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朝潮 (朝潮型駆逐艦)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
朝潮
基本情報
建造所 佐世保海軍工廠
運用者  大日本帝国海軍
艦種 駆逐艦
級名 朝潮型駆逐艦
艦歴
発注 ②計画
起工 1935年9月7日
進水 1936年12月16日
竣工 1937年8月31日
最期 1943年3月3日戦没
除籍 1943年4月1日
要目
基準排水量 約2,000t
公試排水量 2,400t
全長 118.00 m
最大幅 10.386 m
吃水 3.69 m (平均)
主缶 艦本式ロ号重油専焼缶3基
主機 オール・ギアードタービン2基2軸
出力 50,000hp
最大速力 34.85kt
燃料 重油580t
航続距離 18ktで5,190浬
乗員 230名
兵装 新造時
50口径12.7cm連装砲 3基6門
25mm機銃 II×2
(または13mm機銃 II×2)
61cm4連装魚雷発射管 2基8門
(九〇式魚雷16本)
九一式爆雷×36
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「朝潮」

朝潮(あさしお / あさしほ)は、大日本帝国海軍に所属した朝潮型駆逐艦1番艦[1][2]1937年(昭和12年)8月に竣工した。日本海軍の艦船名としては白雲型駆逐艦朝潮[3]に続き2隻目。太平洋戦争南方作戦バリ島沖海戦に参加。1942年(昭和17年)6月のミッドウェー作戦最上型重巡洋艦4隻を掩護した。ガダルカナル島攻防戦に投入され、駆逐艦輸送第三次ソロモン海戦に参加した。1943年(昭和18年)3月3日ビスマルク海海戦で撃沈された。

艦名は海上自衛隊潜水艦に継承された[4]

艦歴

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太平洋戦争まで

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仮称第75号駆逐艦として建造計画がはじまった[5]1935年(昭和10年)9月6日、佐世保海軍工廠で建造予定の駆逐艦に『朝潮』の艦名が与えられた[1][6]。同日附で艦艇類別等級表朝潮型駆逐艦を新設[7]9月7日に起工[8][9]1936年(昭和11年)12月16日に進水した[8][4]。 12月28日、佐世保海軍工廠に朝潮艤装員事務所を設置[10]

1937年(昭和12年)8月31日に竣工した[8][11]。第二次軍備補充計画(②計画)では海風型駆逐艦(改白露型)を14隻建造の予定であったが、ロンドン海軍軍縮条約脱退もあり4隻で建造を打ち切り、残りの10隻は設計を改め朝潮型として建造した。竣工と同日附で佐世保鎮守府警備戦隊に編入[12]10月31日、朝潮型3隻(朝潮、大潮、満潮)で第25駆逐隊が編制された[13]

1937年(昭和12年)11月から12月にかけて中支方面で活動した[11][14]。日本に帰投後の12月29日、佐世保海軍工廠での検査でタービン翼の破損が発見され、同型艦3隻(大潮、満潮、荒潮)とともに改造工事を実施した(臨機調事件[15]1938年(昭和13年)1月13日、荒潮が第25駆逐隊に編入された[16]

1939年(昭和14年)11月1日、横須賀鎮守府へ転籍[11]。同日附で第25駆逐隊は第8駆逐隊となった[17]。同時に第二艦隊第二水雷戦隊に編入され、以後中国方面で活動した[11]

太平洋戦争直前の1941年(昭和16年)7月30日から8月14日まで第二水雷戦隊旗艦となった[18][19]。9月1日、阿部俊雄大佐が第8駆逐隊司令に任命された[20]

太平洋戦争緒戦

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太平洋戦争開戦時、第8駆逐隊は第三戦隊第2小隊(金剛榛名)、第四戦隊(愛宕高雄摩耶)、第4駆逐隊(野分舞風萩風)、第6駆逐隊第1小隊()と共に南方部隊の本隊に所属した[21]。開戦とともに第8駆逐隊はマレー第一次上陸作戦、リンガエン湾上陸作戦を支援[11]1942年(昭和17年)1月よりアンボンマカッサル攻略作戦に従事する[11]。2月中旬、第8駆逐隊は第一根拠地隊(司令官久保九次少将:軽巡長良〔旗艦〕、第21駆逐隊《若葉子日初霜》)の指揮下でバリ島攻略作戦に参加した。

2月19日-20日、第8駆逐隊第1小隊(大潮、朝潮)はABDA艦隊の軽巡洋艦3隻、駆逐艦7隻と交戦、駆逐艦「ピートハイン英語版」を撃沈し、蘭軽巡トロンプと米駆逐艦スチュワートに損傷を与えた(バリ島沖海戦[22]。しかし海戦終盤になって戦場に到着した第8駆逐隊第2小隊(満潮、荒潮)はABDA艦隊の反撃を受け、「満潮」が大破した[14]。第一根拠地隊(長良、若葉、子日、初霜)に護衛されて退避中、空襲により「大潮」も損傷した。 後日(同年12月8日)、山本五十六連合艦隊司令長官はバリ島沖海戦における第8駆逐隊の活躍に感状を与えた[23]。大潮、満潮はマカッサルで応急修理に入った[24][25]

朝潮と荒潮は、つづいてジャワ島攻略作戦に参加した[11]。3月14日、第8駆逐隊司令は小川莚喜中佐に交代した[26]。 翌日、3隻(神通、朝潮、荒潮)は内地に向け出港する[27][28]。19日、駆逐艦黒潮が合流、朝潮と荒潮は2隻(神通、黒潮)と分離し、パラオで補給することになった[29]。24日、横須賀到着[30][31]。 内地帰投後、3月25日から4月15日まで横須賀で修理を行った[32]。 修理中の4月10日、第8駆逐隊は第二艦隊・第四水雷戦隊(司令官西村祥治少将)に編入した[33][34]

4月18日、米空母が東京など日本本土を空襲し、第二艦隊に追撃の指令が下った。朝潮と荒潮は重巡2隻(愛宕高雄)、第10駆逐隊(夕雲巻雲風雲)、第7駆逐隊()、第4駆逐隊(野分)、空母祥鳳と横須賀を出撃したが、米空母は撤退しており戦闘はなかった[35][36][37]。この出撃で荒潮は1番主砲の防水帯が故障し、朝潮は悪天候で負傷者を出し速力を出せなくなった[38]

5月15日、大潮、満潮が第8駆逐隊から外れた[39]。5月20日、ミッドウェー攻略作戦の攻略部隊支援隊が、最上型重巡洋艦4隻(熊野鈴谷三隈最上)の第七戦隊と第8駆逐隊で編成された[40][41]

ミッドウェー海戦

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攻略部隊支援隊は5月28日夕刻、グァム島を出撃した[42]6月5日、支援隊はミッドウェー島砲撃を命じられ、朝潮と荒潮は第七戦隊の高速航行に付随できず脱落[43][44]。その作戦行動中に、三隈と最上の衝突事故が起きた[45][46]。三隈、最上と合流した朝潮と荒潮は、6月6日から6月7日にかけて米軍ミッドウェー基地航空隊と米軍機動部隊艦載機の攻撃を受ける[47][48]6月7日の空襲により三隈は沈没、最上も大破した[48][49]。8駆(朝潮、荒潮)は損傷を受けつつ三隈生存者を救助[50]。朝潮は至近弾で重油タンクに損傷を受け、燃料不足に悩むことになった[50]。朝潮は残存3隻(最上、朝潮、荒潮)の中で損傷が少なかったため、三隈の沈没現場を救助作業に当たった捜索させた[50]。だが重油や浮遊物を発見したのみであった[50]

8駆(朝潮、荒潮)は引続き最上を護衛して戦場から離脱[51][52]6月8日午前中に[53]攻略部隊(第二艦隊基幹)と合流した[52][54]山本五十六連合艦隊司令長官は、最上と第8駆逐隊に対する燃料補給およびトラック泊地への避退を下令(護衛は第七戦隊第1小隊と第18駆逐隊)[55]。同日、第七戦隊・第8駆逐隊・第18駆逐隊は攻略部隊から分離、トラック泊地に向かった[56]

6月14日、熊野、鈴谷、最上、朝潮、荒潮、第18駆逐隊《不知火陽炎[57][58]、油槽船日栄丸はトラック泊地に到着[56][59]。 工作艦「明石」および第四工作部による応急修理を受けたのち、「朝潮」は6月29日にトラックより出航して7月1日にサイパンに着き、そこからは水上機母艦「能登呂」を護衛して7月9日に佐世保に着いた[60]

日本本土に帰投した朝潮と荒潮は、佐世保海軍工廠で修理に従事する[61]。7月14日、朝潮と荒潮は特別役務駆逐艦となった[62]。 朝潮は7月25日、修理完成[63]。 7月27日、横須賀に向けて呉を出発[64]。移動後、横須賀鎮守府長官平田昇中将の視察を受けた[65]

