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土佐 (戦艦)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
土佐
1922年7月31日、長崎にて撮影された「土佐」
基本情報
建造所 三菱造船長崎造船所
運用者  大日本帝国海軍
艦種 戦艦
級名 加賀型
艦歴
計画 八八艦隊計画
起工 1920年2月16日
進水 1921年12月18日
竣工 1920年11月25日
最期 1925年2月9日、海没廃棄処分
除籍 1924年4月14日
要目
常備排水量 1918年要領書:約39,900英トン[1]
1920年9月時:39,979英トン
全長 768 ftin (234.086 m)[2]
水線長 760 ft 0 in (231.648 m)[2]
垂線間長 715 ft 0 in (217.932 m)[2]
最大幅 水線上:約106.20 ft (32.370 m)[1]
水線下:約102 ft 10 in (31.344 m)[1][3][注釈 1]
水線幅 100 ft 0 in (30.480 m)[2]
深さ 約50.62 ft 0 in (15.429 m)[1][2]
または 51 ft 10 in (15.799 m)[3]
吃水 30 ft 9 in (9.373 m)[2]
ボイラー ロ号艦本式缶 重油専焼8基、同混焼4基[2]
主機 三菱パーソンズ式(高低圧[2])ギアード・タービン4基
推進 4軸 x 210rpm[2]
出力 91,000馬力[2]
速力 26.5ノット[2] または28.3ノット[4]
燃料 重油:約3,600英トン[1]
石炭:約1,700英トン[1]
航続距離 8,000カイリ / 14ノット[2]
乗員 1,370名[5]
兵装 45口径三年式41cm連装砲5基
50口径三年式14cm単装砲20基
40口径三年式8cm単装高角砲4基
(45口径十年式12cm高角砲4基に変更)
61センチ魚雷発射管 水上4門、水中4門[6]
(または61センチ水上発射管 8門)
装甲 舷側:11インチVC鋼(傾斜15度)[2]
甲板:2.5インチNVNC鋼+1.5インチHT鋼[2]
隔壁:11インチから9インチ[3]
砲塔:12インチから9インチ[3]
司令塔:14インチ[3]
搭載艇 12隻[5]
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土佐(とさ)は、旧土佐国を名前の由来に持つ日本海軍戦艦八八艦隊計画において加賀型戦艦の2番艦として建造が開始されたが、ワシントン海軍軍縮条約により艤装工事を前にして廃艦となることが決定され、各種実験に使われたのちに海没廃棄処分とされた[7][8](後述)。

概要

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加賀型戦艦の2番艦、八八艦隊計画の4番艦として建造が行われたものの、第一次世界大戦後に行われたワシントン海軍軍縮会議にて各国海軍は計画中あるいは建造中の主力艦はキャンセルまたは廃棄することとなったため、当時建造中であった「土佐」も建造中止となり各種実験における標的艦となったのち最終的に海没処分となった。「土佐」に対する多くの実験はその後の兵器開発に大きな影響を与えた。

艦歴

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建造

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土佐』の艦名は、旅順攻囲戦において日本軍が鹵獲したロシア海軍の戦艦「レトヴィザン」を改称する際、改名候補の一つに挙げられていたという(なお「レトヴィザン」は最終的に肥前と命名されている)[9][10]

八八艦隊計画における本艦(仮称第八号戦艦)は[11]1918年(大正7年)5月15日付で土佐と命名される(同型艦の加賀と同日付)。同日付で『戦艦』として艦艇類別等級表に登録された。1919年(大正8年)1月、三菱造船長崎造船所(現・三菱重工長崎造船所)と建造契約を締結[12]1920年(大正9年)2月16日鎮西大社諏訪神社宮司により祓清の儀式を行った後[13]、三菱長崎造船所で起工した[14][注釈 2]

4月2日皇太子時代の昭和天皇と随行の東郷平八郎海軍大将が[15]香取型戦艦香取」に乗艦して長崎港に到着した[16][17][18]。 同日午後、皇太子は三菱長崎造船所に移動すると、建造中の峯風型駆逐艦の「矢風」(4月10日進水)を見学した[16][19]。続いて第一船台の「土佐」において、皇太子が最初のリベットを締めた[20][21]。その後、皇太子は艤装工事中の球磨型軽巡洋艦の「多摩」(長崎造船所で同年2月10日進水)[22]を見学し、「香取」に戻った[16][18]。 同年5月、技術供与の見返りとして、イギリスに本艦の機関図面の一部を提供した[23]

