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村雨 (白露型駆逐艦)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
村雨
村雨 (白露型駆逐艦)
基本情報
建造所 藤永田造船所
運用者  大日本帝国海軍
艦種 駆逐艦
級名 白露型駆逐艦
艦歴
発注 ①計画
起工 1934年2月1日
進水 1935年6月20日
就役 1937年1月7日
最期 1943年3月5日戦没
除籍 1943年4月1日
要目(計画時)
基準排水量 1,685トン
全長 111m
最大幅 9.9m
吃水 3.5m
ボイラー ロ号艦本式缶3基
主機 艦本式オール・ギアードタービン2基2軸 42,000hp
速力 34ノット
航続距離 18ノットで4,000
乗員 226名
兵装 50口径12.7cm連装砲 2基4門
同単装砲1基1門
40mm単装機銃2基
61cm4連装魚雷発射管2基8門
(魚雷16本)
爆雷投射機2基
爆雷16個
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村雨(むらさめ)は、日本海軍駆逐艦白露型の3番艦である[1]村雨型という表記も使われた事がある[2]。艦名は村雨に由来し、この名を受け継ぐ日本の艦艇としては、春雨型駆逐艦村雨」に続き2代目に当たる。

戦後、海上自衛隊護衛艦として初代「むらさめ」と2代「むらさめ」が就役した。

艦歴

[編集]

1933年(昭和8年)12月15日、村雨(ムラサメ)と命名[3]。第67号駆逐艦村雨は藤永田造船所1934年(昭和9年)2月1日に起工し、1935年(昭和10年)6月20日に進水した[4]。 当時は初春型駆逐艦の最新鋭艦として紹介されたこともあった[5]1937年(昭和12年)1月7日、浦賀の3番艦村雨と佐世保の4番艦夕立は同日附で竣工した[4][6]

1940年(昭和15年)10月11日、第2駆逐隊(村雨、夕立、春雨、五月雨)は紀元二千六百年記念行事に伴う観艦式に参加、第二列(長門、陸奥、伊勢、摂津、凉風、江風、《村雨、春雨、夕立、五月雨》、漣、綾波、浦波、初雪、白雪、吹雪)に配置されていた[7]

太平洋戦争緒戦

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11月、第二艦隊・第四水雷戦隊に編入され、太平洋戦争開戦時の第2駆逐隊は村雨、夕立春雨五月雨であった。村雨は常に司令橘正雄大佐が座乗する第2駆逐隊司令艦(第1小隊1番艦)として行動する。第四水雷戦隊(旗艦那珂、第2駆逐隊《村雨、五月雨、春雨、夕立》、第9駆逐隊《朝雲、峯雲、夏雲、山雲》、第24駆逐隊《海風、江風、山風、涼風》)は第三艦隊司令長官高橋伊望中将(旗艦足柄)を指揮官とする比島部隊(フィリピン攻略後は蘭印部隊に改称)に所属して、南方部指揮官(第四戦隊司令官兼務)近藤信竹第二艦隊司令長官(旗艦愛宕)の指揮下で南方作戦にのぞんだ[8]

1941年(昭和16年)12月より比島ビガン攻略作戦、リンガエン湾上陸作戦、タラカン上陸作戦、バリックパパン攻略作戦(バリクパパン沖海戦)に参加。ビガンでは12月10日に敵機の銃撃で戦死者5名、負傷者9名を出している[9]

1942年2月末、スラバヤ沖海戦(第一次昼戦・第二次昼戦)に参加した。戦闘後、四水戦は輸送船団を護衛して戦場から離れる。2月28日、村雨はオランダ病院船オプテンノールを臨検する[10][11]。第五戦隊の記録では臨検したのは僚艦夕立となっている[12]。その後、同船は駆逐艦天津風に護送されてボルネオ島バンジェルマシンに向かい[13][14]、のちに日本軍に接収されて天応丸(第二氷川丸)と改名された[15]原為一天津風艦長の回想によると、天津風によるオプテンノールの拿捕はスラバヤ沖海戦の前(2月26日)であるが[16]、同海戦前のオプテンノールはスラバヤ港で待機しており、出港したのは海戦でABDA艦隊の艦船多数が沈没してからである[17]

1942年(昭和17年)3月には比島保定作戦、セブ島攻略作戦に加わった。4月1日、クリスマス島攻略作戦に従事していた四水戦旗艦那珂はアメリカの潜水艦シーウルフ(USS Seawolf, SS-197) の雷撃で大破(日本軍のクリスマス島占領)し[18]、長期修理を余儀なくされ第四水雷戦隊旗艦は駆逐艦夏雲に変更された[19]。この間、艦隊の再編により第24駆逐隊(海風江風山風涼風)は第一水雷戦隊へ転出、第8駆逐隊(朝潮荒潮、《大潮満潮》5月15日除籍)が第四水雷戦隊に編入、軽巡由良の四水戦編入も内示されている[20]

5月9日、長良型軽巡洋艦由良が四水戦に編入され[21]、5月20日より四水戦旗艦を務めることになった[22]。同日附で由良・第2駆逐隊・第9駆逐隊はミッドウェー作戦において攻略部隊主隊(指揮官近藤信竹第二艦隊司令長官)、第8駆逐隊(朝潮、荒潮)は攻略部隊支援隊(指揮官栗田健男第七戦隊司令官)という区分を通達される[23]。 6月上旬のミッドウェー海戦で、第四水雷戦隊は攻略部隊に属して出撃した。6月15日、那珂は四水戦より除籍[24]。6月20日、西村祥治少将は第七戦隊司令官へ転任、高間完少将が第四水雷戦隊司令官に着任した[25]。7月14日、戦時編制の改訂にともない、第27駆逐隊(時雨白露有明夕暮)が第四水雷戦隊に編入[26]。第4駆逐隊(野分萩風舞風)は第十戦隊に転出した。

7月17日、インド洋での通商破壊作戦(B作戦)に従事すべく、第七戦隊司令官西村祥治少将の指揮下で第七戦隊(熊野鈴谷)、第2駆逐隊(村雨、春雨五月雨夕立)、第15駆逐隊(親潮早潮黒潮)等はマレー半島のメルギーに進出した[27][28]。同部隊はB作戦機動部隊指揮官原顕三郎少将指揮のもと、中央隊(司令官原少将兼務、十六戦隊、第11駆逐隊)、北方隊(第三水雷戦隊、第11駆逐隊)、南方隊に別れ、熊野以下七戦隊・2駆・15駆は南方隊に所属していた[29][30]

B作戦実施前の8月7日、アメリカ軍はガダルカナル島フロリダ諸島ツラギ島)に上陸を開始し、ガダルカナル島の戦いが始まった[31]。メルギー待機中のB作戦参加各隊は、通商破壊作戦を中止してトラック泊地へ向かう[32]。夕立は先行してショートランド泊地に進出、駆逐艦輸送作戦に参加しており、第2駆逐隊3隻とは別行動だった。

ガダルカナル島の戦い(11月まで)

