満州 (通報艦)
満州 | |
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基本情報 | |
艦種 | 通報艦[2] → (二等[3])海防艦[4] |
母港 | 横須賀[5][6] |
艦歴 | |
進水 | 1901年4月 |
就役 | 1906年3月8日日本海軍籍に編入[7] |
除籍 | 1932年4月1日[8] |
その後 | 1933年9月15日撃沈処分[8] |
改名 | マンチュリア → 満州丸[5] → 満州[7] |
要目(1920年[6]) | |
排水量 | 1912年:3,916.48英トン[9] |
基準排水量 | 公表値:3,510英トン[10] |
常備排水量 | 3,916英トン |
トン数 | 1912年:3,334.67総トン[9] |
全長 | 354 ft 0 in (107.899 m)[6][9] |
垂線間長 | 341 ft 0 in (103.937 m) |
最大幅 | 43 ft 3 in (13.183 m)[9] |
吃水 | 16 ft 0 in (4.877 m)[6][9] |
ボイラー |
1920年:円缶 5基 1928年:宮原缶 7基[10] |
主機 | 直立3気筒3段膨張レシプロ |
推進 | 2軸 |
出力 | 5,000馬力 |
速力 | 客船時:17.6ノット[8] |
燃料 | 石炭庫容積:1,218トン |
乗員 |
1906年定員:183名[11] 1919年定員:192名[12] 1928年公表値:196名[10][注釈 1] |
兵装 |
安式8cm砲 2門 保式5cm砲 2門 探照灯 1基 |
搭載艇 |
1920年:7隻 1928年:6隻[10] |
満州(まんしゅう[8]、旧仮名:まんしう)は、日本海軍の通報艦[13]。 艦名は現在の中国東北部の歴史的地名の満洲を由来とする[13][8]。 当時の地名では漢字の「洲」を用いたが、艦名は「州」を使用した[8]。
艦歴
[編集]1901年(明治34年)オーストリア帝国領トリエステのスタビリメント・テクニコ社サン・マルコ工場で建造された[14] 高速客船で旧ロシア帝国汽船「マニジューリヤ」(ロシア語: Маньчжурия、「満洲」のロシア語形、 日本側呼称は英語Manchuria[14]の日本語読み「マンチュリア」[15])。 ロシア東清鉄道の所有で主に大連、青島、上海市間を就航していた[8]。 1904年(明治37年)の日露戦争開戦当時、長崎で修理中だった[8]。開戦時に長崎にいたロシア船舶は国際慣習により解放する予定だったが[16]、放置されていたため滞在期限切れになると[要出典]「葛城」に接収され[8]、 船名は旧名をそのまま和訳した[13]「満州丸」と命名[5]、 運用は大阪商船に委託され佐世保と前線間の連絡船として用いられた[8]。捕獲検定確定後には武装が施されて仮装巡洋艦となり[17]、日本海海戦において哨戒や掃討を担当している。 1906年(明治39年)に通報艦として日本海軍籍に入り、「満州」と改めて命名される[7][2]。
主に中国方面の警備や測量などに従事したが、客船時代の豪華な設備はそのままに残されており、観艦式の供奉艦や、来賓や軍幹部、各国駐在武官などを搭乗させる特別任務によく用いられた[8]。 第一次世界大戦ではシンガポール方面への輸送任務の他に南洋諸島、青島方面の測量任務に就き、関東大震災の際は救助活動や相模湾の再測量を行っている[8]。
1925年(大正14年)10月3日、マリアナ海溝で水深9814.6mの錘測に成功し、この付近の海底が世界で最も深いことを突きとめた [18]。
1932年(昭和7年)に除籍され、翌年に標的として撃沈処分された[8]。
年表
[編集]- 1901年(明治34年)4月進水。ロシア客船「マニジューリヤ」。
- 1904年(明治37年)2月17日日露戦争開戦により「葛城」が長崎で捕獲[8]、4月7日「満州丸」と仮命名、部内限りで使用する[15]。
- 1905年(明治38年)2月14日、「満州丸」と命名[5]。
- 1906年(明治39年)3月8日艦籍に編入し「満州」と命名[7]、通報艦に類別[2]。「満州丸」は第二艦隊から除かれ、改めて「満州」として第二艦隊に編入された[23]。
- 7月4日、満州は第二艦隊から除かれた[24]。
- 1912年(明治45年)1月9日第三艦隊に編入[25]、4月9日第三艦隊から除かれた[26]。
- 1917年(大正6年)から1918年(大正7年) 第一次世界大戦によりシンガポール方面で輸送任務。
- 1931年(昭和6年)6月1日海防艦の等級が廃止され、海防艦となる[4][8]。
- 1932年(昭和7年)4月1日除籍[8]、艦艇類別等級別表の海防艦の欄から削除[27]。
