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高雄 (重巡洋艦)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
高雄
終戦直後の高雄(1945年9月)
終戦直後の高雄(1945年9月)
基本情報
建造所 横須賀海軍工廠
運用者  大日本帝国海軍
艦種 重巡洋艦
級名 高雄型重巡洋艦
艦歴
発注 昭和2年度艦艇補充計画
起工 1927年4月28日
進水 1930年5月12日
就役 1932年5月31日
除籍 1947年5月3日
その後 1946年10月29日、マラッカ海峡にて海没処分。
要目
基準排水量 11,350トン(竣工時)
基準:13,400トン(改装後)
全長 203.76 m
最大幅 19.00 m (竣工時)
20.73 m (改装後)
吃水 6.11 m (竣工時・計画)
6.32 m (改装後)
主缶 ロ号艦本式缶12基
主機 艦本式タービン4基4軸
出力 130,000馬力
速力 35.5ノット(竣工時)
34ノット(改装後)
燃料 重油:2,645トン(竣工時)
2,318トン(改装後)
航続距離 14ノットで8,000海里(竣工時)
18ノットで5,000海里(改装後)
乗員 760名(竣工時)[1]
835名(改装後)
兵装 竣工時
50口径20.3cm連装砲5基
45口径12cm単装高角砲4門
40mm単装機銃2挺
61cm連装魚雷発射管4基8門
(九〇式魚雷16本)
1942年
50口径20.3cm連装砲5基10門
89式12.7cm連装高角砲4基8門
25mm連装機銃4基
13mm連装機銃2基
92式61cm4連装魚雷発射管4基
(九三式魚雷24本)
装甲 舷側:127mm
水平:34-46mm
砲塔:25mm
搭載機 水上偵察機3機(射出機2基)
その他 機関出力、速力、航続距離は計画値。
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高雄(たかお/たかを)は[2]日本海軍重巡洋艦[3][注釈 1]

高雄型重巡洋艦(一等巡洋艦)の1番艦である[5]

艦名

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京都府高雄山に因む[注釈 2]

高雄の艦内神社京都護王神社[注釈 3][注釈 4]

高雄および姉妹艦愛宕[9]ワシントン海軍軍縮条約によって建造中止となった天城型巡洋戦艦3番艦と4番艦の艦名を受け継いでいる[注釈 5]

高雄 (軍艦)」の艦名は日本の軍艦に幾度か採用されている。

がある。

艦歴

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建造経緯

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1927年(昭和2年)4月16日横須賀海軍工廠のガントリー船台において、妙高型重巡洋艦1番艦妙高の進水式が昭和天皇行幸下で行われた[11]4月28日、高雄は妙高と同一船台で起工された[11][12]

同年6月23日、正式に『高雄』の艦名が与えられた[2]1930年(昭和5年)5月12日、進水[12]。進水式には香淳皇后が臨席[13][注釈 6]。式典の模様はラジオで実況された。参列者は13万人に及んだという[注釈 7]1932年(昭和7年)5月31日、竣工[12][16]。高雄型2番艦の愛宕は、高雄と同日付の起工(1927年4月28日)、同日付の命名[2]、進水はやや遅れ(1930年6月16日)、竣工は高雄より2ヶ月早かった(1932年3月30日)[17]。就役後の新鋭重巡2隻(高雄、愛宕)は第二艦隊・第四戦隊に所属する。

