻撃力たる砲熕及魚形水雷は戰艦に次くの強勢を有せしめ其上に速力を出來得る丈け高大ならしめる、防禦力としては戰艦に次くの厚い装甲鈑を舷側の水線部、砲塔、司令塔其他の要部に装着する又高大なる速力を發揮せしめる爲には推進機關及蒸汽罐の著しく強大なるへきこと勿論で石炭の貯藏亦極めて多くなくてはならぬから装甲巡洋艦の船體の重大なることは戰艦と相伯仲する程である
     故に戰爭に際しては戰艦と伍して主戰艦隊に編制せられ或は装甲巡洋艦のみの隊を編し高速力を利用して敵艦隊に對して砲火の集中に有利なる位置を占め或は戰ひ疲れて逃遁する敵艦を追撃する等を本務とし又は防護艦隊が附いて居る輸送船隊を撃沈し或は強行偵察に從事する等武力と速力の高大とを併せ要する任務には最も適當なる艦種である。
  3. ^ 巡洋戰艦附装甲巡洋艦[5] 過去二十五年間の期間に於て我海軍にて建造されました巡洋戰艦と名のつく艦は四隻一一〇,〇〇〇噸馬力二五六,〇〇〇 装甲巡洋艦と云はれて居りますのが十二隻一二九,二四一噸馬力二二七,七五〇(此中に日進、春日を含んで居ります)であります。
    一體巡洋戰艦と云ふ語は合の子の語でありまして英國海軍に於て「ドレッドノート」に次で「インフレッキシブル」級と申して艦種は弩級に属し同時に速力二十五節と云ふ快速の装甲巡洋艦を造りました頃から用いられた語でありまして戰艦の攻撃力と巡洋艦の速力とを併有する艦と云ふたのであります 其の意味から申しますると我海軍の筑波生駒は蓋し巡洋戰艦の元祖であります 唯其時代には左様云ふ語が使はれなかったと云ふ丈であります 此巡洋戰艦と云ふものも元々装甲巡洋艦の一種でありますから茲には便宜上装甲巡洋艦と一緒に御話致します。(以下略)
  4. ^ a b (12)日露戰役の影響[6] 日本は清國海軍を殲滅したる以後は、俄に歐洲三大國を敵とするに至り、上記の如き戰艦六隻、装甲巡洋艦六隻の建造を急ぎ、何れもその性能に於て歐洲各國のものに比し、船體兵器機關の何れかに於て優秀なるものを建造し、日清戰爭後十年にして終に露國と干戈相見ゆるに至つた。即ち我が國は再度最新鋭軍艦の實戰成果を示すことゝなりたる次第である。その日露海戰の教訓は十年前の日清海戰と同様に砲力の増大と同時に防禦力を大にし速力を増加することを必要と認めた。その結果として主力艦はその主砲の威力を増し、中間砲の口徑を大にし6吋砲を10吋砲と代へ、更に進んで主砲と同一ならしめ所謂備砲單一式に進み、英國に於てこの型の第一艦ドレッドノート號が建造され、こゝに弩級戰艦なるもの出現したり。この艦型に至る過程には、我が國の戰艦薩摩級が中間砲を10吋砲としたるにヒントを得たり、とは當時英國軍令部長の話である。
     巡洋艦も同一要望により、装甲巡洋艦はその防禦を強化すると同時に、主砲を戰艦と同口徑とし、唯その數を減じ速力は元通り戰艦より優速とし、所謂巡洋戰艦なるもの出現したり。我が國にて日露戰役中建造に着手したる筑波生駒姉妹艦二隻は即ちこの巡洋戰艦の嚆矢である。のみならずこの二艦は艦首の衝角ラムを廢止し水線上を水切り型となす。この艦首の形は夫れ以降我が國は勿論諸外國も總てこれに倣ふことゝとなつた。(以下略)
