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財部彪

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
財部 彪
たからべ たけし
生年月日 1867年5月10日
慶応3年4月7日
出生地 江戸幕府日向国都城
(現・宮崎県都城市
没年月日 (1949-01-13) 1949年1月13日(81歳没)
死没地 日本の旗 日本東京都目黒区
出身校 海軍兵学校15期
前職 海軍軍人
称号 海軍大将
従二位
勲一等旭日桐花大綬章
功三級金鵄勲章
配偶者 財部いね[1]
親族 山本権兵衛(岳父)

日本の旗 第9・11・13代 海軍大臣
内閣 加藤友三郎内閣
第2次山本内閣
加藤高明内閣
第1次若槻内閣
濱口内閣
在任期間 1923年5月15日 - 1924年1月7日
1924年6月11日 - 1927年4月20日
1929年7月2日 - 1930年10月3日
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財部 彪(たからべ たけし、1867年5月10日慶応3年4月7日[1]) - 1949年昭和24年)1月13日[1])は、日本海軍軍人政治家海兵15期首席[1][2][注釈 1]

最終階級は海軍大将栄典従二位勲一等功三級宮崎県都城市出身。

妻の「いね」は、山本権兵衛(海軍大将)の娘[1]

概要

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都城藩[注釈 2]、財部(児玉)実秋の二男[1]

攻玉社を経て明治22年(1889年)、海軍兵学校15期を首席で卒業。

明治26年(1893年)、日清戦争で出征。日露戦争では、大本営作戦参謀を務める。

以後、海軍次官を務め、大正8年(1919年)、海軍大将

加藤友三郎内閣海軍大臣となり、その後、第2次山本内閣加藤高明内閣第1次若槻内閣濱口内閣の4内閣において海相を務める。

昭和5年(1930年)、ロンドン海軍軍縮会議において若槻禮次郎らとともに全権となり、同条約に調印した。

しかし海軍軍令部はこれに著しく不満で、犬養毅鳩山一郎らが率いる政友会と協力し、同会議における浜口内閣の行為は統帥権干犯にあたると攻撃した(統帥権干犯問題)。財部は、同条約が批准された翌日に海相を辞任することとなった。

1932年(昭和7年)4月[1]、海軍大将の年齢満限により[4]後備役となり現役を去った[1]

昭和24年(1949年)1月13日、肝臓がんのため東京都目黒区駒場の自宅で死去[5]。81歳没。墓所は青山霊園(1イ2-13)。

人物

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  • 妻の「いね」は山本権兵衛の娘である[1]。財部は、兵学校15期のクラスメートである広瀬武夫と、貴顕の娘を娶らない、と互いに約束していた[6]。この縁談が持ち上がると、広瀬は山本の家に乗り込み「財部はあんたの娘を貰わなくても出世できる男だ」[6]と山本に談じ込んだが、山本の妻から「広瀬さん、あたしの娘は、権兵衛の娘であるがゆえに、いい人と結婚はできないのでしょうか」[6]と泣きつかれて矛を収めた[6]1897年(明治30年)結婚、媒酌人は同郷の上原勇作(当時、参謀本部第四部長陸軍中佐、夫人は野津道貫の娘)夫妻であった。
  • 娘婿の佐藤健は男爵佐藤達次郎の長男[7]
  • 1930年(昭和5年)に開かれたロンドン海軍軍縮会議の際、日本政府全権を務めた。この軍縮会議での財部らの行動は戦後の歴史評論家をはじめ、評価する声が多いが、当時の世論では非国民扱いされた。会議後に欧州旅行をした事を非難したマスコミ達による誹謗も加わり財部らが帰国した際、東京駅丸の内のオフィス街には財部らを罵倒する群衆が殺到し「売国奴財部を葬れ」「英米の前に拝跪して国を売り君命を辱めたる降将財部。速やかに自決して罪を謝せ」などと書かれた檄文が何百枚も撒き散らされたという。
  • 国立国会図書館「憲政資料室」に日記などが保管され、その複写文書が一般に供されている。そのうち海軍次官時代のものは山川出版社より、近代日本史料選書12-1・2として公刊されている。
  • 同じ海軍の山梨勝之進野村吉三郎永野修身らと同様に小原國芳の理解者であり、支援者として知られる。玉川学園の顧問なども務めた。

「財部親王」

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帝国海軍の人事制度では、海軍兵学校の卒業席次を基礎とするハンモックナンバー(兵学校同期生間の先任順位)が大きく影響し、兵学校同期生の間で進級や補職に差がついた。ただし、兵学校の下の期のクラスヘッド(最先任者)が、前の期のクラスヘッドを超えて進級することはなかった[8]

