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出雲 (装甲巡洋艦)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
出雲
基本情報
建造所 アームストロング・ホイットワース[1]エルスウィック造船所[2]
運用者  大日本帝国海軍
艦種 装甲巡洋艦[1](一等巡洋艦
艦歴
計画 第二期拡張計画[3]
起工 1898年5月14日
進水 1898年9月19日[1]
竣工 1900年9月25日[1]
最期 1945年7月24日転覆着底
除籍 1945年11月20日
要目
排水量 9,750トン
全長 121.92 m
最大幅 20.94m
吃水 7.37m
ボイラー ベルヴィール式石炭専焼水管缶 24基
主機 直立三段膨張式四気筒レシプロ機関 2基
推進 2軸
速力 20ノット
乗員 672名
兵装 20.3cm連装砲塔 2基
15.2cm単装速射砲 14門
12ポンド単装速射砲 12門
2.5ポンド単装速射砲 8門
45.7cm水中魚雷発射管 4門
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出雲(いずも/いづも)は、日本海軍装甲巡洋艦

概要

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出雲型1番艦で、イギリスアームストロング・ホイットワースで建造された[4]。 艦名は出雲国に由来する[5]。 艦内にはクシナダヒメの神像を祀っていた[6][7]

日露戦争では上村彦之丞提督(第二艦隊司令長官)率いる「上村艦隊」の旗艦として参加[8]蔚山沖海戦で武勲をたてた[6]日本海海戦では殿(しんがり)艦を務めた姉妹艦磐手と共に活躍している[5]第一次世界大戦には、メキシコの動乱に際して警備艦として派遣される[8]。続いて第二特務艦隊として地中海に派遣された[9]。世界大戦終了後、練習艦(類別上は巡洋艦籍のまま)として遠洋航海に従事した[8]

旧式化により[10]1921年(大正10年)9月より一等巡洋艦から海防艦[11]に類別変更された[12]

1930年(昭和5年)4月22日に締結したロンドン海軍軍縮条約で、老齢巡洋艦として保有を許される[13]。その後も1932年(昭和7年)以降、第三艦隊旗艦としておもに上海黄浦江に停泊した[14][15]1937年(昭和12年)7月以降の第二次上海事変および日中戦争では[16]支那方面艦隊旗艦として上海方面にあった[17][18]。8月には中華民国空軍の空襲をうけ、対空戦闘をおこなった[19]中国空軍の上海爆撃)。その後も上海に停泊し、当時のニュース映像にも幾度か登場している[20][21]1941年(昭和16年)12月8日の太平洋戦争開戦も、支那方面艦隊旗艦として上海で迎えた[22]

1942年(昭和17年)7月1日、日本海軍の海防艦定義変更にともない[10]巡洋艦に復帰した[23]1943年(昭和18年)中盤以降、中国大陸から内地にもどり、瀬戸内海で練習艦となった[15][24]太平洋戦争末期の1945年(昭和20年)7月24日、呉軍港空襲により転覆・沈没した[15]。戦没するまで45年間現役にあった。

艦型

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最終時の兵装は以下の通り。

艦歴

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建造

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六六艦隊計画(戦艦6、装甲巡洋艦6)の一艦としてイギリスに発注された[25]1898年(明治31年)5月14日、イギリスのアームストロング社で起工[5]1899年(明治32年)9月19日、進水[26]1900年(明治33年)9月25日、竣工[5]。同年10月2日、イギリスを出発[27]。同年12月8日、横須賀に到着した[28]

1901年

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御召艦

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1901年(明治34年)6月5日、明治天皇皇太子大正天皇)は横須賀で装甲巡洋艦磐手に乗艦、近海を巡航する[29]。御召艦は磐手、供奉艦は出雲と水雷駆逐艇であった[30]。9日、艦隊は沼津を出航するが、ここから館山まで皇太子は出雲を御召艦とした[30]。11日午前8時、艦隊は横須賀に帰投して皇太子は退艦した[31]

日露戦争

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日露戦争中の出雲は通商破壊戦を行うロシア帝国海軍ウラジオストク巡洋艦隊を警戒して対馬海峡に展開していたが、その努力も虚しく1904年明治37年)6月15日に陸軍の輸送船「常陸丸」がウラジオ艦隊によって撃沈される常陸丸事件が発生してしまう。降伏を拒否して小銃で応戦した陸軍将兵達の悲壮な最期が国内に伝えられると、濃霧によりウラジオ艦隊を取り逃がした上村や出雲の所属する第二艦隊は国民からの強い批判にさらされた。演説会や新聞では「無能」や「露探(ロシアのスパイ)提督」などと中傷され、激昂した暴徒が上村将軍の家に押し寄せて石や短刀を投げつける事件も発生している。この事態に上村の部下たちは憤慨したが、上村は「家の女房は度胸が据わっているから大丈夫」と笑って取り合わなかったといわれる。上村の妻は毎日寺参りをして敵艦隊発見を祈願していた。