太平洋戦争まで

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1932年(昭和7年)12月1日、高角砲指揮官として高松宮宣仁親王昭和天皇弟宮、海軍大尉)が着任する[18][注釈 8]。 当時の高雄艦長は沢本頼雄大佐[18]。高松宮の御付武官は寺岡謹平中佐[20]。高松宮は参謀長私室を使用し、食事は艦長と共にとったが、基本的には一般士官として行動したという[20]。沢本艦長が高松宮のため私室入口に小型冷蔵庫を設置したところ、高松宮の注意により艦長・士官室共用となった[21]1933年(昭和8年)5月25日、秩父宮雍仁親王以下が横須賀軍港で各艦(長門赤城、高雄、、潜水艦1隻)を視察する[22][23]。高松宮は兄宮を案内した[注釈 9]。秩父宮が高雄を来艦した際の食事は、高松宮の指示により通常の士官用だった[21]。 8月25日、横浜沖で行われた特別大演習での観艦式に第四戦隊(高雄、愛宕、鳥海、摩耶)は昭和天皇が乗艦する戦艦比叡の供奉艦(先導艦鳥海)として参列した[25]。 11月15日付で宣仁親王は戦艦扶桑の分隊長に補され[22]、高雄より退艦した[26][27]

1934年(昭和9年)6月29日、第二艦隊司令長官高橋三吉中将(旗艦鳥海)麾下の第四戦隊(鳥海、摩耶、高雄、愛宕)は連合艦隊(司令長官末次信正中将)指揮下でおこなわれた演習に参加。第二水雷戦隊(旗艦那珂)に所属していた駆逐艦2隻(深雪)の衝突と深雪の沈没に遭遇した[注釈 10]

1937年日中戦争開始後には上海上陸作戦等を支援し、その後旅順から華北方面で活動する。

1938年には近代化改修に入り、翌1939年に工事が完了している。1940年(昭和15年)10月11日、紀元二千六百年記念行事に伴う観艦式重巡洋艦3隻(高雄、加古古鷹)は御召艦比叡(昭和天皇座乗)の供奉艦として参加する。高雄は先導艦として観艦式に臨んだ。

1941年(昭和16年)9月23日、横須賀を出港した高雄は貨客船に衝突され、浸水被害を受けた[29][注釈 11]

太平洋戦争緒戦

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1941年(昭和16年)12月8日の太平洋戦争開戦時の高雄艦長は朝倉豊次大佐だった。第二艦隊司令長官近藤信竹中将が直率する第四戦隊に所属し、南方部隊本隊指揮官(第二艦隊司令長官 近藤中将:旗艦「愛宕」)の指揮下で南方部隊本隊を編成していた[注釈 12]。第四戦隊はフィリピンルソン島リンガエン湾上陸作戦の支援にあたった(南方作戦)。

1942年(昭和17年)初頭はジャワ海で作戦に従事した(蘭印作戦)。3月1日、高雄の水偵がオランダ商船のEngganoを爆撃。翌2日夜、四戦隊(愛宕、高雄)は米駆逐艦ピルズバリー (USS Pillsbury, DD-227) を撃沈、3月4日に四戦隊(愛宕、高雄、摩耶)と第4駆逐隊第1小隊(野分)がチラチャップ近くで船団を攻撃、タンカーFrancol、depot ship Anking、掃海艇1隻を沈め、オランダの貨物船2隻を捕獲し、護衛のオーストラリアのスループヤラも撃沈した。日本に戻った4月中旬にはドーリットル空襲に遭遇し、米機動部隊を捜索したが会敵しなかった。5月2日、重巡2隻(高雄、摩耶)はアメリカ潜水艦「ドラム」に撃沈された水上機母艦瑞穂の救援に赴き、乗組員を救助した。

ミッドウェー作戦にむけて第四戦隊は編成を変更、第1小隊(愛宕、鳥海)、第2小隊(高雄、摩耶)となる。5月20日に第四戦隊第二小隊(「高雄」、「摩耶」)は北方部隊に編入され、第四航空戦隊(空母「龍驤」、「隼鷹」)と共に第二機動部隊を編成して[32]AL作戦(西部アリューシャン攻略作戦)に参加した。第二機動部隊は5月25日に大湊(または5月26日に陸奥海湾[33])を出撃し、6月4日と6月5日にダッチハーバー空襲を行った[34]AL作戦と同時に行われたミッドウェー海戦で日本軍は敗北したがアッツ島とキスカ島の攻略は実施された。そして第二機動部隊などはアメリカ艦隊の来襲に備えた[35]。その後、第二機動部隊などは6月24日までに一度大湊機戻り、6月28日にはキスカ島への輸送部隊掩護のため再び出撃した[36]

