香取 (戦艦)
香取 | |
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基本情報 | |
建造所 |
ヴィッカース・サンズ社[1] バロー造船所(イギリス・バロー=イン=ファーネス)[2] |
運用者 | 大日本帝国海軍 |
艦種 | 戦艦[3] |
母港 | 舞鶴(1915年4月1日時点)[4][5] |
艦歴 | |
計画 | 第三期拡張計画[6] |
起工 | 1904年4月27日[7][1] |
進水 | 1905年7月4日[7][5][1] |
竣工 | 1906年5月20日[7][8][1] |
除籍 | 1923年9月20日[9] |
その後 | 解体 |
要目(竣工時計画) | |
常備排水量 |
計画:15,950英トン[7][5] 竣工時:15,975英トン[10] |
全長 | 456 ft 3 in (139.07 m)[11] |
垂線間長 | 420 ft 0 in (128.02 m)[7][5][注 1] |
水線幅 | 78 ft 0 in (23.77 m)[7][11][5] |
深さ | 44 ft 0 in (13.41 m)[7] |
吃水 | 27 ft 0 in (8.23 m)[7][5][11] |
ボイラー | ニクロース式缶 20基[7][5] |
主機 | 直立4気筒3段レシプロ 2基[5] |
推進 | 2軸 x 120rpm[7] |
出力 |
計画:16,000馬力[5] 竣工時:16,320馬力[10] |
速力 |
計画:18.5ノット[7][5] 竣工時:20.2ノット[10] |
燃料 | 石炭:1,857トン[7][5] |
航続距離 | 10,000カイリ / 10ノット[7] |
乗員 |
竣工時定員:850名[12] 1920年:815名[5][注 2] |
兵装 |
竣工時[7] 45口径12インチ連装砲 2基 45口径10インチ単装砲 4基 6インチ単装砲 12基 3インチ単装砲 16基 47mm単装砲 3基 45cm水中発射管 5門 1920年[5] 毘式30cm砲 4門[注 3] 毘式25cm砲 4門 毘式15cm砲 12門 四一式8cm砲 8門(4門子砲) 1号8cm砲 6門 四一式短8cm砲 2門 麻式6.5mm機砲 3挺 水中発射管 5門 探照灯 6基[5] |
装甲 |
舷側:9in(228.6mm)-6in(152.4mm)KC鋼[13] 甲板:3in(76.2mm)-2in(50.8mm)[13] 砲塔:12in(304.8mm)-5in(127mm)[13] 砲郭:9in(228.6mm)[13] 司令塔:9in(228.6mm)[13] |
搭載艇 | 1922年:56ft(フィート)ペデットボート(艦載水雷艇)2隻、36ft小蒸気船1隻、40ftランチ1隻、32ftピンネース1隻、30ftカッター3隻、30ft通船1隻、27ft通船1隻、20ft通船1隻[14] |
香取(かとり)は大日本帝国海軍の戦艦[15]。香取型戦艦の1番艦。 艦名は香取神宮(千葉県香取市)に由来する[16]。 艦名は香取型練習巡洋艦1番艦「香取」[17]、海上自衛隊の練習艦「かとり」に引き継がれた。本艦は皇太子時代の大正天皇・昭和天皇の御召艦として、たびたび用いられた。
香取と鹿島は日露戦争に備えて日本海軍がイギリスに発注した戦艦で、キング・エドワードVII世級戦艦を模範に発展させた準弩級戦艦である[18]。香取はヴィッカース社で、鹿島はアームストロング社で建造された[19]。日本海海戦の勝利により早期に戦争が終結し、就役は戦後の1906年(明治39年)のこととなった[20]。戦艦「鹿島」も同型だが、工事期間が短く、また費用を圧縮するため細部は造船所に一任したため多少の違いが見られる[20]。ただし、一般的に「香取」と「鹿島」は姉妹艦として扱われる[21][16][22]。
艦歴
[編集]建造
[編集]1904年(明治37年)2月13日、日本海軍はイギリスで建造の第一号甲鉄艦を香取、第二号甲鉄艦を鹿島と呼称することを内定[23]、 候補艦名として葦原(アシハラ)、諏訪(スハ)、白山(シラヤマ)があった[24]。 4月27日起工[16]。 1905年(明治38年)7月4日、進水式が行われ[16]、 制式に「香取」と命名[25][15]、 午前11時20分に「香取」は進水した。 進水式には訪英した有栖川親王夫妻が臨席し、威仁親王妃慰子が命名・進水を執り行った[26]。 なお進水は6月17日を予定していたが、有栖川親王訪英の都合でこの日となった[27]。 1906年(明治39年)5月20日竣工[16]。 5月28日、「香取」と「鹿島」は戦艦に類別される[28][3]。