進水式での「土佐」。艦首のくす玉が割れていないのが見える。
同じく進水する「土佐」。

1921年(大正10年)12月18日午前10時30分、「土佐」は進水した[24][25]。進水命名式には大正天皇の名代として[26]伏見宮博恭王が臨席した[27][28]加藤友三郎海軍大臣の代理として、財部彪大将が命名書を読み上げた[29]。進水式後の翌19日[30]、三菱長崎造船所では天城型巡洋戦艦の「高雄」の建造が始まった[31]

廃艦

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廃艦決定後、タグボートに曳かれて長崎港を出港し、呉へ向かう「土佐」。1922年(大正11年)8月1日撮影。

ワシントン軍縮会議では「加賀」と「土佐」の空母改造決定との報道もあったが、最終的に空母改造対象は天城型巡洋戦艦2隻(天城赤城)に決定した[32][33]。ワシントン海軍軍縮条約の締結により、1922年(大正11年)2月5日付で日本海軍は「土佐」の建造中止を発令する[34]。同年7月31日、未完成のまま海軍に引き渡され、軍艦旗が掲げられた[注釈 3]。この時点で最上甲板以下の船体はほぼ完成しており、砲塔や煙突なども別に製作が進められていた[36]。その後、各艦(肥前石見、土佐、安芸薩摩)は標的艦として処分されることになった[37]。授受式において、造船所所長は「土佐は世界の軍艦中全ての点において最も優ってていると信ずるが、近く廃艦同様の運命に陥るのは関係者として肉親に別るる以上大きな悲しみである」と語り、海軍側は「土佐の運命は偉人が短かい運命であったたと同様である」と答えた[注釈 3]。 艦上では、作業員の仮居住施設や被曳航装置の設置が行われた[36]。同年8月1日から8月4日にかけて運用術練習艦「富士」に曳航されて、装甲巡洋艦「八雲」の護衛下で出港、豊後水道経由でへと回航された(当時、呉海軍工廠では天城型巡洋戦艦の2番艦「赤城」の建造が行われていた。)[38][39]。その後、呉軍港沖合に繋留された。姉妹艦と同様に、新兵器実験を行ったあと処分することとされた。

1924年(大正13年)4月14日、天城型巡洋戦艦3隻、加賀型2番艦「土佐」、紀伊型戦艦2隻の建造取り止めの令が通達される[40]。同日付で6隻は戦艦・巡洋戦艦のそれぞれから削除・除籍された[41][42]

建造中止になった「土佐」を含む八八艦隊の各艦の資材は、横須賀海軍工廠の「天城」(のち加賀)や、呉海軍工廠の「赤城」、建造中の迅鯨型潜水母艦などに流用された[43][44]。「土佐」の場合、具体的には混燃罐が潜水母艦「長鯨」(長崎造船所)に、石油専燃ボイラーが扶桑型戦艦の改装用と記録されている[44]。 機関に関しては[45]東洋汽船天洋丸級貨客船の改造に際し「加賀」と「土佐」の石油専燃ボイラーの譲り受けを希望し[46]、海軍省とも交渉が進んでいたという[47]。しかし諸事情により実現しなかった[48]

「土佐」のために製造されたスクリュー(推進器)4個は、「加賀」部品として横須賀海軍工廠に送られた[49][50]三ツ子島に保管されていた「土佐」の推進器も、同様に「加賀」の部品として呉工廠から横須賀工廠へ送られたという[注釈 4]

また1923年(大正12年)の段階で加賀型の主砲塔は連装10基が完成し、天城型の主砲塔は連装4基が完成または完成間近だった[52]。「土佐」の主砲塔のうち2基は陸軍特殊起重機船蜻州丸[53]により運搬され、対馬要塞豊砲台に1基(土佐1番砲塔、1932年(昭和7年)完成)、釜山要塞張子嶝砲台に1基(土佐2番砲塔、1930年(昭和5年)完成)が運搬されて、現地で要塞砲として活用された[52]横須賀海軍工廠で保管されていた三番砲塔は、後日1933年(昭和8年)に特務艦「知床」によって呉工廠へ運ばれ、戦艦「長門」の改装に利用されたという[54]。加賀型の41cm砲塔は8基残っていたが、この3番砲塔をふくめ「長門」と「陸奥」の近代化改修にもちいられた[55]。余談だが、この改修の際に加賀型の主砲と交換され、余剰となった陸奥第四砲塔は海上自衛隊第1術科学校幹部候補生学校(旧海軍兵学校:広島県江田島市)に現在も保管されている。