7月14日、南東方面の作戦を担当する第八艦隊(外南洋部隊)が新編され、三川軍一海軍中将が新司令長官となる。第八艦隊の旗艦には鳥海が指定されてラバウルへ進出、第四戦隊は事実上高雄型3隻(愛宕、高雄、摩耶)に減少した。8月7日にアメリカ軍がガダルカナル島フロリダ諸島に上陸してガダルカナル島の戦いがはじまると、第四戦隊もトラック泊地へ進出した。8月24日第二次ソロモン海戦、10月26日南太平洋海戦参加。11月15日第三次ソロモン海戦に参加した。

昭和十八年以降の戦い

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1943年(昭和18年)2月、ガダルカナル島からの撤退を支援する。その後、高雄艦長は猪口敏平大佐に交代し、トラックを拠点に中部太平洋で活動した。

7月21日に「愛宕」「高雄」と軽巡洋艦「長良」、駆逐艦「涼風」はトラックを出発し、7月26日に横須賀に入港した[37]

11月5日、第二艦隊司令長官栗田健男中将(旗艦愛宕)が指揮する巡洋艦部隊(愛宕、高雄、鳥海、摩耶、鈴谷、最上、筑摩、第二水雷戦隊)としてラバウルに進出。そこで米空母艦載機による攻撃を受ける(ラバウル空襲)。「高雄」は二番砲塔右側付近に爆弾2発が命中[38]。右前部水線部に大破孔を生じた[39]。たまたま一番砲塔の扉が開いており、爆風で炸薬が引火した結果、戦死者23名を出した[40]。被爆による負傷者は22名[39]。他に複数隻(愛宕、摩耶、最上、筑摩、阿賀野)等が損傷し、特に4隻(愛宕、高雄、摩耶、最上)は内地回航を要する被害を受けた[41]。「高雄」は横須賀に戻り修理を行った。

「高雄」の修理は1944年(昭和19年)1月19日に完了。「高雄」は空母「瑞鳳」「千代田」、駆逐艦「初春」「若葉」「玉波」と共にトラックへ向かった。航海中の2月1日、「高雄」と「玉波」は被雷と悪天候のため艦首が切断されて航行不能となった空母「雲鷹」の護衛を命じられた。瑞鳳隊と分離して雲鷹隊と合流し、駆逐艦「皐月」「潮」「曙」「初霜」「白雲」「玉波」「沖波」「岸波」等と協力してアメリカの潜水艦を撃退して、「雲鷹」の曳航を実施。2月7日、横須賀に帰港した。この作戦で「高雄」はアメリカの潜水艦1隻撃沈を報告している。2月15日、パラオに向けて出航した[42]。その後はパラオ、リンガ泊地、タウタウイ泊地で訓練に従事する。

1944年(昭和19年)6月19日、高雄はマリアナ沖海戦に参加した。前衛部隊として第一戦隊(大和武藏)等と共に戦い、この時、甲部隊(小沢艦隊)から発進した日本軍攻撃隊を敵編隊と間違え、右舷高角砲で誤射している。この事故で数機が墜落した[43]。24日に日本に戻り、7月20日にリンガ泊地に進出した。

マリアナ諸島の戦いに敗れた日本陸海軍は同年秋、本土と南方資源地帯を結ぶ要地であるフィリピンへの反攻を始めた米軍を迎え撃つことになり、レイテ沖海戦が生起した。

10月22日、第四戦隊(愛宕、高雄、鳥海、摩耶)は栗田健男中将指揮の第一遊撃部隊(通称「栗田艦隊」または「栗田部隊」)に属して、フィリピン諸島レイテ湾に向けてブルネイを出撃した。10月23日、パラワン島沖を航行中の6時34分、アメリカ潜水艦「ダーター」の放った魚雷2本が高雄の右舷魚雷発射管真下と右舷後甲板に命中し[44]、右側に傾斜した。望遠鏡で対潜警戒に当たっていた中河一雄は、右舷約600メートル先の海面に白波が立ち、艦に向かってくる物体を見つけ「魚雷だ」と叫んだと回想している[45]