回航
[編集]8月10日、シンガポールから横須賀への航海中の「香取」は宮古島の南にあるとされたイキマ島を捜索したが何も発見されなかった[29]。この結果、この島は海図から削除された[29]。 8月15日、「香取」は日本に到着[16][30]。
1906年
[編集]8月29日、当時5歳の裕仁親王(昭和天皇)は秩父宮雍仁親王と共に横須賀に到着[注 4]。横須賀鎮守府司令長官上村彦之丞中将の案内で「香取」を見学した[31]。 10月5日、明治天皇皇太子(嘉仁親王。のち大正天皇。当時28歳)は横須賀軍港に行啓する[32]。横須賀海軍工廠で建造中の戦艦「薩摩」や巡洋戦艦「鞍馬」を視察したあと[33]、皇太子は「香取」(艦長坂本一大佐)と「出雲」(第一艦隊旗艦)を巡覧した[34]。
1907年
[編集]1907年(明治40年)5月中旬、皇太子(当時29歳)は山陰地方を行啓することになり[35]、5月14日に舞鶴港で戦艦「鹿島」に乗艦、先導艦を「香取」、供奉艦を軍艦「磐手」および第13駆逐隊と第14駆逐隊が務めた[36]。6月6日、皇太子は舞鶴港で「鹿島」を退艦[37]、福知山市や京都を経由して東京に戻った[38]。
10月、韓国総監伊藤博文の要請により[39]、皇太子は大韓帝国および九州地方と四国地方を巡啓することになった[40][41]。 10月12日[42]、皇太子は宇品(広島県)で御召艦「香取」に乗艦して宿泊[43][注 5]。 翌13日、香取(皇太子御召艦、有栖川宮威仁親王・東郷平八郎大将ほか供奉)と第一艦隊旗艦「鹿島」(司令長官有馬新一中将)および軍艦(常磐、出雲、浅間、磐手、対馬)、随伴の駆逐艦は宇品を出港する[43][45]。 10月16日、仁川港(朝鮮半島)で皇太子は上陸した(香取を退艦)[46][注 6]。 李垠(大韓帝国皇太子)との対面を終えた嘉仁親王(皇太子)は10月20日、仁川で再び「香取」に乗艦する[48][注 7]。鎮海港へ移動した[43][注 8]。 10月22日、「香取」(御召艦)は対馬に寄港[51]、皇太子は竹敷要港部を見学する[52][53]。 10月23日、佐世保に寄港(上陸)[54][55][50]。爆沈事故より復旧中の戦艦「三笠」を視察した[56]。 10月24日、皇太子は佐世保海軍工廠が初めて建造した巡洋艦「利根」[57]の進水式に臨席する[58][注 9]。 同日、艦隊は佐世保から長崎に移動[60][注 10]。同地で威仁親王は「香取」を退艦、巡洋艦「音羽」に移乗し、先に東京へ戻った[62][注 11]。 翌25日、艦隊は鹿児島へ移動[64][注 12]。皇太子は引続き、東郷平八郎元帥等と共に「香取」で九州・四国太平洋沿岸各地を訪問する[53][55]。 11月14日朝、「香取」は横浜港に到着する[66][注 13]。皇太子は35日ぶりに東京へ戻った[53]。
1911年
[編集]1911年(明治44年)8月、明治天皇皇太子(後の大正天皇、当時33歳)[68]は北海道を行啓することになった[69]。8月19日、青森港で皇太子は御召艦「香取」に乗艦[70]、本艦で宿泊する[71][注 14]。 8月20日午前9時30分、「香取」は函館港に到着、既に碇泊していた巡洋艦「音羽」とアメリカ海軍アジア艦隊所属のサラトガ(ACR-2、4代目サラトガ)とニューオーリンズ(CL-22)enは皇礼砲を発射して出迎えた[73]。同港で皇太子は「香取」を下艦[注 15]。以後北海道各地を巡啓する[69][71]。 9月12日午後5時、室蘭で皇太子は「香取」に乗艦する[75][注 16]。 9月14日、香取と音羽は横須賀港に到着[77][78]。皇太子は東京に戻り、「香取」は御召艦任務を終えた[79][注 17]。
1913年
[編集]1913年(大正2年)11月10日、東京湾で観艦式が行われ[80]、「香取」(艦長岩村団次郎大佐)は大正天皇の御召艦となる[81][82]。観艦式は無事に終了した[83][注 18]。
第一次世界大戦
[編集]1914年(大正3年)10月14日、第一次世界大戦において香取は中部太平洋に進出、マリアナ諸島サイパン島を占領した[85]。この時に艦内神社から分祀をおこない、同島ガラパン町に香取神社を創建した。
1916年
[編集]1916年(大正5年)3月まで、大修理(大改装)を施行した[5]。
1917年