標的艦として

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「土佐」は1924年(大正13年)6月から数ヶ月に渡る実験に従事した[56][57]。実験内容は、亀ヶ首試射場(呉港外)からの砲撃や、船体に固定した爆薬を用いた[58]。砲弾や魚雷などに対する防御力強化や[59][60]新型砲弾(後の九一式徹甲弾)の効果の研究であり、これによって得られたデータは建造予定の1万トン級巡洋艦や、後の大和型戦艦の設計(水中弾対策として装甲を艦底にまで延長した点など)や、既存艦艇への改修(特に防御に関するもの)にも活かされた[56][61][57]。特に四〇cm徹甲弾(距離20000m)に対する射撃では、落下角度約17度・舷側25m地点に弾着した弾頭が水中弾となって水線下約3m部分に命中、水雷防御 を貫通して機械室で炸裂、浸水3000トン・傾斜5度の被害を生じた[62][61]

「土佐」における実験結果を示す図

最期

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海没処分の準備が行われている「土佐」
沈みゆく「土佐」

1925年(大正14年)2月2日、「土佐」は標的艦摂津」に曳航されて呉を出港し[63][64]、翌日佐伯港に入港[65]。物の撤去や海没処分用発火装置の取り付けを行った[64]。2月6日の海没処分予定は悪天候のため中止[64]2月8日午前9時、2隻(摂津、土佐)は佐伯を出発する[66][注釈 5]。同年2月9日、「土佐」は艦名の由来となった高知県沖の島西方約10海里地点にて海没処分された(豊後水道南方海面)[57]。処分開始は午前1時以降、全没は午前7時頃[注釈 5]。海没処分地点の水深は350フィート[64]

エピソード

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  • 進水式が行われた時点で「土佐」の廃艦は決定的であり、造船所側では「土佐」の最後を飾るため出来るだけ盛大な進水式とし、海軍も航空機を飛ばして景気を添えた[30]。しかし、進水の際にくす玉が割れないというアクシデントが発生し、縁起の悪さが囁かれた[68][36]
  • 建造に携わった造船関係者は「前途を祝福されたはずの土佐がドザ(土左衛門)になった」と自嘲したという[21]
  • 長崎市端島の愛称「軍艦島」は、未完成状態の土佐のシルエットと島の形状が似ていた事に由来すると言われている[69]
  • 当時の子供たちの中では「土佐は処分されておらず、どこかに秘匿されている」という噂があったという[70]

