コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

レトヴィザン (戦艦)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
レトヴィザン
左舷方向から撮られた「レトヴィザン」。
左舷方向から撮られた「レトヴィザン」。
基本情報
建造所 クランプ造船会社(アメリカフィラデルフィア)[1]
艦種 戦艦[2]
前級 ポチョムキン[要出典]
次級 ツェサレーヴィチ[要出典]
艦歴
起工 1898年12月[2]
進水 1900年10月[2]23日[要出典]
就役 1901年10月に完成、公試開始、
1902年3月25日ロシア海軍に編入。
[要出典]
最期 1904年6月12日[2]
要目
排水量 12,900トン
全長 386 ftin (117.856 m)
72 ft 2 in (21.996 m)
吃水 最大26 ft (7.9 m)
ボイラー ニクローズ式 24基
主機 直立式レシプロ 2基
推進 2軸
出力 17,000 ihp (12,677 kW)
速力 18ノット
燃料 石炭:常備1、000トン、満載2,000トン
乗員 738名
兵装 40口径12インチ連装砲 2基4門
45口径6インチ砲 12門
11ポンド砲 20門
2ポンド砲 24門
1ポンド砲 8門
15インチ魚雷発射管 艦首4門、艦尾2門
機雷:45個
装甲 クルップ鋼
舷側装甲帯:9 in (229 mm)-5 in (127 mm)、艦首尾端:2 in (51 mm)
砲塔:9 in (229 mm)-8 in (203 mm)
ケースメイト部:5 in (127 mm)
司令塔:10 in (254 mm)
出典の無い要目値は[2]による。
テンプレートを表示

レトヴィザン[3]レトウィザン[4][5]レトヴィザーン[6]ロシア語:Ретвизанリトヴィザーン)は、ロシア帝国海軍戦艦[7]日露戦争旅順攻囲戦で沈没[8][9]。 引揚げ後、修理されて日本海軍の戦艦「肥前」となった[5][10][11]。 艦名は旧国名の肥前国に由来する[7]

レトヴィザン

[編集]

本級の計画直前、大日本帝国海軍が相次いで12インチ砲戦艦をイギリスより購入していたことから、戦力的にロシア帝国海軍は対抗策を必要としていた。太平洋艦隊向けに建造した10インチ砲戦艦「ペレスヴェート級」では火力不足との判断から、1898年にロシア海軍初の12インチ砲を持ち、排水量は太平洋艦隊のドックに入れるサイズで抑えられ、戦闘排水量でスエズ運河を通行可能な排水量で設計された前弩級戦艦2隻が外国に発注された。1隻は、フランスのラ・セーヌ造船所に発注された「ツェサレーヴィチ」である。もう1隻が、アメリカクランプ造船所(William Cramp and Sons)に発注され、「レトヴィザン」と命名された本艦である[12]

艦名は1790年にロシアが捕獲したスウェーデンの62門艦「Rättvisa」にちなむ[13]。Rättvisaの意味は正義[13]

本艦は、日露戦争に参加したロシア戦艦中、唯一のアメリカ合衆国建造艦だった[12]

艦形

[編集]
本艦の武装配置と装甲配置を示した図。

本艦は、戦艦アイオワ (USS Iowa, Battleship No. 4) を基礎とし、ロシア式設計を加味した艦型となっている[12]。船体形状は平甲板型船体で太平洋艦隊のドックに入れるサイズで抑えられ、戦闘排水量でスエズ運河を通行可能な排水量で設計された。

水線下に衝角(ラム)を持つ垂直に切り立った艦首から艦首甲板上に円筒形の30.5cm連装主砲塔が1基、その背後に司令塔を組み込んだ艦橋からミリタリーマストが立つ。ミリタリーマストとはマストの上部あるいは中段に軽防御の見張り台を配置し、そこに37mm〜47mmクラスの機関砲(速射砲)を配置した物である。これは、当時は水雷艇による奇襲攻撃を迎撃するために遠くまで見張らせる高所に対水雷艇撃退用の速射砲あるいは機関砲を置いたのが始まりである。形状の違いはあれどこの時代の列強各国の大型艦に多く用いられた様式であった。

本艦のミリタリーマストは内部に階段を内蔵した円筒状となっており、頂部と中部に計2段の見張り台が設けられた。前部ミリタリー・マストの背後には等間隔に並んだ3本煙突が立ち、その周囲は艦載艇置き場となっており、船体中央部に片舷1基ずつ設けられたグース・ネック(鴨の首)型クレーン計2基により運用された。副砲の15cm速射砲は上部構造物の四隅に1基ずつと舷側中央部に4基ずつで片舷6基で計12基が配置された。船体後部には後部ミリタリー・マストが立ち、その後ろの後部甲板上に30.5cm連装主砲塔が後向きに1基配置された。水雷艇迎撃用の7.5cm速射砲は艦首に側面に1基ずつ、船体中央部に4基ずつ、艦尾側に2基ずつと煙突の側面に2基ずつと後部艦橋の側面に1基ずつの片舷10基で計20基を配置した。この配置により艦首尾線方向に最大30.5cm砲2門・15.2cm砲2門・7.5cm砲4門が指向でき、左右方向には最大30.5cm砲4門・15.2cm砲6門・7.5cm砲10門が指向でき強力な火力を誇っていた。

武装

[編集]