8月1日、朝潮、荒潮は警備駆逐艦となる[66][67]。荒潮の修理が長期に及んだため、朝潮は横須賀を拠点に、各艦(長波旗風澤風)等と船団護衛任務や哨戒任務に従事した[68][69]。 8月18日、駆逐艦2隻(朝潮、朧)は横須賀からトラック泊地へ向かう練習巡洋艦香取特設潜水母艦平安丸を途中まで護衛した[70][71]。 8月29日、横須賀を出発しヤルート環礁に進出(9月5日着、6日出発)、9月14日に横須賀へ戻った[11][72]。 9月22日、駆逐艦「朝潮」、「高波」は沖輸送(陸軍部隊輸送)のため佐伯進出を下令される[73]。第二船団護隊(朝潮、朝凪)を編制[74]。9月27日の出撃後[75]、途中で「朝凪」に護衛を引き継ぎ[76]、本艦は横須賀に戻った。

ソロモン諸島の戦い

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1942年(昭和17年)10月20日、第8駆逐隊に満潮が復帰した[77]。第8駆逐隊は第八艦隊(司令長官三川軍一中将)に編入された[78][11]。 10月22日、第8駆逐隊(満潮、朝潮)は横須賀を出発、10月30日にラバウルへ到着[11][14]。11月1日からガダルカナル島輸送作戦(鼠輸送/東京急行)に従事する。

11月1日、増援部隊は第一攻撃隊(衣笠、川内、天霧初雪)を率いて1日23時にショートランド泊地を出撃した[79]。 甲増援隊(駆逐艦朝雲、軽巡天龍、第2駆逐隊《村雨春雨夕立》、第27駆逐隊《時雨白露有明夕暮》、第6駆逐隊《》、第11駆逐隊《白雪》)および乙増援隊(満潮、朝潮、第19駆逐隊《浦波敷波綾波》、望月)も第一攻撃隊と前後してショートランド泊地を出撃した[80]。甲増援部隊の揚陸はガ島揚陸地点の強風波浪により一部失敗したが[79]、乙増援部隊の輸送は成功した[81]

11月4日、甲増援隊(朝雲、村雨、春雨、夕立、時雨、白露、有明、夕暮、朝潮、満潮)は4日23時30分にショートランド泊地を出撃[82]。乙増援隊(浦波、敷波、綾波、白雪、望月、天龍)は5日午前0時に同泊地を出撃した[82]。5日深夜、各隊はガ島揚陸に成功し[83]、2隻(朝雲、天龍)が米潜水艦に雷撃されるも損害はなかった[82]。7日、ガ島輸送は乙増援隊(朝雲、望月、村雨、夕立、時雨、白露、夕暮、朝潮、満潮)によって実施された[84]。7日23時にショートランド泊地を出撃、輸送作戦は成功した[84]

11月12日以降、ガダルカナル島ヘンダーソン飛行場基地に対する砲撃と日本軍輸送船団をめぐり、日米双方は主力艦隊を投入して大規模海戦に発展した(第三次ソロモン海戦)。12日の第一次夜戦で日本海軍は3隻(戦艦《比叡》、駆逐艦《夕立》)を喪失、飛行場砲撃も中止された[85][86]。 11月13日未明、アメリカ軍大型機の空襲により出撃準備中の満潮が大破[87][88]。このため主隊所属の朝潮が飛行場砲撃時に支援隊を護衛することになった[85]。 同日午前3時-4時30分、外南洋部隊主隊(重巡《鳥海衣笠》、軽巡洋艦《五十鈴》)と外南洋部隊支援隊(重巡《鈴谷摩耶》、天龍、第10駆逐隊《夕雲巻雲風雲》、朝潮)はショートランド泊地を出撃する[89]。同日23時30分より鈴谷、摩耶はヘンダーソン飛行場砲撃を敢行するが、飛行場の作戦能力に影響はなかった[90][91][92]。 このあとガ島海域を離脱してニュージョージア諸島南方を航行中の外南洋部隊は空母エンタープライズ艦載機とヘンダーソン基地から飛来した急降下爆撃機SBDドーントレスおよび雷撃機TBFアベンジャーの攻撃を受ける[90]。衣笠が沈没し、朝潮は損傷した軽巡五十鈴を護衛して帰投した。

11月17日朝、朝潮以下、外南洋部隊主力艦艇はラバウルに到着、パプアニューギニアのブナに上陸した連合軍に対処することになった(ブナ・ゴナの戦い[93]。駆逐艦3隻(朝潮、海風江風)と鴻型水雷艇2隻による陸兵500名のバサブア輸送作戦は、揚陸中にB-17の空襲をうけて3隻が損傷(海風大破、江風中破、朝潮小破)[94][95]。海風は航行不能となった[96]。江風は単艦で退避、朝潮は海風を曳航して21日ラバウルへ戻った[97][98]。ラバウルに停泊中だった駆逐艦2隻(親潮、陽炎)も救援のため出撃している[99]

12月1日午前0時、第8駆逐隊司令指揮下の駆逐艦4隻(朝潮、荒潮、磯波[100]はブナ輸送のためラバウルを出撃する[101][102]。アメリカ軍大型爆撃機の執拗な空襲に悩まされた上に揚陸地点で大発動艇部隊との連絡がつかず、2日未明に一部物件を揚陸したにとどまった[101][103]。電・朝潮はB-17と交戦して撃墜された友軍航空機搭乗員1名をそれぞれ救助した[104]。 12月8日早朝、風雲、夕雲、朝潮、荒潮、磯波、電はブナ輸送を実施するためラバウルを出撃した[105]。8時15分、飛来したB-24(1機)を味方機と誤認した朝潮は空襲を受け艦尾に至近弾となり二番・三番砲塔損傷[105][106][107]、中破した[108]天龍が救援に向かう中、外南洋部隊の下令に従い輸送駆逐隊は反転した[105]。帰途、磯波も至近弾で小破した[105]

応急修理後の12月17日、陸兵輸送のため朝潮と望月はラバウルを出撃してカビエン(ニューアイルランド島)へ移動、18日にカビエン出撃、19日にダンピール海峡ニューギニア側のフォン半島フィンシュハーフェンへ陸兵約250名を揚陸した[109][110][111]。帰途、空襲をうけた望月は死傷者40数名を出した[112]。 12月20日、カビエンに回航(望月はラバウル帰投)[113][114]。朝潮は重巡2隻(熊野鈴谷)より燃料補給を受けた[115]。21日、朝潮はカビエンを出発、ラバウルへ向かった[116]。 12月22日、外南洋部隊は朝潮にショートランド泊地への移動を下令[117]。同地に取り残されていた満潮をトラック泊地までの曳航、駆逐艦天霧に護衛を命じた[117]。 12月29日、大潮が第8駆逐隊に復帰、最前線に進出した[118]

1943年(昭和18年)1月7日、駆逐艦6隻(電、磯波、有明、夕暮、朝潮、天霧)、鈴谷、戦艦陸奥、空母瑞鶴はトラック泊地を出発、内地へ向かった[119][120]。12日、3隻(陸奥、朝潮、電)は横須賀に帰投する[121]

2月7日、駆逐艦3隻(村雨浦波、朝潮)は空母冲鷹を護衛して横須賀を出港[122][123]。2月12日、4隻はトラック到着[124]。2月15日、駆逐隊司令に佐藤康夫大佐が就任した[125]。 2月20日、大潮が米潜水艦アルバコア の雷撃で大破[88]2月21日に沈没した[126][127]。22日夜、朝潮と浦波はマダンに陸軍航空基地員250名を揚陸した[128]

沈没

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3月1日、第8駆逐隊(朝潮、荒潮)は第三水雷戦隊(木村昌福少将)に編入した[129]。ラエ輸送作戦(第八十一号作戦)に参加し、駆逐艦8隻(白雪浦波敷波朝潮荒潮朝雲雪風時津風)で輸送船8隻(陸軍輸送船7隻、海軍運送艦野島)を護衛することになった[130]。船団は2月28日夜半にラバウルを出発したが、3月2日の空襲で旭盛丸が沈没、特務艦野島が損傷した[131][132]。 さらに3月3日0750以降、ニューギニア島フォン半島クレチン岬南東で米豪軍機の空襲を受け[133]、白雪、時津風、荒潮が戦闘開始直後に被弾した[134]零式艦上戦闘機約40機が上空直掩をおこなっていたが、爆撃機を護衛する米戦闘機約50との空戦に巻き込まれた上に多方向から襲来する連合軍大型爆撃機に対処できなかった[135]

健在の艦5隻は生存午前9時以降に者の救助を開始するが、1035の『敵機24発進』という報告により、木村司令官は救助作業中止とロング島北方海面への避退・集結を命じた[134][136]。第8駆逐隊司令佐藤康夫大佐は『が野島艦長トノ約束アリ 野島救援ノ後避退ス』と木村司令官に懇願し、朝潮単艦で特務艦野島荒潮の救援にむかった[134]。朝潮は荒潮の負傷者と陸兵を収容[137]。つづいて炎上する野島より生存者を救助し、ラバウルへ避退しようと試みたが[138]、1315に二回にわたる敵機(約40)の攻撃を受け、ダンピア海峡で撃沈された[134][139]。 この戦闘で佐藤司令も戦死し、野島の松本亀太郎艦長は生還した[134][138]。この戦闘で救助者も含め299名が戦死[88]。2300から4日1000にかけて3隻(敷波、朝雲、雪風)と増援の駆逐艦初雪が沈没海域に戻り、生存者を救助してラバウルへ戻った[140]。この戦闘後、荒潮と時津風も沈没した。

4月1日、帝国駆逐艦籍から除籍された[141]

