鎮遠 (戦艦)
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鎮遠 | |
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基本情報 | |
建造所 | ドイツ帝国シュテッティン、フルカン造船所 |
運用者 |
清国海軍 大日本帝国海軍 |
級名 | 定遠級戦艦 |
艦歴 | |
発注 | 1881年 |
起工 | 1882年3月 |
進水 | 1882年]11月18日 |
竣工 | 1884年4月 |
就役 |
1885年11月(清国海軍) 1895年2月17日(日本海軍に編入) |
除籍 | 1911年4月1日 |
その後 | 1912年4月6日、解体処分 |
要目(日本海軍時) | |
常備排水量 | 7,220 英トン[1] |
全長 | 91.0 m |
最大幅 | 18.3 m |
ボイラー | 石炭専焼缶×8基[1] |
主機 | レシプロ蒸気機関×2基 |
推進 | スクリュープロペラ×2軸[1] |
出力 | 6,200馬力 (4,600 kW)[1] |
速力 | 14.5ノット (26.9 km/h)[1] |
航続距離 | 4,500海里 (8,300 km)/10ノット[1] |
乗員 | 407名[1] |
兵装 | |
装甲 | |
搭載艇 | 4等水雷艇(後の水雷艇26号型)×2隻(清国海軍時) |
その他 | 信号符字:GQHF(1895年〜)[3] |
鎮遠(ちんえん, 中国語: 鎮遠、英語: Zhenyuan)は、清国海軍がドイツのフルカン・シュテッティンに発注して建造した甲鉄砲塔艦「定遠級」の1隻。
同型艦の定遠とともに清国海軍の北洋艦隊に配備された[4]。定遠と鎮遠について日本の外務省の記録では「独逸ニ注文セシ砲塔甲鉄ナル定遠ノ如キ鎮遠ノ如キ何レモ七千四百三十噸ノ姉妹戦艦(中略)其頃東洋ニ於テハ観ルニ稀ナル者ナリ」としている[4]。日清戦争において威海衛で日本海軍に捕獲され、戦利艦として日本海軍に編入された[4]。
兵装
[編集]主砲は20口径30.5cm連装砲フード付き露砲塔2基、ドイツのクルップ砲で後装砲[注釈 1]。当時のイギリス戦艦が前装砲[注釈 2]を装備していたのに比べて取り扱い性が良い。
日本海軍に編入する際の復旧工事で、艦の中央やや後方の両舷に15cm単装砲各1基ずつが増設された。
艦歴
[編集]- 1881年(光緒7年) - ドイツ・シュテッティン(現・ポーランド領シュチェチン)のフルカン・シュテッティンで起工。
- 1882年(光緒8年)11月28日 - 進水。
- 1885年(光緒11年) - 竣工[注釈 3]
- 1886年(光緒12年・明治19年)8月 - 清国北洋艦隊の旗艦「定遠」らとともに、補修の名目で長崎に入港。その際、上陸した乗員により騒動が起こった(長崎事件)。
- 1894年(光緒20年・明治27年)
- 1895年(明治28年)
- 1898年(明治31年)3月21日 - 二等戦艦に類別。
- 1904年(明治37年) - 日露戦争に参加。黄海海戦、旅順攻略戦、日本海海戦に参加。
- 1905年(明治38年)12月11日 - 一等海防艦に類別変更。
- 1908年(明治41年)5月1日 - 運用術練習艦に指定。
- 1911年(明治44年)
- 1912年(明治45年)4月6日 - 売却。横浜にて解体。
艦長
[編集]- 清国海軍
- 林泰曽 総兵:1886年-1894年
※『日本海軍史』第9巻・第10巻の「将官履歴」および『官報』に基づく。
回航委員長
艤装員長
- 横尾道昱 大佐:1895年9月10日-1895年12月27日
- 有馬新一 大佐:1895年12月27日-1896年7月7日
- 松永雄樹 大佐:1896年8月13日-1897年12月27日
- 沢良煥 大佐:1897年12月27日-1898年6月13日