[編集]1917年(大正6年)7月、大正天皇皇太子(裕仁親王、のちの昭和天皇)は山陰沿岸を行啓することになり[86]、7月4日に敦賀湾で「香取」(艦長桑島省三大佐)に乗艦、供奉艦は戦艦「安芸」(艦長中川繁丑大佐)[87][注 19]。 7月5日午前6時、敦賀湾を出港し、午後5時50分に美保湾(鳥取県)到着[89][注 20]。 7月6日、皇太子は境波止場より上陸、出雲大社を参拝した[91][注 21]。 松江城等を訪問後、宍道湖中海を経て午後6時20分に「香取」へ帰艦[91][92]。同日は美保湾の本艦に宿泊する[91]。 7月7日午前6時15分、皇太子は境波止場より上陸、名和神社を訪問し、10時15分に「香取」へ帰還[93][92]。艦隊(香取、安芸)は直ちに出港し、午後1時30分に隠岐島前別府湾に到着[93]。皇太子は上陸して後鳥羽天皇火葬塚(隠岐神社)を参拝する[93][92]。一旦「香取」に戻ったあと、西ノ島に上陸して後醍醐天皇黒木御所址を訪問し、「香取」に戻った[93][92]。午後4時30分、艦隊は出港して関門海峡へ向かう[93][92]。 7月8日、艦隊は関門海峡を通過して瀬戸内海に入り、広島県早瀬瀬戸で仮泊する[94][注 22]。 7月9日、皇太子は「香取」から水雷艇に移乗、呉軍港に上陸して各地を見学(亀ヶ首射撃場では16インチ砲、12インチ砲の発射を見学)[96][注 23]。午後4時25分、「香取」に戻った[96][97]。この日の香取と安芸は小部湾(愛媛県今治市)に停泊する[96][97]。 7月10日午後2時20分、艦隊は小豆島内海湾に到着して仮泊[98][97]。 7月11日午前7時、艦隊は小豆島を出発[99][注 24]。午後1時、「香取」より神戸港に上陸して川崎造船所を訪問、建造中の伊勢型戦艦1番艦「伊勢」を見学した(川崎造船所副社長川崎芳太郎、海軍中佐石井祥吉説明)[99][100]。三菱神戸造船所を見学後の午後2時35分、皇太子は「香取」に帰還した[99][100]。 7月12日午前7時25分、皇太子は「香取」を退艦して神戸港に上陸[101][注 25]。お召し列車で東京に戻った(7月12日は静岡御用邸泊。7月13日、東京到着)[101][102]。
1920年
[編集]1920年(大正9年)3月下旬、大正天皇皇太子(のちの昭和天皇)が四国・九州地方を巡啓することになり、3月24日に神戸港で御召艦「香取」(艦長南郷次郎大佐)に乗艦する[103][注 26]。先導艦を戦艦「安芸」(艦長石川秀三郎大佐)、供奉艦を戦艦「薩摩」(艦長森本義寛大佐)、海風型駆逐艦2隻(山風、海風)他が務めた[103][105]。 3月25日午後4時20分、鹿児島港到着[注 27][107]。 3月26日午前8時、皇太子は「香取」を離れ鹿児島に上陸[108][注 28]。照国神社等を訪問し、午後5時15分に「香取」へ戻った[108][109]。 3月27日午前6時45分、皇太子は鹿児島に上陸[109][110]。鉄道で宮崎県へ移動し、狭野神社等を巡啓した[109][110]。 28日、皇太子は宮崎神宮等を参拝・行啓[注 29]。29日、鵜戸神宮等を参拝・行啓[注 30]。 3月30日、皇太子は宮崎県から鹿児島県へ移動、高屋山上陵・可愛山陵・新田神社等を参拝[113][注 31]。夕刻、「香取」に乗艦し鹿児島を離れた[113][114]。 3月31日午前11時40分、「香取」は三角港(熊本県)に到着[115][114]。皇太子は熊本市各地を行啓した[115][114]。午後7時20分、「香取」に帰艦する[115][114]。 4月1日、皇太子は上陸して熊本城・水前寺成趣園・阿蘇神社等を行啓・参拝[116][注 32]。午後6時30分、「香取」に戻る[116][117]。午後9時、香取以下艦隊は長崎に向け出港した[116][117]。 4月2日午前7時、「香取」及び供奉艦(安芸、薩摩、海風、山風、榎)は長崎港に入港[118][119][注 33]。 長崎市各所行啓後の同日午後、皇太子と東郷平八郎元帥は三菱長崎造船所に移動して建造中の峯風型駆逐艦6番艦「矢風」、加賀型戦艦2番艦「土佐」、球磨型軽巡洋艦2番艦「多摩」を見学し、「香取」に戻った[121][120]。 4月3日午前11時、「香取」は佐世保軍港に到着、皇太子は佐世保鎮守府・佐世保海軍工廠等を見学した[122][120]。 4月4日午前7時20分、皇太子は「香取」を退艦[123][120]。佐世保に上陸後、鉄道へ佐賀県および福岡県へ移動し[120][123][注 34]、大宰府神社・観世音寺等を参拝・行啓[注 35][注 36]。 4月7日、皇太子は東公園・筥崎宮・香椎宮等を参拝・行啓[127][126]。午後4時40分、駆逐艦「榎」(皇太子御召駆逐艦)は門司港を出発[127]。午後5時30分、部崎泊地で皇太子は「香取」に帰艦した[127][126]。午後7時、「香取」以下艦隊は出港、帰途につく[126]。 4月8日午後5時30分、艦隊は神戸港に到着[128][注 37]。 4月9日午前7時30分、皇太子は「香取」を退艦して上陸する[130]。鉄道で東京に戻った[130][注 38]。