常陸丸事件から2か月後に発生した蔚山沖海戦では[32]、第二艦隊(第二戦隊〈出雲〔第二艦隊旗艦〕、吾妻常磐磐手千早〉、第四戦隊〈浪速高千穂対馬新高〉)がついにウラジオ艦隊の装甲巡洋艦リューリクを撃沈した[33]。上村将軍(出雲座乗)は残存する装甲巡洋艦2隻(ロシアグロモボーイ)の追撃を指示するも「我レ、残存弾数ナシ」の報告を受け結局攻撃を断念した。

撃沈されたリューリクは日本の艦船を多数撃沈しており、上村中将にとっては常陸丸事件の件でも恨みの深い相手であったが、沈みながらも味方艦を逃がすために砲撃を続ける姿に感銘を受けた日本艦隊は生存者の救助に当たった。この行動は国内外で賞賛され、後にこの救助活動を元にした「上村将軍」という歌が作られている。スラバヤ沖海戦で敵兵を救助した工藤俊作もこの歌を祖母から子守唄のように聞かされていたとされている[34]

日本艦隊に撃沈されるリューリク

上村将軍(一部) 作詞:佐々木信香 作曲:佐藤茂助

蔚山沖の雲晴れて 勝ち誇りたる追撃に 艦隊勇み帰る時 身を沈め行くリューリック

恨みは深き敵なれど 捨てなば死せん彼等なり 英雄の腸ちぎれけん

救助と君は叫びけり 折しも起る軍楽の 響きと共に永久に

高きは君の功なり 匂うは君の誉れなり

この際、出雲に救助されたリューリクのロシア将校が艦内に小鳥が飼われているのを見つけ「この小鳥は前から飼っているのか」と聞くと、日本人通訳が「あれはリューリックの溺者を救助にいったものが海に浮かんでいるのを見つけて可哀そうだから捕えてきて飼っているのだ」と答えると、ロシア将校は涙を浮かべてそれは自分が飼っていた鳥であること、通商破壊戦で多くの民間船を撃沈していたため報復されると思っていたことを語り、神に黙祷を捧げたというエピソードが残っている[35]。艦を指揮した上村中将は非常に感情の激しい人物として有名であるが、鳥が好きであった。この際救助した小鳥かは不明だが、肩に小鳥を乗せて笑みを浮かべている写真を何枚か残している。

上村将軍の歌詞には、救助活動時の軍楽隊による演奏についての一説があるが、当時の出雲の軍楽隊長は吉本光藏であった。この海戦で砲弾により穴のあいた軍艦旗は、その後も「出雲」の記念品として保存され、海軍記念日のたびに掲げていたという[6]

その後の日本海海戦でも、第二艦隊(旗艦出雲)は上村の指揮のもとで参加[36]。命中弾7-8発、戦死者3名・負傷者27名[37]。 戦闘中、舵が故障した戦艦クニャージ・スヴォーロフ」(ロジェストヴェンスキー提督旗艦)を見てバルチック艦隊が北へ向かうと誤認した東郷長官(旗艦「三笠」)は追撃を指示したが、出雲艦上の上村と佐藤鉄太郎中佐(副官)は「スワロフ」の舵故障と即座に判断、東郷長官の命令を無視して「我に続け」の信号旗を掲げながらバルチック艦隊に突撃。巡洋艦中心の第2戦隊が、戦艦中心のバルチック艦隊に突撃するという前代未聞の作戦を実施し、結果的に挟撃することに成功した。クニャージ・スヴォーロフ以外のバルチック艦隊の後続艦は南東方向に舵を取ってウラジオストクへの離脱を目指していたため、東郷長官の命令に従っていれば残存艦艇に逃げられていた可能性は高く、日本側の勝利に大きく貢献する活躍となった。