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8月24日以降の第二次ソロモン海戦では、第2駆逐隊(村雨、春雨、五月雨)の3隻で長門型戦艦2番艦陸奥を護衛した。9月8日、村雨は特設水上機母艦國川丸を護衛してショートランド泊地に進出、ブーゲンビル島ブイン飛行場建設のための資材や設営隊を揚陸した[33][34]。9月10日、東方哨戒隊(村雨、國川丸)としてショートランド泊地を出撃[35]サンタクルーズ諸島北東400浬附近を行動して飛行哨戒を実施、前進部隊(第二艦隊)や南雲機動部隊の側面を警戒した[33]。9月11日、國川丸所属の零式観測機2機が南緯01度40分 東経160度00分 / 南緯1.667度 東経160.000度 / -1.667; 160.000地点で飛行艇1機を撃墜、村雨は搭乗員8名を捕虜とする[33]。同日午後、村雨は前進部隊と合流、國川丸の護衛任務を姉妹艦春雨と交替した[33]。また村雨は重巡愛宕(前進部隊指揮官近藤信竹第二艦隊司令長官座乗)に飛行艇搭乗員8名を引き渡した[36]。9月17日、第2駆逐隊第1小隊(村雨、五月雨)は特別奇襲隊となり、前進部隊から分離してヌデニ島に向かった[37]。9月19日夜にヌデニ島に到着、アメリカ軍艦艇や飛行艇部隊を捜索したが敵影はなく、引き揚げた[37]。20日、連合艦隊は第四水雷戦隊の大部分と國川丸の外南洋部隊(第八艦隊)編入を発令する[37]。第四水雷戦隊(由良、時雨、白露)は22日にショートランド泊地へ進出、第2駆逐隊(村雨、五月雨、春雨)は前進部隊と共にトラック泊地に帰投したあと、輸送船団を護衛して9月下旬までにショートランド泊地に進出した[37]

10月2日、第9駆逐隊司令佐藤康夫大佐(司令駆逐艦朝雲)指揮下の駆逐艦5隻(朝雲、夏雲、峯雲、村雨、春雨)は零式水上観測機少数の援護を受け、ガ島輸送に成功した[38][39]。 10月5日、佐藤司令の指揮下駆逐艦6隻(朝雲、夏雲、峯雲、村雨、春雨、夕立)はショートランド泊地を出撃[40][41]。午後3時過ぎ、急降下爆撃機SBDドーントレス9機の空襲により、まず峯雲が至近弾を受け浸水により速力低下[42][43]、夏雲は峯雲を護衛して避退した[41]。つづいて村雨も至近弾による浸水被害を受け、負傷者10数名、速力21ノットに低下し、揚陸を断念して避退した[44]。佐藤司令はひきつづき3隻(朝雲、夕立、春雨)を率いてガ島へ突入、揚陸を無事に完了した[45][41]。なお米軍は駆逐艦1隻撃沈、1隻大破(おそらく沈没)を報告している[41]。 10月6日朝、夏雲、峯雲はショートランドに帰投した[46]。増援部隊指揮官橋本信太郎第三水雷戦隊司令官は、損傷した2隻(村雨、峯雲)のラバウル回航を指示する[47]。村雨はトラック泊地で応急修理をすませ戦線に復帰したが、峯雲は長期修理を余儀なくされ、夏雲も10月12日のサボ島沖海戦で沈没、第9駆逐隊健在艦は朝雲のみとなった[48][49]

10月12日夕刻、第四水雷戦隊司令官高間完少将は大規模輸送作戦にそなえて秋月型駆逐艦1番艦秋月に移乗し、第四水雷戦隊旗艦とした[50]。村雨はトラック泊地からショートランド泊地へ直行して13日17時に到着[51]。その後、ラバウルやショートランドを出撃した護衛部隊・輸送船団は合流してガダルカナル島へ向かった。 10月14日、増援部隊指揮官橋本信太郎第三水雷戦隊司令官指揮下のもと、軽巡3隻(川内由良龍田)と駆逐艦4隻(朝雲、白雪、暁、雷)は、それぞれガダルカナル島への揚陸に成功[52][51]。翌日、四水戦(秋月、村雨、五月雨、夕立、春雨、時雨、白露、有明)等の護衛による輸送船団6隻は、アメリカ軍機の空襲で輸送船3隻(笹子丸、九州丸、吾妻山丸)が座礁するもかろうじて輸送任務に成功した[53][54]。だが日中のアメリカ軍艦砲射撃や空襲により、揚陸地点に集積されていた物資は大部分を焼き払われてしまった[54]

10月16日、連合艦隊は水上機母艦(日進千歳千代田)による輸送をやめ、軽巡洋艦及び駆逐艦での輸送を下令した[55]。高間少将は秋月を水雷戦隊旗艦として、第1小隊:第9駆逐隊(朝雲)・第11駆逐隊(白雪)・第6駆逐隊(暁、雷)、第2小隊:第2駆逐隊(村雨、夕立、春雨、五月雨)、第3小隊:第19駆逐隊(浦波、敷波、綾波)、第4小隊:第27駆逐隊(時雨、白露、有明)を指揮する[56][57]。17日午前2時以降ショートランド泊地を出撃した軽巡戦隊(川内、由良、龍田)と水雷戦隊は、同日午後10時にガダルカナル島へ到着[58]。駆逐艦2隻(時雨、村雨)が警戒及び陸上砲撃を行う中[59]、各艦・各部隊は陸軍兵2159名、大砲18門、軍需物資の揚陸に成功した[60]。由良にアメリカの潜水艦(グランパス)から発射した魚雷1本が命中だったが、不発のため損害は軽微だった[58]

10月24-25日、南太平洋海戦および陸軍のガダルカナル第二次総攻撃の際、第四水雷戦隊(秋月〔旗艦〕、由良、村雨、春雨、五月雨、夕立)は陸軍支援のためガダルカナル島ルンガ泊地へ突入すべく行動を開始した[61]。先行して泊地に突入した突撃隊(指揮官山田勇助大佐/兼第6駆逐隊司令 駆逐艦3隻《白露》)に続行してツラギ北方(インディスパンサブル海峡)を通過中、米軍機による攻撃を受ける[62][61]。 10月25日午前10時55分、SBDドーントレスの急降下爆撃により由良が命中弾を受け速力低下、秋月も至近弾を受けた[63]。秋月は最大発揮速力23ノットに低下、第二攻撃隊は北方への退避を開始する[64][63]。ドーントレス、F4Fワイルドキャット戦闘機B-17爆撃機による波状攻撃をうけて由良は復旧の見込みがなくなり[65]、第2小隊(春雨、夕立)により処分されて午後7時に沈没[63]。秋月は各艦が救助した由良の乗組員を収容すると、旗艦を村雨に移譲して撤退を開始した[66][63]。その後、第四水雷戦隊旗艦は村雨から朝潮型駆逐艦朝雲に移った[67]

ガダルカナル島の戦い(11月以降)