- 植村永孚 大佐:1898年6月13日-1899年3月22日
- 橋元正明 大佐:1899年3月22日-6月17日
- 早崎源吾 大佐:1899年6月17日-9月29日
- 中山長明 大佐:1899年9月29日-11月20日
- 早崎源吾 大佐:1899年11月20日-1900年5月20日
- 梨羽時起 大佐:1900年5月20日-12月6日
- 鏑木誠 大佐:1903年2月3日-1903年8月1日
- 今井兼昌 大佐:1903年8月1日-1905年6月14日
- 毛利一兵衛 大佐:1905年6月14日-12月12日
- 長井群吉 大佐:1905年12月12日-1906年11月22日
- 石田一郎 大佐:1906年11月22日-1907年12月27日
- 小橋篤蔵 大佐:1907年12月27日-1908年4月7日
- 高木助一 大佐:1908年4月7日-8月28日
- 北野勝也 大佐:1908年8月28日-1909年3月4日
- 秀島成忠 大佐:1909年3月4日-1910年12月1日
同型艦
[編集]- 「定遠」
エピソード
[編集]- 日本海軍に捕獲された際、艦内から1891年の北洋艦隊日本訪問記が見つかった。水交社の機関誌『水交社記事』57号(1895年5月)に「東巡日記」として和訳の上、掲載されている。
- 捕獲後の回航要員に広瀬武夫が乗艦している。
- 鎮遠捕獲後、錨は上野の不忍池旧馬見所跡に陳列された[7]。
注釈
[編集]出典
[編集]- ^ a b c d e f g h i j 『福井静夫著作集第1巻 日本戦艦物語I』pp.340-341「日本海軍主力艦要目表」
- ^ a b c d #日本の戦艦(上)2001p.220
- ^ #信号符字点附 画像1『四月四日 軍艦須磨其他ノ艦舩ヘ點附ノ信號符字 逓信省告示 ○逓信省告示第七十一號 軍艦須磨其他ノ艦船ヘ點附ノ信號符字ハ左ノ如シ 明治二十八年四月四日 逓信大臣渡邊国武 信号符字 艦船名 GQHC 須磨 Su-ma. GQHD 福龍 Fuku-riu. GQHF 鎭遠 …(以下略)…』
- ^ a b c “定遠引揚げ作業と小野隆助”. 太宰府市. 2023年6月5日閲覧。
- ^ 『福井静夫著作集第1巻 日本戦艦物語I』p.66
- ^ #編入 画像1『三月十六日 捕獲清國軍艦鎮遠以下十艘ヲ帝國軍艦トス 海軍省達 ○海軍省遠第十六號 捕護清國軍艦鎭遠、濟遠、平遠、廣丙、鎭東、鎭西、鎭南、鎭北、鎭中、鎭邊ノ十艘ヲ帝國軍艦ト定メラル 明治二十八年三月十六日 海軍大臣伯爵西郷從道』
- ^ “上野公園とその周辺 目でみる百年の歩み3”. 一般社団法人 上野観光連盟. 2023年6月5日閲覧。
参考文献
[編集]- 泉江三『軍艦メカニズム図鑑 日本の戦艦 上』グランプリ出版、2001年4月。ISBN 4-87687-221-X。
- 浦辺登著『太宰府天満宮の定遠館』弦書房、2009年。ISBN 978-4-86329-026-6
- 『世界の艦船増刊第79集 日本戦艦史』海人社
- 泉江三『軍艦メカニズム図鑑 日本の戦艦 上巻』グランプリ出版 ISBN 4-87687-221-X c2053
- 『All the world's fighting ships 1860-1905』(Conway)
- 海軍歴史保存会『日本海軍史』第9巻、第一法規、1995年。
- 海軍歴史保存会『日本海軍史』第10巻、第一法規、1995年。
- 福井静夫『福井静夫著作集第1巻 日本戦艦物語I』光人社 ISBN 4-7698-0607-8
- 『官報』
- アジア歴史資料センター(公式)
- 『公文類聚・第十九編・明治二十八年・第二十四巻・軍事二・陸軍二・海軍:捕獲清国軍艦鎮遠以下十艘ヲ帝国軍艦トス』。Ref.A01200839500。
- 『公文類聚・第十九編・明治二十八年・第二十七巻・交通(郵便~船車):軍艦須磨其他ノ艦船ヘ点附ノ信号符字』。Ref.A15113036900。