  5. ^ a b c (14)巡洋戰艦[7] 巡洋戰艦は砲力と速力と何れも相當に大なるを要望され出現したるものにして、各國海軍に於て採用せられ、我が國にても大正二年(1913)に竣工したる金剛は當時の精鋭艦にして英國のタイガー級に匹敵す、その姉妹艦比叡・榛名・霧島亦同型である。英國にては1910年竣工のライオン級は排水量26,500噸、主砲13.5吋、速力28節に達し、現存するフード號は1918年に竣工しこれより著しく大型となり、排水量41,200噸主砲は15吋砲8門速力31節に達す。/ 我が國にては現在は巡洋戰艦なる名稱を廢しこれを戰艦の内に併合した。/ 尚、装甲巡洋艦なるものは、砲力に於ても速力に於ても主力艦に比し著しく弱小なれば、寧ろ或目的には無装甲のもの適當なりとの見地より、各國ともこれを廢止することゝなつた。
  6. ^ 日本では巡洋戦艦に再類別されたグループを除くと、浅間型装甲巡洋艦及び戦利艦である阿蘇を除き、純然たる後継者となる古鷹型重巡洋艦と短期間ながら同じ一等巡洋艦として併存している。イギリスやアメリカも同様であった(特にアメリカは最終的に巡洋戦艦を保有していない)。
  7. ^ (11)日清戰役の影響[13] 明治二十七年(1894年)日清戰役の頃先進海軍國たる英國主力艦は上記露砲座艦であつて、主砲の砲塔は艦の前後に一基宛置かれた。前後の檣には上下に二ヶ所の相當大なる檣樓が設けられ小口徑の砲を備へ又探照燈を有し見張りの用を爲す所となつてゐる。舷側には魚雷防禦のために金網を張る装置が付けられ、その網と支柱とが備へられた。この當時の主力艦は排水量10,000噸以上で速力は17節位であつた。
     然るに實際に輸贏を爭つた日本と清國には當時斯くの如く進歩したる軍艦無く、我が日本には舊式ケースメート艦扶桑一隻が装甲艦であつたが、その他は總て装甲せられざる巡洋艦及び砲艦と呼ばれるものだけであつた。清國には中央砲廓艦に属する定遠鎭遠の姉妹艦二隻ありて、大に日本を威嚇したのである。然るに戰役の結果は日本巡洋艦の速力大なりしと、備砲に速射砲多く且つ無煙火藥を採用したるため全く日本海軍の大勝利となつた。而して日清兩國海戰の教訓の主なるものは次の通りである。
    一 主力艦の防禦はこれを厚くして船體兵器等主要部を一括して防禦すること。/二 艦の速力を増大すること。装甲したる主力艦は兎も角として巡洋艦は20節以上を要す。/三 艦内火災に對し十分に防護すること。/四 魚形水雷の威力大なるを實證し、これを装備する輕快なる水雷艇は大いに活用する價値あり。
     この實戰の教訓によりて海軍國一般に建造せられたるものは、主力艦としては排水量15,000噸内外、主砲は口徑12吋砲4門、副砲は6吋砲10門乃至12門、速力は18乃至19節を有するものであつた。我が國の戰艦富士以降の六隻もこの標準に據つたものである。巡洋艦としては艦内主要部を防禦甲板に依つて保護する上に、更に舷側に主力艦の如く装甲鐵を張りて防禦を増大し、排水量7,500噸内外にして速力は當時の主力艦よりも約3節大なるものであつて名づけて装甲巡洋艦(Armored cruiser) と呼ばれた。我が國の淺間級六隻は即ちこの型である。(以下略)
  8. ^ 第三節 装甲巡洋艦[17] 凡そ一國海軍力の眞相を知らんと欲せは戰闘艦隊の主力たる戰艦及ひ装甲巡洋艦の勢力の調査に依り始めて窺ひ得へきは近世の定則とも謂ふべく而して海戰場裏に龍驤虎嘯の活劇を演する者は主力中の主力ともいふへき戰艦なる事勿論なれども戰酣はなるに當り我一部隊を急遽優秀の位置に馳せて敵戰艦隊の狭正面に一時に放火を集中せしめんとし或は戰闘の終期に近づき敵戰艦の痛手を受けて遁逃せる者を追撃して止めを刺さんとする如き特別高速力を要求する任務に應ぜんには特種の部隊なかるべからす装甲巡洋艦の重要視せらるゝは即ち是れに依るものして其他の場合には或は戰艦隊と合同して砲戰に從事し或は專ら敵の装甲巡洋