1906年(明治39年)10月5日、明治天皇皇太子大正天皇)が横須賀軍港に行啓する[38]。この時の「出雲」は第一艦隊旗艦(司令長官片岡七郎中将)であった[39]。皇太子は戦艦「香取」に続いて「出雲」に乗艦、出雲艦内を視察した[39]1907年(明治40年)10月中旬、皇太子は韓国・九州・四国各地を行啓することになった[40]。御召艦は「香取」[41]10月13日、宇品出港時の供奉艦に「出雲」も含まれていた[注釈 9]

1909年(明治42年)11月中旬、サンフランシスコポートラで桑港開港記念百年祭が開催され、その儀礼艦として「出雲」(艦長竹下勇大佐)が派遣された[6][43]

1910年には日露戦争の英雄的人物である秋山真之も艦長を務めている。

第1次世界大戦・戦間期

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1913年(大正2年)11月20日、横須賀を出撃。ウエルタ将軍のクーデターに端を発する内戦で混乱するメキシコに、邦人保護を目的に派遣された[5]。翌年の1914年(大正3年)7月下旬に第一次世界大戦が勃発する。ところが8月にメキシコマサトランに寄港中の「出雲」(艦長森山慶三郎大佐)は石炭が不足していたところ、ドイツ帝国海軍東洋艦隊に所属する巡洋艦「ライプツィヒ」と一緒になった[44]。宣戦布告前だったので、同艦の親日的な士官の好意により、ドイツ帝国がマサトラン港に貯蔵していた石炭を譲ってもらったという[44][注釈 10]。その後「ライプツィヒ」はフォークランド沖海戦で撃沈された[44]。 ドイツ艦と別れたあとの「出雲」は、装甲巡洋艦「浅間」、戦艦「肥前」(旧「レトヴィザン」)とともに遣米支隊に所属し、旗艦としてアメリカ西海岸を防衛する任務に当たった。

1917年(大正6年)8月、第二特務艦隊の増援部隊として地中海マルタ島に派遣される[5]。 地中海進出後、第二特務艦隊司令官佐藤皐蔵少将は旗艦を「明石」から「出雲」に変更[45]。 第二特務艦隊は、中央同盟国潜水艦部隊による通商破壊から船団を護衛する任務に従事した。

1918年1月3日 祝砲を撃つ出雲

1919年(大正8年)7月9日、横須賀軍港で御親閲式(第一次大戦の遣欧艦隊に対する閲兵)が行われた[46][47]。 「出雲」は大正天皇が乗艦する御召艦(おめしかん)を務めた[47][48]

その後、日露戦争で活躍した各艦は練習艦として運用される[5]。「出雲」は遠洋航海に6回参加し、士官候補生達を乗せてヨーロッパや米国など世界中を回った。 1921年(大正10年)9月1日、日露戦争時代の主力艦は、戦艦や巡洋艦から海防艦に類別変更される[12]。「出雲」も海防艦(一等)になった[12]。この年の少尉候補生練習航海(海兵49期)は斎藤半六司令官に率いられており、長澤浩(後日、海上自衛隊の第2代海上幕僚長)が「出雲」に乗艦した[49]。 同年の「ブラジル独立100年祭記念観艦式」の際には、僚艦「磐手」や「浅間」と共に参加している。 1924年(大正13年)夏、海軍兵学校第52期生(少尉候補生。源田実など)が「出雲」に乗艦する[50]。当時の出雲第一分隊長は有馬正文大尉だった[50]

1925年(大正14年)5月24日秩父宮雍仁親王はヨーロッパ留学のため横浜港で「出雲」(艦長重岡信治郎大佐)に乗艦する[51][52]。これより先、摂政宮昭和天皇)は艦載水雷艇で「出雲」に乗艦し、重岡艦長と共に雍仁親王の乗艦を待った[53]。艦上で送別会がおこなわれたあと、摂政宮は高松宮宣仁親王など皇族一同と共に「出雲」から退艦した[53]。正午、「出雲」は横浜港を出港する[53]。摂政宮は御召艇で「出雲」を見送ったあと装甲巡洋艦「日進」に乗艦し、その後東京に戻った[53][54]6月6日、秩父宮は香港で「出雲」から貨客船箱崎丸に移乗、ヨーロッパに向かった[55]

1930年(昭和5年)4月22日、列強各国はロンドン海軍軍縮条約を締結し、「出雲」は老齢巡洋艦として廃艦を免れた[注釈 18]

1932年(昭和7年)1月、第一次上海事変が生起した。「出雲」は艦隊旗艦として艦橋に作戦室を増設することになった[56]佐世保海軍工廠で改造を実施、電気溶接と突貫作業により、二週間はかかるとみられた工事を3日半ほどで終わらせたという[57]1934年からは九〇式二号水上偵察機を搭載するようになった。

