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フィウメ (重巡洋艦)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
フィウメ(フューメ)

フィウメ (Fiume) は[1]1931年(昭和6年)11月に竣工したイタリア海軍重巡洋艦[注釈 1]。 日本ではフューメと表記することもある[3][4][5]ザラ級重巡洋艦 (Incrociatori pesanti Classe Zara) の2番艦[6][注釈 2]。 艦名は、当時イタリア領であったフューメ(現 クロアチアリエカ未回収のイタリア)に因む。 1941年(昭和16年)3月28日夜、イギリス海軍の戦艦ウォースパイト (HMS Warspite) とヴァリアント (HMS Valiant) などの砲撃により沈没した[8]マタパン岬沖海戦[9][注釈 3]

艦歴

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トリエステアドリアチコ造船所で建造された[7]。1929年(昭和4年)4月29日に起工、1930年(昭和5年)4月27日に進水、1931年(昭和6年)11月23日に竣工した[13]。竣工時、ムッソリーニ首相が本艦を視察したという[7]

スペイン内戦中はスペイン周辺で活動していた。次いで1939年(昭和14年)にはアルバニア侵攻に参加する。

第二次世界大戦におけるイタリアは、1940年(昭和15年)6月10日[14]、イギリスとフランスに宣戦を布告した[15]7月9日、ザラ級重巡を含むイタリア艦隊は[注釈 4]イギリス海軍地中海艦隊(司令長官アンドルー・ブラウン・カンニガム中将)およびオーストラリア海軍で編成された連合国軍艦隊と交戦する(カラブリア沖海戦[16]。イギリス戦艦ウォースパイト(カニンガム提督旗艦)の主砲弾がイタリア戦艦ジュリオ・チェザーレ (Giulio Cesare) に命中したのをきっかけに、イタリア艦隊は退却した[17]

10月下旬よりイタリア軍はギリシャ侵攻を開始バルカン戦線が形成された[18]。イギリス軍とイタリア軍の双方がギリシャに輸送船団を送り込み[19]、この過程で幾つかの海戦が起きる[20]11月11日タラント空襲[21]、イタリア海軍は主力戦艦3隻を喪失した[22]。第一巡洋艦隊(ザラ、フィウメ、ゴリツィア)もターラントに停泊していたが[23]、被害なしで切り抜けた。イタリア海軍は新鋭戦艦ヴィットリオ・ヴェネト (Vittorio Veneto) を旗艦とし、残存戦力を再編した[24]。 イギリス海軍がMB9作戦を実施したことにともない、イタリア艦隊[注釈 5]とイギリス艦隊の間で11月27日スパルティヴェント岬沖海戦が発生した。

1941年(昭和16年)1月、ドイツ空軍地中海戦線に投入され[25]、イギリス軍の損害が急増した[24]。タラント奇襲の立役者となった空母イラストリアス (HMS Illustrious, R87) も、1月10日Ju 87急降下爆撃機に撃破され[26]、修理のために戦線を離脱してアメリカにむかった[27]。だが艦隊戦におけるイギリスとイタリアの格差は相当なものがあり、それは3月28日のマタパン岬沖海戦で証明された[28]

3月中旬、イギリス地中海艦隊に空母フォーミダブル (HMS Formidable, R67) が加わった[27]。イギリス軍はラスター作戦を発動してアレクサンドリアからギリシャピレウスにむけて輸送船団を出撃させており、これを撃滅するためザラ級3隻(ザラ、フィウメ、ポーラ)を含むイタリア艦隊はタラントを出撃した[注釈 6]3月28日午前中、クレタ島近海でイタリア軍・イギリス軍双方の巡洋艦戦隊が交戦する[30]。 この海戦で、イギリス陣営のアルバコア雷撃機ソードフィッシュ雷撃機が戦艦ヴィットリオ・ヴェネトと重巡ポーラ (Pola) に魚雷を命中させた[31]。前者は多数の護衛艦艇と共に戦場を離脱し、後者は航行不能となった[32]。イアキーノ中将の命令により[33]、重巡ザラ (Zara) に将旗を掲げるカルロ・カッタネオ英語版イタリア語版上級少将は、ザラとフィウメおよび駆逐隊を率いてポーラの救援にむかった[注釈 7]