主砲

[編集]
旅順開城直後の前部主砲塔。破壊された形跡がある。

主砲は前級に引き続き「Pattern 1895 30.5cm(40口径)砲」を採用した。その性能は331.7kgの砲弾を、仰角15度で14,640mまで到達させ、射程5,490mで201mmの舷側装甲を貫通できた。この砲をロシア国産の新設計の連装砲塔に収め、砲弾は1基ごとに140発を弾薬庫に収めた。砲塔の俯仰能力は仰角15度・俯角5度である。旋回角度は単体首尾線方向を0度として左右135度の旋回角度を持つ、主砲身の俯仰・砲塔の旋回・砲弾の揚弾・装填は主に電力で行われ、補助に人力を必要とした。発射速度は毎分1発の設計であったが平時は3分に2発の発射が可能であった。

その他の備砲・水雷兵装

[編集]
本艦の副砲と同型の「アヴローラ」の15.2cm速射砲。

副砲には「Pattern 1892 15.2cm(45口径)速射砲」を採用した。その性能は41.4kgの砲弾を、仰角20度で11,520mまで届かせられ、射程5,490mで43mmの装甲を貫通できた。この砲の俯仰能力は仰角15度・俯角5度である。旋回角度は135度の旋回角度を持つ、主砲身の俯仰・砲塔の旋回・砲弾の揚弾・装填は主に人力を必要とした。発射速度は毎分3発の設計であった。第一次世界大戦当時の発射速度は、1分間で1発程度だったという[14]

本艦にも装備された「Pattern 1892 7.5cm(50口径)速射砲」。写真は巡洋艦「グロムボイ」のもの。

他に対水雷艇迎撃用にフランスのカネー社の7.5cm砲をライセンス生産した「Pattern 1892 7.5cm(50口径)速射砲」を採用した。その性能は4.9kgの砲弾を、仰角20度で7,869mまで届かせられた。この砲を単装砲架で船体舷側ケースメイト(砲郭)部に艦首4基・艦尾3基と、上部構造物の15cm速射砲の間に3基の片舷10基ずつ計20基を配置した。俯仰能力は仰角20度、俯角15度である。砲身の俯仰・砲塔の旋回・砲弾の揚弾・装填は主に人力を必要とした。発射速度は毎分12発であった。

他に近接戦闘用にフランスのカネー社からライセンス生産したオチキス社の4.7cm砲をライセンス生産した「Pattern 1873 4.7cm(43.5口径)速射砲」を採用した。その性能は1.5kgの砲弾を仰角10度で4,575mまで届かせられた。この砲を単装砲架でミリタリー・マスト1本あたり4基で前後で8基を、艦上構造物の前後に8基ずつの計24基を配置した。俯仰能力は仰角25度・俯角23度である。砲身の俯仰・砲塔の旋回・砲弾の揚弾・装填は主に人力を必要とした。発射速度は毎分50発であった。その他にマキシム 7.62mm機関銃を船橋に2丁搭載された。

対艦攻撃用に38.1cm水上魚雷発射管を単装で、艦首と艦尾に1門ずつと舷側部に片舷1基ずつで計4基。38.1cm水中魚雷発射管を単装で、主砲塔側面舷側部に片舷1基ずつで計2基装備した。予備魚雷は17本が艦内に搭載された。

艦歴

[編集]

「レトヴィザン」時代

[編集]

アメリカ合衆国フィラデルフィアウィリアム・クランプ・アンド・サンズ社で建造[15]。1898年4月14日/4月26日[16]発注[15]。同年12月ごろ建造開始[15]。1899年7月17日/7月29日起工[15]。1900年10月10日/10月23日進水[15]。1902年3月10日/3月23日にロシア海軍に引き渡された[17]。1902年3月12日/3月25日竣工[7][18]とも。

1902年4月30日/5月13日にアメリカを離れる[17]シェルブールを経由してクロンシュタットへ向かう途中の6月1日/6月14日、ボイラーの管が破裂する事故が発生[13]。6名がやけどを負い、うち2名は致命傷であった[17]。ロシア到着後、「レトヴィザン」には無線装置が取り付けられた[13]。7月24から26日/8月6から8日、レバルで艦観式に参加[13]

10月31日/11月13日に戦艦「ポベーダ」、巡洋艦「パルラーダ」、「ジアーナ」、「ボガトィーリ」とともにLibavaより極東へ向けて出発[13]。1903年4月21日/5月4日に「レトヴィザン」は「パルラーダ」ともに旅順に到着した[13](または4月22日/5月5日朝に旅順近くに碇泊[19])。

日露戦争

[編集]

1904年1月26日から27日/2月8日から9日の夜、日本の第一駆逐隊(白雲、朝潮、霞、暁)、第二駆逐隊(雷、電、朧)、第三駆逐隊(薄雲、東雲、漣)が旅順港外に停泊中のロシア艦隊を襲撃した[20]。この攻撃で「レトヴィザン」は左舷に魚雷1本を受けて左舷の水雷貯蔵庫に大破孔が生じ、乗員5名が死亡[21]。艦は11度傾斜したが、右舷側の弾薬庫に注水したことで傾斜は5度まで減少した[13]。この時の襲撃ではほかに戦艦「ツェサレーヴィチ」と巡洋艦「パルラーダ」が被雷している[22]。その後内港へ入ろうとした「レトヴィザン」は入り口で座礁し、2200トンの浸水が生じた[23]