艦に當り若しくは運送船保護の巡洋艦を撃破し又は他方面に分遣して我貿易破壊に從事する巡洋艦を撃攘する等の任務に就く事あり是故に其攻撃防禦の兩力は戰艦に類似し速力に至ては大に之に優るの天性を賦せざる可からず今や列強中幾んと此種巡洋艦を有せざるものなく新案に新案を出して益々有力なるものを建造するに至れり我邦に於ける最初の装甲巡洋艦淺間常磐型六隻は戰役中多大の効果を収めたりと雖とも今は漸次舊式に属する事となり戰後竣工又は進水せる筑波生駒鞍馬伊吹の四隻は上述目的に適する良装甲巡洋艦として列強の耳目を惹く所なり然るに英國は最近に於て意外なる大型艦を現出し戰艦的巡洋艦の奇稱をすら獲るに至れり即ちインヴインシブル型の三艦にして一萬七千餘噸の排水量を算し速力二十五節を示せるは驚くべき發展といふべく装甲兵装とも殆ど大戰艦に譲らざるの概あり爾来列強亦之に劣らざる大巡洋艦を建造するの趨勢を生せるが故に今左に新巡洋艦の概要を掲く 列強戰艦的バトルシップ巡洋艦クルーザー一覧(英國政府の調査發表したるものに基く)(艦名、性能表略)
  9. ^ 日本海海戦時、東郷長官直率の第一艦隊主力艦は戦艦4隻(三笠朝日敷島富士)と装甲巡洋艦2隻(春日日進)だった[19]
  10. ^ (前略)此等の艦が日露戰役中戰線に立って働きましたのでありますが戰線に立って見ますと、攻撃力の不足を感ずるのでありますが去り迚速力も餘り下げたくないと云ふ兩面の要求からして止むことを得ず防禦は弱くとも仕方がない巡洋艦の速力と戰艦の攻撃力を併有した艦型が望ましいと云ふので案出されまして筑波、生駒となったのであります 其要目は別表に御覧の通りであります 此が巡洋戰艦の始まりであります(以下略)[20]
  11. ^ 第三章 結論 1,艦型(中略)[25] C.今囘の大戰に及第した艦型は戰艦、巡洋戰艦、輕巡洋艦、Flotilla leader.、驅逐艦、潜水艦であろうと思ひます、戰艦の内でも英の“Warspite”級第五戰隊として最もよく活動し成功した艦型であらうと思ひます 即ち高速戰艦が最も成功したものと信じます、次に巡洋戰艦はFalkland沖の海戰獨艦隊の意表に出た程の大なる移動性を示して當時まで兎角疑問の中心になつて居つた此の艦型の有效なる事を天下に示し次でDogger Bank海戰Jutland海戰で益〃其の有效なる事を表明しました。
     輕巡洋艦も最も激しく使用された艦型の一つでありまして其の有效なる艦型である事を證明しました。
     之れに反してArmoured cruiserProtected cruiserは全然其の無能を示しました、特に其の航洋性に缺けて居る事は開戰當時北海の入口のPatrolに使用されたが荒天に耐へず遂に商船を武装した假装巡洋艦隊を以て之に代らしむるの止むを得ざるに至つた事やColonel沖の海戰で“Good Hope” “Manmouth”が、あはれな最後をしたので明白であります、尚戰艦の如き長さを有しながら比較的Slowで且つ防禦が不充分なので砲火や水雷の好目標となり誠に危險な艦型なるを示しました、即ち此の艦型は全然失敗の艦型と云ふことが出來ると思ひます。(以下略)