地中海艦隊を指揮するカニンガム提督は、手負いのヴィットリオ・ベネトを撃沈するためクイーン・エリザベス級戦艦を率いて追撃を続行した[10]。夜間になり軽巡オライオン (HMS Orion, 85) に将旗を掲げるウィッペル英語版提督から、停止している艦船をレーダーで発見したとの報告が入る[1]。これは航行不能のポーラだったが、ヴィットリオ・ヴェネトと誤判断したカニンガム提督は、大型艦4隻(ウォースパイト、ヴァリアント、フォーミダブル、バーラム)で単縦陣を形成して獲物に接近した[34]。月のない曇り空で、南西の微風、穏やかな海で視界は4kmほどだった[34]。変針により横陣になり、22時20分の時点で停止船(ポーラ)まで距離7キロとなったとき、旗艦ウォースパイトの3,600メートル前方を伊海軍艦艇3隻(駆逐艦アルフィエーリ、重巡ザラ、重巡フィウメ)の単縦陣が横切った[35]。イタリア側艦船の砲塔には、乗組員が誰もいなかったという[36]。英戦艦3隻は夜間砲撃をおこなうために単縦陣になり、英空母は縦陣の外に出た[35]。22時28分、距離3,000mも離れていない場所を航行中のフィウメにむけて、ウォースパイトは15インチ主砲8門を斉射した[37]。随伴の英駆逐艦グレイハウンド (HMS Greyhound, H05) がサーチライトで伊重巡を照射し[38]、15インチ砲弾5発がフィウメに命中した[37]。同時にヴァリアント (HMS Valiant) も15インチ主砲の斉射をフィウメに浴びせた[37][注釈 8]。次にウォースパイトの第二斉射がフィウメに命中し、爆発が起きて炎上した[37]。 戦闘不能になったフィウメは漂流し[36]、まもなく沈没した[注釈 9][注釈 10]。生存者の一部はイタリア海軍の病院船に救助された[40]。本海戦で、イタリア海軍はザラ級重巡3隻を一挙に喪失してしまった[9]