歴代艦長

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艤装員長
  1. 成田茂一 中佐:1936年12月16日[142] - 1937年8月1日[143]
駆逐艦長
  1. 成田茂一 中佐:1937年8月1日[143] - 1937年12月1日[144]
  2. 脇田喜一郎 少佐/中佐:1937年12月1日[145] - 1938年12月15日[146]
  3. 横井稔 少佐:1938年12月15日[147] - 1939年5月20日[148]
  4. (兼)飛田健二郎 少佐:1939年5月20日[148] - 1939年10月15日[149](本職:大潮駆逐艦長)
  5. 横井稔 少佐/中佐:1939年10月15日[149] - 1940年10月15日[150]
  6. 藤田勇 少佐/中佐:1940年10月15日[151] - 1941年9月10日[152]
  7. 吉井五郎 少佐/中佐:1941年9月10日[152] - 1943年4月1日[153](3月3日 戦死、同日付任海軍大佐[154]

参考文献

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  • 石渡幸二「不滅の駆逐艦長吉川潔」『太平洋戦争の提督たち』中央公論社、1997年12月。ISBN 4-12-203014-5 
  • 生出寿連合艦隊・名指揮官の生涯 戦場の将器 木村昌福』光人社、1997年12月。ISBN 4-7698-0835-6 
  • 草鹿任一『ラバウル戦線異状なし 我等かく生きかく戦えり』光和堂、1958年7月。 
  • 佐藤和正『艦長たちの太平洋戦争 続編 17人の艦長が語った勝者の条件』光人社NF文庫、1995年12月。ISBN 4-7698-2106-9 
    • 命令誤認 <砲艦「橋立」艦長・山代勝守大佐の証言>(太平洋戦争時、橋立艦長、第8駆逐隊司令、第11駆逐隊司令等)
  • 高松宮宣仁親王、嶋中鵬二『高松宮日記 第五巻 昭和十七年十月〜昭和十八年二月十一日』中央公論社、1996年11月。ISBN 4-12-403396-6 
  • 高松宮宣仁親王、嶋中鵬二『高松宮日記 第六巻 昭和十八年二月十二日〜九月』中央公論社、1997年3月。ISBN 4-12-403396-6 
  • 寺内正道ほか『海軍駆逐隊 駆逐艦群の戦闘部隊編成と戦場の実相』潮書房光人社、2015年9月。ISBN 978-47698-1601-0 
    • 戦史研究家海老原康之『夜戦の白眉 "第八駆逐隊" 朝潮型四隻の奮戦 朝潮、大潮、満潮、荒潮。第二水雷戦隊所属の精鋭たちのバリ島沖海戦
    • 当時「時津風」水雷科指揮所伝令・海軍一等水兵桝谷克彦『ラエ輸送の悲劇 炎と波とわが時津風と 反跳爆撃に斃れた第十六駆逐隊=時津風と雪風のビスマルク海海戦
  • イアン・トール著、村上和久訳「第十二章 決戦のミッドウェイ」『太平洋の試練 真珠湾からミッドウェイまで 下』文藝春秋、2013年6月。ISBN 978-4-16-376430-6 
  • 中島親孝『聯合艦隊作戦室から見た太平洋戦争 参謀が描く聯合艦隊興亡記』光人社NF文庫、1997年10月(原著1988年)。ISBN 4-7698-2175-1 
  • 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書26 蘭印・ベンガル湾方面 海軍進攻作戦』朝雲新聞社、1969年5月。 
  • 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書29 北東方面海軍作戦』朝雲新聞社、1969年8月。 
  • 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 ミッドウェー海戦』 戦史叢書第43巻、朝雲新聞社、1971年3月。 
  • 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書62 中部太平洋方面海軍作戦(2) 昭和十七年六月以降』朝雲新聞社、1973年2月。 
  • 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書83 南東方面海軍作戦(2) ガ島撤収まで』朝雲新聞社、1975年8月。 
  • 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書96 南東方面海軍作戦(3) ガ島撤収後』朝雲新聞社、1976年8月。 
  • 雑誌『丸』編集部 編『ハンディ判日本海軍艦艇写真集17 駆逐艦初春型・白露型・朝潮型・陽炎型・夕雲型・島風』光人社、1997年10月。ISBN 4-7698-0818-6 
  • 「丸」編集部編「曾爾章 重巡「最上」出撃せよ ミッドウエーの惨劇を艦長が吐露する痛恨の手記」『巡洋艦戦記 重巡「最上」出撃せよ』光人社、2011年8月(原著1990年)。ISBN 978-4-7698-2700-9 
  • アジア歴史資料センター(公式)(防衛省防衛研究所)
    • 『昭和16年6月30日現在10版内令提要追録第9号(上)原稿:巻1追録/第6類機密保護』。Ref.C13071997700。 
    • 『昭和16年12月31日現在10版内令提要追録第10号原稿巻2.3(防衛省防衛研究所) 巻3追録/第13類 艦船(1)』。Ref.C13072003500。 
    • 『昭和10年 達 完/達昭和10年9月』。Ref.C12070099000。 
    • 『昭和17年4月〜6月内令2巻/昭和17年5月(2)』。Ref.C12070162800。 
    • 『昭和17年7月〜9月 内令3巻/昭和17年7月分(2)』。Ref.C12070164100。 
    • 『昭和17年7月〜9月 内令3巻/昭和17年8月分(1)』。Ref.C12070164400。 
    • 『昭和17年10月〜12月内令4巻止/昭和17年10月(4)』。Ref.C12070166000。 
    • 『昭和17年11月(4) 内令(昭和17年11月17日〜昭和17年11月25日)』。Ref.C12070173700。 
    • 『昭和17年10月〜12月 内令4巻止/昭和17年12月(5)』。Ref.C12070167100。 
    • 『昭和18年1月〜4月 内令1巻/内令昭和18年4月(1)』。Ref.C12070176200。 
    • 『昭和17年3月1日〜昭和17年5月31日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(1)』。Ref.C08030094200。 
    • 『昭和17年3月1日〜昭和17年5月31日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(2)』。Ref.C08030094300。 
    • 『昭和17年3月1日〜昭和17年5月31日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(3)』。Ref.C08030094400。 
    • 『昭和17年3月1日〜昭和17年3月31日 横須賀鎮守府戦時日誌(5)』。Ref.C08030316200。 
    • 『昭和17年4月1日〜昭和17年4月30日 横須賀鎮守府戦時日誌(1)』。Ref.C08030316600。 
    • 『昭和17年4月1日〜昭和17年4月30日 横須賀鎮守府戦時日誌(2)』。Ref.C08030316700。 
    • 『昭和17年4月1日〜昭和17年4月30日 横須賀鎮守府戦時日誌(3)』。Ref.C08030316800。 
    • 『昭和17年4月1日〜昭和17年4月30日 横須賀鎮守府戦時日誌(4)』。Ref.C08030316900。 
    • 『昭和17年4月1日〜昭和17年4月30日 横須賀鎮守府戦時日誌(5)』。Ref.C08030317000。 
    • 『昭和17年4月1日〜昭和17年4月30日 横須賀鎮守府戦時日誌(6)』。Ref.C08030317100。 
    • 『昭和17年4月1日〜昭和17年4月30日 横須賀鎮守府戦時日誌(7)』。Ref.C08030317200。 
    • 『昭和17年4月1日〜昭和17年6月30日 第4水雷戦隊戦時日誌(1)』。Ref.C08030112300。 
    • 『昭和17年4月1日〜昭和17年6月30日 第4水雷戦隊戦時日誌(2)』。Ref.C08030112400。 
    • 『昭和17年4月1日〜昭和17年6月30日 第4水雷戦隊戦時日誌(3)』。Ref.C08030112500。 
    • 『昭和17年6月1日〜昭和17年6月30日 ミッドウエー海戦戦時日誌戦闘詳報(1)』。Ref.C08030040400。 
    • 『昭和17年11月〜昭和17年12月 第7戦隊戦時日誌(1)』。Ref.C08030768600。 