支那事変・太平洋戦争

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上海沖に停泊している出雲(37年撮影)

日中戦争支那事変)における「出雲」は、第三艦隊(司令長官長谷川清中将)の旗艦として上海に停泊した[注釈 19]1937年(昭和12年)7月上旬に生起した盧溝橋事件は、8月になると第二次上海事変に発展した[注釈 20]。上海の黄浦江に停泊していた旗艦「出雲」は中華民国空軍の目標になる[59]。8月14日午前10時以降、「出雲」と第八戦隊の軽巡は中華民国空軍爆撃機(10機程度)の攻撃を受けた[59]。または、10時55分に第八戦隊が爆撃機5機に、11時22分に「出雲」が爆撃機3機に爆撃された[60]。攻撃したのは広徳より発進したノースロップ2E爆撃機で、「出雲」などに命中弾はなかったが中国側の損害もなかった[61]。「出雲」と軽巡「川内」は水上機を発進させ、上空直掩をおこなった。 中華民国空軍による「出雲」爆撃は上海共同租界の諸外国に通知されており、外国人達は1時間程迄前から建物の屋上に鈴なりになって「出雲」が沈没する様子を見ようと期待していた[62]。ところが「出雲」の対空砲火で中華民国爆撃機は爆撃針路を変更、外れた爆弾で観戦者達に死傷者が出た[62]。いずれにせよ、誤爆で民間人に多数の死傷者が出た[63]源田実(当時、第二連合航空隊参謀)は「中国側も中国側であるが、他人の命がけの戦争を高みの見物としゃれる方もしゃれる方である。天罰覿面という所か。」と回想した[62]。 同日、「出雲」と軽巡洋艦「長良」搭載の水偵各1機は敵飛行場や陸上部隊攻撃および上空警戒に従事し、中国軍機との交戦でカーチス・ホークIIIを1機撃墜した[64]

8月16日、「出雲」は中華民国空軍の空襲をうけたが、誤爆で民間人に被害が出た[19]。さらに中国の魚雷艇による雷撃を受けたが、魚雷は外れた[65]。 8月18日夜、中華民国空軍は「出雲」への夜間爆撃を試みたが、失敗した[66]機雷を用いた破壊工作もあったという[67]

1938年(昭和13年)2月26日、東本願寺大谷光暢法主)が「出雲」を訪問し、長谷川長官から説明をうけている[68]。 3下旬、イタリアの権益保護のため前年から上海に派遣されていたイタリア海軍軽巡ライモンド・モンテクッコリ」が[69]、日本に派遣されることになった[70]。3月31日、長谷川長官はザラ艦長などを「出雲」に招いて歓待した[注釈 21]

1940年(昭和15年)5月7日、出雲艦上で支那方面艦隊司令長官の事務引き継ぎがおこなれ、及川古志郎大将にかわって嶋田繁太郎中将(海兵32期、後の海軍大臣)が将旗を掲げた[72]。 9月初旬には[73]新型練習艦2隻(香取鹿島)が上海に入港している[74][75]

1941年(昭和16年)3月17日、中華民国汪兆銘政権)の汪兆銘などが「出雲」に乗艦し、嶋田大将(支那方面艦隊司令長官)と歓談した[76]。12月21日、日本陸軍の中国派遣部隊を視察中の東條英機陸軍大臣が「出雲」を訪問し、嶋田長官と会談した[77]

9月1日、嶋田大将が横須賀鎮守府司令長官に補職され[78]、後任の支那方面艦隊長官は古賀峯一中将(海兵34期)となった[79]。長官交替のため、「出雲」は一旦内地に帰投する[79]。新司令長官を迎えたあと、再び上海に進出した[79]。10月22日、古賀長官は出雲艦上で記者団の取材に応じる[注釈 22]。係留中[81]、「出雲」の甲板は砂摺りされて真っ白で、複雑な国際情勢下で軍規も厳しかったという[82]。また上海の租界地で便衣兵による事件が起きた際には、出雲の海軍陸戦隊が派遣されることもあった[83]。主燃料は石炭なので、月一回の搭載作業は大変な苦労がともなった[84]