登場作品

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小説

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レッドサン ブラッククロス

八八艦隊により建造され、ワシントン海軍軍縮条約により廃艦となることなく完成する。1951年のベルファスト沖海戦に参加している。

脚注

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注釈

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  1. ^ #軍艦基本計画資料Sheet2では加賀の値として水線下102.9ft(31.364m)としている。
  2. ^ 三菱造船所建造の主力艦としては、巡洋戦艦「霧島」、戦艦「日向」に続いて3隻目となる。
  3. ^ a b □軍艦土佐愈々曳航 佐世保から呉へ悲壮な授受式[35] 一日いよいよ呉に曳航される軍艦土佐は卅一日午前十時から土佐艦上斯波三菱造船所長並に幹部以下建艦從事員の重なる者二百餘名海軍から安住原兩大佐以下艤装廻航委員参列し最後の授受式があつた斯波所長は「土佐は世界の軍艦中總ての點において最も優つてゐると信ずるが近く廢艦同様の運命に陥るのは關係者として肉親に別るゝ以上大きな悲しみである」と挨拶を述べこれに對して原大佐は 土佐の運命は偉人が短かい運命であつたと同様であると答へ悲壮な式であつたが土佐艦上には軍艦旗高く檣頭に翻つて最後を飾つた一日は佐世保丸に曳かれて午前七時半に浮標を離れ多數見送りの裡に港外に出で 田沖で曳航作業を施して呉に回航の筈である(記事おわり)
  4. ^ 巨艦土佐の推進機 航空母艦加賀に備付く[51] ワシントン會議の結果廢棄處分に處せられた巨艦、土佐のかたみとして呉軍港外三子島に保管されてあつた大推進機四個は廣工廠造機部長、工學博士石川登喜治少将が心血を注いで造り上げたものでこれをこのまゝ土佐と共に葬り去るのを遺憾とし華府會議の結果赤城と共に航空母艦に改造と決し目下横須賀工廠で改造艤装中の加賀に備へ付けることゝなり去る八日三子島から一旦呉工廠に回送されたが近く特務艦で横須賀に送る筈(記事おわり)
  5. ^ a b ●沈み行く艦に暗然たる竹下長官 擧手の禮をなしつゝ廃艦「土佐」の最期[67] 風雨のため延期された廢艦「土佐」の水葬は天候恢復したので二月八日午前九時特務艦攝津に曳航されて佐伯を抜錨豊後水道を南下し水の子嶋燈臺沖に出で風浪の鎭まるを待ち漸く九日午前一時頃から乗組船員及び職工百餘名は凄愴なる探照燈を浴びつゝ一薺にキングストンブアルヴの解放作業を行つたがこれと共に艦底から海水瀧の如く奔入し艦體は刻々沈下し九日午前七時水煙を擧げると共に一面の大渦紋を殘しあはれ故郷の海深く葬り去られた特務艦攝津艦上に立つて從容たる偉人の大往生の如き刹那の光景を眺めた竹下呉鎭守府長官伍堂呉工廠長その他見學将校は何れも暗然として擧手の禮を行ひ悲壮を極めた(記事おわり)

出典

[編集]
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  6. ^ 戦艦加賀・土佐要領書 1918, p. 2.
  7. ^ #福井戦艦物語弐、185-187頁〔 はじまった空前の実艦実験 〕
  8. ^ #福井世界戦艦 353-355頁〔 土佐の実艦実験 〕
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  25. ^ 海軍公報 第二千七百六十三號 大正10年12月19日 p.13」 アジア歴史資料センター Ref.C12070278200 〔 ○軍艦進水 長崎三菱造船所ニ於テ建造ノ軍艦土佐昨十八日午前十時三十分進水セリ 〕
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  27. ^ 大正10年12月17日(土)官報第2814号。国立国会図書館デジタルコレクション コマ15〔 宮廷録事(略)◎御沙汰 明十八日三菱長崎造船株式會社長崎造船所ヘ依仁親王殿下ヲ差遣ハサルヽ旨曩ニ御沙汰アラセラレタル處御都合ニ依リ博恭王殿下ヲ差遣ハサルヽコトニ御變更ノ旨更ニ御沙汰アラセラレタリ(略)◎皇族御發着 博恭王殿下ハ昨十六日御出發長崎縣下ヘ御旅行相成リタリ 〕
  28. ^ #昭和天皇実録三巻、545頁〔 (大正十年十二月)二十一日 水曜日 午前十時御出門、宮城に御出務になる。博恭王に御対顔になり、去る十八日の三菱造船株式会社長崎造船所における軍艦土佐進水式への御差遣につき、御復命を受けられる。(以下略)〕
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  63. ^ 海軍公報 第3674号 大正14年2月3日 pp.7-8」 アジア歴史資料センター Ref.C12070296400 〔 ○艦船所在○二月三日午前十時調【航海中】摂津(二日呉發―佐伯灣ヘ) 〕
  64. ^ a b c d #福井戦艦物語弐 190-191頁〔 土佐の海没 〕
  65. ^ 海軍公報 第3675号 大正14年2月5日 pp.11-12」 アジア歴史資料センター Ref.C12070296400 〔 ○艦船所在○二月四日午前十時調【佐伯】摂津 〕
  66. ^ 海軍公報 第3679号 大正14年2月9日 pp.34-35」 アジア歴史資料センター Ref.C12070296400 〔 ○艦船所在○二月九日午前十時調【航海中】摂津(八日佐伯發) 〕
  67. ^ Shin Sekai, 1925.03.05”. Hoji Shinbun Digital Collection. pp. 04. 2023年9月3日閲覧。
  68. ^ 阿川弘之 『山本五十六(上)』 新潮文庫、2011年、63頁
  69. ^ 『軍艦島の遺産』40〜42頁
  70. ^ 片桐大自『聯合艦隊軍艦銘銘伝』光人社、2003年、50頁