    • 『昭和17年6月1日~昭和19年6月30日 あ号作戦戦時日誌戦闘詳報(4)』。Ref.C08030040100。  表題は『あ号作戦』だが昭和17年6月二水戦日誌収録。
    • 『昭和17年7月1日〜昭和17年7月31日 佐世保鎮守府戦時日誌(1)』。Ref.C08030337100。 
    • 『昭和17年7月1日〜昭和17年7月31日 佐世保鎮守府戦時日誌(2)』。Ref.C08030337200。 
    • 『昭和17年7月1日〜昭和17年7月31日 佐世保鎮守府戦時日誌(3)』。Ref.C08030337300。 
    • 『昭和17年7月1日〜昭和17年7月31日 佐世保鎮守府戦時日誌(4)』。Ref.C08030337400。 
    • 『昭和17年7月1日〜昭和17年7月31日 横須賀鎮守府戦時日誌(1)』。Ref.C08030319500。 
    • 『昭和17年7月1日〜昭和17年7月31日 横須賀鎮守府戦時日誌(2)』。Ref.C08030319600。 
    • 『昭和17年7月1日〜昭和17年7月31日 横須賀鎮守府戦時日誌(3)』。Ref.C08030319700。 
    • 『昭和17年7月1日〜昭和17年7月31日 横須賀鎮守府戦時日誌(4)』。Ref.C08030319800。 
    • 『昭和17年7月1日〜昭和17年7月31日 横須賀鎮守府戦時日誌(5)』。Ref.C08030319900。 
    • 『昭和17年7月1日〜昭和17年7月31日 横須賀鎮守府戦時日誌(6)』。Ref.C08030320000。 
    • 『昭和17年8月1日〜昭和17年8月31日 横須賀鎮守府戦時日誌(1)』。Ref.C08030320400。 
    • 『昭和17年8月1日〜昭和17年8月31日 横須賀鎮守府戦時日誌(2)』。Ref.C08030320500。 
    • 『昭和17年8月1日〜昭和17年8月31日 横須賀鎮守府戦時日誌(3)』。Ref.C08030320600。 
    • 『昭和17年8月1日〜昭和17年8月31日 横須賀鎮守府戦時日誌(4)』。Ref.C08030320700。 
    • 『昭和17年8月1日〜昭和17年8月31日 横須賀鎮守府戦時日誌(5)』。Ref.C08030320800。 
    • 『昭和17年8月1日〜昭和17年8月31日 横須賀鎮守府戦時日誌(6)』。Ref.C08030320900。 
    • 『昭和17年8月1日〜昭和17年8月31日 横須賀鎮守府戦時日誌(7)』。Ref.C08030321000。 
    • 『昭和17年9月1日〜昭和17年12月31日 呉鎮守府戦時日誌(1)』。Ref.C08030325500。 
    • 『昭和17年9月1日〜昭和17年9月30日 佐世保鎮守府戦時日誌(4)』。Ref.C08030338700。 
    • 『昭和17年7月1日〜昭和17年11月30日 呉防戦戦時日誌(3)』。Ref.C08030366600。 
    • 『昭和17年4月10日〜昭和19年4月24日 第2海上護衛隊司令部戦時日誌(2)』。Ref.C08030142600。 
    • 『昭和17年9月14日〜昭和18年8月15日 第8艦隊戦時日誌(2)』。Ref.C08030022600。 
    • 『昭和17年9月14日〜昭和18年8月15日 第8艦隊戦時日誌(3)』。Ref.C08030022700。 
    • 『昭和17年9月14日〜昭和18年8月15日 第8艦隊戦時日誌(4)』。Ref.C08030022800。 
    • 『昭和17年9月14日〜昭和18年8月15日 第8艦隊戦時日誌(5)』。Ref.C08030022900。 
    • 『昭和17年9月14日〜昭和18年8月15日 第8艦隊戦時日誌(6)』。Ref.C08030023000。 
    • 『昭和16年12月4日〜昭和17年11月5日 鳥海戦闘詳報(馬来沖海戦. ソロモン海戦等)(1)』。Ref.C08030746900。 
    • 『昭和16年12月4日〜昭和17年11月5日 鳥海戦闘詳報(馬来沖海戦. ソロモン海戦等)(2)』。Ref.C08030747000。 
    • 『昭和17年10月1日〜昭和17年10月31日 第4水雷戦隊戦時日誌(1)』。Ref.C08030113800。 
    • 『昭和17年10月1日〜昭和17年10月31日 第4水雷戦隊戦時日誌(2)』。Ref.C08030113900。 
    • 『昭和17年10月1日〜昭和17年10月31日 第4水雷戦隊戦時日誌(3)』。Ref.C08030114000。 
    • 『昭和17年10月1日〜昭和17年10月31日 第4水雷戦隊戦時日誌(4)』。Ref.C08030114100。 
    • 『昭和17年11月1日〜昭和17年11月31日 第4水雷戦隊戦時日誌(1)』。Ref.C08030114700。 
    • 『昭和17年11月1日〜昭和17年11月31日 第4水雷戦隊戦時日誌(2)』。Ref.C08030114800。 
    • 『昭和17年11月1日〜昭和17年11月31日 第4水雷戦隊戦時日誌(3)』。Ref.C08030114900。 
    • 『昭和17年11月1日〜昭和17年11月31日 第4水雷戦隊戦時日誌(4)』。Ref.C08030115000。 
    • 『昭和17年10月31日〜昭和17年11月18日 第4水雷戦隊戦闘詳報(1)』。Ref.C08030115400。 
    • 『昭和17年10月31日〜昭和17年11月18日 第4水雷戦隊戦闘詳報(2)』。Ref.C08030115500。 
    • 『昭和17年10月31日〜昭和17年11月18日 第4水雷戦隊戦闘詳報(3)』。Ref.C08030115600。 
    • 『昭和17年10月31日〜昭和17年11月18日 第4水雷戦隊戦闘詳報(4)』。Ref.C08030115700。 
    • 『昭和17年11月〜昭和17年12月 第7戦隊戦時日誌(1)』。Ref.C08030768400。 
    • 『昭和17年11月〜昭和17年12月 第7戦隊戦時日誌(2)』。Ref.C08030768400。 
    • 『昭和17年11月〜昭和17年12月 第7戦隊戦時日誌(3)』。Ref.C08030768400。 
    • 『昭和17年11月〜昭和17年12月 第7戦隊戦時日誌(4)』。Ref.C08030768400。 
    • 『昭和17年11月〜昭和17年12月 第7戦隊戦時日誌(5)』。Ref.C08030768400。 
    • 『昭和17年11月1日〜昭和17年11月15日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(1)』。Ref.C08030098800。 
    • 『昭和17年11月1日〜昭和17年11月15日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(2)』。Ref.C08030098900。 
    • 『昭和17年11月1日〜昭和17年11月15日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(3)』。Ref.C08030099000。 
    • 『昭和17年11月1日〜昭和17年11月15日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(4)』。Ref.C08030099100。 
    • 『昭和17年9月1日〜昭和17年12月24日 第18戦隊戦時日誌戦闘詳報(7)』。Ref.C08030063300。 
    • 『昭和17年9月1日〜昭和17年12月24日 第18戦隊戦時日誌戦闘詳報(7)』。Ref.C08030063400。 
    • 『昭和17年11月29日〜昭和17年12月28日 外南洋部隊増援部隊戦闘詳報戦時日誌(3)』。Ref.C08030099700。 
    • 『昭和17年12月1日〜昭和18年4月30日 第4水雷戦隊戦時日誌(1)』。Ref.C08030116000。 
    • 『昭和17年12月1日〜昭和18年4月30日 第4水雷戦隊戦時日誌(2)』。Ref.C08030116100。 
    • 『昭和17年12月1日〜昭和18年4月30日 第4水雷戦隊戦時日誌(3)』。Ref.C08030116200。 
    • 『昭和17年12月1日〜昭和18年4月30日 第4水雷戦隊戦時日誌(4)』。Ref.C08030116300。 
    • 『昭和17年12月1日〜昭和18年4月30日 第4水雷戦隊戦時日誌(5)』。Ref.C08030116400。 
    • 『昭和17年7月6日〜昭和17年12月3日 駆逐艦電戦闘詳報原稿 その1(4)』。Ref.C08030752600。 
    • 『昭和18年1月1日〜昭和18年1月31日 第7戦隊戦時日誌(1)』。Ref.C08030769100。 

