宇垣完爾
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宇垣 完爾 | |
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生誕 |
1889年1月23日 日本、岡山県 |
死没 | 1974年9月27日(85歳没) |
所属組織 | 大日本帝国海軍 |
軍歴 | 1912年 - 1945年 |
最終階級 | 海軍中将 |
宇垣 完爾(うがき かんじ、1889年(明治22年)1月23日 - 1974年(昭和49年)9月27日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。
経歴
[編集]岡山県出身。農業・宇垣十七八の二男として生れた。岡山中学校を経て、海軍兵学校と陸軍士官学校(23期)の両方に合格する。また、歩兵第39連隊の配属予定だったことが官報に確認できる。1911年(明治44年)7月、海軍兵学校(39期)を卒業し、1912年(大正元年)12月、海軍少尉に任官。海軍水雷学校高等科を卒業し、「安芸」分隊長、「第23潜水艦」乗組、第3艦隊参謀、「第16潜水艦」「第19潜水艦」の各艦長などを経て、1925年(大正14年)11月、海軍大学校(甲種23期)を卒業した。
その後、連合艦隊参謀、水雷学校教官、海軍通信学校教官、舞鶴要港部参謀、「日向」副長、欧米出張、海軍省電信課長兼軍令部第4部第9課長、「天龍」艦長、青島駐在、舞鶴要港部参謀長、南支海軍特務部長代理、呉鎮守府参謀長などを経て、1939年(昭和14年)11月、海軍少将に進級。
太平洋戦争を海南警備府参謀長として迎えた。通信学校長を経て、1943年(昭和18年)5月、海軍中将となった。さらに支那方面艦隊参謀長を経て、大湊警備府司令長官兼第12航空艦隊司令長官として終戦を迎え、1945年(昭和20年)11月、予備役に編入された。
1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた[1]。