2月11日/2月24日、日本軍が第一回旅順口閉塞作戦を実行[24]。この時、座礁したままであった「レトヴィザン」では終夜警戒態勢にあり、さらに哨戒の艦艇も配されていた[25]。日本側はまず前衛の第五駆逐隊(陽炎、叢雲、不知火、夕霧)が港口に接近し、「レトヴィザン」などを発見して雷撃を行い、「レトヴィザン」も日本の駆逐艦を砲撃した[26]。続いて閉塞船が突入[27]。「レトヴィザン」は港口に向かって来た「報国丸」と「仁川丸」を攻撃し、各種砲弾935発を発射したという[27]

「レトヴィザン」は2月24日/3月8日に離礁し、内港へ入れられた[28]

3月9日/3月22日、日本の戦艦「富士」、「八島」が老鉄山越しに旅順港内を砲撃する間接射撃を行い、それに対して「レトヴィザン」と戦艦「パベーダ」、「ペレスヴェート」が応射した[29]。ロシア側によれば、「レトヴィザン」の一弾は「富士」の艦首から4mのところに着弾したという[30]

5月21日/6月3日、「レトヴィザン」の修理は完了した[31]

6月10日/6月23日、「レトヴィザン」を含むロシア艦隊は出港したが、日本艦隊と遭遇すると引き返した[32]。この際、戦艦「セヴァストーポリ」が触雷している[33]

5月上旬[34]に地上の防衛強化のため艦隊から砲の一部を陸揚げすることが決まり、6月中旬[34]にかけて実行された[35]。「レトヴィザン」からは6インチ砲7門、75mm砲14門などが陸揚げされた[36]

7月14日/7月27日、「レトヴィザン」は巡洋艦「パルラーダ」、「バヤーン」、「アスコリド」とともに大河湾で日本軍陣地を砲撃した[37]。この砲撃で日本軍は死傷者1500名を出した[38]。日本側の装甲巡洋艦「日進」、「春日」からの砲撃を受けるとロシア側は退却したが、その際「レトヴィザン」は12インチ砲で応戦し「日進」が無電室に被弾している[38]

7月下旬/8月上旬、日本軍は旅順港内を砲撃可能な砲台を設置して砲撃を開始する[39]。7月27日/8月9日、「レトヴィザン」に4.7インチ砲弾7発が命中[40]。1名が死亡し、艦長シチェンスノーヴィチ大佐が軽傷を負った[41]。艦首への被弾では400トンの浸水が生じて艦は若干傾斜し、それを直すために注水が行われた[41]。翌日の出航時、艦内には水が残ったままであったところに加えて石炭を満載したことで吃水が約26m下がり速力は1ノット以上低下していた[42]

7月28日/8月10日、黄海海戦に本隊の2番艦として参加する。海鮮時、「レトヴィザン」は黄海海戦時点で6インチ砲2門、75mm砲2門、47mm砲2門、37mm砲6門を欠いていた[43]。ツェザレウィッチが離脱した際には援護のため日本側へ突進し大きな損害を受けた[18]

9月18日/10月1日、港内で11インチ砲弾1発を受ける[40]。11月22日/12月5日に203高地の左右の頂上が日本軍に占領されると、そこに観測所を設置した日本軍の砲撃で港内のロシア艦艇は撃沈されていく[44]。11月22日/12月6日、「レトヴィザン」に11インチ砲弾8発が命中[45]。翌日さらに11インチ砲弾14発と6インチ砲弾6発が命中し、左舷に傾いて沈没した[46]。浅い場所であったため、舷の半分まで水没した状態であった[46]

「肥前」時代

[編集]
肥前
「肥前 (元:レトヴィザン) 」。全マストを使用して干されているモザイク状の布は乗員の洗濯物。
「肥前 (元:レトヴィザン) 」。全マストを使用して干されているモザイク状の布は乗員の洗濯物。
基本情報
運用者  大日本帝国海軍
艦種 戦艦[1]
母港 1920年時:佐世保[1]
艦歴
除籍 1923年9月20日
その後 1924年7月25日撃沈処分
要目(1920年調[1]
常備排水量 12,700ロングトン (12,904 t)
垂線間長 371 ft 10+12 in (113.348 m)
最大幅 72 ft 2+12 in (22.009 m)
吃水 24 ft 3+116 in (7.393 m)
ボイラー ニクロース式 24基
主機 直立3気筒3段レシプロ
推進 2軸
出力 16,000馬力 (11,931 kW)
速力 18ノット (33 km/h)
燃料 石炭:2,000トン
乗員 796名[47]
1920年調:696名
兵装 露式(改)30cm砲 4門
露式15cm砲 12門
四一式8cm砲 14門(4門子砲兼用)
麻式6.5mm機砲 3挺
水中発射管 2門
探照灯 6基
搭載艇 11隻
テンプレートを表示

1905年(明治38年)1月1日、旅順要塞の降伏にともない、日本海軍に鹵獲された[7]5月25日、日本海軍は本艦の浮揚作業を開始する[48][49][50]。 9月22日、浮揚成功[12][51]。9月24日[12]、日本海軍に編入され「肥前」と命名される[52][7]佐世保鎮守府[53]。なお、明治天皇に奏聞した候補艦名に「土佐」があった[54]

10月25日、捕獲艦2隻(肥前《旧レトヴィザン》、周防《旧ポピエダ》)は一等戦艦に類別された[55][56]。 11月19日、3隻(肥前、鎮遠、子日)は旅順港を出発する[48][57]。11月27日、佐世保に到着し、肥前は修理に着手した[48][57]

12月12日、日本海軍は艦艇類別等級表を改定した[58]。戦艦の等級廃止にともない[53]、日本海軍保有の9隻(富士敷島朝日三笠石見相模丹後肥前周防)が『戦艦』に類別される[59][60]。本艦は戦艦「肥前」となった[61]1908年(明治41年)11月、佐世保工廠における修理が完了した[62][12]