参考文献

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  • アジア歴史資料センター(公式)(防衛省防衛研究所)
    • Ref.C04015098600『軍艦天城(赤城)改造工事材料に関する件』。 
    • Ref.C04016181500『軍艦土佐用甲鉄費予算の件』。 
    • Ref.C08021548600『軍艦多摩命名進水式の件(2)』。 
    • Ref.C08050018300「毎日新聞連載 日本造船十話」・斯波孝四郎『「土佐」「高雄」の廃棄』
    • Ref.C08050393300『造機部長会議1(1)』。 
    • Ref.C08050442800『軍艦土佐 加賀製造一件(1)』。 
    • Ref.C08050442900『軍艦土佐 加賀製造一件(2)』。 
    • Ref.C08051101000『廃棄艦処分に関する件質問答弁』。 
    • Ref.C08080173900『軍艦天城愛宕高雄製造一件(製造取止め)(2)』。 
    • Ref.C11080329400『大正9年4月11日 第628号 戦艦土佐図面の件』。 
    • Ref.C12070083400『大正13年 達完/達大正13年4月』。 
  • 石橋孝夫『日本海軍の大口径艦載砲 戦艦「大和」四六センチ砲にいたる帝国海軍軍艦艦砲史』潮書房光人社〈光人社NF文庫〉、2018年8月。ISBN 978-4-7698-3081-8 
    • (185-216頁)「第7章 八八艦隊主力艦の搭載砲」、(217-244頁)「第8章 陸軍要塞砲への転用」
  • 泉江三『軍艦メカニズム図鑑 日本の戦艦 上』グランプリ出版、2001年4月。ISBN 4-87687-221-X 
  • 小笠原長生 編纂『東郷元帥詳傳』春陽堂https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/964335  (国立国会図書館デジタルコレクション)
  • 海軍大臣官房『海軍制度沿革. 巻8(1940年印刷)』海軍大臣官房、1940年https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1886716  (国立国会図書館デジタルコレクション)
  • 海軍大臣官房『海軍制度沿革. 巻11(1940年印刷)』海軍大臣官房、1940年https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1886713  (国立国会図書館デジタルコレクション)
    • 海軍省 編『海軍制度沿革 巻十一の2』 明治百年史叢書 第185巻、原書房、1972年5月(原著1941年)。 
  • 草鹿提督伝記刊行会『提督 草鹿任一』光和堂、1976年2月。 
  • 宮内庁 編『昭和天皇実録 第二 自大正三年至大正九年』東京書籍株式会社、2015年3月。ISBN 978-4487-74402-2 
  • 宮内庁 編『昭和天皇実録 第三 自大正十年至大正十二年』東京書籍株式会社、2015年3月。ISBN 9784487744039 
  • 造船協会 編「第一篇 帝國海軍」『日本近世造船史 大正時代』造船協会、1935年12月https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1115820  (国立国会図書館デジタルコレクション)
  • (社)日本造船学会/編『昭和造船史』 第1巻(第3版)、原書房〈明治百年史叢書 第207巻〉、1981年(原著1977年10月)。ISBN 4-562-00302-2 
  • 日本舶用機関史編集委員会 編『帝国海軍機関史』 明治百年史叢書 第245巻、原書房、1975年11月。 
  • 平賀譲デジタルアーカイブ
  • 福井静夫 著「未曾有の実験艦土佐の最後」、阿部安雄、戸高一成 編『福井静夫著作集 ― 軍艦七十五年回想第二巻 日本戦艦物語〔Ⅱ〕』光人社、1992年8月。ISBN 4-7698-0608-6 
  • 福井静夫 著「八八艦隊計画の主力艦建造と戦艦加賀型の概要」、阿部安雄、戸高一成 編『福井静夫著作集 ― 軍艦七十五年回想第六巻 世界戦艦物語』光人社、1993年8月。ISBN 4-7698-0654-X 
  • 福田啓二 編『軍艦基本計画資料』今日の話題社、1989年5月。ISBN 4-87565-207-0 
  • 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 海軍航空概史』 第95巻、朝雲新聞社、1976年3月。 
  • 歴史群像編集部編「第5章 八八艦隊計画の主力艦」『決定版日本の戦艦 日本海軍全戦艦ガイダンス』学習研究社〈歴史群像シリーズ 太平洋戦史スペシャル Vol.5〉、2010年10月。ISBN 978-4-05-606094-2 

関連項目

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