遣欧艦隊
[編集]1921年(大正10年)には大正天皇皇太子(後の昭和天皇)渡欧に際し戦艦2隻(香取〈艦長漢那憲和大佐、海兵27期。沖縄出身〉、鹿島〈艦長小山武大佐、海兵26期〉)は遣欧艦隊を編成し、皇太子は「香取」を御召艦とする[132][16]。「鹿島」(随艦)は旗艦を務めた(第三艦隊司令長官小栗孝三郎中将、参謀長田口久盛少将座乗)[22]。この際イギリスに対する好誼の表現として国産主力艦によらず、わざわざイギリス製の戦艦を使用したのである[20]。また日本海軍は「筑波」(1917年1月14日)、「河内」(1918年7月12日)を火薬庫爆発事故で喪失しており、皇太子訪欧に際し問題になった[133]。そこで呉火薬試験所に模擬火薬庫を設置、異常発生の徴候がみられた時は香取と鹿島の火薬を海中投棄することになった[133]。
3月3日、香取(御召艦)と鹿島(随艦)は連合艦隊各艦(長門、扶桑)等に見送られて横浜を出発[134][135][136]。 コロンボ出発後の4月2日、「鹿島」の機関部でパイプが破裂、死者3名を出す[134][137]。4月7日には「香取」でも機関部事故が起こり死者2名・負傷者2名を出した[138][139]。4月16日、スエズ運河通過中に「鹿島」が座礁、「香取」と衝突しかけている[140]。 ジブラルタル海峡を通過して、遣欧艦隊は5月7日にスピットヘッド(ポーツマス軍港沖投錨地)へ到着[134]。戦艦「クイーン・エリザベス」(大西洋艦隊旗艦)は21発の皇礼砲で2隻を出迎えた[141][142]。5月9日、ポーツマス軍港で皇太子は「香取」を降りる[143][144]。 5月30日、皇太子はポーツマスで「香取」に乗艦、第三艦隊(香取、鹿島)はイギリスを離れ、ル・アーブル(フランス)に移動した[145]。
7月18日、遣欧艦隊はナポリ(イタリア)を出港、帰路に就いた[146][147]。アデン湾港などを経由し日本へ向かった[要出典]。8月1日、ソコトラ島近海で大阪商船の「シャム号」が座礁し、手違いにより「鹿島」がシャム号救援に向かうことになった[148][149]。 8月21日、カムラン湾で巡洋艦「新高」と給炭艦「室戸」(侍従甘露寺受長乗艦)の出迎えを受ける[150][151]。8月28日には台湾海峡通過中に巡洋艦「利根」[152]、8月31日には栃内曽次郎連合艦隊司令長官指揮下の主力艦隊が奉迎[153]、9月2日に戦艦「山城」(奉迎艦)が出迎える中で館山市(千葉県)入港[154][155]。9月3日、遣欧艦隊は横浜港に到着、皇太子は「香取」を退艦した[156][157]。
廃艦
[編集]ワシントン海軍軍縮条約により廃艦が決定し[22]、1923年(大正12年)9月20日除籍[9]、艦艇類別等級表からも削除された[158][159]。主砲(45口径12インチ砲)と中間砲(45口径10インチ砲)、は日本陸軍の要望により「保転砲」[160]として引き渡されたが、香取の砲は予備として保管されることになった[161][162]。 香取型2隻(香取、鹿島)は舞鶴工作部で解体された[163]。
現在、香取神宮の宝物庫に「香取」の艦首に装備されていた菊花御紋章が保管・展示されている[164]。この菊花御紋章は、大正天皇皇太子(昭和天皇)の欧州訪問時、「香取」が装着していたものである[165]。1923年(大正12年)12月、海軍省より香取神宮に奉納された[166]。
艦長
[編集]※『日本海軍史』第9巻・第10巻の「将官履歴」及び『官報』に基づく。階級は就任時のもの。
回航委員長
- 坂本一 大佐:1905年12月12日 - 1906年1月15日
艦長
- 坂本一 大佐:1906年1月15日 - 1906年11月22日
- 井手麟六 大佐:1906年11月22日 - 1908年5月15日
- 大城源三郎 大佐:1908年5月15日 - 1909年3月4日
- 真野巌次郎 大佐:1909年3月4日 - 1910年12月1日
- 秀島七三郎 大佐:1910年12月1日 - 1911年12月1日
- 小栗孝三郎 大佐:1911年12月1日 - 1912年12月1日
- 小笠原長生 大佐:1912年12月1日 - 1913年2月12日
- 千坂智次郎 大佐:1913年2月12日 - 1913年4月1日