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11月上旬、橋本信太郎三水戦司令官指揮下の外南洋部隊増援部隊は全力でガ島輸送作戦を実施する[68]。11月1日、三水戦司令官は重巡「衣笠」に将旗を掲げた[69]。同日夜、甲増援隊(朝雲《四水戦旗艦》、軽巡《天龍》、駆逐艦《村雨、春雨、夕立、時雨、白露、有明、夕暮、暁、雷》)、第一攻撃隊(巡洋艦《衣笠、川内》、駆逐艦《天霧、初雪》)、乙増援隊は順次ショートランド泊地を出撃した[69]。白雪が艦底を触接して多少の浸水被害を受けたほか、揚陸地点の悪天候により艦載艇を多数喪失、物資の一部を揚陸できなかった[69]

11月4日、増援部隊指揮官(三水戦司令官)は戦力を再編[70]。将旗を衣笠から駆逐艦浦波に移し、天龍を加えた乙増援隊を直率する[70]。同日深夜、甲増援隊(朝雲《旗艦》、村雨、春雨、夕立、時雨、白露、有明、夕暮、朝潮満潮)、乙増援隊(浦波《三水戦司令官旗艦》、敷波、綾波、白雪、望月、天龍)はショートランド泊地を出撃、5日夜揚陸に成功し各艦ともに損害はなかった[70]。ショートランド泊地帰投後、三水戦司令官は川内に移動し、外南洋部隊増援部隊指揮官の職務を第二水雷戦隊司令官田中頼三少将に引き継いだ[70]。6日夕刻、川内以下第三水雷戦隊各艦はトラック泊地へ向かった[70]

11月7日、高間(四水戦司令官)少将は旗艦を駆逐艦朝雲から軽巡天龍へ変更となった[71]。第9駆逐隊司令(旗艦朝雲)指揮下の乙増援隊(警戒隊《朝雲、望月》、輸送隊《村雨、夕立、時雨、白露、夕暮、朝潮、満潮》)は同日深夜ショートランド泊地を出撃[71]。8日夜半に揚陸成功、被害は望月にアメリカ軍魚雷艇が発射した魚雷1本が命中(不発)のみである[71]。11月9日、前進部隊指揮官(第二艦隊長官)は第四水雷戦隊に対し原隊への復帰と、飛行場砲撃を行う第十一戦隊の警戒隊として同戦隊の指揮下に入るよう命じた[71]。四水戦旗艦は天龍から朝雲に戻った[71]

11月12日、第四水雷戦隊(朝雲、村雨、五月雨、夕立、春雨)は、ガダルカナル島ヘンダーソン飛行場に対する戦艦艦砲射撃を企図する挺身攻撃隊(指揮官兼第十一戦隊司令官阿部弘毅少将、金剛型戦艦2隻《比叡霧島》)を護衛してアイアンボトム・サウンドに進入した。だがスコールの中で幾度も針路を変更したため、寄せ集め部隊の挺身攻撃隊は陣形を乱した[72]金剛型戦艦2隻の前方警戒を行うはずの第四水雷戦隊は3隻(朝雲、第2駆逐隊第1小隊《村雨、五月雨》)と、第2駆逐隊第2小隊(夕立、春雨)の二群に分離し、四水戦3隻が旗艦「比叡」の近距離を航行、第2小隊(夕立、春雨)が挺身攻撃隊前方に突出する格好になった[73]。挺身攻撃隊(比叡、霧島、長良雪風天津風照月)を待ち構えていたアメリカ軍巡洋艦部隊(指揮官ダニエル・J・キャラハン少将)の誤判断、第2小隊(夕立、春雨)の突入により第三次ソロモン海戦第一夜戦が生起。海戦史上まれに見る大混戦となり、両軍とも大きな被害を受けた。 五月雨を率いて旗艦朝雲に続行していた村雨は魚雷7本を発射、3本命中により敵巡洋艦轟沈と認定された[74][75]。だが村雨にも高角砲弾1発が命中し、機関部に損傷を受けた[76][77]。そのため村雨は13日の比叡の護衛や、五月雨が参加した14日の第三次ソロモン海戦第二夜戦には加わらなかった[78]。本戦闘で乗組員5名が負傷した[79]。また、春雨と分離後も単艦で米艦隊に突入した夕立は損傷して航行不能となり、五月雨に雷撃処分(放棄)されたあと米重巡洋艦の砲撃で沈没し、第2駆逐隊から初めての沈没艦となった。

11月18日、四水戦各艦はトラック泊地に帰投した[80]。21日、四水戦旗艦は長良型軽巡洋艦長良に変更[81]。22日、僚艦五月雨は日進隊(日進高雄)と共に内地へ出発[82]。春雨は既にニューギニア戦線に投入されていたため、トラック泊地の第2駆逐隊は村雨1隻となった。28日、駆逐艦2隻(村雨、初雪)はブイン基地に派遣されていた空母飛鷹航空隊の撤収を命じられた[83]。29日、2隻(村雨、初雪)はトラック泊地を出発[84][85]。 12月1日、ラバウルに立ち寄り輸送物件を搭載[86]。2日、ショートランド泊地に到着して飛鷹基地物件を収容[87]。4日、2隻(村雨、初雪)はトラックに帰投[88]。飛鷹に物件を移載して任務を終了した[89][90]。12月8日、第2駆逐隊司令駆逐艦は春雨から村雨に戻った[91]

ガダルカナル島で激戦が続く一方、日本軍はニューギニア方面の作戦を進展させるためニューギニア島北岸のマダンウェワクを占領して飛行場を設置し、ラエモロベ州州都)、サラモアに対する後方基地として強化することにした(「ム」号作戦)[92][93]。だがポートモレスビーの連合軍基地から激しい空襲を受ける可能性があり、外南洋部隊指揮官三川軍一第八艦隊司令長官はウエワク攻略部隊の上空警戒のため、第二航空戦隊(司令官角田覚治少将:空母《隼鷹》)と護衛部隊(阿賀野型軽巡洋艦《阿賀野》、駆逐艦3隻《磯風浜風、村雨》)を派遣した[92][94][95]

12月13日附で第二航空戦隊・第十戦隊各部隊は南東方面部隊に編入[96]。 ウェワク攻略部隊(駆逐艦《巻雲夕雲風雲》、輸送船《清澄丸》)は12月16日12時ラバウルを出撃、マダン攻略部隊(軽巡《天龍》、駆逐艦4隻《荒潮涼風磯波》、輸送船2隻《愛国丸護国丸》)は同日18時にラバウルを出撃した[97]。母艦航空部隊(隼鷹、阿賀野、磯風、浜風、村雨)もトラック泊地を出撃[98]、同部隊の援護を受けたウェワク攻略部隊は、特に大きな戦闘もなく18日夜にウェワク揚陸に成功した[97]。一方、マダン攻略部隊は12月18日の空襲で護国丸が中破、アメリカの潜水艦アルバコアの雷撃で天龍を喪失した[97][93]。12月20日、第二航空戦隊および第十戦隊各艦は前進部隊(指揮官近藤信竹中将)への復帰を下令された[99][100]。同日、村雨はトラック泊地に到着した[101]

12月21日、長良の内地帰投にともない第四水雷戦隊旗艦は村雨に変更される[102]。24日、五月雨がトラック泊地に帰着[103]。30日、司令駆逐艦を五月雨に変更[104]