なお、レトヴィザンが日本陸軍の28cm榴弾砲の曲射砲撃を受け、旅順港内に着底した際に受けた破口は応急処置により埋められたものの、内地に回航してから船体の本格修理を行う際に数々の改良が加えられた。捕獲ロシア戦艦(石見、肥前、丹後、周防、相模、壱岐、見島)の中で、アメリカ製造の本艦は性能もよく、機関部の電化等技術的にも参考になる点が多かったという[63]。ただし肥前修理中の1906年(明治39年)12月、イギリス海軍のドレッドノート弩級戦艦)が竣工したため、本艦は二線級戦力となっている[64]

外観上の特徴としては前後のミリタリー・マストを簡素な単脚式のマストへと改造し、吸排気2重構造の3本煙突をイギリス式の簡素な物へと3本とも交換されるなど軽量化された。主砲は、砲架のみロシア時代のものを使用し、砲身は安式(アームストロング)12インチ砲に換装されたという[65]。副砲はロシア艦時代のままとして、艦上構造物の簡素化に伴い兵装の多くをイギリス式に換装された。7.5cm速射砲は「アームストロング 7.6cm(40口径)砲」14基、4.7cm機砲は山内式4.7cm速射砲4基へと更新され、搭載数の減少に伴って開口部は閉鎖された。魚雷兵装も38.1cm水上魚雷発射管は全撤去され、水中魚雷発射管は38.1cmから45.7cmへと大口径化されて単装2門を装備した。

第一次世界大戦

[編集]

第一次世界大戦では1914年(大正3年)10月8日に横須賀を出撃した[10]森山慶三郎中将指揮下の練習艦隊(出雲浅間)がドイツ東洋艦隊との交戦を避けるためカナダのバンクーバーに退避しており、肥前は練習艦隊への合同を命じられていた[66]。なお、当時の肥前(艦長川浪安勝大佐)には、福留繁(後日、連合艦隊参謀長)が海軍少尉として勤務していた[67]

肥前は10月中旬にハワイ到着、ここでドイツ砲艦ガイエルと遭遇した[66]。約三週間ガイエルを監視し、同艦の武装解除を見届けた[68]。つづいてアメリカ西海岸に進出し、森山艦隊と合流した[14][68]メキシコ西岸などで活動した[7][10]。ガラパゴス島から日本に帰還途中で主ボイラーが破裂する。1915年(大正4年)2月14日、肥前は横須賀に帰投した[10]。福留少尉は間もなく戦艦鹿島乗組を命ぜられ、肥前を退艦した[68][69]

ロシア内戦

[編集]

大正3年7月28日〜大正9年10月15日の間はシベリア出兵の護衛と沿海州の警備に当たった[7]。 1920年4月4日夜から5日にかけ、機関銃の銃声をきっかけとして日本軍はシベリア鉄道沿線のパルチザンを武装解除[70]。その際、「肥前」はウラジオストク港内でロシア艦船を武装解除した[71]

1921年(大正10年)9月1日、日露戦争時の主力艦艇は海防艦に類別され、肥前も一等海防艦となる[72][73]

廃艦

[編集]

1923年(大正12年)9月20日ワシントン軍縮条約によって廃艦が決定され、除籍[74][7]。艦艇類別等級表からも削除[75][76]。各艦(肥前、石見土佐安芸薩摩)は標的艦として処分されることになった[77]

1924年(大正13年)7月17日、肥前は特務艦摂津に曳航され、佐伯湾に到着した[78]7月25日[79]、佐伯湾に日本海軍の主力艦艇(長門陸奥山城金剛比叡五十鈴多摩夕張天龍由良名取長良川内北上等)が集結した[80]。 肥前は豊後水道連合艦隊(長門、陸奥、金剛、比叡、第一駆逐艦《神風》野風波風沼風)による射撃訓練の標的艦として沈められた[81][82]

艦長

[編集]

※『日本海軍史』第9巻・第10巻の「将官履歴」及び『官報』に基づく。

日本海軍
  • 釜屋忠道 大佐:1908年7月31日 - 12月10日
  • 築山清智 大佐:1908年12月10日 - 1909年2月14日
  • 久保田彦七 大佐:1909年2月14日 - 5月22日
  • 石田一郎 大佐:1909年5月22日 - 1910年4月9日
  • 久保田彦七 大佐:1910年4月9日 - 12月1日
  • 依田光二 大佐:1910年12月1日 - 1911年12月1日
  • (兼)田所広海 大佐:1911年12月1日 - 1912年4月1日
  • 川浪安勝 大佐:1913年3月7日 - 1915年4月1日[83]
  • 中島資朋 大佐:1915年5月20日 - 1916年12月1日
  • 勝木源次郎 大佐:1916年12月1日 - 1917年12月1日
  • 生野太郎八 大佐:1917年12月1日[84] - 1918年11月10日[85]
  • 匝瑳胤次 大佐:1918年11月10日 - 1920年11月20日
  • 小泉親治 大佐:1920年11月20日 - 1922年12月1日
  • 広沢恒 大佐:1922年12月1日[86] - 1923年4月1日[87]
  • 安部隆吉 大佐:1923年4月1日[87] -