- 1933年(昭和8年)9月15日館山沖で魚雷の標的として撃沈処分[8]。
艦長
[編集]※脚注なき限り『日本海軍史』第9巻・第10巻の「将官履歴」及び『官報』に基づく。階級は就任時のもの。
- 西山保吉 中佐:1905年3月15日 - 6月14日
- 矢代由徳 大佐:不詳 - 1907年5月17日
- 大沢喜七郎 中佐:1907年5月17日 - 1908年2月20日
- 秀島七三郎 大佐:1908年2月20日 - 12月10日
- 松岡修蔵 中佐:1908年12月10日 - 1909年3月4日
- (兼)中島市太郎 大佐:1909年3月4日 - 7月30日
- 小黒秀夫 中佐:1909年7月30日 - 10月11日
- 川浪安勝 中佐:1909年10月11日 - 1911年4月1日
- 向井弥一 大佐:1911年5月23日 - 12月1日
- 奥田貞吉 大佐:1911年12月1日 - 1912年8月13日
- 堀輝房 大佐:1912年8月13日 - 12月1日
- 平田得三郎 大佐:1912年12月1日 - 1913年2月19日
- 三輪修三 大佐:1913年4月1日 - 5月24日
- 石川長恒 中佐:1913年5月24日 -
- 島内桓太 大佐:1914年12月1日 - 1915年2月1日
- 糸川成太郎 中佐:1915年2月1日[28] - 1916年5月23日
- 新納司 大佐:1916年5月23日 - 12月1日
- 関田駒吉 大佐:1916年12月1日 - 1917年12月1日
- 井手元治 大佐:1917年12月1日 - 1918年11月10日
- 江口金馬 中佐:1918年11月10日 - 1919年11月3日
- 坂元貞二 中佐:1919年11月3日 - 1920年1月30日
- 松坂茂 大佐:1920年2月13日[29] - 8月12日[30]
- 三村俊夫 中佐:1920年8月12日[30] - 1921年11月20日[31]
- (心得)辻友輔 中佐:1921年11月20日[31] - 不詳
- 辻友輔 大佐:不詳 - 1922年12月1日[32]
- 大谷四郎 中佐:1922年12月1日 - 1923年12月1日
- 広瀬豊 大佐:1923年12月1日[33] - 1924年10月25日[34]
- 重松良一 中佐:1924年10月25日[34] - 1926年12月1日[35]
- 佐藤英夫 大佐:1926年12月1日[35] - 1928年3月15日[36]
- 竹原九一郎 中佐:1928年3月15日[36] - 12月10日
- 神田嘉穂 大佐:1928年12月10日[37] - 1929年9月30日[38]
- 難波常三郎 大佐:1929年9月30日[38] - 1930年12月16日
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ #戦史叢書31海軍軍戦備1付表1-1「大正九年調艦艇要目一覧表 その一 軍艦」によると乗員169名だが、当時の定員は192名(#海軍制度沿革10-2(1972)p.639、大正9年8月1日内令第367号、二等海防艦定員表其三。士官13人、特務士官2人、准士官6人、下士34人、卒135人。)で196名に近い。
出典
[編集]- ^ #日本海軍全艦艇史(1994)p.487、写真No.1222の解説。
- ^ a b c 海軍制度沿革8 1971, p. 68、明治39年3月8日(達29)『艦艇類別等級別表中海防艦ノ欄内三等ノ下「高雄」ノ次ニ「松江」ヲ、通報艦ノ欄内「千早」ノ次ニ「満州、姉川」ヲ、水雷母艦ノ欄内「豊橋」ノ次ニ「韓崎」ヲ加フ』。
- ^ a b 海軍制度沿革8 1971, pp. 72–74、大正元年8月28日(達12)「艦艇類別等級別表ノ通改正ス」
- ^ a b 海軍制度沿革8 1971, pp. 94–95、昭和6年4月1日(内令53)「艦艇類別等級別表中左ノ通改正ス」
- ^ a b c d 海軍制度沿革8 1971, p. 392、明治38年2月14日(達14)捕獲汽船満州丸命名ノ件『長崎ニ於テ捕獲シタル汽船「マンチュリア」號ヲ満州丸ト命名シ其ノ本籍ヲ横須賀鎮守府ト定ム』。
- ^ a b c d #戦史叢書31海軍軍戦備1付表1-1「大正九年調艦艇要目一覧表 その一 軍艦」。
- ^ a b c d 海軍制度沿革8 1971, p. 395、明治39年3月8日(達26)捕獲韓崎外一隻戦利汽船松江外一隻命名竝帝國軍艦ト定ムルノ件『捕獲汽船「エカテリノスラブ」外一隻及戦利汽船「スンガリー」外一隻ヲ帝國軍艦ト定メ左ノ通命名セラル』(以下略)。
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r #銘銘伝(2014)pp.57-58、満洲(まんしゅう)
- ^ a b c d e #M45-T1公文備考60/拝観船(部内)に関する件(1)画像13、満州要目