1943年(昭和18年)1月中旬より、村雨は大鷹型航空母艦3番艦冲鷹の護衛任務に従事した[105]。8日、駆逐艦2隻(朝雲、時雨)に護衛された冲鷹がトラック泊地に到着した[106]。1月10日、3隻(冲鷹、村雨〔第四水雷戦隊旗艦〕、浦波)はトラック泊地を出発[107]。 1月12日、ニューアイルランド島カビエン北方で駆逐艦秋風と合同し、基地人員・物件を移載[108]。13日、冲鷹は搭載航空機を発艦させ、14日トラック帰着[109]。燃料補給後の3隻はただちにトラックを出発、20日に横須賀に帰投[110][111]。村雨は整備・補修および対空火器の換装(毘式四十粍機銃九六式二十五粍高角機銃に換装)等を実施[112]。28日により浦賀船渠に入渠した[113]

ビラ・スタンモーア夜戦

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1943年(昭和18年)1月24日、第2駆逐隊僚艦春雨は輸送任務中にアメリカの潜水艦ワフー(USS Wahoo, SS-238) の雷撃で大破、10ヶ月近くの戦線離脱を余儀なくされた。2月3日、村雨は浦賀船渠を出て横須賀に回航[112]。2月7日、第四水雷戦隊司令官高間完少将(旗艦村雨)は駆逐艦3隻(村雨、浦波朝潮)および空母冲鷹を指揮して横須賀を出港[114][115]。2月12日、4隻はトラック到着[116]。到着と共に第四水雷戦隊旗艦は長良に変更された[112]。2月23日、救援艦3隻(天津風浦風、雄島)と共に春雨(曳航中の船体前部切断喪失)がトラック泊地に到着[117]。工作艦明石に横付しての修理がはじまった[118]

2月上旬、日本海軍はケ号作戦にてガダルカナル島から撤退する。その後、日本海軍はニュージョージア島を防衛拠点とすべく、海軍第8聯合特別陸戦隊4000名と設営隊3600名、陸軍の南東支隊(佐々木登少将。第38師団の歩兵第229聯隊など6000名)をニュージョージア島に派遣し、同島南西部のムンダに飛行場を築いた[119]。だがアメリカ軍の空襲で輸送船3隻のうち1隻が沈没、1隻が炎上し、すぐに弾薬と糧食の不足という事態に陥ってしまう[119]。そこでトラック泊地にいた第2駆逐隊司令艦村雨と第9駆逐隊峯雲に緊急輸送命令が出され、2月27日附で南東方面部隊に編入、2月28日トラックを出撃してラバウルに向かった[120]。 3月2日、2隻(村雨、峯雲)はラバウルに到着した[119]。3日、「村雨」はコロンバンガラへ向け出撃[121]。ラエへの輸送作戦の陽動も兼ねていたが輸送船団全滅のため引き帰し、同日11時30分ラバウル入港の際に座礁[121]。離礁し入港できたのは翌日の夜明け間近であった[122]

「村雨」、「峯雲」は各艦ドラム缶200本、弾薬糧食を上甲板に満載すると、4日夕刻ラバウルを出撃した[123][124]ビスマルク海海戦(ダンピール海峡の悲劇)の生還者を収容した駆逐艦部隊(雪風、朝雲、敷波、浦波、初雪)等がラバウルに帰着した日でもある[123]

駆逐艦2隻(村雨、峯雲)はブーゲンビル島ショートランド泊地に立ち寄ったのち、3月5日午後9時30分から10時30分までコロンバンガラ島クラ湾での補給を実施[125][126]。帰途は西側の水道をつかわず北上してショートランド泊地へむかう航路をとった[127]。ところが2隻の行動はアメリカ軍に通報されており、PBYカタリナ飛行艇"ブラックキャット"が偵察と哨戒を実施、アメリカの潜水艦グレイバックとグランパスがクラ湾出口に配備された[128]。当時の天候は薄曇り、月齢28、視界15km程、風もない静かな夜であったという[123]

同時刻、アーロン・S・メリル少将指揮する第68任務部隊のクリーブランド級軽巡洋艦3隻(モントピリアクリーブランドデンバー)、駆逐艦3隻(ウォーラーコンウェイコニー)がクラ湾に進入していた[128][129]。第68任務部隊はニュージョージア島ムンダ飛行場に対する艦砲射撃を実施すべく出撃したのだが、日本軍巡洋艦もしくは駆逐艦2隻がショートランドを出撃したとの報告を情報部から受け、さらに夜間哨戒機の偵察報告も受信し、日本艦隊を迎撃すべく準備を整えていたのである[128][129]。速力20ノットで航行する米艦隊は22時57分(日本時間と約1時間ずれている)にレーダーで目標を探知、23時01分に射撃を開始した[128][129]。レーダーのない2隻(村雨、峯雲)は米艦隊の存在に全く気付いておらず、砲撃を受けた当初は夜間空襲と判断していた[125][130][123]種子島洋二駆逐艦長は、当初『対空戦闘』を下令[123]。つづいて敵艦隊と悟り「右砲戦、右80度、反航する敵艦に射撃開始」を命令したものの、まず峯雲が被弾炎上し、続いて村雨も主砲や機関部を破壊され航行不能に陥った[131]。まもなく村雨は艦尾から沈没した[132]。コロンバンガラ島の日本軍守備隊は、北東方面での海戦で1隻が大爆発するのを目撃している[123]。アメリカ軍によれば、峯雲は駆逐艦ウォーラーの魚雷で轟沈、村雨は巡洋艦3隻の砲撃で沈没[129]。日本側の記録では、峯雲の沈没時刻は23時15分、村雨の沈没時刻は23時30分[133][134]

村雨の乗員245名中、生存者は129名、戦死者は116名であった[135]。峯雲の乗員255名中、生存者は45名、戦死者は210名であった[135][136]。沈没時多数の乗組員が生存していたのだが、大発動艇による救助が遅れたことで溺死者が増えてしまったという[135]。同日のコロンバンガラ島守備隊はメリル隊の艦砲射撃を受けて甚大な被害を出しており、救助に向かうまでに時間を要したのが一因であった[135]

3月8日、駆逐艦部隊(朝雲雪風長月浦波敷波)が鼠輸送のためコロンバンガラ島に到着[137]、13日にも輸送部隊(朝雲、雪風、長月)が同島に到着する[138][139]。第2駆逐隊司令や種子島艦長以下生存者はこれらの駆逐艦に分乗しラバウルへ向かった[140]。橘司令は駆逐艦五月雨に移乗し、村雨、峯雲の生存者は横須賀へ送還された[141]。 この時、第2駆逐隊司令は村雨、峯雲の沈没原因について『敵巡洋艦3隻の砲撃と、B-17十数機(触接していたのはカタリナ飛行艇夜間哨戒仕様)の空襲』と報告し[142]レーダーに厳重警戒を行うように警告した[123][143]。峯雲、村雨の沈没、白露、春雨の大破長期修理により、健在の第四水雷戦隊は6隻(長良、朝雲、五月雨、時雨、有明、夕暮)にまで消耗した[144]