脚注

[編集]
  1. ^ a b c d #戦史叢書31海軍軍戦備1付表第一その一「大正九年三月調艦艇要目等一覧表 その一 軍艦」
  2. ^ a b c d e Conway1860-1905 1979, pp. 183.
  3. ^ 世界歴史大系 ロシア史2』山川出版社1997年による表記。
  4. ^ 決定版、日本の戦艦 2010, pp. 109a-110「肥前」(レトウィザン)
  5. ^ a b #福井世界戦艦307頁『(5)レトウィザン(Retvisanのちの肥前)』
  6. ^ 稲子恒夫編著『ロシアの20世紀』東洋書店2007年による表記。
  7. ^ a b c d e f g h #幕末以降帝国軍艦写真と史実コマ72(原本110頁)『肥前(ひぜん) 艦種一等戰艦 二檣(戰闘檣あり) 艦名考國名なり、肥前國に採る。艦歴米國費府造船所に於て建造、明治33年進水、舊露國軍艦、原名「レトヴザン」。日露戰役中露國太平洋艦隊に属し明治37年8月10日黄海々戰に参加、後ち旅順港内に於て破壊沈没、同38年1月1日(旅順の露軍降伏開城の日)我が海軍之が収容引揚に着手、同年9月24日帝國軍艦と定め「肥前」と命名、同年12月戰艦の等級を廢せらる。大正3乃至9年戰役(日獨)從軍:同3年10月遣米支隊に属し布哇・北米・中米方面の警備(艦長大佐川浪安勝)、同7年7月第三艦隊に属し露領沿岸警備(艦長大佐生野太郎八)、同8年9月同前の任務に就く(艦長大佐匝瑳胤次)、同10年一等海防艦に編入、同12年9月20日除籍、廢棄(華府條約による)。
    ―要目― 長372呎/幅72呎/吃水24.9呎/排水量12,700噸/機關 三汽筩聯成汽機2基、ニクローズ式/馬力16,000/速力18/乗組人員750/船材 鋼(甲帶225粍)/兵装 12吋砲 4/6吋砲 12/12听砲 14/5听砲 4/機砲 4/發射管 2/起工 明治31-12/進水 同33-10-23/竣工 同35-3-25/建造所 米國費府』
  8. ^ #海軍制度沿革(巻8、1940)コマ25『戰利艦船處分一覽表|同(軍艦)肥前|レトヴヰザン|戰艦|排水量一二,七〇〇|三十八年九月二十二日|海軍ニテ使用|四,二〇〇,〇〇〇|}旅順ニ沈没ノモノ』
  9. ^ #阿蘇周防津軽丹後肥前相模pp.3-4『壹等戰艦肥前(「レトウヰザン」)』
  10. ^ a b c d #帝国軍艦帖コマ38-39『戰艦肥前(舊名レトウヰザン) 一、進水年月日 明治三十三年(月日不明)/一、排水量 一萬二千七百二十五噸/一、馬力 一萬六千馬力/一、速力 十九節七/一、主砲 四十口經露式十二吋砲四門、六吋砲十二門/一、建造地及建造所 米國費府クラムブ造船所/一、日清戰爭に参加したる際重要なる事項 /一、日露戰爭に参加したる際需要なる事項 露國太平洋第一艦隊に属し、旅順口にありて皇國海軍に對抗すること数月、終に明治三十七年十二月六日旅順西港内に於て我軍の爲め撃沈せられ、三十八年九月二十二日浮揚同二十四日肥前と命名せられ、帝國軍艦に列せらる/一、日獨戰爭に参加したる際重要なる事項 大正三年十月八日艦長川浪海軍大佐式下に横須賀軍港出發布哇「ホノルヽ」沖に至り獨砲艦「ガイヱル」を監視し同十一月八日之が武装解除を行はしめ爾後森田遣米枝對司令官の指揮下に入り南北米西海岸に遊弋索敵行動を取り四年二月十四日横須賀軍港に凱旋す/一、其他特に重要なる事項 明治四十四年艦長依田海軍大佐指揮下に第一艦隊に属し海軍戰技に於て第一等の集合成蹟を擧げ戰技優勝旗を授けられ御下賜品(銀盛花鉢一個)を辱ふす 以上』
  11. ^ 小野圭司. “明治末期の軍事支出と財政・金融-戦時・戦後財政と転位効果の考察-”. 防衛研究所. 2023年6月11日閲覧。
  12. ^ a b c d e f 決定版、日本の戦艦 2010, p. 109b.
  13. ^ a b c d e f g h Stephen McLaughlin, "The Retvizan", p. 61
  14. ^ a b 福留繁 1971, p. 73.
  15. ^ a b c d e Stephen McLaughlin, Russian & Soviet Battleships, p. 122
  16. ^ ユリウス暦/グレゴリオ暦
  17. ^ a b c Stephen McLaughlin, Russian & Soviet Battleships, p. 127
  18. ^ a b #肥前引揚回航pp.1-5『第一節 損害程度及ヒ沈没原因』
  19. ^ Aleksiey V. Skvorcov, Cruisers of the 1st Rank: Avrora Diana Pallada, pp. 94, 96
  20. ^ 真鍋重忠『日露旅順海戦史』7、18-21ページ
  21. ^ 真鍋重忠『日露旅順海戦史』21ページ。Stephen McLaughlin, "The Retvizan", p. 61