脚注

[編集]
  1. ^ a b #達昭和10年9月p.4『達第百七號 艦艇製造費ヲ以テ昭和十年度ニ於テ建造ニ着手ノ驅逐艦二隻ニ左ノ通命名ス|昭和十年九月六日 海軍大臣 大角岑生|佐世保海軍工廠ニ於テ建造 驅逐艦 アサシホ|舞鶴要港工作部ニ於テ建造 驅逐艦 オホシホ
  2. ^ #昭和16年12月31日現在10版内令提要追録第10号原稿巻2.3p.8『驅逐艦|一等|朝潮、大潮、満潮、荒潮、朝雲、山雲、夏雲、峯雲、霞、霰』
  3. ^ #海軍制度沿革(巻8、1940)p.59『大正十一年四月一日(達四八)艦艇類別等級別表中左ノ通改正ス 軍艦ノ欄内「、千代田」「、津輕」「、周防」「沖島、」「見島、」「橋立、」「大和、」「武藏、」ヲ、驅逐艦ノ欄内「不知火、」「陽炎、」「薄雲、」「白雲、」「朝潮、」「村雨、」「朝霧、」ヲ、水雷艇ノ欄内「雁、」「蒼鷹、」「鴿、」「燕、」「第六十七號、」「第六十八號、」「第七十號、」「第七十一號、」ヲ削ル』
  4. ^ a b #ハンディ判艦艇写真集17p.80『朝潮型建造工程一覧』
  5. ^ 第446番電 10.9.4第75号駆逐艦起工日の件 p.3」 アジア歴史資料センター Ref.C05110728100 『第七十五號驅逐艦(朝潮)起工期日ノ件上申』
  6. ^ #海軍制度沿革(巻8、1940)p.209『◎驅逐艦朝潮及大潮命名ノ件 昭和十年九月六日(達一〇七)』
  7. ^ #海軍制度沿革(巻8、1940)p.69『昭和十年九月六日(内令三四〇)艦艇類別等級別表中左ノ通改正ス 驅逐艦、一等ノ部中白露型ノ項ノ次ニ左ノ一項ヲ加フ|朝潮型|朝潮、大潮』
  8. ^ a b c #昭和16年6月30日現在艦船要目公表範囲p.20『朝潮|(艦性能略)|佐世保工廠|10-9-7|11-12-16|12-8-31|(艦兵装略)』
  9. ^ 昭和10年10月9日朝潮起工通知の件」 アジア歴史資料センター Ref.C11080574500 
  10. ^ 昭和12年1月7日(木)海軍公報第2946号 p.6」 アジア歴史資料センター Ref.C12070362300 『事務所設置 驅逐艦朝潮艤装員事務所ヲ佐世保海軍工廠内ニ設置シ、昨年十二月二十八日事務開始セリ』
  11. ^ a b c d e f g h i j #ハンディ判艦艇写真集17pp.80-81(駆逐艦『朝潮』行動年表)
  12. ^ #海軍制度沿革(巻4、1939)p.51『年月日:昭和一一.一二.一(内令四七四)|艦(戰)隊名:佐世保警備戰隊|艦船(隊)名:妙高、北上、長良、阿武隈、能登呂、第二十三驅逐隊、第二十九驅逐隊 第二十一水雷隊|艦(戰)隊編入:昭和十二年 二.一〇(内令六三)金剛/五.三一(内令二六一)第二十四驅逐隊/八.三一(内令五六〇)朝潮/一〇.一(内令六五九)第二十七驅逐隊/一〇.一〇(内令六九一)第一砲艦隊/一〇.二〇(内令七三三)第二十二驅逐隊 第二十八驅逐隊/一〇.三一(内令七六四)第二十五驅逐隊|艦(戰)隊削除:昭和十二年 四.一五(内令一五七)阿武隈 能登呂/五.一(内令二〇四)第二十一水雷隊/七.二八(内令三六七)妙高 北上 第二十三驅逐隊 第二十九驅逐隊/一〇.三一(内令七六四)朝潮』
  13. ^ #海軍制度沿革(巻4、1939)p.72『昭和一一.一二.一(内令四七一)|佐世保鎮守府|第二十五驅逐隊|梨、竹、榧|朝潮、大潮、満潮(一二.一〇.三一 七六三)|梨、竹、榧(一二.一〇.三一 七六三)』
  14. ^ a b c #ハンディ判艦艇写真集17pp.81-82(駆逐艦『満潮』行動年表)
  15. ^ #ハンディ判艦艇写真集17pp.72-73『臨機調事件の顛末』
  16. ^ #海軍制度沿革(巻4、1939)pp.72-73『昭和一二.一二.一|佐世保鎮守府|第二十五驅逐隊|朝潮、大潮、満潮|荒潮(一三.一.八 一三)』
  17. ^ 昭和14年11月1日(水)海軍公報(部内限)第3349号 p.1」 アジア歴史資料センター Ref.C12070381800 『官房第五五八七號 本月十一月一日驅逐隊編制中改正竝ニ海軍定員令中改正施行ノ際現ニ左記上欄ノ隊ノ職員タル者ハ別ニ辭令ヲ用ヒズシテ各下欄ノ相當職員ニ補セラレタル義ト心得ベシ 昭和十四年十一月一日 海軍大臣』-『(従前ノ隊名)第八驅逐隊|(新隊名)第二十驅逐隊』-『第二十五驅逐隊|第八驅逐隊』-『呉防備隊|佐伯防備隊』
  18. ^ 昭和16年8月4日(月)海軍公報(部内限)第3862号 p.4」 アジア歴史資料センター Ref.C12070396500 『○旗艦變更 第二水雷戰隊司令官ハ七月三十日旗艦ヲ神通ヨリ朝潮ニ變更セリ/第一航空戰隊司令官ハ八月七月三十一日旗艦ヲ赤城ニ變更セリ』
  19. ^ 昭和16年8月18日(月)海軍公報(部内限)第3874号 p.4」 アジア歴史資料センター Ref.C12070396700 『○旗艦變更 第二水雷戰隊司令官ハ八月十四日旗艦ヲ朝潮ヨリ神通ニ變更セリ/第一航空戰隊司令官ハ八月七月三十一日旗艦ヲ赤城ニ變更セリ』
  20. ^ 昭和16年9月1日(発令9月1日付)海軍辞令公報(部内限)第701号 p.3」 アジア歴史資料センター Ref.C13072081900 
  21. ^ #戦史叢書26海軍進攻作戦付表第一『南方部隊作戦関係主要職員表 昭和十六年十二月八日』
  22. ^ #水雷部隊pp.105-106『大本營發表(二月二十一日午後三時十五分)』
  23. ^ 昭和18年1月27日(水)海軍公報(部内限定)第4301号 pp.14-15」 アジア歴史資料センター Ref.C12070429400 『○感状 第八驅逐隊 昭和十七年二月十九日「バリ」島急襲攻略作戰ニ際シ同日夜半「ロンボク」海峡ニ於テ我ガ上陸ヲ阻止セントシテ來襲セル敵巡洋艦二隻及驅逐艦五隻以上ト遭遇スルヤ寡勢克ク勇戰忽チ敵驅逐艦四隻ヲ撃沈シ同巡洋艦二隻及驅逐艦一隻ヲ撃破遁走セシメタルノミナラズ爾后此ノ戰闘ニ於テ損傷ヲ受ケタル僚艦ヲ曳航翌晝間ニ於ケル敵機ノ猛爆ヲ冒シテ之ヲ味方泊地ニ移シ遂ニ救出ノ目的ヲ達シタルハ其ノ武勲顕著ナリト認ム 仍テ竝ニ感状ヲ授與ス 昭和十七年十二月八日 聯合艦隊司令長官 山本五十六』
  24. ^ #S1703二水戦日誌(1)p.4『(ハ)大潮満潮ハ「マカッサル」ニ於テ應急修理』
  25. ^ #S1703二水戦日誌(2)p.20『四.参考(イ)麾下艦船部隊ノ行動』
  26. ^ 昭和17年3月16日(発令3月14日付)海軍辞令公報(部内限)第828号 p.12」 アジア歴史資料センター Ref.C13072084600 
  27. ^ #S1703二水戦日誌(1)pp.3-4『三月十五日 2sd(神通朝潮荒潮ノミ)本籍軍港ニ向ケ「マカッサル」發(略)三月二十三日2sd(16dg 18dg 8dg缺呉着 三月二十四日朝潮荒潮横須賀着}整備作業』
  28. ^ #S1703二水戦日誌(2)p.44『十五(天候略)(三)〇九〇〇神通朝潮荒潮在籍軍港ニ向ケ「マカッサル」発(「マカッサル」海峡経由)』
  29. ^ #S1703二水戦日誌(2)p.45『十八(天候略)(二)一〇三〇黒潮合同 朝潮荒潮解列「パラオ」ニ於テ補給ノ上横須賀ニ向フ 神通黒潮速力之字運動ヲ止ム』
  30. ^ #S1703二水戦日誌(2)p.46『二十四(天候略)(一)〇九〇〇朝潮荒潮横須賀着/(二)修理整備工事』
  31. ^ #S1703横鎮日誌(5)p.53『二四日(天候略)(略)二.木曾、多摩木更津ニ向ケ出港/三.朝潮、荒潮入港』
  32. ^ #S1704横鎮日誌(1)p.16『朝潮|三月二十五日|四月十五日|砲撃ニ依ル被害』-『荒潮|三月二十五日|四月十五日|砲撃ニ依ル被害』
  33. ^ #S1704四水戦日誌(1)p.9『本日附艦隊編制替ニ依リ二十四駆ハ一水戦ニ八駆ハ當隊ニ編入セラレタリ 昭南港ニ於テ朝日及101工作部ト協議シ那珂應急修理ニ関スル要務處浬ヲ終リ十二日1000将旗ヲ夏雲ニ移揚ノ上九駆一小隊ヲ率ヰ高雄ヲ経テ横須賀ニ向ヒタリ 途上十八日敵機動部隊ノ来襲ヲ聞キ我亦之ニ應ズル如ク増速セルモ荒天ノ為意ノ如クナラズ二十一日横須賀ニ歸着尓後整備作業ニ従事セリ』