高雄の艦長は艦橋にいたが、航海長と操舵士は旗甲板で天測中のため副長が取舵回避を下令、2本を回避したが総てを避けきれなかったという[46]

高雄は戦死者33名を出し、第三・第四罐室を破壊され、外軸スクリューも失って大破、洋上に停止した[47]。第31駆逐隊の駆逐艦長波朝霜が高雄の警戒に従事した。高雄では真水タンクも破損し、海水を蒸留して水を作って罐を焚いたため、6-11ノット発揮可能になったのは21時であった[48]。21時44分、高雄は撤退を開始[44]。ダーターの追撃を受けたが、護衛艦や高雄水上機の警戒により襲撃の機会を失い、その後、ダーターは座礁して自沈した。10月25日17時14分、朝霜や水雷艇「」に護衛され、無事ブルネイに到着した[44]。なお、本海戦で高雄と共に被雷した姉妹艦2隻(愛宕、摩耶)は沈没し、開戦以来各地を奔走してきた第四戦隊も事実上壊滅した[49]。鳥海は第五戦隊(妙高、羽黒)に臨時編入され、25日のサマール島沖海戦で沈没した[50]。4隻健在だった高雄型重巡は3日間で高雄1隻となってしまった。

11月8日、高雄は駆逐艦清霜に護衛されてブルネイを出発し、11月11日にシンガポールへ到着した[51]。愛宕乗組員の一部は、補充として高雄に配属されていた[51]。まもなく空襲で大破した重巡洋艦妙高もシンガポールに入港し、同艦の緊急修理が行われた[52]。12月中旬、妙高は内地帰投のためシンガポールを出航したが、潜水艦に雷撃されて大破、重巡羽黒に曳航され、シンガポールに戻ってきた[52]

昭和二十年の戦い

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1945年(昭和20年)1月5日より「高雄」はドライドックで修理をおこなうが、舵取機室の油圧ポンプの修理ができなかった[52]。11日、B-29重爆を主砲と高角砲で迎撃する[53]。主砲37発、高角砲481発を消費し、B-29を1機撃墜した[54]。2月1日の空襲では、「妙高」と「高雄」で対空射撃をおこなった[53]。同時期には人員も次第に転勤し、幹部も相次いで退艦した[53]

3月になると、本土に戻るために修理が行われたが、舵の修理が出来ず、内地回航は断念されるに至った[55]。シンガポール防衛のため、同港残留が決定される[56]。5月初旬、港務部桟橋のそばに固定繋留されることになった[57]。艦尾を切断し、応急防水措置を施した状態で投錨した[58]。迷彩も実施された[59]。対空戦闘関係者と機関部保安員をのぞく大部分の乗組員は臨時陸戦隊員となり[57]、機銃は付近の陸上陣地に移動された[60]

同年7月31日、シンガポールのセレター港でイアン・エドワード・フレーザー大尉率いるイギリス小型潜水艦英語版「XE3」と、同行した潜水隊員ジェームズ・ジョセフ・マグニスによって仕掛けられたリムペットマイン(吸着式時限機雷)が高雄の第三砲塔右舷艦底で爆発した(ストラグル作戦)。幅3m、長さ8mの亀裂が生じ、下部電信室に浸水があったものの、死傷者はなく損害は軽微だった[61]。「高雄」工作科の乗組員が潜水調査したところ、4個のうち1つしか起爆していない爆薬が発見された[62]。「高雄」の乗組員達はイギリス系か共産党系のゲリラの仕業と判断しており、豆潜水艦の工作と知ったのは戦後になってからだった[63]。この後も、主缶と補機類(発電機など)は使用可能であり、自力での投揚錨、通信、電力供給などが可能な状態で8月15日終戦の日)を迎えた[11]。終戦時の「高雄」乗組員は817名[64]。第十方面艦隊司令部が「高雄」を使用するため157名が残留し、艦長以下660名がマレー西岸バトパハに移動を命じられ、約2年間の強制労働を強いられた[64]