  22. ^ 真鍋重忠『日露旅順海戦史』21-22ページ
  23. ^ 真鍋重忠『日露旅順海戦史』21-22ページ。Stephen McLaughlin, "The Retvizan", p. 63
  24. ^ 真鍋重忠『日露旅順海戦史』38-42ページ
  25. ^ 真鍋重忠『日露旅順海戦史』38ページ
  26. ^ 真鍋重忠『日露旅順海戦史』37、39ページ
  27. ^ a b 真鍋重忠『日露旅順海戦史』40-41ページ
  28. ^ デニス・ウォーナー、ペギー・ウォーナー『日露戦争全史』255ページ。Stephen McLaughlin, Russian & Soviet Battleships, p. 128
  29. ^ 真鍋重忠『日露旅順海戦史』61-62ページ
  30. ^ 真鍋重忠『日露旅順海戦史』62ページ
  31. ^ Stephen McLaughlin, Russian & Soviet Battleships, p. 128
  32. ^ 真鍋重忠『日露旅順海戦史』123-125、127-129ページ
  33. ^ 真鍋重忠『日露旅順海戦史』130ページ
  34. ^ a b ここはグレゴリオ暦
  35. ^ 真鍋重忠『日露旅順海戦史』102-104ページ
  36. ^ 真鍋重忠『日露旅順海戦史』104ページ
  37. ^ 真鍋重忠『日露旅順海戦史』139-140ページ
  38. ^ a b 真鍋重忠『日露旅順海戦史』140ページ
  39. ^ 真鍋重忠『日露旅順海戦史』236-237ページ
  40. ^ a b Stephen McLaughlin, "The Retvizan", p. 63
  41. ^ a b 真鍋重忠『日露旅順海戦史』238ページ
  42. ^ 真鍋重忠『日露旅順海戦史』238ページ。Stephen McLaughlin, "The Retvizan", p. 63
  43. ^ Stephen McLaughlin, Russian & Soviet Battleships, p. 163
  44. ^ 真鍋重忠『日露旅順海戦史』247、250ページ
  45. ^ 真鍋重忠『日露旅順海戦史』250ページ
  46. ^ a b 真鍋重忠『日露旅順海戦史』251ページ
  47. ^ 決定版、日本の戦艦 2010, p. 111●「肥前」主要目
  48. ^ a b c #収容艦船概要p.2『三、戰艦「レトウ井ザン」(排水量一二,七〇〇噸、三十八年五月二十五日引揚箸手、同年九月二十二日浮揚、同年二十四日肥前ト命名セラル同年十一月十九日旅順口發、同二十七日佐世保箸、囘航委員長ハ海軍大佐西山保吉、護衛艦鎭遠驅逐艦子日)』
  49. ^ #肥前引揚回航pp.5-8『第二節 引揚作業』
  50. ^ #日露戦役海軍写真集(4)コマ32『旅順沈没戰艦レトウイザン(肥前)の引揚』
  51. ^ 明治38年9月25日官報第6673号。国立国会図書館デジタルコレクション コマ5『○戰利艦ノ浮揚 旅順口内戰利艦ノ浮揚ニ關シ本月二十二日接手シタル旅順口鎭守府司令長官柴山矢八ノ報告左ノ如シ(海軍省)戰艦「レトウヰザン」(排水量一万二千九百二噸、速力十八節)ハ本日(二十二日)午後六時無滞浮揚セリ』
  52. ^ #達明治38年9月p.13『達第百三十七號 戰利軍艦「レトヴザン」ヲ肥前ト命名セラル 明治三十八年九月二十四日 海軍大臣男爵山本権兵衛』
  53. ^ a b #肥前引揚回航pp.12-14『第五節 令達』
  54. ^ 明治38年8月10日付 海軍大臣官房発行 官房第3040号。アジア歴史資料センター レファレンスコード C06091630000 で閲覧可能。
  55. ^ #海軍制度沿革(巻8、1940)コマ53『明治三十八年十月二十五日(達一六八)軍艦及水雷艇類別等級表戰艦ノ欄一等ノ下「丹後」ノ次ニ「肥前、周防」ヲ加フ』
  56. ^ #達明治38年10月p.9『達第百五十八號 軍艦及水雷艇類別等級別表中戰艦ノ欄一等ノ下「丹後」ノ次ニ「肥前、周防」ヲ加フ 明治三十八年十月二十五日 海軍大臣男爵山本権兵衛』
  57. ^ a b #肥前引揚回航pp.11-12『第四節 内地囘航』
  58. ^ #達明治38年12月pp.6-7『達第百八十一號 艦艇類別標準別表ノ通改メラル 明治三十八年十二月十二日 海軍大臣男爵 山本権兵衛』
  59. ^ #海軍制度沿革(巻8、1940)コマ53-54『◎艦艇類別等級 明治三十八年十二月十二日(達一八二)』
  60. ^ #達明治38年12月pp.8-9『達第百八十二號 艦艇類別等級別表ノ通定ム 明治三十八年十二月十二日 海軍大臣男爵 山本権兵衛(別表)|軍艦|戰艦| |富士、敷島、朝日、三笠、石見、相模、丹後、肥前、周防、』