また、皇族の海軍士官は例外であった。皇族の海軍士官は、大佐への進級まではクラスヘッドと同時に、少将への進級からはクラスヘッドを超えて進級した[9](例外もあった[10])。

財部は兵学校15期クラスヘッドであり[2]、クラスメートの広瀬武夫が、財部の岳父となる山本権兵衛に「財部はあんたの娘を貰わなくても出世できる男だ」[6]と言ったように、最初から出世が約束されていたとも言える。しかし財部は[6][11]山本権兵衛の女婿として[6][11]、山本の威光により[6]異例の速さで進級し[6][11]、「財部親王[6][11]」と陰口を叩かれた[6]

財部と兵学校15期のクラスメートである岡田啓介は、回顧録で下記のように述べている[12]

わたしのクラスでは、財部(彪)が宮様なみにどんどん進級してゆくだけで、わたしはなかなかうだつがあがらなかった。 — 岡田啓介[12]

海軍中将以上(兵10期 - 兵18期、主要な者)の中将進級時期

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兵15期クラスヘッド[2]である財部は、大正2年(1913年)12月に中将に進級している[1]

兵15期の前後となる兵10期 - 兵18期で、海軍中将以上に至った者のうち、主な者(秦郁彦『日本陸海軍総合事典(第2版)』に立項されている者から、適宜選定)の兵学校卒業席次と中将進級時期は以下のとおり。

財部のクラスである兵15期については、『日本陸海軍総合事典(第2版)』に立項されており、かつ中将以上に至った者を、全て挙げた。

兵学校卒業席次の出典[2]。中将進級時期の出典[13]

加藤定吉(1位)大正元年12月
山下源太郎(4位)大正元年12月
名和又八郎(17位)大正元年12月
村上格一(2位)大正元年12月
江頭安太郎(1位)大正2年1月(同年同月に待命、死去)
山屋他人(5位)大正2年12月
有馬良橘(16位)大正2年12月
伊藤乙次郎(1位)大正4年12月
黒井悌次郎(4位)大正3年5月
野間口兼雄(6位)大正3年5月
栃内曽次郎(22位)大正3年5月
松村龍雄(3位)大正5年12月
佐藤鉄太郎(5位)大正5年12月
鈴木貫太郎(13位)大正6年6月
財部彪(1位)大正2年12月
竹下勇(3位)大正6年6月
小栗孝三郎(5位)大正6年6月
中野直枝(6位)大正6年12月
岡田啓介(7位)大正6年12月
向井弥一(38位)大正9年12月(最終階級は海軍中将)
井出謙治(2位)大正6年12月
秋山真之(1位)大正6年12月(同年同月に待命、7年2月に死去)
山路一善(3位)大正7年12月
伏見宮博恭王[注釈 3])大正5年12月
加藤寛治(1位)大正9年12月
佐藤皐蔵(6位)大正9年12月
安保清種(11位)大正9年12月

年譜

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  • 1889年(明治22年)- 4月20日 海軍兵学校卒業(15期)、命 海軍少尉候補生
  • 1890年(明治23年)- 7月9日 海軍少尉に任官
  • 1891年(明治24年)
  • 1892年(明治25年)- 12月21日 海大丙号学生
  • 1894年(明治27年)- 12月7日 海軍大尉に進級、巡洋艦高雄」分隊長
  • 1899年(明治32年)
  • 1900年(明治33年)- 6月22日 「霓」艦長
  • 1903年(明治36年)- 9月26日 海軍中佐に進級
日露戦争の海軍凱旋式に集った連合艦隊各部の指揮官
および海軍省と軍令部の首脳
(後列左から6人目が財部、1905年10月22日)[23]
  • 1905年(明治38年)- 1月12日 海軍大佐に進級
  • 1907年(明治40年)
  • 1908年(明治41年)
  • 1909年(明治42年)- 12月1日 海軍少将に進級、海軍次官( - 1914年4月16日)
  • 1913年(大正2年)- 12月1日 海軍中将に進級
  • 1915年(大正4年)
  • 1917年(大正6年)- 12月1日 舞鶴鎮守府司令長官に親補される
  • 1918年(大正7年)- 12月1日 佐世保鎮守府司令長官に親補される
  • 1919年(大正8年)- 11月25日 海軍大将に親任される
  • 1922年(大正11年)- 7月27日 横須賀鎮守府司令長官に親補される
  • 1923年(大正12年)- 5月15日 加藤友三郎内閣で海軍大臣( - 1924年1月7日)
  • 1924年(大正13年)- 6月11日 第2次山本内閣で海軍大臣、続く加藤高明内閣と第1次若槻内閣でも留任( - 1927年4月20日)
  • 1929年(昭和4年)
    • 7月2日 浜口内閣で海軍大臣( - 1930年10月3日)
    • 11月18日 ロンドン海軍軍縮会議全権
  • 1930年(昭和5年)10月[1] - 軍事参議官に親補される[1]
  • 1932年(昭和7年)4月[1] - 後備役[1](海軍大将の年齢満限による[4]
  • 1937年(昭和12年)4月7日 - 退役
  • 1947年(昭和22年)11月28日 - 公職追放の仮指定を受ける[24]
  • 1949年(昭和24年)1月13日 - 肝臓がんにより死去。81歳没。