1941年(昭和16年)12月7日の時点で、上海市黄浦江に停泊中の「出雲」周辺には、砲艦「鳥羽」、駆逐艦「」、米砲艦「ウェーク」、英砲艦「ペテレル」、イタリア海軍の通報艦エリトリア」や貨客船「コンテ・ヴェルデ」が停泊していた[85]。 12月8日早朝(上海時間午前4時30分)(日本時間午前5時30分)、真珠湾攻撃とともに日本軍軍使はイギリス砲艦「ペテレル」に降伏を勧めたが、「ペテレル」側は拒否した[86]。日本側艦艇は共同で「ペテレル」を撃沈した[87]。アメリカ砲艦「ウェーク」は降伏、拿捕された[88]。なお、ウェークは第二次世界大戦で唯一敵に降伏したアメリカ海軍の艦船となっている。

開戦と同時に、上海所在の日本軍は連合軍船舶の拿捕を開始、「出雲」も海軍陸戦隊を派遣した[89]1942年(昭和17年)1月下旬、「出雲」は南京所在の汪兆銘政権(首席汪精衛)を公式訪問するため、長江を遡江した[90]。南京では、南京政府主席・支那方面艦隊・陸軍部隊中支方面軍表敬訪問などの公式行事が行われた[91]。一連の行事を終え、「出雲」は上海に戻った[92]。 7月1日、日本海軍は海防艦の定義を大幅に変更する[10]。航行能力のある軍艦3隻(八雲、出雲、磐手)は海防艦から一等巡洋艦に類別変更された[23]

1943年(昭和18年)3月14日、東條内閣を率いる東条英機内閣総理大臣が上海の「出雲」を訪問し、艦上で支那方面艦隊司令長官吉田善吾海軍大将と会談した[93]。5月25日、中国の新聞記者団が「出雲」に招待され、記者から「これが日本の新鋭艦ですか」という質問も出たという[注釈 23]。5月27日、海軍記念日を祝う[95]。 このあと中国大陸より内地に帰投[15]。瀬戸内海で練習艦として運用された[15]1944年(昭和19年)2月20日、練習兼警備艦に指定される[24]1945年(昭和20年)7月24日に呉軍港空襲で米艦載機の攻撃を受け、至近弾により転覆着底、3名が死亡した。姉妹艦「磐手」も呉軍港空襲により損傷・着底した[96]

広島県江田島市には、共に小用港沖で戦い戦没した戦艦「榛名」と合同の戦没者留魂碑が小用港沖を望む丘の上に建てられている。

年譜

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歴代艦長

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※脚注無き限り『日本海軍史』第9巻・第10巻の「将官履歴」及び『官報』に基づく。

回航委員長
艦長

美術

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  • 『軍艦出雲』 - 石井柏亭 作(1941年 第5回海洋美術展に出品)[111]

