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宇垣完爾

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
宇垣 完爾
生誕 1889年1月23日
日本の旗 日本岡山県
死没 (1974-09-27) 1974年9月27日(85歳没)
所属組織  大日本帝国海軍
軍歴 1912年 - 1945年
最終階級 海軍中将
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宇垣 完爾(うがき かんじ、1889年明治22年)1月23日 - 1974年昭和49年)9月27日)は、日本海軍軍人。最終階級は海軍中将

経歴

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岡山県出身。農業・宇垣十七八の二男として生れた。岡山中学校を経て、海軍兵学校と陸軍士官学校(23期)の両方に合格する。また、歩兵第39連隊の配属予定だったことが官報に確認できる。1911年(明治44年)7月、海軍兵学校39期)を卒業し、1912年(大正元年)12月、海軍少尉に任官。海軍水雷学校高等科を卒業し、「安芸分隊長、「第23潜水艦」乗組、第3艦隊参謀、「第16潜水艦」「第19潜水艦」の各艦長などを経て、1925年(大正14年)11月、海軍大学校(甲種23期)を卒業した。

その後、連合艦隊参謀、水雷学校教官、海軍通信学校教官、舞鶴要港部参謀、「日向」副長、欧米出張、海軍省電信課長兼軍令部第4部第9課長、「天龍」艦長、青島駐在、舞鶴要港部参謀長、南支海軍特務部長代理、呉鎮守府参謀長などを経て、1939年(昭和14年)11月、海軍少将に進級。

太平洋戦争を海南警備府参謀長として迎えた。通信学校長を経て、1943年(昭和18年)5月、海軍中将となった。さらに支那方面艦隊参謀長を経て、大湊警備府司令長官兼第12航空艦隊司令長官として終戦を迎え、1945年(昭和20年)11月、予備役に編入された。

1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた[1]

栄典

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親族

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脚注

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  1. ^ 総理庁官房監査課編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、「昭和二十二年十一月二十八日 仮指定者」93頁。
  2. ^ 『官報』第846号「叙任及辞令」1929年10月24日。

参考文献

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  • 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。
  • 外山操編『陸海軍将官人事総覧 海軍篇』芙蓉書房出版、1981年。
  • 福川秀樹『日本海軍将官辞典』芙蓉書房出版、2000年。