栄典

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叙位
叙勲
褒賞

記念・栄誉

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記念章
外国勲章佩用允許

日記

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  • 『財部彪日記 海軍次官時代 上・下』、坂野潤治廣瀬順晧・増田知子・渡辺恭夫編(山川出版社、1983年)
  • 『財部彪日記 海軍大臣時代』、尚友倶楽部季武嘉也櫻井良樹編(芙蓉書房出版、2021年)
  • 『財部彪日記 大正十年・十一年―ワシントン会議と海軍』、尚友倶楽部・季武嘉也編(芙蓉書房出版「尚友ブックレット」、2024年)

脚注

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注釈

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  1. ^ 財部は、海軍大学校甲種学生(に相当する課程)を経ていない。財部は明治23年7月に海軍少尉に任官し、明治25年12月から明治26年12月までの1年間、海軍大学校丙号学生となっている[1]。当時の海大丙号学生とは、後の海大乙種学生(大正7年4月に廃止。砲術・水雷術・航海術の基礎原理を学ぶ課程で、各術科学校の高等科学生に進む前段階の課程)に類似したものであった[3]
  2. ^ 都城島津家薩摩藩内。出典では「都城藩士」と記載されている[1]
  3. ^ 伏見宮博恭王#海軍軍人」を参照。

出典

[編集]
  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q 秦 2005, p. 226, 第1部 主要陸海軍人の履歴-海軍-財部彪
  2. ^ a b c d 秦 2005, pp. 269–288, 第1部 主要陸海軍人の履歴-期別索引
  3. ^ 秦 2005, pp. 711–712, 第5部 陸海軍用語の解説-か-海軍大学校
  4. ^ a b 岡田 1987, pp. 366–368, ロンドン軍縮問題日記-昭和6年(1931年)11月27日
  5. ^ 『朝日新聞』 1949年1月14日
  6. ^ a b c d e f g h i j k 半藤 2013, 位置No. 1329-1414, 第五章 大海軍を目指して-財部彪 権兵衛の娘を妻とした栄光と悲惨
  7. ^ 財部彪『人事興信録』第8版、昭和3(1928)年
  8. ^ 池田清 『海軍と日本』 中公新書、1981年、171頁。
  9. ^ 野村 1996, p. 32
  10. ^ 雨倉 1997, pp. 186–188, 朝融王の超特急進級
  11. ^ a b c d 篠永宣孝(2020年1月現在、大東文化大学経済学部教授) (7 2007). “駐日大使クローデルとフランスの極東政索”. 早稲田政治經濟學雑誌 (368): 17. 
  12. ^ a b 岡田 1987, pp. 40–43, 成長期の海軍-東郷艦長の英断
  13. ^ 秦郁彦 編『日本陸海軍総合事典(第2版)』の各人の記事。
  14. ^ 秦 2005, p. 195, 第1部 主要陸海軍人の履歴-海軍-加藤定吉
  15. ^ 秦 2005, p. 257, 第1部 主要陸海軍人の履歴-海軍-村上格一
  16. ^ 秦 2005, p. 188, 第1部 主要陸海軍人の履歴-海軍-江頭安太郎
  17. ^ 秦 2005, p. 182, 第1部 主要陸海軍人の履歴-海軍-伊藤乙次郎
  18. ^ 秦 2005, p. 253, 第1部 主要陸海軍人の履歴-海軍-松村龍雄
  19. ^ 秦 2005, p. 181, 第1部 主要陸海軍人の履歴-海軍-井出謙治
  20. ^ 秦 2005, p. 177, 第1部 主要陸海軍人の履歴-海軍-秋山真之
  21. ^ 秦 2005, p. 196, 第1部 主要陸海軍人の履歴-海軍-加藤寛治
  22. ^ 『官報』第2452号「叙任及辞令」1891年8月31日。
  23. ^ 東京水交社、東京日日新聞社発行所編『日露海戦回顧写真帳』
  24. ^ 総理庁官房監査課編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、「正規海軍将校並びに海軍特別志願予備将校 昭和二十二年十一月二十八日 仮指定者」82頁。
  25. ^ 『官報』第2539号「叙任及辞令」明治24年12月15日。
  26. ^ 『官報』第3453号「叙任及辞令」1895年1月4日。
  27. ^ 『官報』第4402号「叙任及辞令」明治31年3月9日。
  28. ^ 『官報』第4902号「叙任及辞令」明治32年11月1日。
  29. ^ 『官報』第6142号「叙任及辞令」明治36年12月21日。
  30. ^ 『官報』第6494号「叙任及辞令」 明治38年2月25日。
  31. ^ 『官報』第7998号「叙任及辞令」明治43年2月23日。
  32. ^ 『官報』第182号「叙任及辞令」1913年3月11日。
  33. ^ 『官報』第1657号「叙任及辞令」大正7年2月13日。
  34. ^ 『官報』第2330号「叙任及辞令」大正9年5月11日。
  35. ^ 『官報』第3242号「叙任及辞令」大正12年5月23日。
  36. ^ 『官報』第530号「叙任及辞令」昭和3年9月29日。
  37. ^ 『官報』第3727号「叙任及辞令」明治28年11月29日。
  38. ^ a b 『官報』第7005号・付録「叙任及辞令」明治39年11月2日。
  39. ^ 『官報』第822号「叙任及辞令」大正4年5月1日。
  40. ^ a b 『官報』第1081号「叙任及辞令」大正5年3月11日。
  41. ^ 『官報』第2246号「叙任及辞令」大正9年1月31日。
  42. ^ 『官報』第1284号「叙任及辞令」昭和6年4月14日。
  43. ^ 『官報』第3830号・付録「辞令」1896年4月9日。
  44. ^ 『官報』第1310号・付録「辞令」大正5年12月13日。
  45. ^ 『官報』第2858号・付録「辞令」大正11年2月14日。
  46. ^ 『官報』第1499号・付録「辞令二」昭和6年12月28日。
  47. ^ a b c d 『官報』第5848号「叙任及辞令」明治35年12月29日。
  48. ^ 『官報』第6902号「叙任及辞令」明治39年7月3日。
  49. ^ 『官報』第7378号「叙任及辞令」明治41年2月3日。
  50. ^ 『官報』第8034号「叙任及辞令」1910年4月7日。
  51. ^ 『官報』第3882号「叙任及辞令」大正14年8月1日。
  52. ^ 『官報』第201号「叙任及辞令」昭和2年8月29日。