脚注

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注釈

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  1. ^ 〔 ―海防艦― 出雲(いづも) 基準排水量9,180噸、長さ121,92米、幅20.93米、平均吃水7.39米、速力20.75節、備砲20糎砲4門、15糎砲14門、8糎砲4門、8糎高角砲1門、魚雷發射管2門、起工明治31年5月14日、進水明治32年9月19日、竣工明治33年9月25日、建造所英國アームストロング社 ― 支那事變で、旗艦として活躍中。〕
  2. ^ 出雲(いづも)
    艦種一等巡洋艦 二檣(戰闘檣あり)磐手と姉妹艦なり
    艦名考國名にして山陰道出雲國に採る。
    艦歴明治33年9月25日英國にて竣工、同年10月2日英國出發、12月8日横須賀到着。磐手と姉妹艦なり。明治37・8年戰役に從軍:(第二戰隊、第二艦隊司令長官上村彦之丞旗艦)、同37年8月蔚山沖海戰に参加(艦長大佐伊地知季珍)、同42年7月北米合衆國桑港に於ける、同國發見140年祭参列、太平洋沿岸巡航(艦長大佐竹下勇)。同2年11月墨國警備に從事(艦長大佐森山慶三郎)、大正3年乃至9年戰役從軍:同3年8月遣米支隊に属し北米・中米方面警備(艦長同前)、同6年6月第二特務艦隊に属し地中海方面警備(艦長大佐小林研藏、同増田幸頼)、同10年一等海防艦に編入。昭和6・7年事變(日支)に從軍、同7年2月北支上海方面警備(第三艦隊に属す、艦長大佐松野省三)。現在も引續き第三艦隊の旗艦たり。/因に練習艦隊の一艦として從來屡々海軍少尉候補生等の練習任務に服す。
    要目長434呎/幅69呎/喫水24.5呎/排水量9,800噸/機關 四汽筒三聯成汽機2臺 ベルビル/馬力14,500/速力20.77/乗組人員483/船材 鋼(装甲)|兵装 8吋砲 4/6吋砲 14/12听砲 12/2.5听砲 8/小砲 4/發射管 4/起工 明治31-5-16/進水 同32-9-13/竣工 仝33-9-25/建造所 英國安社 〕
  3. ^ 〔 軍艦出雲は日露戰爭前出來上がった。其の當時世界的に優秀な装甲巡洋艦である。同艦には出雲の國の人達から贈られた稲田姫の御神像と神酒甕と大杯がある。日露戰爭のときは第二艦隊司令長官上村彦之丞中将の旗艦であった。明治27年2月9日旅順沖の海戰に初陣をした後で上村長官は将官室に准士官以上を呼び、一人々々に自ら柄杓で神酒を大杯に注がれて戰捷を祝された。同年八月十四日の蔚山沖海戰のときは御神像の安置してあった将官食堂は敵彈の爲目茶目茶に破壊され、器物皆顛倒墜落したにも係らず、御神像のみは少し向きが換った位で安全であった。日本海々戰のときも無事であった。余は日露戰爭中次の如き狂歌を作った。
     上村が いくさ加藤と勇むなり 出雲變らぬ元氣にて
     出雲勝て出雲安かれ出雲艦出雲の神や出雲守らん
     戰爭の初年期は加藤友三郎が参謀長であったから、之をも一ヶ所に讀み込んだのである。日露戰爭中東郷長官の旗艦であった三笠は危き運命を幸運にも逃がれて永久に保存さるゝことになった。其後軍艦出雲は世界大戰に際し第二遣外艦隊司令官の旗艦として遂に地中海迄出動して輝かしい武勲をたてた。
     過ぐる満州事變後の上海事變のときは野村第三艦隊司令長官の旗艦として三度輝かしい武勲をたてた。今回の支那事變に當りては長谷川第三艦隊司令長官の旗艦として幾度か飛行機の爆撃や砲銃彈や水雷の攻撃を受け何等損傷を來さなかった程幸運の艦である。聞く所によれば上海で外人仲間で幸運の表徴として尊敬され、激戰最中の某日彼等の會合の席上談偶々今上海で何處が一番安全だらうかとの問に對し、異口同音に、ソレは軍艦出雲だと言った位神秘的幸運の軍艦である。それが今回の支那事變に限られたのではなく、日露戰爭を初陣に四回までも世界注目の戰場にあって嚴然たる威容に何等の傷を受けず、赫々たる武勲をたてた。かうなると最早三笠以上の輝かしい戰歴を經た軍艦である。せめて佐世保軍港あたりに永久に保存することゝし、以て東に三笠あり、西に出雲あり、之に依って獨り日本海軍の士氣のみならず、日本國民の精神發揚に資したきものである。 〕