- ^ a b c d #海軍制度沿革11-2(1972)pp.1064-1065、昭和3年2月14日(内令43)艦船要目公表範囲。
- ^ #海軍制度沿革10-1(1972)pp.486-488、明治39年3月8日内令第70号、通報艦定員表其三。将校同相当官17人、准士官6人下士33人、卒127人。
- ^ #海軍制度沿革10-1(1972)p.595、大正8年4月1日内令第91号、二等海防艦定員表其三。将校、機関将校、将校相当官17人、准士官6人、下士34人、卒135人。
- ^ a b c #艦船名考(1928)p.149、「175 満州 まんしう Mansyu.」
- ^ a b #日本海軍全艦艇史(1994)p.469、写真No.1146の解説。
- ^ a b 海軍制度沿革8 1971, pp. 391–392、明治37年4月7日(内令184)拿捕船舶韓崎丸外五隻命名ノ件「左ノ通拿捕船舶ニ假ニ命名シ適用スルコトヲ得ル儀ト心得ヘシ」(以下略)。
- ^ 「第2編 国際法関係の法令/第3章 開戦当時帝国港湾に在泊する露国船舶拿捕免除に関する件」 アジア歴史資料センター Ref.C05110188400
- ^ 「第3編 特設船舶の艤装/第1章 仮装巡洋艦」 アジア歴史資料センター Ref.C05110135500
- ^ “世界で一番深い海”. 海上保安庁ホームページ. 2017年5月13日閲覧。
- ^ #海軍制度沿革4-1(1971)p.18、明治38年3月15日内令第169号。
- ^ #海軍制度沿革4-1(1971)p.18、明治38年6月14日内令第328号。
- ^ #海軍制度沿革4-1(1971)p.16、明治38年12月10日内令第786。
- ^ #海軍制度沿革4-1(1971)pp.16,19-20、明治38年12月10日内令第787。
- ^ #海軍制度沿革4-1(1971)p.20、明治39年3月8日内令第68。
- ^ #海軍制度沿革4-1(1971)p.20、明治39年7月4日内令第216。
- ^ #海軍制度沿革4-1(1971)p.24、明治45年1月9日内令第8。
- ^ #海軍制度沿革4-1(1971)p.24、明治45年4月9日内令第84。
- ^ 海軍制度沿革8 1971, p. 95、昭和7年4月1日(内令115)『艦艇類別等級別表中左ノ通改正ス 軍艦ノ部海防艦ノ欄内「満州、」ヲ削ル』
- ^ 大正4年2月2日付 海軍辞令公報 (部外秘) 第89号。
- ^ 『官報』第2257号、大正9年2月14日。
- ^ a b 『官報』第2410号、大正9年8月13日。
- ^ a b 『官報』第2793号、大正10年11月22日。
- ^ 『官報』第3102号、大正11年12月2日。
- ^ 『官報』第3385号、大正12年12月4日。
- ^ a b 『官報』第3654号、大正13年10月27日。
- ^ a b 『官報』第4283号、大正15年12月2日。
- ^ a b 『官報』第363号、昭和3年3月16日。
- ^ 『官報』第587号、昭和3年12月11日。
- ^ a b 『官報』第828号、昭和4年10月1日。
参考文献
[編集]- アジア歴史資料センター
- 防衛研究所
- 「拝観船(部内)に関する件(1)」『明治45年大正元年 公文備考 演習5 大演習観艦式4 巻60』、JACAR:C08020085200。
- 浅井将秀/編『日本海軍艦船名考』東京水交社、1928年12月。
- 海軍省/編『海軍制度沿革 巻四の1』 明治百年史叢書 第175巻、原書房、1971年11月(原著1939年)。
- 海軍省/編『海軍制度沿革 巻八』 明治百年史叢書 第180巻、原書房、1971年10月(原著1941年)。
- 海軍省/編『海軍制度沿革 巻十の1』 明治百年史叢書 第182巻、原書房、1972年4月(原著1940年)。
- 海軍省/編『海軍制度沿革 巻十の2』 明治百年史叢書 第183巻、原書房、1972年4月(原著1940年)。
- 海軍省/編『海軍制度沿革 巻十一の2』 明治百年史叢書 第185巻、原書房、1972年5月(原著1941年)。
- 海軍歴史保存会『日本海軍史』第7巻、第9巻、第10巻、第一法規出版、1995年。
- 片桐大自『聯合艦隊軍艦銘銘伝』光人社、1993年。ISBN 4-7698-0386-9
- 片桐大自『聯合艦隊軍艦銘銘伝』 <普及版>、潮書房光人社、2014年4月(原著1993年)。ISBN 978-4-7698-1565-5。
- 福井静夫『写真 日本海軍全艦艇史』ベストセラーズ、1994年。ISBN 4-584-17054-1。
- 防衛庁防衛研修所戦史室『海軍軍戦備<1> 昭和十六年十一月まで』 31巻、朝雲新聞社〈戦史叢書〉、1969年。
- 『官報』