参考文献

[編集]
  • 雨倉孝之『海軍アドミラル軍制物語』光人社、1997年。 
  • 岡田啓介『岡田啓介回顧録』中央公論社中公文庫)、1987年。 
  • 外山操編『陸海軍将官人事総覧 海軍篇』芙蓉書房出版
  • 野村實『山本五十六再考』中央公論社〈中公文庫〉、1996年。ISBN 4-12-202579-6 
  • 秦郁彦 編著『日本陸海軍総合事典』(第2版)東京大学出版会、2005年。 
  • 半藤一利 他『歴代海軍大将全覧』(Amazon Kindle中央公論新社〈中公新書ラクレ〉、2013年。 
  • 明治百年史叢書『海軍兵学校沿革』原書房

外部リンク

[編集]
公職
先代
加藤友三郎
海軍大臣
加藤友三郎内閣
1923年5月15日 - 1924年1月7日
次代
村上格一
先代
村上格一
海軍大臣
第2次山本内閣加藤高明内閣第1次若槻内閣
1924年6月11日 - 1927年4月20日
次代
岡田啓介
先代
岡田啓介
海軍大臣
浜口内閣
1929年7月2日 - 1930年10月3日
次代
安保清種
軍職
先代
山下源太郎
第一艦隊参謀長
1908年12月10日 - 1909年12月1日
次代
野間口兼雄
先代
加藤友三郎
海軍次官
第3代:1909年12月1日 - 1914年3月14日
次代
鈴木貫太郎
先代
土屋光金
第三艦隊(二代)司令官
第5代:1915年2月5日 - 同12月25日
次代
解散
先代
川島令次郎
旅順要港部(第1次)司令官
第2代:1915年12月13日 - 1916年12月1日
次代
黒井悌次郎
先代
名和又八郎
舞鶴鎮守府司令長官
第8代:1917年12月1日 - 1918年12月1日
次代
野間口兼雄
先代
八代六郎
佐世保鎮守府司令長官
第19代:1918年12月1日 - 1922年7月27日
次代
栃内曽次郎
先代
山屋他人
横須賀鎮守府司令長官
第19代:1922年7月27日 - 1923年5月15日
次代
野間口兼雄