  4. ^ 〔 達第百六十四號 艦艇類別等級別表中左ノ通改正ス 大正十年九月一日 海軍大臣男爵 加藤友三郎|戰艦ノ欄内「敷島、朝日、三笠、肥前、」ヲ、巡洋艦一等ノ欄内「淺間、常磐、八雲、吾妻、磐手、出雲、春日、日進」ヲ、同二等ノ欄内「千歳、須磨、明石、新高、對馬、」ヲ削ル|海防艦一等ノ欄内「周防」ノ次ニ「、敷島、朝日、三笠、肥前、淺間、常磐、八雲、吾妻、磐手、出雲、春日、日進」ヲ、同二等ノ欄内「武藏」ノ次ニ「、千歳、須磨、明石、新高、對馬」ヲ加フ 〕
  5. ^ 〔 内令第千百八十六號 艦艇類別等級別表中左ノ通改正ス 昭和十七年七月一日 海軍大臣 嶋田繁太郎|軍艦、巡洋艦一等青葉型ノ項ノ次ニ左ノ一項ヲ加フ | |八雲、磐手、出雲| 同海防艦ノ項ヲ削ル/同砲艦ノ部中「多多良」ノ下ニ「、須磨」ヲ加フ/潜水艦ノ欄ノ次ニ左ノ一項ヲ加フ |海防艦| | |占守型占守國後八丈石垣|(内令提要巻三、三三頁参照) 〕
  6. ^ 〔 内令第三百四十四號 佐世保鎭守府豫備艦 軍艦 出雲 右練習兼警備艦ト定メラル  昭和十九年二月二十日 海軍大臣 嶋田繁太郎 〕
  7. ^ 『○陸海軍/○軍艦進水 英國ニ於テ製造ノ軍艦出雲ハ一昨十九日首尾好ク進水セリ(海軍省)』
  8. ^ 〔 ○陸海軍/○軍艦發箸 軍艦出雲及磐城ハ本月八日横須賀ヘ投錨、同豊橋ハ佐世保投錨、同橋立、嚴島及龍田ハ嚴島ヘ、驅逐艦陽炎及曙ハ呉ヘ一昨九日孰モ投錨(海軍省) 〕
  9. ^ 供奉艦は、軍艦(鹿島、出雲、磐手、常磐、浅間、対馬)、駆逐艦(響、如月、神風、初霜、夕暮、夕立、白露、三日月、時雨、春風、初雪、朝霧、朝潮、村雨)であった[42]
  10. ^ 日本は8月23日に連合国として宣戦布告し、ドイツ帝国中央同盟国)と敵対関係になった。
  11. ^ 〔 大正六年二月一日獨逸が無制限潜水艦戰宣言を聲明せし以來、其の潜水艦は特に地中海方面に出没して暴威を逞ふし、聯合國商船の被害は俄然増加し、我が歐州航路船舶の遭難も亦頻出するに至った。是に於て帝國政府は英國政府の懇請と、世界平和促進のため、遠く地中海に艦隊を派遣して協同作戰に從事する事となった。/新に編成せられたる第二特務艦隊の軍艦明石及第十驅逐隊(桂、楓、楠、梅)第十一驅逐隊(松、榊、杉、柏)は、司令官佐藤皐藏少将指揮の下に、大正六年三月十一日新嘉坡發、四月十三日「モルタ」着、爾来同地を根據とし、其後増勢せられたる艦艇と共に、英國海軍と協同して對潜水艦作戰及輸送船隊の護衛任務等に從事した。/同年六月一日新に編入せられたる軍艦出雲及第十五驅逐隊(樫、桃、檜、柳)は、八月初旬「モルタ」に到着、出雲は明石と交代し旗艦となった。又英海軍の要望により二隻の英國「トローラー」に、我が将兵を載せて我が軍艦旗を掲げ、一隻は「東京」、他は「西京」と假稱し、其後更に英驅逐艦二隻に、右同様我が軍艦旗を掲げ、「栴檀」及「橄欖」と假稱し、臨時第十一驅逐隊に編入して所要の任務に服せしめた。/斯くて我が第二特務艦隊は出征以來「モルタ」を根據とし、殆んど地中海の全部に亙り、主として軍隊輸送船の護衛任務に從事し、聯合與國の作戰に寄與することと甚大であった。此間戰闘、救護の主なるものは次の如し。(以下略) 〕
  12. ^ 〔 ◎行幸 天皇陛下ハ御豫定ノ如ク昨九日午前七時十五分御出門同七時三十分東京驛御發車同九時五分横須賀驛御箸車横須賀軍港ニ於テ軍艦磐手其他御親閲午後三時二十分横須賀驛御發車同四時五十五分東京驛御箸車同五時十分還幸アラセラレタリ 〕
  13. ^ 〔 大正八―七―九|横須賀軍港にて、第一第二特務艦隊御親閲|軍艦出雲|(空欄) 〕
  14. ^ 〔 大正八-七-九|横須賀沖|御親閲式|出雲|(参加艦艇)(隻數)二六/(噸數)八六,〇一三|(同航空機)―|(外國軍艦)(空欄) 〕
  15. ^ 〔 大正十四年には英國御留学の御目的にて御渡歐あそばされる事となり、五月廿四日軍艦出雲に御乗艦横濱を御出發あそばされ、七月六日佛國マルセイユ御着、七日パリ―を經て御無事英國ロンドンにお着あそばされた。(以下略) 〕
  16. ^ 〔 ◎東宮行啓 皇太子殿下ハ雍仁親王殿下御渡歐ニ付御見送ノタメ一昨二十四日午前七時四十分東宮假御所御出門同八時東京驛御發車同八時五十五分横濱港税關岸壁御箸車軍艦出雲ニ御乗艦後軍艦日進ニ御移乗御午後一時五十五分同岸壁御發車同二時五十分東京驛御箸車同三時十分還啓アラセラレタリ 〕