  34. ^ #S1703二水戦日誌(3)p.3『(一)四月十日附戰時編制ノ改編ニ伴ヒ8dgハ4sdニ編入セラレ又同日附GF第二段作戰第一期兵力部署ノ發動ニ依リ2sd(16dg 18dg缺)ハ前進部隊ニ16dg 18dgハ特令アル迄夫々南方部隊及機動部隊ニ残留ノコトトナル』
  35. ^ #戦史叢書29北東方面184-185頁『前進部隊の作戦』
  36. ^ #S1704横鎮日誌(4)p.33『二十三日〇八〇〇 二艦隊長官|二十三日一八〇五聯合艦隊長官 軍令部總長(横鎮長官)|一.十八日一三〇〇頃敵「ノースアメリカン」型一機横須賀ニ來襲横鎮下各砲台及在泊艦船ト共ニ之ヲ撃攘セリ/二.十八日一八〇〇 四戰隊(摩耶鳥海缺)四驅(2D缺)十驅逐隊(秋雲缺)七驅逐隊、朝潮荒潮ヲ率ヰ東京灣出撃灣外ニテ摩耶ヲ併セ十九日早朝敵ノ進攻地點ヲ推定索敵ニ努メタルモ敵情ヲ得ズ/三.二十日中敵ノ補給或ハ再度空襲準備地點ヲ水偵索敵ヲ行ヒタルモ又敵情ニ關シ得ル所ナシ/四.二十日午後ハ五戰隊(那智缺)祥鳳及二水戰(驅逐隊缺)ヲ加ヘ且北方部隊、警戒部隊、二十六航戰、二十一航戰、三潜戰等ヲモ統一指揮シ北寄リニ索敵ヲ續行セルモ適確ナル敵情ヲ得ズ既ニ東方ニ遁走セルモノト判断シアリシ所遇々本行動ノ任務ヲ解カレ原部署ニ復舊スルコトトナレリ/五.二十二日一一三〇須美壽島南方ヲ西航中ノ ソ聯船調査ノ爲摩耶及巻雲ヲ分派セル外敵ニ遭遇セズ直率部隊ハ同夜東京灣ニ歸投シ本行動ニ於ケル前進部隊内臨時部署ヲ解ケル』
  37. ^ #S1704横鎮日誌(4)p.16『二十日二一五〇 二艦隊長官(宛略)前進部隊電令作第一七號 一.聯合艦隊電令作第一二五號ニ基キ第二段作戰第一旗兵力部署ニ於ケル前進部隊以外ノ隊艦ハ左ノ當該隊艦各指揮官所定ニ依リ行動スベシ/二.第五戰隊(那智缺)高雄摩耶祥鳳 第十驅逐隊(秋雲缺) 第七驅逐隊 朝潮荒潮ハ横須賀入港迄本職其ノ行動ヲ區處ス/三.二水戰(驅逐隊缺)ハ桂島ニ回航訓練ニ從事スベシ』
  38. ^ #S1704横鎮日誌(4)p.26『二十二日〇九〇〇五戰隊司令官(宛略)一.五戰隊(那智缺)二二日一九〇〇横須賀入港ノ豫定/二.荒潮ハ一番砲塔ノ防水帯呼称ノ爲半速以上困難 朝潮ハ荒天ノ爲重傷者一命アリ出シ得ル最大速力ニテモ夜間入港ナルヲ以テ驅逐艦ヲ分離シ當隊先行ス/三.高雄ハ一八〇〇頃入港ノ要アルヲ以テ分離先行セシメタリ』
  39. ^ #内令昭和17年5月(2)p.26『内令第八百五十號 駆逐隊編制中左ノ通改定セラル|昭和十七年五月十五日 海軍大臣 嶋田繁太郎|第八駆逐隊ノ項中「大潮、満潮、」ヲ削ル|第九駆逐隊ノ項中「山雲、」ヲ削ル』
  40. ^ #S1704四水戦日誌(2)pp.10-11『二十日1500旗艦ヲ夏雲ヨリ由良ニ変更同日附ニテ第二段作戰第二期兵力部署發令セラレ由良二駆九駆ハ攻略部隊主隊ニ編入セラレ八駆ハ攻略部隊支援隊ニ編入セラレタリ』
  41. ^ #ミッドウエイ作戦p.16『四、攻略部隊』
  42. ^ ミッドウェー海戦(戦史叢書)270-271頁『支援隊』
  43. ^ #ミッドウエイ作戦p.43『(ホ)距離の關係上六月七日未明以前同島に攻撃を加ふる爲7Sが全力にて進撃した爲8dgは後落の止むなきに至つた 7S單隊にて進撃中「ミツドウエイ」作戰中止のGF命令に接し五日二三三〇「ミツドウエイ」より約九〇浬の地點に於て反轉した反轉直後一番艦熊野は敵浮上潜水艦を發見したので緊急左四五度一斉回頭にて回避した』
  44. ^ ミッドウェー海戦(戦史叢書)466-467頁『支援隊ミッドウェーに急進撃』
  45. ^ #太平洋の試練(下)321頁
  46. ^ #聯合艦隊作戦室68-69頁『泣きつらに蜂』
  47. ^ ミッドウェー海戦(戦史叢書)491-492頁『「三隈、最上」の被攻撃』
  48. ^ a b ミッドウェー海戦(戦史叢書)499-450頁『「三隈、最上」敵空母機の攻撃を受け「三隈」沈没』
  49. ^ #太平洋の試練(下)323-324頁『三隈の沈没』
  50. ^ a b c d ミッドウェー海戦(戦史叢書)503-504頁
  51. ^ #ミッドウエイ作戦p.44『(リ)最上は被害甚大であつたが應急處置適切に行はれ危機を脱し六月八日〇四〇〇救援の爲急行した攻略部隊主隊に収容せられた其の跡8dg護衛の下に「トラツク」に回航應急修理の上内地に回航した』
  52. ^ a b #重巡最上出撃せよ312-313頁
  53. ^ ミッドウェー海戦(戦史叢書)517-518頁『「最上」等の収容成功』
  54. ^ #聯合艦隊作戦室69-70頁『損傷艦救援』
  55. ^ ミッドウェー海戦(戦史叢書)526-527頁『離脱成功後の作戦指導』
  56. ^ a b ミッドウェー海戦(戦史叢書)537-538頁『第七戦隊のトラック入泊』
  57. ^ #あ号作戦日誌(4)p.15『(イ)自六月一日至六月二十一日前月ニ引續キMI作戰ニ從事{2sd(15dg 18dg欠)六月二十一日横須賀歸着 15dg(早潮欠)六月二十日桂島歸着 早潮ハ引續キ航空隊ニ編入六月十四日桂島 18dgハ六月八日以後7S司令官ノ指揮下ニ入リ行動』
  58. ^ #S1704四水戦日誌(3)p.57『四.参考(一)麾下艦舩部隊ノ行動』
  59. ^ #S1704四水戦日誌(3)p.43『一四日〇九〇〇7S司令官(宛略)7S 8dg 18dg 日栄丸「トラツク」着』
  60. ^ 『中部太平洋方面海軍作戦<2>昭和十七年六月以降』28-29ページ
  61. ^ #S1707佐鎮日誌(1)pp.14-15『(一)作戰他ヨリ入港セル左記艦船ニ對スル整備工事ヲ實施セリ 伊一五九、一六二潜、長月水無月三日月讃岐丸朝潮弥生望月瑞鳳神川丸睦月文月荒潮伊良湖伊一六八潜』
  62. ^ #内令昭和17年7月(2)p.15『内令第千二百四十八號|第八驅逐隊 横須賀鎮守府予備駆逐艦 驅逐艦 朝潮、驅逐艦 荒潮 右特別役務驅逐艦ト定ム|昭和十七年七月十四日 海軍大臣 嶋田繁太郎』
  63. ^ #S1707横鎮日誌(6)pp.25-26『二五(天候略)四.朝潮本日修理完成(略)記事 一.知床、天津風、暁入港』
  64. ^ #S1707横鎮日誌(4)p.16『二十七日〇九〇〇 八驅司令(宛略)朝潮AANニ向ケCAN發』
  65. ^ #S1707横鎮日誌(4)p.23『二十九日横鎮長官(宛略)横鎮信電令第五七號 横須賀鎮守府信令 本日一三〇〇本府發呂三一潜及でりい丸ノ巡視ニ引續キ驅逐艦朝潮ノ巡視ヲ行フ』
  66. ^ #内令昭和17年8月(1)pp.10-11『内令第千四百二十四號|第八驅逐隊 横須賀鎮守府予備驅逐艦 驅逐艦 朝潮、驅逐艦 荒潮 右警備驅逐艦ト定メラル|昭和十七年八月一日 海軍大臣 嶋田繁太郎』
  67. ^ #S1708横鎮日誌(5)pp.50-51『一(天候略)三.第八驅逐隊各艦ヲ警備驅逐艦ト定メラル/四.第八驅逐隊ヲ東京湾方面部隊直率部隊ニ編入ス(以下略)』
  68. ^ #S1708横鎮日誌(2)pp.11-12『六日一二五〇海面防備部隊指揮官(宛略)八驅(八月一日附)長波(八月四日附)ヲ東京湾方面部隊直率部隊ニ編入ス』
  69. ^ #S1708横鎮日誌(5)pp.26-27『(イ)部下艦船部隊(特設ヲ含ム)ノ行動』
  70. ^ #S1708横鎮日誌(3)p.17『17日2341海面防備部隊指揮官|18日0800朝潮、朧艦長(横鎮参謀長)|香取及平安丸明18日1700横須賀発西水道ヲ経テ南下ス 朝潮及朧(朝潮艦長指揮)ハ洲ノ埼方面ヨリ之ヲ19日0900迄護衛セヨ(略)』
  71. ^ #S1708横鎮日誌(6)p.42『五.香取平安丸1730横須賀発西水道ヲ経テトラツクニ向ケ南下ス 朝潮及朧竝ニ館空飛行機機密横鎮信号令作第七五號ニ依ル直接護衛竝ニ対潜直衛ヲ実施ス』
