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沢本頼雄

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
沢本 頼雄
生誕 1886年11月15日
日本の旗 日本 山口県
死没 1965年6月29日
所属組織  大日本帝国海軍
軍歴 1910年 - 1945年
最終階級 海軍大将
除隊後 防衛庁顧問
水交会会長
墓所 多磨霊園
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沢本 頼雄(さわもと よりお、1886年明治19年)11月15日 - 1965年昭和40年)6月29日)は、日本海軍軍人。最終階級海軍大将

山口県出身。海軍兵学校36期海軍大学校17期。兵学校の同期生に南雲忠一大将、清水光美中将、塚原二四三大将、有栖川宮栽仁王少尉などがいる。

経歴

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海兵を次席、恩賜で卒業。首席は同郷の佐藤市郎海軍砲術学校高等科を修了した砲術専攻士官である。少佐時代には2年間英国に駐在した。軽巡「天龍」艦長、軍務局一課長、重巡「高雄」艦長、戦艦「日向」艦長、艦政本部総務部長、練習艦隊司令官、第二遣支艦隊司令長官などを歴任し、1941年(昭和16年)4月4日及川古志郎海軍大臣海軍次官に就任する。

日米開戦に対しては反対であり、第3次近衛内閣が総辞職し東条内閣が成立する際に、及川古志郎は後任の海相として豊田副武を推薦した。しかし豊田の陸軍嫌いは陸軍側に周知のことであり、陸軍は当然としてこれを拒否、沢本はこれを好機として内閣の流産を期待したが、結局嶋田繁太郎が海相に就任した。

日米開戦の決定についても、次官として開戦は承服しかねる、自信がないので次官を辞めさせてほしいと嶋田に頼むが、嶋田が沢本の大将昇進と連合艦隊司令長官への補職をちらつかせたために翻意する。これに関しては沢本も後年非常に悔いていた。

結局海軍次官に留まり、1944年(昭和19年)3月1日に大将昇進で軍事参議官兼海軍次官事務取扱になり、同年7月17日呉鎮守府司令長官、1945年(昭和20年)5月1日に軍事参議官となり、そのまま終戦を迎えた。

戦後、極東軍事裁判では開戦時の陸海軍省の大臣、次官、軍務局長の中で、沢本は海軍次官だったが、唯一人、戦犯として逮捕を免れ、裁かれることはなかった。1947年(昭和22年)に公職追放の仮指定を受けた[1]。その後は1955年(昭和30年)9月24日に防衛庁顧問に就任した[2]ほか、水交会会長を務めた。

山本五十六連合艦隊司令長官は、開戦前1941年昭和16年)8月から戦死の前月1943年昭和18年)3月までの間、沢本宛てに八通の手紙を出していた。この手紙を戦後沢本家が保管していたが、2000年平成12年)5月に遺族が防衛庁(現防衛省)防衛研修所に一括寄贈した[3]。墓所は多磨霊園(10-1-10)

栄典・授章・授賞

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位階
勲章
外国勲章佩用允許

脚注

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  1. ^ 総理庁官房監査課編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、「正規海軍将校並びに海軍特別志願予備将校 昭和二十二年十一月二十八日 仮指定者」69頁。
  2. ^ 朝日新聞 昭和30年(1955年) 9月24日
  3. ^ 田島明朗「手紙から読み解く山本五十六の心情」『歴史読本』人物往来社 2010年9月号
  4. ^ 『官報』第8021号「叙任及辞令」1910年3月23日。
  5. ^ 『官報』第757号「叙任及辞令」1915年2月12日。
  6. ^ 『官報』第5283号「叙任及辞令」1944年8月23日。
  7. ^ 沢本頼外五名」 アジア歴史資料センター Ref.A10113476300 及び『官報』1943年8月10日「叙任及辞令」。
  8. ^ 赤堀鉄吉外十四名外国勲章記章受領佩用の件」 アジア歴史資料センター Ref.A10113504500 

参考文献

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  • 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』東京大学出版会
  • 外山操編『陸海軍将官人事総覧 (海軍篇)』芙蓉書房出版