  12. ^ (前略)[29]此巡洋戰艦と云ふ艦種に於きましては前申ました通り攻撃力及速力に餘りに重きを置き其爲に防禦力を犠牲にしたのが弱點でありまして其結果が大正五年五月三十一日の英獨間の「ジャットランド」海戰に於て現はれました 英の巡洋戰艦「クヰンメーリー」は交戰僅かに十五分ばかりにて撃沈せられ次で間もなく「インデファチゲーブル」も同様の運命に遭遇致しました 我海軍に於きましても次の巡洋戰艦天城赤城の設計を決定せらるる迄は種々の議論がありまして外國でも非常な大速力を有する艦が出來るから我海軍の巡洋戰艦も之に劣らぬ様な速力が欲しいのでありましたが前記の事柄に鑑み巡戰と雖も防禦を苟にすることは出來ませんから天城級に於ては速力は戰艦に比し幾分の優速を有する位に止め防禦力に相當の注意を拂ふたものが設計せられ横須賀及呉の二工廠に於て陸上工事は相當に進みましたのですが軍備制限條約の爲めに未だ進水するに至らずして航空母艦に變更せらるることになりましたので巡洋戰艦としての要目は申上る自由を得ませぬ。
  13. ^ 海軍軍備制限ニ關スル條約 第二款 日本海軍では生駒、鞍馬、伊吹が廃艦となった。
  14. ^ ○巡洋戰艦[30] 巡洋戰艦とは戰艦同様の砲を備へるけれどもその數は稍々少く、装甲は稍々薄いが、速力は二十五節以上の優速を有たせてある快速力戰艦の謂で、之を單位として巡洋戰艦戰隊戰隊スクオードロンとは艦隊フリート中の一部隊といふ)を編成し、その優速を利用して強敵に對し、壓迫若くは偵察を行ひ、或は主力の根幹たる戰艦戰隊の快速力翼面配備として、是と協同作戰をなさしむるを目的として居る。
    列國海軍中巡洋戰艦を有つて居るのは我國と英國丈けで、曾て獨逸が有つてゐたけれども戰敗と共に亡失し、米國では未だ成るに及ばずして華府條約により廢棄することとなつた。
    方今戰後の巡洋戰艦として目せらるゝものは英艦フードであるが同艦は排水量四萬九百噸、速力三十二節である。
  15. ^ ○内令第千百八十六號[34] 艦艇類別等級別表中左ノ通改正ス 昭和十七年七月一日 海軍大臣 嶋田繁太郎|軍艦、巡洋艦一等青葉型ノ項ノ次ニ左ノ一項ヲ加フ | |八雲、磐手、出雲| 同海防艦ノ項ヲ削ル/同砲艦ノ部中「多多良」ノ下ニ「、須磨」ヲ加フ/潜水艦ノ欄ノ次ニ左ノ一項ヲ加フ |海防艦| | |占守型占守國後八丈石垣|(内令提要巻三、三三頁参照)
  16. ^ ◎装甲巡洋艦金剛命名ノ件[36] 明治四十五年五月十八日(達五八)英國ニ於テ製造ノ伊號巡洋艦ヲ金剛ト命名セラル

出典

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  1. ^ 死闘の海 2004, p. 32(2)用語の説明/装甲巡洋艦
  2. ^ 最新海軍通覧 1910, pp. 32b-33原本39-40頁
  3. ^ 最新海軍通覧 1910, p. 32a原本38-39頁
  4. ^ 死闘の海 2004, pp. 26–29(2)用語の説明/ド級戦艦
  5. ^ 帝国軍艦発達 1924, p. 5.
  6. ^ 石川島技報、軍艦の変遷 1941, p. 7b(原本9頁)(12)日露戰役の影響
  7. ^ 石川島技報、軍艦の変遷 1941, p. 8a(原本10頁)(14)巡洋戰艦
  8. ^ Friedman 2012, §0.
  9. ^ a b c d e f 中川 1996, pp. 167–173.
  10. ^ Polutov 2010, pp. 16–23.
  11. ^ 青木 1996.
  12. ^ a b Polutov 2010, pp. 154–159.
  13. ^ 石川島技報、軍艦の変遷 1941, p. 7a(原本8-9頁)(11)日清戰役の影響
  14. ^ a b c 田村 2007.
  15. ^ a b 青木 1999.
  16. ^ a b 海人社 1990.