  17. ^ 〔 大正十四年の五月廿四日に秩父宮さまには軍艦出雲に御乗りあそばされ、御兄君の攝政宮さまをはじめ各皇族方と甲板の上に御別杯をあげさせられ、正午横濱港を御出航御外遊の旅にのぼらせられたが、御兄君の攝政宮さまにはランチを港外まで進めさせられ、小山のやうな出雲艦の姿が遠くかすむまで御見送りあり、つきぬ御名殘りを惜しませられました。/御航海の途中で沖縄、臺北、臺南、澎湖島を御見學あり、ホンコンでは總督サー・エドワード・スタックスを御訪問あり、六月六日午前十一時に箱崎丸に御乗換へあり、その日午後御出港あり十日にシンガポールに御安着あそばされました。〕
  18. ^ 日本海軍の割り当ては、機雷敷設艦(阿蘇常磐)、老齢巡洋艦(浅間八雲、出雲、磐手春日)、砲艦[13]
  19. ^ 原地七万邦人保護 第三艦隊の堂々たる陣容[58] 揚子江及び沿岸警備の重任を負ひ七万餘の在留邦人の生命財産を守つてゐる第三艦隊は左の如く編制されてゐる、艦數は海防艦一、巡洋艦三、砲艦九、驅逐艦五、合計十八隻である。
    ▲司令部 司令長官 長谷川清中将 参謀長 杉山六藏中将 旗艦海防艦出雲(艦長鎌田大佐) 二等巡洋艦天龍宇垣大佐) 二等巡洋艦龍田(福田大佐)
    ▲第十一戰隊 司令官 谷本馬太郎少将 砲艦 ― 安宅、鳥羽、勢多、比良、堅田、保津、熱海、二見 二等驅逐艦 ― 栂、栗、蓮、小鷹
    ▲第五水雷戰隊 司令官 大熊政吉少将 二等巡洋艦夕張(艦長廣瀨大佐)
    ▲第十三驅逐隊二等驅逐艦若竹 司令官 植田中佐
    ▲第十六驅逐隊 ― 司令官中川中佐 砲艦 ― 嵯峨
    上海特別陸戰隊 司令官 大川内傳七少将(記事おわり)
  20. ^ 第二次上海事変時の両軍戦闘序列(日本海軍を含む)。
  21. ^ 出雲艦日伊交歡[71](上海發)盟邦伊太利の親善使節團の訪日についでさらに伊太利極東艦隊旗艦ライモンド・モンテクツコーリ艦が櫻咲く日本を訪れることになつたので長谷川支那方面艦隊司令長官は三十一日午後一時半伊艦長らを黄浦江上の旗艦出雲艦上に招待「日伊防共兄弟」の力強い交歡を遂げた 同艦は四月一日上海發長崎別府に寄港して十日神戸に入港、同地で訪日使節團と落ち合ひ十七日横濱入港 帝都を訪問する豫定である(記事おわり)
  22. ^ 國民の一人一人が正義戰を敢行[80](上海二十二日)支那方面艦隊司令長官古賀峰一中将は、二十二日午前十一時より出雲艦上で記者團と初會見を行ひ着任の所感として大要左の如く語つた。 歴代長官の後を受け至誠貫徹に全力を盡したい世界情勢は日いい日と重大化し、今や苟しくも日本國民たるものは總てたゝかひをせねばならなぬ事態となつた。我々武人はもとより國民一人一人が今後は石に齧ぢりついてもわが正義のせん爭をたゝかひ抜かねばならぬ。(記事おわり)
  23. ^ 廿五日、上海新聞聯合會主催の華人新聞記者團『軍艦出雲見學』が行はれた、午後三時海軍武官府に集合した華字紙七社の社長以下幹部及び新聞記者等の一行九十余名は艦隊報道部塩田中尉から軍艦出雲の輝かしい戰歴や日本海軍の活躍ぶりを約卅分にわたつて聴いたのち同中尉の引率で出雲を訪れ副砲の操作やその他銃劍術、劍、柔道、相撲などの逞しい訓練ぶりを見學したが一行は巨砲に威大さにまづびつくり『これが日本の新鋭艦ですか』といふ珍質問も出『いや、これは日本で一番古い軍艦です、新鋭艦はいま北や南の海原に出て米英艦隊を撃滅してゐるのです』と案内の将校の説明を聞いて二度びつくり、日本海軍の偉大さに感歎の眼をみはり艦内見學約二時間のゝち甲板で勇士心盡しの茶菓の接待をうけ、許力求氏が一行を代表して感謝の挨拶を述べ同五時過ぎ歸途についた[94](記事おわり)

出典

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参考文献

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(207-279頁)燃える上海 軍艦「出雲」が出動するとき 中国戦線異状あり/語られざる太平洋戦争"開戦の日" ― 本田清治
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関連項目

[編集]