- 岩村団次郎 大佐:1913年5月24日 - 1913年12月1日
- 近藤常松 大佐:1913年12月1日 - 1914年12月1日
- 下村延太郎 大佐:1914年12月1日 - 1915年3月17日
- 堀輝房 大佐:1915年6月30日 - 1915年12月13日
- (兼)久保来復 大佐:1915年12月13日 - 1915年12月23日
- 吉田増次郎 大佐:1916年2月12日 - 1916年12月1日
- 桑島省三 中佐:1916年12月1日 - 1917年12月1日
- 山梨勝之進 大佐:1917年12月1日 - 1918年11月1日
- 大見丙子郎 大佐:1918年11月1日 - 1918年11月25日
- 宇佐川知義 大佐:1919年2月6日 - 1919年8月5日
- 南郷次郎 大佐:1919年8月5日 - 1920年10月5日
- 漢那憲和 大佐:1920年10月5日 - 1921年12月1日
- 横地錠二 大佐:1921年12月1日 - 1922年1月26日
- (兼)有田秀道 大佐:1922年1月26日[167] - 1922年3月15日[168]
- 森脇栄枝 大佐:1922年3月15日[168] - 1923年4月1日[169]
- 山口権平 大佐:1923年4月1日[169] - 1923年9月1日[170]
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ #日本の戦艦(上)2001p.106では垂線間長425 ft 0 in (129.54 m)としている。
- ^ #昭和造船史1pp.776-777、附表第2 艦艇要目表 1.主力艦要目表では、計画乗員864名としている。
- ^ 「毘式三十六糎砲 四門」と記載があるが「毘式三十糎砲 四門」の間違いと思われる。
- ^ (明治三十九年八月)二十九日水曜日(軍艦香取に御乗艦)午前七時五十分、雍仁親王と共に御出門になり、逗子停車場より列車にて横須賀にお成りになる。横須賀停車場において横須賀鎮守府司令長官上村彦之丞、横須賀海軍工廠長伊東義五郎・同夫人等の奉迎をお受けになる。ついで逸見波止場より小蒸気船に召され、軍艦香取に御乗艦になる。香取艦長坂本一の奉迎をお受けになる。それより上村長官・坂本艦長の案内にて艦内を御巡覧になり、司令塔より探照灯を、上甲板にては軍艦扶桑との手旗信号などを御覧になる。小蒸気船に移られ、軍艦厳島の周囲を巡られ、ついでドック及び工場を御見学になり、再び小蒸気船にて横須賀軍港内を御覧になる。十一時二十分横須賀停車場を御発射になり、御帰邸になる(以下略)[31]。
- ^ 〔 ○東宮御發艦 皇太子陛下ハ御豫定ノ如ク一昨十二日午前八時三十分舞子停車場御發車午後四時二十五分宇品停車場御箸車同五時五十五分軍艦香取ニ御乗艦同夜御假泊昨十三日午前六時三十分宇品港御發艦アラセラレタリ 〕[44]
- ^ 〔 ○東宮韓國京城御安箸 皇太子陛下ハ本月十三日午前六時三十分宇品港御發艦一昨十六日午前十一時四十分仁川御箸艦午後一時四十五分御上陸同二時三十分仁川停車場御發車同三時四十分南大門停車場御箸車同四時五分御旅館総監艦艇ヘ御安箸アラセラレタリ 〕[47]
- ^ 〔 ○皇后宮行啓 皇后陛下ハ御豫定ノ如ク昨二十一日横須賀軍港ニ於テ軍艦鞍馬進水式擧行ニ付キ午前十一時三十分御出門正午十二時新橋停車場御發車同港ヘ行啓午後五時五十五分新橋停車場御箸車御箸車同六時二十分還御アラセラレタリ(略)○東宮御發艦 皇太子殿下ハ御豫定ノ如ク一昨二十日午前十時二十分京城御發車同十一時三十分仁川港御箸車午後一時同港御發艦アラセラレタリ(以下略)〕[49]
- ^ 〔 ○東宮御箸艦 皇太子殿下ハ御豫定ノ如ク一昨二十二日朝鎮海灣御寄港午前十時同所御發午後二時十五分竹敷港御箸艦御上陸同六時同港御發艦昨二十三日午前七時四十五分佐世保軍港ヘ御箸艦アラセラレタリ 〕[50]
- ^ 〔 ○東宮臨御 皇太子殿下ハ昨二十四日佐世保軍港ニ於ケル軍艦利根進水式ニ臨マセラレタリ 〕[59]
- ^ 〔 ○東宮御箸艦 皇太子殿下ハ一昨二十四日午後二時佐世保軍港御發艦午後五時長崎港御箸艦アラセラレタリ 〕[61]
- ^ 〔 ○東宮御發艦 皇太子殿下ハ御豫定ノ如ク一昨二十九日鹿兒島御旅館御發艦午後四時二十五分御乗艦御假泊昨三十日午前六時鹿兒島灣御發艦アラセラレタリ|○皇族發箸 皇太子殿下ニ御同伴韓國ヘ御渡航ノ威仁親王殿下ハ昨三十日御歸京アラセラレタリ 〕[63]