4月1日、ビスマルク海海戦で沈没した時津風達と共に村雨の除籍が決定した。第2駆逐隊[145]、 白露型、帝国駆逐艦籍[146] のそれぞれから削除された。なお、村雨の喪失により第2駆逐隊の残存艦は五月雨と春雨(大破長期修理中)となっており、7月1日附で解隊[147]。のちに、2隻は白露型2隻編制となっていた第27駆逐隊(時雨白露)に編入された。

神奈川県横須賀市鴨居駆逐艦「村雨」の碑が建っている。※同地にある鴨居八幡神社飛地境内として登記

歴代艦長

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※『艦長たちの軍艦史』304-305頁、『日本海軍史』第9巻・第10巻の「将官履歴」による。

艤装員長

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  1. 脇田喜一郎 少佐:1936年7月22日 -

艦長

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  1. 脇田喜一郎 少佐:1937年1月7日 - 1937年12月1日
  2. 近野信雄 少佐:1937年12月1日 - 1938年12月15日
  3. 南六右衛門 少佐:1938年12月15日 - 1939年10月15日[148]
  4. 人見豊治 少佐:1939年10月15日 - 1940年11月15日[149]
  5. 末永直二 少佐:1940年11月15日 -
  6. 種子島洋二 少佐:1942年12月15日 -