  61. ^ #帝国最新軍艦帖、大正1年コマ38『戰艦 肥前 Battle ship "Hizen."』
  62. ^ #福井戦艦物語壱110頁『◇肥前―レトウィザン』
  63. ^ #福井戦艦物語弐40-41頁『日露戦争の戦利戦艦』
  64. ^ 決定版、日本の戦艦 2010, pp. 108–112日露戦争の鹵獲戦艦
  65. ^ 石橋、大口径艦載砲 2018, p. 125.
  66. ^ a b 福留繁 1971, p. 70.
  67. ^ 福留繁 1971, p. 69.
  68. ^ a b c 福留繁 1971, p. 76.
  69. ^ 福留繁 1971, p. 346福留繁年譜より。
  70. ^ 麻田雅文『シベリア出兵』139ページ
  71. ^ 麻田雅文『シベリア出兵』139-140ページ
  72. ^ #海軍制度沿革(巻8、1940)コマ59『大正十年九月一日(達一六四)艦艇類別等級別表中左ノ通改正ス』
  73. ^ #達大正10年9月p.1『達第百六十四號 艦艇類別等級別表中左ノ通改正ス 大正十年九月一日 海軍大臣男爵 友三郎|戰艦ノ欄内「敷島、朝日、三笠、肥前、」ヲ、巡洋艦一等ノ欄内「淺間、常磐、八雲、吾妻、磐手、出雲、春日、日進」ヲ、同二等ノ欄内「千歳、須磨、明石、新高、對馬、」ヲ削ル|海防艦一等ノ欄内「周防」ノ次ニ「、敷島、朝日、三笠、肥前、淺間、常磐、八雲、吾妻、磐手、出雲、春日、日進」ヲ、同二等ノ欄内「武藏」ノ次ニ「、千歳、須磨、明石、新高、對馬」ヲ加フ』
  74. ^ #達大正12年9月p.2『達第百九十五號 軍艦 香取/同 鹿島/同 薩摩/同 安藝/同 生駒/同 鞍馬/同 伊吹/同 三笠/同 肥前 右帝國軍艦籍ヨリ除カル 大正十二年九月二十日 海軍大臣 財部彪』
  75. ^ #海軍制度沿革(巻8、1940)p.60『◎大正十二年九月二十日(達一九六)艦艇類別等級別表中戰艦ノ欄内「香取、鹿島、薩摩、安藝」、巡洋戰艦ノ欄内「生駒、鞍馬、伊吹」及海防艦ノ欄内「三笠、肥前」ヲ削除ス』
  76. ^ #達大正12年9月p.2『達第百九十六號 艦艇類別等級別表中戰艦ノ欄内「香取、鹿島、薩摩、安藝」、巡洋戰艦ノ欄内「生駒、鞍馬、伊吹」及海防艦ノ欄内「三笠、肥前」ヲ削除ス 大正十二年九月二十日 海軍大臣 財部彪』
  77. ^ #廃棄艦処分答弁p.5『肥前 七月下旬 砲煌及魚雷ニ関スル実驗』
  78. ^ #T1307艦船行動(2)p.4『七月十七日|攝津|佐伯|肥前曳航正午着』
  79. ^ #航泊日誌(呉竹)T1306(2)p.7『大正十三年七月二十五日 金曜日(略)11-40|登舷礼式施行(肥前ニ対シ)』
  80. ^ 大正13年7月25日(金)海軍公報第3521号 p.37」 アジア歴史資料センター Ref.C12070292400 『○艦船所在○七月二十五日午前十時調【佐伯】(長官)長門、陸奥、山城、(旗艦)五十鈴、多摩、夕張、(旗艦)天龍、(旗艦)迅鯨、常磐、(長官)金剛、比叡、(旗艦)由良、名取、長良、川内、(旗艦)北上、(旗艦)平戸、韓崎、若宮、勝力
    (司令)驅一六、驅一〇、驅一二、驅一八、(司令)蔦、萩、藤、薄、(司令)谷風、江風、葵、菊、(司令)驅六、驅二、驅四、(司令)驅一、野風、沼風、波風、(司令)驅三、驅五、驅七、澤風、沖風、(司令)太刀風、帆風、羽風、秋風
    (司令)潜四七、潜五七、潜四六、(司令)潜三〇、潜二九、潜二八、(司令)潜六二、(司令)潜五九、潜七二、潜四四
    (司令)掃一、掃二、掃三 攝津』
  81. ^ 大正13年6月26日(木)海軍公報(部内限)号外 p.33」 アジア歴史資料センター Ref.C12070294700 『二五|長門、陸奥|第六回教練射撃、肥前ヲ標的トスル星彈研究射撃發射(金剛、比叡、第一驅逐隊)|豊後水道附近(佐伯)』
  82. ^ 大正13年7月7日(月)海軍公報(部内限)1119号 p.5」 アジア歴史資料センター Ref.C12070294800 『○訂正 六月二十六日公報(部内限)號外 聯合艦隊戰技施行豫定期日一覽表中七月二十五日ノ部ヲ|二五|長門、陸奥第六回教練射撃 肥前ヲ目標トスル星彈研究射撃發射(金剛、比叡、第一驅逐隊)|ニ、同二十八日ノ部中「第五一驅逐隊」ヲ「第二一驅逐隊」ニ、同三十一日ノ部チュ「第四二驅逐隊」ヲ「第四五驅逐隊」ニ、八月三日ノ部中「名取、長良」ヲ「由良、名取」ニ、同四日ノ部中「由良、平戸」ヲ「長良、川内、平戸」ニ孰モ訂正』
  83. ^ 海軍辞令公報 大正4年4月」 アジア歴史資料センター Ref.C13072071100 
  84. ^ 『官報』第1601号、大正6年12月3日。
  85. ^ 『官報』第1883号、大正7年11月12日。
  86. ^ 『官報』第3102号、大正11年12月2日。
  87. ^ a b 『官報』第3199号、大正12年4月2日。