- ^ 〔 ○東宮行啓竝御安箸 皇太子殿下ハ本月二十五日午前九時三十分長崎港御上陸目下開設ノ關西九州府縣聯合水産共進會ヘ行啓午後二時五分御歸艦同四時同港御發艦一昨二十六日午前十時鹿兒島灣御箸艦午後一時三十分御上陸同二時十分鹿兒島御旅館公爵島津忠重別邸ヘ御安箸アラセラレタリ 〕[65]
- ^ 〔 ○東宮還御竝御奉送 皇太子殿下ハ御豫定ノ如ク昨十四日午前七時四十五分横濱港御箸艦御上陸同十時横濱停車場御發車同十時三十五分新橋停車場御箸車同所ヨリ直ニ上野停車場ヘ行啓茨城縣下行幸御發輦御奉送アラセラレ午後零時二十分還御アラセラレタリ 〕[67]
- ^ 〔 ○東宮御安箸 皇太子殿下ハ御豫定ノ如ク本月十八日午前六時四十分御出門同七時三十分上野停車場御發車午後四時四十分仙臺停車場御箸車同四時五十五分御旅館仙臺偕行社ヘ御安箸アラセラレタリ|○東宮御乗艦 皇太子殿下ハ御豫定ノ如ク一昨十九日午前七時十五分御旅館仙臺偕行社御出門同七時四十分仙臺停車場御發車午後五時四十分青森停車場御箸車續テ御乗艦軍艦香取アラセラレタリ 〕[72]
- ^ 〔 ○東宮御安箸 皇太子殿下ハ御豫定ノ如ク本月十九日午後十一時青森灣御發艦一昨二十日午前九時三十分函館港御箸艦御上陸同十一時十五分函館御旅館函館公會堂ヘ御安箸アラセラレタリ(以下略) 〕[74]
- ^ 〔 ○東宮行啓竝御乗艦 皇太子殿下ハ御豫定ノ如ク一昨十二日午前七時三十分御旅館飯田信三別邸御出門鵡河ニ於テ御小憩同十時十分鵡河御發車輕便鉄道正午十二時苫小牧御箸車王子製紙株式會社苫小牧工場ヘ行啓午後二時五十分苫小牧停車場御發車同四時四十七分室蘭停車場御箸車同五時五分御乗艦軍艦香取アラセラレタリ 〕[76]
- ^ 〔 ○東宮還御 皇太子殿下ハ御豫定ノ如ク本月十二日午後六時十五分室蘭御發艦昨十四日午後一時五十分横須賀軍港御箸艦御上陸同三時横須賀停車場御發車同四時四十分新橋停車場御箸車同五時還御アラセラレタリ 〕[78]
- ^ 〔 ○行幸 天皇陛下ハ御豫定ノ如ク昨十日午前六時四十五分御出門同七時十分新橋停車場御發車同八時五十五分横須賀停車場御箸車横須賀軍港ニ於テ軍艦香取ニ乗艦東京灣ニ於ケル大正二年恒例観艦式御親閲終テ午後三時十五分横須賀停車場御發車同五時新橋停車場御箸車同五時二十分還幸アラセラレタリ 〕[84]
- ^ 〔 ○東宮御乗艦 皇太子殿下ハ御豫定ノ如ク一昨四日午前八時二十分静岡御用邸御出門同八時三十分静岡停車場御發車午後四時三十五分金ヶ崎停車場御箸車同四時五十分軍艦香取ニ御乗艦アラセラレタリ 〕[88]
- ^ 〔 ○東宮御箸艦 皇太子殿下ハ御豫定ノ如一昨日五日午前六時敦賀港御發艦午後五時五十分美保灣ニ御箸艦アラセラレタリ 〕[90]
- ^ 〔 ○東宮御参拝 皇太子殿下ハ本月六日午前八時十五分境御上陸同八時三十分境停車場御發車同従事五十五分大社停車場御箸車出雲大社御参拝午後零時三十分大社停車場御發車同一時三十分松江停車場御箸車松江市舊城天守閣、興雲閣、歩兵第六十三聯隊ヘ御立寄ノ上同六時二十五分御歸艦アラセラレタリ|○東宮御發艦 皇太子殿下ハ一昨七日午前六時十五分境御上陸同六時三十分境停車場御發車同七時四十分御來屋停車場御箸車 後醍醐天皇御上陸地點御覽明和神社ニ御立寄同八時三十五分名和停車場御發車同九時四十分境停車場御箸車同十時十五分御歸艦アラセラレ同十一時美保灣御發艦午後二時隠岐別府灣御箸艦海士村御上陸 後鳥羽院天皇火葬塚御拝、同行在所跡及 後醍醐天皇黒木御所跡御覽ノ上御歸艦同四時三十分別府灣御發艦アラセラレタリ 〕[92]
- ^ 〔 ○東宮御箸艦 皇太子殿下ハ御豫定ノ如ク一昨八日午後六時廣島縣下倉橋島附近ニ御箸艦アラセラレタリ 〕[95]
- ^ 〔 ○東宮御箸艦 皇太子殿下ハ一昨九日午前九時十分呉軍港御上陸呉海軍工廠御巡覽畢テ射撃御覽ノ上御歸艦午後四時二十五分廣島縣下倉橋島附近御發艦同六時二十分愛媛縣下小部灣ニ御箸艦アラセラレ又御豫定ノ如ク昨十日午前六時愛媛縣下小部灣御發艦午後二時二十分香川縣下小豆島附近ニ御發艦アラセラレタリ 〕[97]
- ^ 〔 ○東宮御箸艦 皇太子殿下ハ御豫定ノ如ク一昨十一日午前七時小豆島附近御發艦午後零時十分神戸港御箸艦川崎造船所、三菱合資會社神戸造船所御覽同二時三十五分御歸艦アラセラレタリ 〕[100]
- ^ 〔 ○東宮御安艦 皇太子殿下ハ御豫定ノ如ク一昨十二日午前七時四十五分神戸御上陸同八時神戸停車場御發車午後五時四十分静岡停車場御箸車同五時五十分静岡御用邸ヘ御安箸アラセラレタリ|○東宮還御 皇太子殿下ハ御豫定ノ如ク昨十三日午前九時十分静岡御用邸御出門同九時二十分静岡停車場御發車午後二時十分東京停車場御箸車同二時三十五分還御アラセラレタリ 〕[102]
- ^ 〔 ○東宮御發艦 皇太子殿下ハ一昨二十四日午前六時四十分二條離宮御出門同七時京都驛御發車同八時五十五分神戸驛御箸車御乗艦同十一時神戸港御發艦アラセラレタリ 〕[104]