脚注

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  1. ^ #艦艇類別等級表(昭和16年12月31日)p.8『艦艇類別等級表|驅逐艦|一等|白露型|白露、時雨、村雨、夕立、春雨、五月雨、海風、山風、江風、涼風』
  2. ^ #S16年度海軍戦時編制案(昭和10年2月)p.2『GF|1F|1sd|特駆|川(旗艦) (特型) (現特型16)(村雨型 海風型)』
  3. ^ #達昭和8年12月pp.11-12『達百四十九號 艦艇製造費ヲ以テ昭和八年度ニ於テ建造ニ着手ノ驅逐艦三隻潜水艦二隻掃海艇一隻左ノ通命名ス|昭和八年十二月十五日 海軍大臣 大角岑生|驅逐艦 佐世保海軍工廠ニ於テ建造 白露シラツユ|浦賀船渠株式會社ニ於テ建造 時雨シグレ|株式會社藤永田造船所ニ於テ建造 村雨ムラサメ|潜水艦 三菱造船株式會社神戸造船所ニ於テ建造 伊號第七十二潜水艦|株式會社川崎造船所ニ於テ建造 伊號第七十三潜水艦|掃海艇 株式會社大阪鉄工所ニ於テ建造 第十七號掃海艇』
  4. ^ a b #艦船要目公表範囲(昭和12年12月1日)p.4『村雨|(艦諸元略)|藤永田造船所|9-2-1|10-6-20|12-1-7|(兵装略)』
  5. ^ #ポケット海軍年鑑(1935)p.52『一等驅逐艦"子日 ねのひ" 同型艦"初春 はつはる" "若葉 わかば" "初霜 はつしも" "有明 ありあけ" "夕暮 ゆうぐれ" "白露 しらつゆ" "時雨 しぐれ" "村雨 むらさめ" これが現在既成驅逐艦中の最新式のものである。全長102.96米、幅9.94米、平均喫水2.67米。この艦の竣工した以前に竣工してゐる吹雪級の要目と比較して見て大いさと云ひ又兵装と云ひすべてに於てやゝ縮小されてゐるのは一萬頓級巡洋艦の最新艦である愛宕級が、その以前に出来た那智級に比較してやゝ縮小された艦型となつてゐるのとよく似てゐて興味深い。必ずや此種の一等驅逐艦にもそれ以前の吹雪級一等驅逐艦に勝る何物かがなくてはならぬ筈である。我が海軍の有する一等驅逐艦は既成艦71隻合計排水量計(基準)99,153頓、未成艦3隻合計頓数(基準)41,04頓である。』
  6. ^ #艦船要目公表範囲(昭和12年12月1日)p.4『夕立|(艦諸元略)|佐世保工廠|9-10-16|11-6-21|12-1-7|(兵装略)』
  7. ^ #紀元二千六百年特別観艦式・第三章p.1『…第2列ニハ戦艦長門・陸奥・伊勢・山城外特務艦摂津、駆逐艦凉風・江風・村雨・春雨・夕立・五月雨・漣・綾波・浦波・初雪・白雪・吹雪ノ十七隻整列シ…』
  8. ^ #叢書26海軍進攻作戦付表第一『南方作戦関係主要職員表 昭和十六年十二月八日』
  9. ^ 戦史叢書第24巻 比島・マレー方面海軍進攻作戦、213ページ
  10. ^ #第二氷川丸の航跡53-55.275頁
  11. ^ #四水戦スラバヤ(2)pp.48-49『一五五五 村雨ノ一四〇度方向二〇粁ニ商船ラシキ檣ヲ発見直チニ確メニ行カシム』-『一六二〇 右商船ハ蘭国商船ト判明(此ノ海面敵艦ノ溺者多シ)』-『一六三五 村雨該病院船ヲ臨検次イデ之ガ監視抑留ヲ天津風ニ引継ギ村雨ハ間モナク復歸ス』
  12. ^ #S1703五戦隊日誌(2)pp.22-23『2-28|(略)(4)1630頃蘭国病院船1隻上陸泊地附近ニ航行中ナルヲ認メ夕立之ヲ臨検次テ天津風之ヲ「バウエアン」島北方ニ抑留ス』
  13. ^ #第二氷川丸の航跡70-72.278頁
  14. ^ #四水戦スラバヤ(2)p.23『一五五五村雨ノ一四〇度方向二〇粁ニ商船ラシキ檣ヲ認メ(蘭国病院船「オプテンノルト」)一六三五之ヲ臨検次イデ天津風ニ引渡ス』
  15. ^ #原(復刻版)31頁『捕虜収容船天応丸』
  16. ^ #原(復刻版)14頁
  17. ^ #第二氷川丸の航跡274-275頁
  18. ^ #原(復刻版)33-35頁『クリスマス島攻略』
  19. ^ #S1704四水戦日誌(1)p.9『本日附艦隊編制替ニ依リ二十四駆ハ一水戦ニ八駆ハ當隊ニ編入セラレタリ 昭南港ニ於テ朝日及101工作部ト協議シ那珂應急修理ニ関スル要務處浬ヲ終リ十二日1000将旗ヲ夏雲ニ移揚ノ上九駆一小隊ヲ率ヰ高雄ヲ経テ横須賀ニ向ヒタリ 途上十八日敵機動部隊ノ来襲ヲ聞キ我亦之ニ應ズル如ク増速セルモ荒天ノ為意ノ如クナラズ二十一日横須賀ニ歸着尓後整備作業ニ従事セリ』
  20. ^ #S1704四水戦日誌(1)p.55『二七日一八五〇大海参一部長|GF2F各参謀長(4sd 5SS司令官)|大海参一機密第二九六番電 五月九日附由良ヲ5SSヨリ除キ4sdニ編入(那珂ハ内地皈着迄4sdノ侭トス)』
  21. ^ #S1704四水戦日誌(2)p.10『九日附ニテ由良ハ5SSヨリ除カレ當隊ニ編入サル同日前進部隊電令第七號ニ依リ大潮ハ舞鶴満潮呉山雲ハ横須賀ニテ修理セシメラルルコトトナリ何レモ十五日附ニテ特別役務艦ニ編入セラレタリ』
  22. ^ #S1704四水戦日誌(2)p.53『二〇(天候略)1500旗艦ヲ夏雲ヨリ由良ニ変更、由良九駆二駆攻略部隊主隊ニ編入セラル八駆ハ攻略部隊支援隊ニ編入』
  23. ^ #S1704四水戦日誌(2)pp.10-11『二十日1500旗艦ヲ夏雲ヨリ由良ニ変更同日附ニテ第二段作戰第二期兵力部署發令セラレ由良二駆九駆ハ攻略部隊主隊ニ編入セラレ八駆ハ攻略部隊支援隊ニ編入セラレタリ』
  24. ^ #S1704四水戦日誌(3)p.6『(二)第四水雷戦隊艦隊編成 (2)6月15日 那珂第四水雷戦隊ヨリ除カル』
  25. ^ #S1704四水戦日誌(3)p.65『二一(天候略)前司令官西村少将退艦 後任司令官高間少将着任』
  26. ^ #S1705一水戦日誌(4)p.8『十四日(イ)艦隊編制改定第二十四驅逐隊ハ第二水雷戦隊ニ第二十七駆逐隊ハ第四水雷戦隊ニ編入セラル』
  27. ^ #戦隊行動調書p.7『七.一四 南方部隊B作戦部隊。七.二八〜八.二 2dg 15dg 7S指揮ス』
  28. ^ #S1704七戦隊日誌(3)pp.5-6『(2)七月十七日〇八〇〇第七戰隊(最上缺)第十五駆逐隊第二駆逐隊旭東丸日本丸ヲ率ヰB作戰部隊集合地ニ向ケ桂島泊地出撃二十五日昭南水道西口泊地着補給竝ニB作戰各部隊ト作戰ニ関スル諸打合セヲ實施シタル後第七戰隊(最上缺)第十五駆逐隊(黒潮缺)第二駆逐隊(夕立缺)ヲ率ヰ二十八日〇八四〇「メルギー」ニ向ケ昭南水道西口發二十九日午前ベラク島北西方(北緯五度三二分東経九八度四五分)ニ於テ敵潜水艦一隻ヲ撃沈(略)三十日一六四〇「メルギー」着南西方面艦隊ニ合同ス』、p.9『四.参考(イ)麾下艦船部隊ノ行動』
  29. ^ #S1708十六戦隊日誌(2)p.3『「カルカッタ」「マドラス」間敵交通線破壊拿捕 船舶ノ回航 会敵部隊ノ撃滅』
  30. ^ #S1704七戦隊日誌(3)p.18『(イ)昭和十七年七月二十日B作戰部隊ヲ編成セラレ第七戰隊(最上缺)第十五駆逐隊(陽炎缺)第二駆逐隊ハB作戰部隊機動部隊南方隊トシテ本職之ヲ指揮シ上記南方隊(早潮陽炎夕立春雨缺)ハ七月二十八日昭南水道西口發「メルギー」ニ向ケ進出中ナリ』