降伏処理などが進められる間、「高雄」と「妙高」はシンガポールにおける人員宿泊・他艦船の修理・通信などの担任母艦(ホテルシップ)として使用された[65]。「高雄」は第十方面艦隊司令部が使用した。9月12日、降伏調印式がおこなわれる[66]。その後、イギリス海軍に接収されたが、引渡しを受けたイギリス海軍は「高雄」と「妙高」の2隻を自沈処分とした[67]。妙高は1946年(昭和21年)7月8日にマラッカ海峡で処分され、8月10日に除籍された[67]。 「高雄」の処分要領は9月25日に伝達された[68]。10月27日にイギリス海軍によってマラッカ海峡に曳航され、艦底に爆薬を設置[68]10月29日夕刻、キングストン弁を開き機関室への注水を開始[69]。午後6時30分に爆薬に点火したのち、軽巡洋艦「ニューファンドランド」の砲撃によって午後6時38分に「高雄」は艦尾から沈没した[70]。海没地点北緯03度05分05秒 東経100度41分00秒 / 北緯3.08472度 東経100.68333度 / 3.08472; 100.68333 [68]。爆破作業員および「高雄」乗組員は同航した「第17日東丸」に移乗してシンガポールへ戻った[71]

1947年(昭和22年)5月3日、除籍[67]。「妙高」と「高雄」は妙高型と高雄型のネームシップ同士であり、同一船台で建造され、同一海戦で大破しその2隻が終戦時同じ場所に居合わせ、ほぼ同じ地点で自沈処分されるという奇妙な縁を持つことになった[11]

公試成績

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状態 排水量 出力 速力 実施日 実施場所 備考
新造時 12,175トン 139,500馬力 35.5ノット 1932年(昭和7年)7月31日 館山沖標柱間
改装後 14,894トン 133,100馬力 34.25ノット 1939年(昭和14年)7月14日 館山沖標柱間

改装後の航続距離は18ノットで5,049海里だった。

歴代艦長

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※『艦長たちの軍艦史』105-107頁、『日本海軍史』第9巻・第10巻の「将官履歴」に基づく。

艤装員長

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  1. 安藤隆 大佐:1930年5月15日 - 1932年2月20日[72]

艦長

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  1. 安藤隆 大佐:1932年2月20日 - 1932年11月1日
  2. 沢本頼雄 大佐:1932年11月1日 - 1933年11月15日
  3. 南雲忠一 大佐:1933年11月15日 - 1934年11月15日
  4. 後藤英次 大佐:1934年11月15日 - 1935年11月15日
  5. 原顕三郎 大佐:1935年11月15日 - 1936年12月1日
  6. 高木武雄 大佐:1936年12月1日 - 1937年12月1日
  7. 醍醐忠重 大佐:1937年12月1日 - 1938年6月3日
  8. 松山光治 大佐:1938年6月3日 - 1939年11月15日
  9. 小林謙五 大佐:1939年11月15日 - 1940年11月1日
  10. 山口次平 大佐:1940年11月1日 - 1941年8月15日
  11. 朝倉豊次 大佐:1941年8月15日 - 1943年2月23日
  12. 猪口敏平 大佐:1943年2月23日 - 1943年10月28日
  13. 林彙邇 大佐:1943年10月28日 - 1944年8月29日
  14. 小野田捨次郎 大佐:1944年8月29日 -
  15. 石坂竹雄 大佐:1945年3月21日 -