- ^ 〔 ○東宮御入港 皇太子殿下ハ一昨二十五日午後四時二十分鹿兒島港ニ御入港アラセラレタリ 〕[106]
- ^ 〔 ◎東宮行啓 皇太子殿下ハ本月二十六日午前八時御上陸鹿兒島縣廰竝ニ公爵島津忠重別邸ヘ行啓城山御登臨第七高等學校造士館ヘ行啓鹿兒島縣立物産陳列場及照國神社ヘ御立寄歩兵第三十六旅團司令部及歩兵第四十五聯隊、鹿兒島高等農林學校ヘ行啓午後五時二十五分御歸艦アラセラレタリ|◎東宮御安箸 皇太子殿下ハ一昨二十七日午前六時四十五分鹿兒島御上陸同六時五十五分鹿兒島驛御發車同九時五十五分高原驛御箸車狭野神社ヘ御立寄同十一時二十五分高原驛御發車正午都城驛御箸車小松原公園ヘ御立寄ノ上歩兵第六十四聯隊ヘ行啓午後三時五分都城驛御發車同四時二十五分宮崎驛御箸車同四時四十分御泊所ヘ御安箸アラセラレタリ 〕[109]
- ^ 〔 ◎東宮行啓 皇太子殿下ハ一昨二十八日午前九時御泊所紫明館御出門宮崎縣廰竝ニ宮崎縣立物産陳列場ヘ行啓、還御ノ上更ニ午後一時御出門官幣大社宮崎神宮御参拝徴古館竝ニ教育品展覽會(宮崎中學校)ヘ行啓同四時十五分還御アラセラレタリ 〕[111]
- ^ 〔 ◎東宮御参拝 皇太子殿下ハ一昨二十九日午前九時三十分御泊所紫明館御出門青島ヘ御立寄次テ内海港御出港鵜戸崎御入港官幣大社鵜戸神宮御参拝ノ上鵜戸崎御出港内海港御入港午後六時十五分還御アラセラレタリ 〕[112]
- ^ 〔 ◎東宮御出港 皇太子殿下ハ去月三十日午前六時四十分御泊所紫明館御出門同六時五十五分宮崎驛御發車同十一時嘉例川驛御箸車高屋山上陵御参拝午後零時五十五分嘉例川驛御發車同三時二十五分川内町驛御箸車愛山陵竝ニ国幣中社新田神社御参拝同五時川内町驛御發車同五時三十五分西市來驛御箸車御乗艦同八時四十五分三角ヘ向ケ御出港アラセラレタリ|◎東宮御入港竝行啓 皇太子殿下ハ去月三十一日午前十一時四十分三角港御入港午後零時四十五分三角驛御發車同一時四十五分熊本驛御箸車熊本縣廰第二師範學校ヘ行啓同五時四十分熊本驛御發車同六時四十五分三角駅御箸車同七時二十五分御歸艦アラセラレタリ 〕[114]
- ^ 〔 ◎東宮御出港 皇太子殿下ハ本月一日午前六時五十五分御上陸同七時五分三角驛御發車同八時五分熊本驛御箸車第六師團司令部ヘ行啓渡鹿練兵場ニ於テ演習御覽ノ上水前寺ヘ御立寄同十一時三十五分水前寺驛御發車午後一時四十五分宮地驛御箸車官幣大社阿蘇神社御参拝同二時五十分宮地驛御發車同六時三角驛御箸車同六時三十分御歸艦同九時長崎ヘ向ケ御出港アラセラレタリ 〕[117]
- ^ 〔 宮廷録事(略)◎東宮御入港竝行啓 皇太子殿下ハ本月二日午前七時長崎港御入港同八時三十分御上陸長崎縣庁ヘ行啓次テ諏訪神社御参拝諏訪公園、縣立圖書館、長崎商品陳列所ヘ御立寄長崎重砲兵大隊ヘ行啓歩兵第四十六聯隊御閲兵午後三菱造船所御覽同三時四十分御歸艦同三日午前六時三十分長崎港御出港同十一時佐世保軍港入港午後零時二十分御上陸佐世保鎮守府、佐世保重砲兵大隊、佐世保海軍工廠ヘ行啓同四時四十分御歸艦アラセラレタリ|◎東宮御安箸 皇太子殿下ハ一昨四日午前七時三十分御上陸同八時佐世保驛御發車同九時五十五分佐賀驛御箸車佐賀県廰、佐賀縣師範學校、縣立佐賀中學校ヘ行啓 佐賀縣立物産陳列館ヘ御立寄午後歩兵第五十五聯隊ヘ行啓同二時五十五分嵯峨驛御發車同四時十五分博多驛御箸車福岡縣廰ヘ行啓同五時二十五分御泊所福岡縣第一公會堂ヘ御安箸アラセラレタリ 〕[120]
- ^ 〔 ◎東宮行啓 皇太子殿下ハ一昨五日午前九時御泊所福岡縣第一公會堂御出門縣立物産陳列所ヘ御立寄ノ上工業博覽會第一會場ヘ行啓同十一時四十五分還御午後一時再ビ御出門歩兵第三十五旅團司令部、歩兵第二十四聯隊及工業博覽會第二會場ヘ行啓西公園ヘ御立寄侯爵黒田長成別邸ヘ行啓同四時五十分還御アラセラレタリ 〕[124]
- ^ 〔 ◎東宮行啓 皇太子殿下ハ一昨六日午前八時五十分御泊所福岡縣第一公會堂御出門同九時博多驛御發車同九時五十五分久留米驛御箸車久留米偕行社ヘ行啓午後一時二十五分久留米驛御發車同二時二日市駅御箸車大宰府神社、観世音寺、都府棲城趾御巡覽同五時十五分還御アラセラレタリ(略) 〕[125]
- ^ 〔 ◎東宮御出港 皇太子殿下ハ一昨七日午前八時四十分御泊所福岡縣第一公會堂御出門東公園ヘ御立寄官幣大社筥崎宮御参拝九州帝國大學工學部ヘ行啓午後官幣大社香椎宮御参拝同一時五十五分香椎驛御發車同五時五十五分門司驛御箸車部崎泊地ニ於テ御乗艦同七時御出港アラセラレタリ 〕[126]
- ^ 〔 ◎東宮御入港 皇太子殿下ハ一昨八日午後五時三十分神戸港ニ御入港アラセラレタリ 〕[129]