  31. ^ #S1704七戦隊日誌(3)pp.29-30『(二)八月七日敵ノ有力ナル攻略部隊(巡洋艦駆逐艦二十数隻輸送船約四〇隻)ハ機動部隊支援ノ下ニ「ツラギ」及「ガダルカナル」方面ニ来襲シ之ヲ攻略セリ 我基地航空部隊、外南洋方面部隊ハ全力ヲ挙ゲテ之ヲ反撃シ敵ノ海上兵力ノ大部ヲ撃破シタルモ「ツラギ」及「ガダルカナル」ヲ奪回スルニ至ラズ 聯合艦隊ノ大部ヲ南洋群島方面ニ集中シ陸軍部隊ト協同「ガダルカナル」方面奪回作戰ヲ開始ス』
  32. ^ #S1704七戦隊日誌(3)p.29『(一)八月一日戰艦一、航空母艦二、巡洋艦又ハ駆逐艦九隻ヨリナル敵ノ機動部隊「ツリンコマリ」ノ北東方海面ニ出現セル等ノ爲B作戰ヲ一時延期セラレ「メルギー」ニ待機中ノ処外南洋方面ノ情勢急迫セシヲ以テB作戰ヲ取止メ同部隊ノ大部ヲ外南洋方面作戰ニ参加セシメラル』
  33. ^ a b c d #叢書83ガ島戦120-121頁『東方哨戒隊』
  34. ^ #叢書83ガ島戦151-154頁『ブイン基地整備』
  35. ^ #叢書83ガ島戦93頁
  36. ^ #海軍操舵員よもやま話39-45頁『米飛行艇捕虜八名収容』
  37. ^ a b c d #叢書83ガ島戦143-144頁『支援部隊』
  38. ^ #S1709八艦隊日誌(2)p.39『第九駆、第二駆(夕立五月雨欠)|一〇-三|陸兵250糧秣ヲ「カミンボ」ニ揚陸ス』
  39. ^ #叢書83ガ島戦177-178頁『輸送再開』
  40. ^ #S1709八艦隊日誌(2)p.40『第九駆、第二駆(五月雨欠)|一〇-五|野砲2、陸兵277ヲ「タサファロング」ニ揚陸ス 村雨峯雲}至近弾ニ依リ被害アリ夏雲護衛KXEニ引返セリ』
  41. ^ a b c d #叢書83ガ島戦181頁『四日〜六日の輸送』
  42. ^ #S1710四水戦日誌(1)p.38『五日1550(司令)9dg(宛略)9dg機密第051550番電 1510ケノヘ22ニ於テ敵爆撃機九機ト交戰之ヲ東方ニ撃退ス、峯雲至近弾ニ依リ艦首左舷ニ破孔ヲ生ジ第二兵員室ニ浸水出シ得ル速力十二節夏雲ヲシテ之ヲ護衛「ショートランド」ニ皈投セシム其ノ他異状ナシ朝雲2dgヲ率ヒ予定位通進撃ス』
  43. ^ #S1710四水戦日誌(1)pp.39-40『五日1900峯雲(宛略)峯雲機密第051900番電 1515「ケノヘ22」ニ於テ艦爆×6ノ急爆ヲ受ケ至近弾ニ依ル被害 一.艦首ヨリ35番「ビーム」迄兩舷外鈑大破上甲板線下満水其ノ他状況不明ナルモ被害拡大ノ模様ナシ出シ得ル最大速力14節/二.方位盤一番B線轉輪羅針儀使用不能、1、2、7番ノミ/三.重傷陸兵1軽傷本艦下士官兵10陸兵3』
  44. ^ #S1710四水戦日誌(1)pp.38-39『五日1630(司令)2dg(宛略)2dg機密第051630番電 村雨1600艦爆2来襲至近弾3ニ依リ左舷前部ニ破孔無数揚錨機室糧食庫ニ浸水軽傷者10数名 一六三〇』-『五日1725(司令)2dg(宛略)2dg機密第051725番電 村雨艦首附近浸水ノ爲速力21節以上使用不能極力應急処置ヲ施シ揚陸決行セントセシモ明日ノ離脱困難ナルニ付ショートランドニ帰投ス』
  45. ^ #S1710四水戦日誌(1)p.39『五日1715(司令)9dg(宛略)9dg機密第051715番電 1600ケハフ38ニ於ケル敵機トノ交戰ニ依リ村雨至近弾3左舷前部破孔無数揚錨機室糧食庫浸水軽傷者十数名出シ得ル最大速力21節ショートランドニ皈投セシム、朝雲夕立春雨ヲ率ヰ予定通進撃ス』
  46. ^ #S1710四水戦日誌(1)p.43『六日0750峯雲(宛略)峯雲夏雲「ショートランド」着』
  47. ^ #S1710四水戦日誌(1)p.43『六日1157(司令官)3sd(宛略)3sd機密第061157番電 村雨及峯雲修理ノ爲「ラボール」ニ回航セシム村雨(使用可能速力二十一節)代艦トシテ有明派遣ヲ得バ好都合ナリ』
  48. ^ #S1710四水戦日誌(4)pp.44-45『四.参考(1)麾下艦船部隊ノ行動』
  49. ^ #S1711四水戦日誌(1)p.10『備考 夏雲十月十二日沈没 由良十月二十五日沈没』
  50. ^ #S1709四水戦詳報(3)pp.8-9『翌10月11日(略)同夕刻有明ニ将旗ヲ移揚シテ「ラバウル」発12日1300「ショートランド」泊地着、同日夕刻秋月ニ将旗ヲ移揚、同夜27駆(夕暮欠)及秋月駆逐艦長以上船長(第一分隊)打合ヲ行ヒ作戦準備ヲ完了セリ』
  51. ^ a b #叢書83ガ島戦217-218頁『船団の出撃』
  52. ^ #S1709第八艦隊日誌(2)p.42『川内由良龍田朝雲白雲暁雷(増本隊)|10-14|陸兵1129、野砲4、速射砲4、弾薬ヲ「エスペランス」ニ揚陸ス 友軍5S(羽黒欠)摩耶ハRXIノ艦砲射撃ヲ實施ス』
  53. ^ #S1709第八艦隊日誌(2)p.43『輸送船(崎戸九州笹子佐渡南海及吾妻山丸)|10-15|14日「タサファロング」ニ入泊セル船団ハ15日0335以後ヨリ連続的敵機ノ爆撃ヲ受ケ0945吾妻山丸火災續イテ笹子山丸1120九州丸火災擱坐、1530残存船団帰途ニ就ク』
  54. ^ a b #叢書83ガ島戦219-220頁『外南洋部隊のガ島飛行場射撃』
  55. ^ #叢書83ガ島戦222-224頁『輸送計画の変更』
  56. ^ #S1709四水戦詳報(5)p.4『10月16日連合艦隊ヨリノ指令ニ依リ日進、千歳ノ輸送ハ取止メラレ千代田ノ進出モ亦延期トナレルヲ以テ増援部隊ヲ軽巡戦隊(川内由良龍田)水雷戦隊(秋月9dg、11dg、6dg、2dg、19dg、27dg)ニ分ケ第四水雷戦隊司令官ハ水雷戦隊ヲ指揮スルコトトナレリ』
  57. ^ #S1709四水戦詳報(5)pp.14-15『16日2335 3sd司令官→4sd司令官8F長官/翌17日出撃要領左ノ通改ム|一.出撃時刻0430|二.出撃部隊軍隊区分 軽巡戦隊 一番艦川内、二番艦由良、三番艦龍田・水雷戦隊旗艦秋月、一番隊9駆11駆6駆、二番隊2駆、三番隊19駆、四番隊27駆(略)五.入泊(引揚)時刻「エスペランス」「タサハロング」共2100(2300)|六.入泊地19駆ヲ「タサハロング」ニ、龍田ヲ「エスペランス」ニ変更ス|七.日進千歳千代田ノ出撃ハ追テ令ス』
  58. ^ a b #叢書83ガ島戦224-225頁『十七日の輸送』
  59. ^ #S1709四水戦詳報(5)p.6『『村雨、時雨ハ適時哨区ヲ撤シ2210予定ノ如ク陸上砲撃ヲ実施ス(発射弾数 村雨60発、時雨100発)』
  60. ^ #S1709第八艦隊日誌(2)p.43『増援部隊|10-17|陸兵2159、野砲6、速射砲12、弾薬器材ヲ「エスペランス」「タサファロング」ニ揚陸ス』
  61. ^ a b #叢書83ガ島戦257-260頁『突撃隊(第六駆逐隊)のルンガ泊地攻撃』