  72. ^ 『中部太平洋方面海軍作戦<2>昭和十七年六月以降』159ページには「朝潮」は8月24日に横須賀鎮守府第六特別陸戦隊(横六特)の乗る「日立丸」、「神威丸」を護衛して横須賀を出港、9月5日に横六特はイミエジに上陸、とある。
  73. ^ #S1709呉鎮日誌(1)p.39『廿二日一〇二〇呉鎮参謀長(宛略)高波及朝潮ハ二十七日朝迄ニ佐伯ニ集合ノコトニ取計ヲ得度、同地ニ於テ補給ノコトニ準備シアリ』
  74. ^ #S1709佐鎮日誌(4)pp.18-『二十五日一七四五呉鎮守府司令長官(宛略)沖輸送船團直接護衛ニ關シ左ノ通定ム(中略)(ロ)第二護衛隊 一.朝潮驅逐艦長/二.朝潮(朝凪)/三.第二船團/四.「トラツク」直航朝潮ハ北緯一四度附近ニテ任務ヲ朝凪ニ引續キ便宜横須賀ニ歸投(以下略)』
  75. ^ #S1707呉防戦(3)p.8『(ヌ)九月二十七日 陸軍輸送船團(冲輸送)第一船團(加茂丸、波上丸)護衛艦 高波 哨46/第二船團(伊太利丸、伯西爾丸、桐葉丸)護衛艦 朝潮出撃』
  76. ^ #S1704第2海護(2)pp.54-55『二九|火|(天候略)(略)四.第二十九駆逐隊ハ第二梯団護衛引継ヲ了ス』
  77. ^ #内令昭和17年10月(4)pp.10-11『内令第千九百三十四號|驅逐隊編制中左ノ通改定セラル|昭和十七年十月二十日 海軍大臣 嶋田繁太郎|第八驅逐隊ノ項中「荒潮」ノ下ニ「、満潮」ヲ加フ|第三十驅逐隊ノ項中「弥生、」ヲ削ル』
  78. ^ #S1709八艦隊日誌(2)p.28『(3)軍隊区分ノ変更|第八驅|10-20|第八艦隊ニ編入』
  79. ^ a b #戦史叢書83ガ島戦346-347頁『輸送の実施』
  80. ^ #戦史叢書83ガ島戦346頁の編制では満潮のみとなっている。
  81. ^ #S1709八艦隊日誌(3)p.19『8dg(d×1缺)19dg(d×1缺)乙増援隊|11-2|「コリ」岬ニ入泊揚陸全部完了0020帰途ニ就ケリ』
  82. ^ a b c #戦史叢書83ガ島戦348-349頁
  83. ^ #S1709八艦隊日誌(3)p.19『甲、乙増援部隊|11-5|甲乙増援部隊ハ夫々「タサハロング」「エスペランス」ニ陸兵2400名及弾薬糧秣五六噸ヲ揚陸セリ』
  84. ^ a b #戦史叢書83ガ島戦351-352頁『八日の輸送』
  85. ^ a b #戦史叢書83ガ島戦377頁
  86. ^ #南東方面海軍作戦(1)p.41『(略)我亦比叡及驅逐艦二隻を喪失し敵飛行場砲撃の目的を達成することが出來なかつた』
  87. ^ #S1709八艦隊日誌(3)p.24『十一月十三日満潮至近弾ニ依リ大破浸水』
  88. ^ a b c #海軍駆逐隊、平成27154-155頁『戦績は永遠に』
  89. ^ #S1711七戦隊日誌(1)p.6『(略)〔兵力、第七戦隊(熊野欠)摩耶天龍、第十駆逐隊、朝潮〕』
  90. ^ a b #戦史叢書83ガ島戦378頁
  91. ^ #南東方面海軍作戦(1)p.42『(略)一方三川中将指揮下の第七戰隊(巡洋艦二隻)、輕巡一隻、驅逐艦四隻は第七戰隊司令官直率の下に十三日夜ガ島飛行場砲撃(二十糎砲弾約一〇〇〇發)に成功した』
  92. ^ #S1711七戦隊日誌(1)p.6『(三)13日0540外南洋部隊主隊ト共ニ「ショートランド」出撃2210「「サボ」島北西方ニ於テ主隊ト分離支援隊ヲ率ヰ「ガ」島海面ニ突入飛行場制圧射撃ヲ実施14日0004射撃ヲ終了…』
  93. ^ #戦史叢書83ガ島戦414頁
  94. ^ #S1709八艦隊日誌(3)p.23『8dg(満潮荒潮缺)鴻鵯24dg(涼風缺)|11-18|8dg24dgハ「ブナ」第二増援軍ヲ輸送セシモ海風被弾航行不能、鴻鵯ハ横五特(200名)ヲ「ラエ」ニ輸送ス』
  95. ^ #S1709八艦隊日誌(3)p.32『11.18|8dg(大潮朝潮)24dg(江風海風)|陸軍五〇〇名弾薬糧食|バサブア|揚陸中敵B-17ト交戦作業ヲ打切リ引揚グ海風大破江風中破朝潮小破ス海風ハ「ラバウル」ニ曳航ス』
  96. ^ #S1709八艦隊日誌(3)p.24『十一月十八日海風「ブイ」沖ニ於テ被弾航行不能トナル』
  97. ^ #戦史叢書83ガ島戦419頁
  98. ^ #S1711二水戦日誌(3)pp.35-36『十七(天候略)四.24dg(涼風缺)ハ8dg司令指揮ノ下ニ陸軍増援部隊ヲ乗艦二四〇〇「ラボール」發「バサブア」ニ向フ』-『十八日(天候略)三.8dg(満潮荒潮缺)24dg(涼風缺)一七〇〇「バサブア」着揚陸作業中「敵機来襲」海風江風被弾ニ依リ損傷 海風ハ朝潮曳航江風單独「ラボール」ニ向ケ避退ス/四.涼風ハ鳥海艦長ノ指揮ヲ受ケ鳥海ヲ護衛シ「トラック」ニ向フ』
  99. ^ #S1711二水戦日誌(3)pp.36-37『十九(天候略)一.一〇〇〇親潮陽炎 海風救援ノ爲「ラボール」發』
  100. ^ #S1709十八戦隊日誌(7)pp.11-13『RA陸軍第二次輸送 乙護衛隊〔指揮官8dg司令 兵力8dg(満潮欠)磯波電〕』
  101. ^ a b #戦史叢書83ガ島戦427-428頁
  102. ^ #S1709八艦隊日誌(3)p.33『12.1|8dg(朝潮荒潮)電磯波|陸軍四二五名弾薬糧食|クムシ河口|敵ノ空爆ノ為「バサブア」入泊困難ノ為「クムシ」河口ニ揚陸磯波電トモ小破』
  103. ^ #電詳報其壱(4)1707p.54『四.成果(一)間断ナキ觸接爆撃下ニ輸送兵力ノ約半数ヲ揚陸セリ (二)敵機ニ対シ主砲機銃ニヨリ攻撃セシモ撃墜スルニ至ラズ』
  104. ^ #電詳報其壱(4)1707p.14『一四〇二|電|朝潮|電|我搭乗員ヲ救助セリ軽傷』
  105. ^ a b c d #戦史叢書83ガ島戦428-429頁『混成第二十一旅団第三次輸送』
  106. ^ 電詳報其弍(1)1712p.7『〇八二五|主砲発戰発砲機銃打方始ム朝潮艦尾爆撃ヲ受ク(四個) 風-夕-磯 朝-荒-電』
  107. ^ #S1709十八戦隊日誌(7)pp.13-15『二.RA陸軍第三次輸送(略)10dg(秋雲巻雲欠)8dg(満潮欠)磯波電ハ陸軍山縣兵団第二次進出隊約一〇〇〇名及第十八軍幕僚ノ一部ヲ分乗尚揚陸舟艇及急速荷役ノ見地ヨリ糧食ハ「ドラム」罐入トシテ搭載10dg司令指揮下ニ八日〇八四三〇RR出撃開距離併陣列速力十八節(磯波電航続力ノ関係上此レ以上ノ速力使用ハ困難ナリキ)ニテ南下中〇八一五地點「ケケチ11」ニ於テ敵B-24一ヲ発見朝潮ハ其ノ外観行動共ニ味方機ナルヤノ疑アリテ増速及警戒配備下令ニ分秒ノ遅滞アリタル所敵機高度約二〇〇〇米ニテ直進攻撃シ来レル爲回避反撃充分ナラズ別項ノ被害ヲ受ケタルモ機関ニ異状ナカリシヲ以テ豫定通進撃続行』
  108. ^ #S1709八艦隊日誌(3)p.36『12.8|朝潮|中破|被爆』
  109. ^ #戦史叢書83ガ島戦450頁
  110. ^ #ニューギニア海軍作戦p.39『別紙第六 「フィンシュ」攻略作戦(自一九四二-一二-一八 至一九四二-一二-一九)』
  111. ^ #S1709十八戦隊日誌(7)p.41『一九|〇二〇〇事|フインシュ港上陸確保|8dg(朝潮)望月』
  112. ^ #S1709八艦隊日誌(3)p.66『8dg(朝潮)望月12-19|入泊前敵機ニ發セラレタルヲ以テ成功ノ算ナシト判断シ反轉セルモ命ニ依リ揚陸ヲ決行無事完了セリ歸途望月ハ至近弾ニ依リ水線附近ニ破孔ヲ生ジ死傷四〇数名ヲ出ス』
  113. ^ #S1711七戦隊日誌(5)p.12『一九(天候略)二〇一〇朝潮入港(以下略)』
  114. ^ #ニューギニア海軍作戦p.40『(八)二二三七望月「ラバウル」歸港、朝潮ハ途中分離シ「カビエン」ニ歸投セリ』
  115. ^ #S1711七戦隊日誌(5)p.39『(略)第七特別根拠地隊機密第一九一二三四番電 朝潮望月ハ「カビエン」ニ入港命ヲ待テ』-『二十日〇一〇〇支援隊指揮官|第八艦隊司令長官|発第七戰隊司令官 〇一〇〇朝潮ニ対スル補給終了朝潮満載當隊各艦燃料残額八割五分』