同型艦

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ギャラリー

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登場作品

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ゴジラ-1.0
1945~1947年を舞台とした日本映画。戦後、史実通りシンガポールで連合軍に接収されていたが、作中では謎の巨大生物(ゴジラ)殲滅のため日本に返還され、シンガポールから日本に向かっていた[注釈 13]。道中、ゴジラを足止めする命令を受けた木造の掃海船「新生丸」の窮地に駆け付け、ゴジラと交戦。戦闘により艦橋が倒壊した上、ゴジラが吐く熱線により轟沈した。
史実の損傷を反映して後部マストが切断されているほか、艦尾も切断されたままになっている。

出典

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  1. ^ 五.艦種 一等巡洋艦なり[4]。現時我海軍には此同型艦は那智、妙高、羽黒、足柄、高雄、愛宕、摩耶、鳥海の八艦あり。倫敦會議に於て問題の中心となりし二十糎砲搭載一萬噸巡洋艦とは斯種軍艦を謂ふ。
  2. ^ a b 高雄(たかを)【初代】[6] 艦種 巡洋艦 二檣(戦闘檣あり)/艦名考 名所の名(山城國葛野郡高尾)に採る、高尾は清瀧川の中流西岸に在り、古書高雄も作る。艦名には此の高雄の字を選ばれたるなり、此地秋日黄葉の幽賞を以て世に聞ゆ、詞人は高尾・槙尾・梅尾の勝地を以て之を三尾と稱し、又三雄とも謂ふ。(略)備考 尚ほ此の外に幕末に「高雄」なる運送船あり、同船は船材鐡、排水量1,191頓、明治2年英國に於て建造、原名「シナンジング」、同年7年10月18日購入、高雄丸と名けられ、同13年3月25日除籍
  3. ^ 十月二日 午前、機能調査などする[7]。午后、一時四十五分より高雄神社のお祭りをする。本家の護王神社から神官がきてやつた、それがもと侍従の小松〔小松行一〕だからおかしかつた。この五月に護王神社へかわつたのださうだ。諸競技の賞品授与式や奉納仕合あり。(以下略)
  4. ^ 『軍艦高雄案内』より[8] 一.艦名の由来と祭神 初代高雄の名を襲ひたるものなるが抑も此高雄の名は京都高雄山に因みしものなりと拝察す。艦内に鎮座しある高雄神社には高雄山に縁故ある京都護王神社の祭神たる和気清麻呂公の御分霊を奉祀す 
  5. ^ 〔 達第四十號[10] 軍事補充費ヲ以テ建造スヘキ左記軍艦ノ建造ヲ取止メラル|大正十三年四月十四日 海軍大臣村上格一|記 戰艦 土佐、紀伊、尾張
  6. ^ ◎皇后宮行啓[14] 皇后陛下ハ一昨十二日午後一時御出門同一時十分東京驛御發車同二時三十五分横須賀驛御著車横須賀軍港ヘ行啓同四時二十分横須賀驛御發車同五時四十五分東京驛御著車同五時五十五分還御アラセラレタリ(以下略)