出典

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注釈

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  1. ^ 一等巡洋艦 “フューメ Fiume[2] 全要目{排水量10,000噸 速力32節 備砲20糎砲8門 起工1929年4月 竣工1931年11月 建造所 テクニコ造船所} “ザラ”と同時に造船所を異にして建造された同型艦であつて、竣工就役の日、始めて海相を兼攝するムツソリニ首相が親しく乗艦して乗組海軍将兵を激励したと言ふ曰くつきの重巡である。
    一萬噸巡洋艦は伊太利海軍の最新設計とも言ふべく1932年“ゴリツィア Gorizia” 1933年“ポラ Pola”の順に竣工し、一隻毎に前檣樓に新味を示してゐる。列強に於ける20糎砲一面噸巡洋艦は、その國々に於てそれそれの特徴を示して居るが、伊太利の重巡は最もわが國の重巡と似てゐる。
  2. ^ 一等巡洋艦 “フューメ Fiume[7] 全要目{排水量10,000噸 速力32節 備砲20糎砲8門 起工1928年 竣工1931年 建造所 アドリアチコ造船所} 同型艦“ザラ Zara” “ゴリチア Gorizia” “ポラ Pola” 全長182.72米、幅20.62米、平均吃水5.96米“ザラ”と同時に造船所を異にして建造された同型艦であつて、竣工就役の日、海相を兼攝するムツソリニ首相が親しく乗艦して乗組海軍将兵を激励したと言ふ曰くつきの重巡である。
    この四隻の一萬噸巡洋艦は伊太利海軍の最新設計とも言ふべく1932年“ゴリチア”1933年“ポラ”の順に竣工し、一隻毎に前檣樓に新味を示してゐる。即ち“ポラ”の前檣樓は甲鈑をもつて覆はれ、特に高速航進に際し、一番煙突の排氣煙に冒されぬやう細心の注意と苦心が拂はれてゐると言ふ。
  3. ^ 3月28日昼間、空母フォーミダブルクレタ島陸上基地から飛来した艦上攻撃機の魚雷攻撃で戦艦ヴィットリオ・ヴェネトが損傷し、姉妹艦ポーラが航行不能となった[10]。ポーラを救援するため旗艦ザラと重巡フィウメは随伴駆逐艦と共に航行中、カニンガム提督直率部隊(ウォースパイト、ヴァリアントバーラム)の砲撃を浴びて、ザラや駆逐艦もろとも撃沈された[11]。ポーラも英駆逐艦に撃沈された[12]
  4. ^ 戦艦部隊をイニーゴ・カンピオーニ中将が、巡洋艦部隊をリッカルド・パラディーニ中将が率いていた。
  5. ^ 戦艦部隊をイニーゴ・カンピオーニ提督が指揮し、重巡6隻(ボルツァーノ、フィウメ、ゴリツィア、ポーラ、トリエステトレント)を基幹とする快速艦艇部隊をアンジェロ・イアキーノ提督が率いた。
  6. ^ イタリア艦隊は戦艦1、重巡洋艦6、軽巡洋艦2、駆逐艦17という戦力で、アンジェロ・イアキーノ中将が指揮した。イタリア艦隊は、主力本隊と、偵察艦隊にわかれていた[29]。フィウメの姉妹艦ゴリツィアはラ・スペツィアで整備修理中だった。
  7. ^ カッタネオ少将が指揮していた部隊は、重巡ザラ(旗艦)、重巡フィウメ、重巡ポーラ、駆逐艦ヴィットリーオ・アルフィエーリジョズエ・カルドゥッチアルフレード・オリアーニヴィンチェンツォ・ジョベルティであった。
  8. ^ なおヴァリアントにはフィリップ王子(現在のイギリス女王エリザベス2世王配)が海軍少尉として勤務していた。
  9. ^ 木俣滋郎著『大西洋・地中海の戦い ヨーロッパ列強海戦史』37頁では、英駆逐艦ジャーヴィスがフィウメを雷撃処分したと記述する[39]。各言語版では「転覆して沈没した。」と記述する。
  10. ^ この夜戦でフィウメの他に姉妹艦ザラ(旗艦)、駆逐艦アルフィエーリ、カルドゥッチが撃沈された[12]。姉妹艦ポーラは、英駆逐艦ジャーヴィス (HMS Jervis,G00) とヌビアン (HMS Nubian,G36) に雷撃処分された[40]