  116. ^ #S1711七戦隊日誌(5)p.12『二一(天候略)地.〇六〇〇朝潮「ラバウル」ニ向ケ出港(以下略)』
  117. ^ a b #S1712増援部隊詳報(3)p.39『外南洋部隊指揮官|二十二日一二三〇8dg司令天霧駆艦長〔GF 11AF 4F各司令長官 總長 外南洋部隊各司令官 満潮駆艦長 明石艦長 軍務局長〕|外南洋部隊信電令作第一七九號 一.8dg司令ハ朝潮ヲ以テ満潮ヲ曳航二十四日以後成ルベク速ニショートランド發トラツクニ回航ノ上朝潮及満潮ノ修理ニ任ズベシ/二.天霧ハムンダニ對スル輸送任務終了セバ機宜津軽ト別動シ ショートランドニ回航スベシ ショートランド到着時ヲ以テ増援部隊ヨリ除キ附属トス/三.天霧ハ8dg(荒潮缺)ノ護衛ニ任ジタル後トラックニ於テ船体兵器ノ検査修理ニ任ズベシ護衛任務中8dg司令ノ指揮ヲ承クベシ』
  118. ^ #内令昭和17年12月(5)p.21『内令第二千四百二十九號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル|昭和十七年十二月二十九日 海軍大臣 嶋田繁太郎|第八驅逐隊ノ項中「満潮」ノ下ニ「、大潮」ヲ加フ』
  119. ^ #戦史叢書83ガ島戦506-507頁『聯合艦隊撤収作戦要領』
  120. ^ #S1801七戦隊日誌(1)p.18『7日0800第三艦隊司令長官/瑞鶴陸奥鈴谷有明夕暮磯波(天霧電6日)「トラック」発』
  121. ^ #高松宮日記5巻451頁『○「陸奥」「朝潮」「電」、「横」着(一二-一〇三〇)』
  122. ^ #S1712四水戦日誌(4)p.5『(一)軍隊区分及主要任務 前進部隊 南東方面作戰支援敵艦艇撃滅 二月十四日迄 AdB電令作第一一八號同一三六號ニ依ル冲鷹警戒任務/指揮官(司令官)4sd/兵力(旗艦)村雨《司令2dg》浦波《司令19dg》朝潮(横須賀ヨリ「トラツク」回航中)冲鷹』
  123. ^ #S1712四水戦日誌(4)p.62『7日|(将旗)4sd、2dg(村雨)19dg(浦波)朝潮及冲鷹ヲ指揮シ横須賀発トラックニ回航ス 二.9dg(朝雲)五月雨「ガ」島撤収任務ニ従事』
  124. ^ #S1712四水戦日誌(4)p.63『12日|一.村雨浦波朝潮冲鷹「トラック」着冲鷹警戒任務ヲ終了ス』
  125. ^ 昭和18年2月15日(発令2月15日付)海軍辞令公報(部内限)第1054号 p.31」 アジア歴史資料センター Ref.C13072089700 『第九驅逐隊司令海軍大佐 佐藤康夫(五七二)補第八驅逐隊司令/第八驅逐隊司令海軍大佐 山代勝守(七八二)横須賀鎮守府附被仰付』
  126. ^ #S1709八艦隊日誌(5)p.32『二月二十日 大潮「アドミラリテイ」諸島北方海面ニ於テ雷撃ヲ受ケ航行不能朝潮之ヲ「トラック」ニ曳航中二十一日船体切断沈没ス』
  127. ^ #S1712四水戦日誌(4)p.41『二十日二三五五(長官)2F(宛略)AdB電令作第一四八號 (司令官)4sdハ明二十一日早朝麾下駆逐艦一隻ヲ派遣シ成ルベク速ニ「トラツク」回航中8dg(朝潮大潮)被曳航中ニ合同シ之ガ警戒ニ任ゼラレ度二十日一七〇〇ノ位置〇度五五分南一四七度八分東針路三〇度速力八節』-p.45『二十一日〇六五〇(司令)8dg(宛略)大潮乗員全部救助シ機密書類整理ス司令旗ヲ荒潮ニ移シ「ラボール」ニ向フ護衛艦ヲ復皈サレ度』
  128. ^ #戦史叢書96ガ島撤収後50頁
  129. ^ #S1709八艦隊日誌(6)p.6『(一)三月一日艦隊區分』
  130. ^ #戦史叢書96ガ島撤収後51頁
  131. ^ #戦史叢書96ガ島撤収後57頁
  132. ^ #南東方面海軍作戦(2)p.6『三月一日豫定の如くラバウル發午后より敵大型機の觸接を受け始めたが同日は被害なく翌二日〇八〇〇前後より敵大型機一〇機の爆撃を受け第五十一師団長乗船の旭盛丸被弾炎上約一時間にして沈没(人員物件は驅逐艦二隻に移載ラエに先行揚陸)した』
  133. ^ #戦史叢書96ガ島撤収後60頁
  134. ^ a b c d e #戦史叢書96ガ島撤収後61頁
  135. ^ #戦史叢書96ガ島撤収後58頁
  136. ^ #高松宮日記6巻80、104頁
  137. ^ #高松宮日記6巻86頁『○第十六駆逐隊(四-〇二一五)〇〇一五「荒潮」ノ現乗員全部一七〇名「雪風」ニ収容。同艦三日午前ノ空襲ニヨリ艦橋及二番砲被弾、舵取装置故障ニヨリ「野島」ト衝突、艦首圧潰ス。間モナク陸兵並負傷者ヲ「朝潮」ニ移乗セシメタル後、北方ニ避退中、午後再ビ被弾、航行全ク不能ニ陥リ漂流中「雪風」ニ発見セラレタルモノナリ(以下略)』
  138. ^ a b #草鹿ラバウル82頁(松本亀太郎大佐の手記より)
  139. ^ #高松宮日記6巻106-107頁『○第八艦隊司令長官(八-一九三一)「野島」艦長(松本大佐)第八一号作戦概報』
  140. ^ #戦史叢書96ガ島撤収後62頁
  141. ^ #内令昭和18年4月(1)pp.28-29『内令第五百八十二號|横須賀鎮守府在籍 驅逐艦 村雨、驅逐艦 朝潮、驅逐艦 大潮、驅逐艦 荒潮、驅逐艦 峯雲|呉鎮守府在籍 驅逐艦 白雪、驅逐艦 時津風|右帝國駆逐艦籍ヨリ除カル|横須賀鎮守府在籍 伊號第一潜水艦、伊號第十八潜水艦 右帝國潜水艦籍ヨリ除カル|昭和十八年四月一日 海軍大臣 嶋田繁太郎』
  142. ^ 昭和11年12月17日付 官報第2989号。国立国会図書館デジタルコレクション 永続的識別子 info:ndljp/pid/2959471 p.6で閲覧可能。
  143. ^ a b 昭和12年8月2日(発令8月2日付)海軍辞令公報(部内限)第17号 p.2」 アジア歴史資料センター Ref.C13072072200 
  144. ^ 昭和12年12月1日(発令12月1日付)海軍辞令公報(部内限)第99号 p.27」 アジア歴史資料センター Ref.C13072072700 
  145. ^ 昭和12年12月1日(発令12月1日付)海軍辞令公報(部内限)第99号 p.32」 アジア歴史資料センター Ref.C13072072700 
  146. ^ 昭和13年12月15日(発令12月15日付)海軍辞令公報(部内限)第273号 p.26」 アジア歴史資料センター Ref.C13072074800 
  147. ^ 昭和13年12月15日(発令12月5日付)海軍辞令公報(部内限)第273号 p.29」 アジア歴史資料センター Ref.C13072074800 
  148. ^ a b 昭和14年5月20日(発令5月20日付)海軍辞令公報(部内限)第338号 p.45」 アジア歴史資料センター Ref.C13072075700 
  149. ^ a b 昭和14年10月16日(発令10月15日付)海軍辞令公報(部内限)第391号 pp.21-22」 アジア歴史資料センター Ref.C13072076400 
  150. ^ 昭和15年10月15日(発令10月15日付)海軍辞令公報(部内限)第543号 p.34」 アジア歴史資料センター Ref.C13072079000 
  151. ^ 昭和15年10月15日(発令10月15日付)海軍辞令公報(部内限)第543号 p.38」 アジア歴史資料センター Ref.C13072079000 
  152. ^ a b 昭和16年9月10日(発令9月10日付)海軍辞令公報(部内限)第708号 pp.22-23」 アジア歴史資料センター Ref.C13072082000 
  153. ^ 昭和18年4月1日(発令4月1日付)海軍辞令公報(部内限)第1085号 p.15」 アジア歴史資料センター Ref.C13072090400 
  154. ^ 昭和19年2月22日(発令3月3日付)海軍辞令公報(部内限)第1335号 p.41」 アジア歴史資料センター Ref.C13072095900 

関連項目

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