  7. ^ 皇后陛下の行啓を仰ぎ 高雄の進水式 わが一萬トン級の新鋭[15]【東京十二日】海軍の新鋭八吋砲装備一萬トン巡洋艦高雄は昭和二年四月起工以来三年の星霜と三十萬人の人力とを費やし竣工し本日午後三時半皇后陛下の行啓を仰ぎ横須賀海軍工廠にて進水式を擧行した、秩父宮妃殿下外皇族宮大臣、外交團、陸海将星以下十三萬余参列し、軍樂隊の奏榮参列者一同の萬歳聲裡にめでたく進水式を終り皇后陛下に同四時十五分鎭守府御出還啓遊ばされた(記事おわり)
  8. ^ 高松宮殿下海上の御勤務 「高雄」の分隊長として 砲術學校を優等で御卒業[19](東京二十九日特電)海軍大尉高松宮殿下には二十九日海軍砲術學校高等科を御卒業遊ばされ十二月一日づけ軍艦高雄の分隊長に補せられ海上勤務に服せられることになつた(記事おわり)
  9. ^ 高松宮殿下の御案内で 秩父宮殿下軍艦御視察 長門、赤城、高雄その他を お揃ひで御睦じく[24](東京二十五日電通)秩父宮殿下は午前九時四十五分高松宮殿下の御案内で横須賀軍港に碇泊中の軍艦長門 航空母艦赤城、高松宮御召艦高雄、驅逐艦暁、潜水艦イ號廿三を御視察の後午後三時御上陸御歸京遊ばさる(記事おわり)
  10. ^ 六月二十九日[28](略)五時半頃、敵の飛行機のはつた煙幕中で「深雪」と「電」が触接して、「深雪」のバウがとれて、別に浮いてゐた。「電」の艦首はツブサレた。それで演習をやめて、第一戦隊、第四戦隊、第二水雷戦隊が集つたが、死傷合計して十名位、中〃処置が決まらず、とうとう暗くなり濃霧となる。「深雪」はツヒに胴体沈む。人は「ナカ」に移る。モツト早く「日向」位が横ダキスレバヨかつだだらう。四戦隊、第二水雷戦隊で頭部と「電」は佐世保へ。
  11. ^ 九月二四日(水)小雨、曇[30] 昨日午後「高雄」〔重巡洋艦〕横須賀出港、一四一五剣崎の南5〔マイル〕にて大阪商船北海丸と触衝。二、三番砲塔左舷に直角に北海丸船首、重傷一(後死去)、軽傷二(下士官兵)、浸水あり。夕刻、横須賀に自力帰港。
  12. ^ 第四戦隊(愛宕、高雄、摩耶)、第三戦隊第2小隊(金剛榛名)、第4駆逐隊(野分舞風萩風)、第6駆逐隊第1小隊()、第8駆逐隊(大潮朝潮満潮荒潮[31]。なお姉妹艦の重巡鳥海山本五十六連合艦隊司令長官の指示により第四戦隊から引き抜かれて南遣艦隊に編入され、南遣艦隊司令長官小沢治三郎中将が指揮する馬来部隊の旗艦として行動している。
  13. ^ 史実の高雄は戦後イギリス海軍に接収された後、上記のように1946年中に自沈処理されたが、作中では1946年中に米軍で問題が発生したことで修理が始まり、1947年時点でも稼働していた。小説版では、修理は米軍が行ったこと、元乗組員らが乗り込んでいることも語られている。