- ^ 〔 ◎東宮行啓竝還御 皇太子殿下ハ一昨十日午前九時二十分静岡御用邸御出門九時三十分静岡驛御發車午後一時三十五分逗子驛御箸車葉山御用邸ヘ行啓同三時二十五分葉山御用邸御出門伺同三時四十分逗子驛御發車同五時東京驛御箸車同五時三十分還御アラセラレタリ 〕[131]
出典
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香 取 ト命名セラル 明治三十八年七月四日 海軍大臣 男爵山本権兵衛』 - ^ a b c d e f g 幕末以降帝国軍艦写真と史実第89コマ(原本141頁)『香取(かとり) 艦種戰艦 二檣(信號用)鹿島と姉妹艦なり。
艦名考神社名なり、下總國香取町に鎮座する香取神宮に採る、此神宮の祭神は經 津 主命 なり、經津主命は武甕槌命と共に勅命を拝し國土を平定して大業を輔翼し、其の功勲赫灼たり、乃ち神武天皇の御宇、經津主命を香取に、武甕槌命を常陸の鹿島に鎮祭し、各神宮を創立せられたりと傳ふ。されば此二神は世々軍神と仰ぎ尊ばれて上下の崇敬頗る篤し。
艦歴明治39年5月20日英國にて竣工、同8月15日本邦到着。大正3年乃至9年戰役に從軍:同3年10月「サイパン」及び「マリアナ」群島占領竝警戒に任ず(艦長大佐山梨勝之進)、同7年1月第三艦隊に属し露領沿岸警備に從事(艦長同前)、同10年東宮殿下御渡欧の節御召艦たり。同12年9月20日除籍、廢棄(華府海軍制限條約による)。
―要目― 長420呎/幅78呎/吃水27呎/排水量15,950噸/機關 直立三聯成汽機2臺 ニクロース罐/馬力16,000/速力18.5/乗組人員864/船材 鋼/兵装 12吋砲4/10吋砲4/6吋砲12/14听砲16/其他輕砲7/發射管5/起工 明治37-4-27/進水 同38-7-4/竣工 同39-5-20/建造所 英國毘社』 - ^ #海軍制度沿革(巻8、1940)コマ204番『◎練習巡洋艦香取鹿島、驅逐艦早潮及敷設艇巨濟命名ノ件 昭和十四年三月三十一日(達四八)』
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- ^ a b c 幕末以降帝国軍艦写真と史実第90コマ(原本142頁)『鹿島(かしま) 艦種戰艦 二檣(信號用)香取と姉妹艦 艦名考神社名なり、常陸國鹿島町に鎮座する鹿島神宮に採る、此神宮の祭神は武神
武 甕 槌命 なり。其の由緒は軍艦香取の項に在り。
艦歴明治39年5月23日英國「アームストロング」社に於て竣工、同年8月4日本邦到着。大正3年乃至9年戰役に從軍:同7年1月第三艦隊に属し露領沿岸警備に從事(艦長大佐田口久盛)、同10年東宮殿下御渡欧の節供奉艦たり(第三艦隊司令長官海軍中将小栗孝三郎坐乗)、同12年9月20日除籍、廢棄(華府海軍制限條約による)。
―要目― 長470呎/幅78.25呎/吃水26.75呎/排水量16,400噸/機關 四汽筩直立四聯成汽機2臺 ニクロース式/馬力15,600/速力18.5/乗組人員864/船材 鋼(甲帶9吋)/兵装 12吋砲4/10吋砲4/6吋砲12/14听砲16/其他輕砲7/發射管5/起工 明治37-2-29/進水 同38-3-22/竣工 同39-5-23/建造所 英國エルスウィック社』 - ^ #海軍制度沿革(巻8、1940)コマ199番『◎甲鐡戰艦香取及鹿島目名ノ件 明治三十七年二月十三日(内令九五)英國ニ於テ製造ノ甲鐡戰艦二隻艦名左ノ通御治定相成候條命名式擧行迄部内限限リ通用スルコトヲ得ル儀ト心得ヘシ|英國毘社ニ於テ製造 第一號甲鐡戰艦
香 取 |英國安社ニ於テ製造 第二甲鐡戰艦鹿 島 』 - ^ #M39公文備考11/軍艦香取、鹿島製造1(6)画像36
- ^ #海軍制度沿革(巻8、1940)コマ199番『◎戰艦香取命名ノ件 明治三十八七月四日(達九一)』
- ^ #M39公文備考11付属/軍艦香取、鹿島製造2止(1)画像20
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- ^ #海軍制度沿革(巻8、1940)コマ54番『明治三十九年五月二十八日(達七五)艦艇類別等級別表中戰艦ノ欄「周防」ノ次ニ「香取、鹿島」ヲ加フ』
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関連項目
[編集]- キング・エドワードVII世級戦艦 - 香取型戦艦の基になった
- 経津主神
- 香取神宮
- 彩帆香取神社
- 大正天皇
- 昭和天皇
- 香取 (練習巡洋艦)
- かとり (練習艦)
- 大日本帝国海軍艦艇一覧
- 戦艦一覧
外部リンク
[編集]- 香取神宮 - 公式サイト