参考文献

[編集]
  • 麻田雅文『シベリア出兵 近代日本の忘れられた七年戦争』中央公論新社、2016年、ISBN 978-4-12-102393-3
  • 石橋孝夫「第5章 国産砲時代の幕開け」『日本海軍の大口径艦載砲 戦艦「大和」四六センチ砲にいたる帝国海軍軍艦艦砲史』潮書房光人社〈光人社NF文庫〉、2018年8月。ISBN 978-4-7698-3081-8 
  • 海軍歴史保存会『日本海軍史』第7巻、第9巻、第10巻、第一法規出版、1995年。
  • 「世界の艦船増刊第38集 フランス戦艦史」(海人社)
  • 「世界の艦船増刊第35集 ロシア/ソビエト戦艦史」(海人社)
  • デニス・ウォーナー、ペギー・ウォーナー、妹尾作太男(訳)、三谷庸雄(訳)『日露戦争全史』時事通信社、1978年
  • 真鍋重忠『日露旅順海戦史』吉川弘文館、1985年、ISBN 4-642-07251-9
  • 福井静夫 著、阿部安雄、戸高一成 編『福井静夫著作集 ― 軍艦七十五年回想第一巻 日本戦艦物語〔Ⅰ〕』光人社、1992年5月。ISBN 4-7698-0607-8 
  • 福井静夫 著、阿部安雄、戸高一成 編『福井静夫著作集 ― 軍艦七十五年回想第二巻 日本戦艦物語〔Ⅱ〕』光人社、1992年8月。ISBN 4-7698-0608-6 
  • 福井静夫 著、阿部安雄、戸高一成 編『福井静夫著作集 ― 軍艦七十五年回想第六巻 世界戦艦物語』光人社、1993年8月。ISBN 4-7698-0654-X 
  • 福留繁『海軍生活四十年』時事通信社、1971年5月。 
  • 防衛庁防衛研修所戦史室『海軍軍戦備<1> 昭和十六年十一月まで』 戦史叢書第31巻、朝雲新聞社、1969年。 
  • 歴史群像編集部編「第10章 捕獲艦と賠償艦」『決定版日本の戦艦 日本海軍全戦艦ガイダンス』学習研究社〈歴史群像シリーズ 太平洋戦史スペシャル Vol.5〉、2010年10月。ISBN 978-4-05-606094-2 
  • Rober Gardiner, Roger Chesneau, Eugene Kolesnik ed. (1979). Conway's All The World's Fighting Ships 1860-1905 (first American ed.). Mayflower Books. ISBN 0-8317-0302-4 
  • Stephen McLaughlin, Russian & Soviet Battleships, Naval Institute Press, 2003, ISBN 1-55750-481-4
  • 「Jane's Fighting Ships Of World War I」(Jane)
  • McLaughlin, Stephen (2000). Preston, Anthony. ed. The Retvizan, an American Battleship for the Tsar. Warship. 2000–2001. London: Conway Maritime Press. pp. 48–66. ISBN 0-85177-791-0 
  • Aleksiey V. Skvorcov, Cruisers of the 1st Rank: Avrora Diana Pallada, Stratus, 2015, ISBN 978-83-63678-56-2
  • 官報
  • アジア歴史資料センター(公式)(防衛省防衛研究所)
    • 『日露役旅順附近海戦一覧表(明治37年)』。Ref.C14120009300。 
    • 『日露役(旅順附近黄海海戦)に於ける沈没艦船並戦死者一覧表(昭和10年6月7日旅順要港部港務部調製)』。Ref.C14120009400。 
    • 『日露役旅順陥落迄の両国艦船勢力並亡失表(明治37年)』。Ref.C14120009500。 
    • 『露国海軍太平洋第1、第2、艦隊艦船名』。Ref.C09050753800。 
    • 『第3号 旅順口港内沈没戦利軍艦破損箇所詳細図(明治38年10月19日旅順口海軍工作廠より海軍軍令部に送付せるものなり)/阿蘇、津軽、周防、肥前、丹後、相模』。Ref.C05110198300。 
    • 『第9号 明治39年2月17日旅順口海軍工作廠に於て調整したる3番艦「レトウヰザン」浮揚報告付図』。Ref.C05110198300。 
    • 『第100号 「レトウヰザン」破損箇所詳細図(弾痕図59枚)』。Ref.C05110198400。 
    • 『第3編 戦利艦船の収容引揚及ひ回航/第1章 収容艦船の概要』。Ref.C05110196200。 
    • 『第3編 戦利艦船の収容引揚及ひ回航/第6章 肥前(元「レトウイザン」)の引揚及ひ回航』。Ref.C05110196700。 
    • 『備考文書』。Ref.C05110196900。 
    • 『明治38年 公文備考 巻10艦船1/進水、命名、艦船籍、類別、等級』。Ref.C06091630000。 
    • 『海戦史第6部巻之13(下)戦利艦(2)』。Ref.C09050733500。 
    • 『廃棄艦処分に関する件質問答弁』。Ref.C08051101000。 
    • 『第2280号 大正13年7月16日 武官対肥前射撃見学希望の件』。Ref.C11080398600。 
    • 『艦船行動簿大正13年7月分(1)』。Ref.C10100094500。 
    • 『艦船行動簿大正13年7月分(2)』。Ref.C10100094600。 
    • 『駆逐艦 4号駆逐艦(呉竹)大正13年6月~8月(2)』。Ref.C11082812000。 
    • 『明治38年 達 完/9月』。Ref.C12070053300。 
    • 『明治38年 達 完/10月』。Ref.C12070053400。 
    • 『明治38年 達 完/12月』。Ref.C12070053600。 
    • 『大正元年 達 完/8月』。Ref.C12070064400。 
    • 『大正10年達完/9月』。Ref.C12070079200。 
    • 『大正12年 達完/9月』。Ref.C12070082500。 

関連項目

[編集]