脚注

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  1. ^ 昭和6年4月10日付 海軍内令 第67号改正、海軍定員令「第40表 一等巡洋艦定員表 其1」。この数字は特修兵を含まない。
  2. ^ a b c #達昭和2年6月 p.41〔 達第八十六號 補助艦艇製造費ヲ以テ昭和二年度ニ於テ建造ニ着手ノ一等巡洋艦二隻ニ左ノ通命名セラル|昭和二年六月二十三日 海軍大臣岡田啓介|横須賀海軍工廠ニ於テ建造 一萬頓級巡洋艦 高雄タカヲ|呉海軍工廠ニ於テ建造 一萬頓級巡洋艦 愛宕アタゴ 〕
  3. ^ #幕末以降帝国軍艦写真と史実 コマ125〔 高雄(たかを)【二代】 艦種 一等巡洋艦|艦名考 初代「高雄」の項参照(p.44) 〕
  4. ^ #高松宮日記2巻318-319頁
  5. ^ #艦艇類別等級(昭和12年12月1日現在) p.1〔 艦艇類別等級表|軍艦|巡洋艦|一等|高雄型|高雄、愛宕、鳥海、摩耶 〕
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参考文献

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  • 小板橋孝策「第九章 敗戦の足音」『下士官たちの太平洋戦争 中堅戦力は何を思い、どう行動したのか=』光人社、1986年2月。ISBN 4-7698-0294-3 
    • 冷徹なる現実〈 レイテ沖海戦 *「愛宕」乗組・佐藤務二機曹 〉(96-104ページ)
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    • 薄氷ふみ越え〈 強制労働 *「高雄」乗組・川島善一郎一機曹ほか 〉(198-201ページ)
  • 小板橋孝策『「愛宕」奮戦記 旗艦乗組員の見たソロモン海戦』光人社NF文庫、2008年2月。ISBN 978-4-7698-2560-9 
  • 城英一郎 著、野村実 編『侍従武官 城英一郎日記』山川出版社〈近代日本史料選書〉、1982年2月。 
  • 「高松宮宣仁親王」伝記刊行委員会編『高松宮宣仁親王 自明治三十四年至大正二年』朝日新聞社、1991年3月。ISBN 4-02-256278-1 
  • 高松宮宣仁親王嶋中鵬二発行人『高松宮日記 第二巻 昭和八年一月一日~昭和十二年九月二十六日』中央公論社、1995年6月。ISBN 4-12-403392-3 
  • 外山操『艦長たちの軍艦史』光人社、2005年5月。ISBN 978-4769812463 
  • 福井静夫『終戦と帝国艦艇 わが海軍の終焉と艦艇の帰趨』出版共同社、1961年5月。 
  • 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書26 蘭印・ベンガル湾方面 海軍進攻作戦』朝雲新聞社、1969年5月。 
  • 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書第29巻 北東方面海軍作戦』朝雲新聞社
  • 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書第43巻 ミッドウェー海戦』朝雲新聞社
  • 防衛庁防衛研修所戦史部『中部太平洋方面海軍作戦<2>昭和十七年六月以降』戦史叢書第62巻、朝雲新聞社、1973年
  • 雑誌「丸」編集部『写真 太平洋戦争 第10巻』光人社、1995年7月。ISBN 978-4769820925 
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  • 丸編集部編『重巡洋艦戦記 私は決定的瞬間をこの目で見た!』光人社、2010年11月。ISBN 978-4-7698-1485-6 
    • 元「高雄」主計長・海軍主計大尉宮崎清文『軍艦「高雄」防空砲台となりて』
  • 宮崎清文『軍艦高雄始末記 短現主計科士官の回想』立花書房、1989年。ISBN 4-8037-4013-5 
  • 山本佳男『巡洋艦高雄と共に』旺史社、2003年4月。ISBN 978-4871191333 (1943〜終戦まで高雄に乗艦。終戦時、陸戦隊)
  • 雨倉孝之「ラバウル空襲 栗田艦隊の災厄」『丸別冊 太平洋戦争証言シリーズ1 空白の戦記 中・北部ソロモンの攻防戦』潮書房、1985年、313-321ページページ
  • 国立国会図書館デジタルコレクション - 国立国会図書館
    • 海軍有終会編『幕末以降帝国軍艦写真と史実』海軍有終会、1935年11月。 
    • 海軍研究社編輯部 編『ポケット海軍年鑑 : 日英米仏伊独軍艦集. 1937,1940年版』海軍研究社、1937年2月。 
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  • アジア歴史資料センター(公式)(防衛省防衛研究所)
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    • Ref.C08030774900「昭和17年3月〜昭和17年5月 軍艦高雄行動関係書類綴(1)」
    • Ref.C08030775000「昭和17年3月〜昭和17年5月 軍艦高雄行動関係書類綴(2)」
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    • Ref.C08030570100「昭和18年12月1日〜昭和19年11月30日 軍艦高雄戦時日誌(5)」
    • Ref.C08030570200「昭和18年12月1日〜昭和19年11月30日 軍艦高雄戦時日誌(6)」(レイテ沖海戦戦闘詳報)
    • Ref.C08030570300「昭和18年12月1日〜昭和19年11月30日 軍艦高雄戦時日誌(7)」

関連項目

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