  17. ^ a b 帝国及列国海軍 1909, pp. 106–108167-170頁
  18. ^ a b 巡洋艦の話 1938, pp. 18–19原本26-28頁
  19. ^ 巡洋艦の話 1938, p. 19原本28-29頁
  20. ^ 帝国軍艦発達 1924, p. 6a.
  21. ^ 死闘の海 2004, pp. 90–95●一九一四年十二月八日(3)フォークランド冲海戦
  22. ^ 死闘の海 2004, pp. 94–95海戦の分析
  23. ^ 死闘の海 2004, pp. 96–102●一九一五年一月二十四日(4)ドッガー・バンク海戦
  24. ^ 死闘の海 2004, p. 99参加艦艇の損失
  25. ^ a b 藤本喜久雄 1922, p. 15.
  26. ^ 藤本喜久雄 1922, pp. 4–6(2、巡洋戰艦)
  27. ^ 死闘の海 2004, pp. 100–101コラム(2)戦艦、巡洋戦艦の抗たん性
  28. ^ 死闘の海 2004, p. 274巡洋戦艦の各国における評価
  29. ^ 帝国軍艦発達 1924, pp. 6b-7.
  30. ^ 大日本軍艦写真帖 1924, p. 13巡洋戰艦
  31. ^ 死闘の海 2004, p. 275巡洋艦の変遷
  32. ^ a b 海軍制度沿革8巻 1940, pp. 56–57原本72-74頁(艦艇類別等級、大正元年8月28日)
  33. ^ 本吉 2018.
  34. ^ 「昭和17年7月(1)」、昭和17年5月~8月 内令(防衛省防衛研究所)」 アジア歴史資料センター Ref.C12070171600  pp.8-9
  35. ^ a b 海軍制度沿革8巻 1940, p. 200a原本361頁(装甲巡洋艦金剛比叡榛名霧島及砲艦鳥羽命名ノ件)
  36. ^ 海軍制度沿革8巻 1940, p. 200b原本361頁(装甲巡洋艦金剛命名ノ件)

参考文献

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  • 青木, 栄一「巡洋戦艦 その誕生から終焉まで (特集 巡洋戦艦 軍艦史上の異彩を顧みる)」『世界の艦船』第553号、海人社、1999年6月、70-77頁、NAID 40002155515 
  • 海人社(編)「近代巡洋艦史」『世界の艦船』、1986年1月、NCID AN00026307 
  • 海人社(編)「イギリス戦艦史」『世界の艦船』第429号、1990年11月、ISBN 978-4905551362 
  • 海人社(編)「日本巡洋艦史」『世界の艦船』、1991年9月、NCID AN00026307 
  • 海人社(編)「アメリカ巡洋艦史」『世界の艦船』、1993年4月、NCID AN00026307 
  • 海人社(編)「フランス巡洋艦史」『世界の艦船』、1998年12月、NCID AN00026307 
  • 海人社(編)「イタリア巡洋艦史」『世界の艦船』、2000年1月、NAID 40002155703 
  • 海人社(編)「ドイツ巡洋艦史」『世界の艦船』、2002年9月、NAID 40005452758 
  • 田村, 尚也「装甲巡洋艦 春日」『歴史群像』第16巻第3号、学習研究社、2007年6月、18-21頁、NAID 40015477745 
  • 中川, 務「イギリス巡洋艦史」『世界の艦船』第517号、海人社、1996年11月、ISBN 978-4905551577 
  • ポルトフ, アンドレイ V.「ソ連/ロシア巡洋艦建造史」『世界の艦船』第734号、海人社、2010年12月、NAID 40017391299 
  • 三野正洋、古清水正夫『死闘の海 第一次世界大戦海戦史』光人社〈光人社NF文庫〉、2004年7月(原著2001年)。ISBN 4-7698-2425-4 
  • 本吉, 隆『第二次大戦 世界の巡洋艦完全ガイド』イカロス出版、2018年。ISBN 978-4802206273 
  • Friedman, Norman (2012). British Cruisers of the Victorian Era. Naval Institute Press. ISBN 978-1591140689 
  • Gardiner, Robert (1979). Conway's All the World's Fighting Ships 1860-1905. Naval Institute Press. ISBN 978-0870219122 

関連項目

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