脚注

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  1. ^ a b ウォースパイト 1998, pp. 183a-190マタパン岬沖海戦 ― 夜戦
  2. ^ ポケット海軍年鑑 1937, p. 145(原本272-273頁)一等巡洋艦フューメ
  3. ^ 世界の艦船、近代巡洋艦史 2009, p. 116aイタリア/重巡洋艦「ザラ」級 ZARA CLASS
  4. ^ 三野、地中海の戦い 1993, p. 100新鋭重巡洋艦〈フューメ〉
  5. ^ 写真シリーズ(3)巡洋艦 2007, p. 99「フューメ」Fiume
  6. ^ イカロス、世界の巡洋艦 2018, pp. 120–121(イタリア海軍)ザラ級重巡洋艦/条約型重巡の中でも屈指の重装甲を誇る
  7. ^ a b c ポケット海軍年鑑 1935, p. 170(原本322-323頁)一等巡洋艦フューメ
  8. ^ ウォースパイト 1998, p. 187(マタパン岬沖海戦夜戦、航跡図)
  9. ^ a b 写真シリーズ(3)巡洋艦 2007, p. 123イタリア/フューメ
  10. ^ a b ウォースパイト 1998, p. 182マタパン岬沖海戦(1941年3月28日~29日)
  11. ^ 三野、地中海の戦い 1993, pp. 98a-103マタパン岬沖海戦
  12. ^ a b ウォースパイト 1998, p. 188.
  13. ^ イカロス、世界の巡洋艦 2018, p. 121.
  14. ^ 三野、地中海の戦い 1993, pp. 60–65(1)フランスとの戦争
  15. ^ ウォースパイト 1998, p. 158.
  16. ^ 三野、地中海の戦い 1993, pp. 76–81カラブリア沖海戦とスパダ岬沖海戦
  17. ^ ウォースパイト 1998, pp. 166–167.
  18. ^ ヨーロッパ列強戦史 2004, pp. 114–115.
  19. ^ ヨーロッパ列強戦史 2004, p. 225.
  20. ^ 三野、地中海の戦い 1993, pp. 86–89イタリアのギリシャ侵攻
  21. ^ ウォースパイト 1998, pp. 172–173カニンガムの池
  22. ^ 三野、地中海の戦い 1993, pp. 82–85タラント夜襲
  23. ^ ヨーロッパ列強戦史 2004, pp. 113–114.
  24. ^ a b 三野、地中海の戦い 1993, p. 95.
  25. ^ ウォースパイト 1998, pp. 176–178ルフトバッファ(ドイツ空軍)の参戦
  26. ^ 呪われた海 1973, p. 231.
  27. ^ a b 三野、地中海の戦い 1993, p. 98b.
  28. ^ 三野、地中海の戦い 1993, p. 97.
  29. ^ ヨーロッパ列強戦史 2004, pp. 26–27.
  30. ^ ウォースパイト 1998, pp. 179–183マタパン岬沖海戦 ― 緒戦
  31. ^ ヨーロッパ列強戦史 2004, pp. 33–34.
  32. ^ 三野、地中海の戦い 1993, p. 104.
  33. ^ ヨーロッパ列強戦史 2004, p. 35.
  34. ^ a b ウォースパイト 1998, p. 183b.
  35. ^ a b ウォースパイト 1998, p. 184.
  36. ^ a b ウォースパイト 1998, p. 186.
  37. ^ a b c d ウォースパイト 1998, p. 185.
  38. ^ ヨーロッパ列強戦史 2004, p. 36.
  39. ^ ヨーロッパ列強戦史 2004, p. 37.
  40. ^ a b ヨーロッパ列強戦史 2004, p. 38.

参考文献

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  • 木俣滋郎『大西洋・地中海の戦い ヨーロッパ列強戦史』光人社〈光人社NF文庫〉、2004年2月(原著1986年)。ISBN 978-4-7698-3017-7 
    • 2.マタパン岬の海戦/6.スパダ岬の海戦/8.タラント港空襲
  • 編集人 木津徹、発行人 石渡長門『写真シリーズ 軍艦の構造美を探る(3) 巡洋艦 WORLD CRUISERS IN REVIEW』株式会社海人社〈世界の艦船 別冊〉、2007年6月。 
  • 編集人 木津徹、発行人 石渡長門『世界の艦船 2010.No.718 近代巡洋艦史』株式会社海人社〈2010年1月号増刊(通算第718号)〉、2009年12月。 
  • V.E.タラント、井原祐司 訳『戦艦ウォースパイト 第二次大戦で最も活躍した戦艦』光人社、1998年11月。ISBN 4-906631-38-X 
    • 第七章 ―「Mare Nostrm(我らの海)」/第八章 ― カニンガムの池
  • カーユス・ベッカー、松谷健二 訳「第4部 地中海の戦い」『呪われた海 ドイツ海軍戦闘記録』フジ出版社、1973年7月。 
  • 三野正洋『地中海の戦い』朝日ソノラマ〈文庫版新戦史シリーズ〉、1993年6月。ISBN 4-257-17254-1 
  • 本吉隆(著)、田村紀雄、吉原幹也(図版)「イタリアの巡洋艦」『第二次世界大戦 世界の巡洋艦 完全ガイド』イカロス出版株式会社、2018年12月。ISBN 978-4-8022-0627-3 

関連項目

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