  62. ^ #S1709第八艦隊日誌(2)pp.43-44『外南洋部隊|10-24 10-25|RXN陸軍総攻撃ハ22日ト決定サレタルモ陸軍進出ノ関係上順次繰下ゲラレ24日ト決定セリ、海軍ハ右作戦ニ策応スル為出撃セリ。飛行場占領ノ報ニ接シ各隊予定ノ如ク進撃中右ハ誤報ナル事判明進出ヲ中止ス。但シ突撃隊(6dg駆2欠白露)ハ予定ノ通「ルンガ」ニ突入ニ決ス、敵巡「ルンガ」ニ在ルノ報ニ接シ第2攻撃隊4Sd(9dg、27dg欠)ヲ増派ス。突撃隊ハ特巡1、小型輸送船2撃沈、駆逐艦ハ遁走ス。第2攻撃隊ハ連続敵機ノ爆撃ノ為由良ヲ失ヒ秋月亦被害アリ、依ッテ損傷艦ハRXEニ帰投スベキ命ジ其ノ他ハ作戦ヲ続行ス。陸軍部隊ハ飛行場奪取ニ成功セズ』
  63. ^ a b c d #叢書83ガ島戦260-262頁『由良の沈没』
  64. ^ #S1709四水戦詳報(6)p.8『又秋月ハ至近弾ニ依リ右軸室満水後部機械室隔壁膨出シ最大使用速力23節前記ノ如ク連続敵機ノ来襲アルヲ以テ第二攻撃隊ハ由良ヲ護衛シツツ一時北方ニ避退スルニ決ス』
  65. ^ #S1709四水戦詳報(6)pp.8-9『1453更ニ為シ得ル限リ「ファラ」島ニ向フベキヲ命ジ「ラモス」島南方ヲ低速力ニテ西進中1500乃至1510敵艦爆六機及B-17型六機ノ爆撃ヲ受クルニ及ビ命中弾由良ニ対シ秋月ニ対シ1、五月雨ニ至近弾1アリ、由良ハ全ク航行不能ニ陥リ艦橋下及中部ヨリ起リタル火災ハ漸次蔓延シテ全艦火ニ蔽ハルルニ至リ之ガ復援ノ策全ク絶ヘタルヲ以テ1520第二駆逐隊各艦ニ対シ由良乗員ノ救助ヲ命ズ』
  66. ^ #S1710四水戦日誌(4)pp.26-27『25日1920将旗4sd/秋月ハ敵機ノ爆撃ニ依リ左ノ被害アリ作戦行動ニ支障アルニ付由良ノ乗員ヲ収容ノ上「ラボール」ニ帰投セシム|(一)1号缶使用不能|(二)右舷軸使用不能|(三)後部機械室後部隔壁膨出高速時保安上不安アリ|(四)発揮シ得ル最大速力22節』-『25日2115将旗4sd→第二攻撃隊/2300漂泊ス、秋月ハ由良乗員ヲ収容ノ上「ラボール」若ハ「ショートランド」ニ回航セヨ|2330将旗ヲ村雨ニ移揚ス』
  67. ^ #戦隊行動調書p.42『隊名:4Sd|所在艦/10.12-26秋月、10.26-31村雨、31〜朝雲』
  68. ^ #叢書83ガ島戦344頁『十一月二日の輸送』
  69. ^ a b c #叢書83ガ島戦346-347頁『輸送の実施』
  70. ^ a b c d e #叢書83ガ島戦348-349頁
  71. ^ a b c d e #叢書83ガ島戦351-352頁『八日の輸送』
  72. ^ #叢書83ガ島戦359-360頁
  73. ^ #叢書83ガ島戦360-361頁『ルンガ沖への進入』
  74. ^ #S1710四水戦詳報(2)p.14『1D/2dgハ朝雲ニ続行中0001村雨80度方向ニ朝雲ノ敵ト仝一ノ巡洋艦ヲ発見之ニ対シ0002ヨリ照射砲雷撃ヲ行ヒ0004魚雷三本以上ノ命中ニ依リ之ヲ轟沈セシム(発射雷数七)、五月雨モ又村雨ニ続行シツツ之ノ敵ニ対シ砲雷撃ヲ準備セシモ轟沈セルヲ認メ中止セリ』
  75. ^ #S1710四水戦詳報(4)p.33『四.成果(イ)十二日夜戦 「村雨」戦果:巡洋艦(アストリヤ型)1隻轟沈/雷撃(発射雷数7)ニ依リ3本以上命中ヲ與ヘ轟沈セシム、同時ニ砲銃撃ヲ行ヒ命中弾多数アリ』
  76. ^ #S1710四水戦詳報(4)p.35『五.我ガ兵力ノ被害(イ)(一)十二日夜戦「村雨」一.高角砲弾1発第一缶室右舷上甲板ニ命中/二.敵機銃弾十箇所ニ命中/一号缶使用不能ノ外戦隊兵器ニ若干ノ損傷アリ』
  77. ^ #S1711四水戦日誌(1)p.18『主ナル被害左ノ如シ 夕立 航行不能ニ陥リ人員ヲ救助ノ上処分ス/村雨 第一缶室ニ被弾同缶使用不能』
  78. ^ #S1710四水戦詳報(2)p.14『本戦闘ニ依リ村雨ハ第一缶室ニ被弾同缶使用不能トナリ同艦は「サボ」島東側ヲ経テ北方ニ避退ス』
  79. ^ #S1710四水戦詳報(4)p.36『(ロ)戦死傷者調/12日夜戦「村雨」下士官兵軽傷5』
  80. ^ #S1711四水戦日誌(4)p.59『一八(天候略)一.AdB〇八三〇トラック着/二.時雨夕暮一二〇〇トラック着(略)|一.朝雲村雨五月雨白露〇五〇〇AdBトラック南水道入港前脅威投射ヲ行フ/時雨夕暮ハ〇六〇〇ヨリ旭東丸日栄丸護衛ニ任ズ(略)』
  81. ^ #S1711四水戦日誌(4)p.60『二一(天候略)一.一〇〇〇将旗ヲ長良ニ掲揚ス(以下略)』
  82. ^ #S1711四水戦日誌(4)p.25『二十二日一二四五 日進(宛略)日進機密第二二一二四五番電 日進高雄五月雨雷横須賀ニ向ケ「トラツク」発二十七日着ノ予定』-p.59『二二(天候略)一.2dg(春雨)白露〇八三〇ラボール着/二.五月雨修理ノ爲一二四五横須賀ニ向ケトラツク発』
  83. ^ #S1711四水戦日誌(4)p.36『二八日二一四〇(指揮官)AdB(宛略)電令作第七九號 一.十二月一日附飛鷹(飛行機)隊ヲ原隊復帰/二.村雨及初雪ハ村雨艦長之ヲ指揮準備出來次第トラツク発ブイン基地ニ回航十二月一日以降成ルベク速ニ前項人員物件収容ノ上トラツクニ回航スベシ』
  84. ^ #S1711四水戦日誌(4)p.37『二九日〇八〇〇村雨(宛略)村雨初雪AdB電令作第七九号ニ依リ本日〇八〇〇「トラツク」発一日〇八〇〇「ショートランド」着ノ予定』
  85. ^ #S1711四水戦日誌(4)p.63『二九(天候略)一.村雨〇八〇〇トラツク発|一.村雨飛鷹ブイン基地人員物件撤収任務ニ従事(AdB電令作第七九号)/二.白露敵機ト交戦被弾被害アリ(一一〇〇)ラボールニ回航ス(前部浸水)(速力九節)|一.白露敵機ト交戦被弾被害アリ』
  86. ^ #S1712四水戦日誌(2)p.24『村雨駆逐艦長(宛略)村雨キデ〇一一一三〇村雨初雪一日〇六三〇ラボール着基地物件搭載一二〇〇発二日〇八〇〇ショートランド着ノ豫定』
  87. ^ #S1712四水戦日誌(2)p.27『十二月二日一二三〇村雨(宛略)村雨初雪二日〇七三〇「ショートランド」着飛鷹基地物件搭載一一〇〇発四日一〇〇〇「トラツク」着ノ予定』
  88. ^ #S1712四水戦日誌(2)p.15『村雨ハ初旬前月下旬ヨリ引續キ初雪ト共ニ「ブイン」飛鷹基地人員物件収容任務ニ従事(AdB電令作第七九號)四日「トラツク」着右任務ヲ終了ス爾後同地ニ在リF警戒k護衛任務等ニ従事ス』
  89. ^ #S1712四水戦日誌(2)p.30『四日〇九三〇2F長官|村雨初雪隼鷹|村雨初雪ハ飛鷹附近ニ機宜投錨基地物件ヲ移積スベシ|信号』
  90. ^ #S1712四水戦日誌(1)p.58『四(天候略)一.村雨〇九三〇トラツク着(略)一.村雨〇九三〇飛鷹初雪ト共ニトラツク着AdB電令作第七九号ニ依ル任務終了』
  91. ^ #S1712四水戦日誌(2)p.49『八日一三〇〇2dg司令(宛略)司令駆逐艦ヲ村雨ニ復歸ス』
  92. ^ a b #叢書83ガ島戦474-476頁『マダン、ウエワク攻略作戦』
  93. ^ a b #機動部隊(朝日)150-151頁
  94. ^ #S1711七戦隊日誌(5)p.36『十四日0813第八艦隊司令長官(宛略)第八艦隊機密第14081353番電「ム」号作戰ニ関スル外南洋部隊ノ要旨左通リ 一.兵力部署(区分指揮官兵力)主隊直率 鳥海/支援隊 第七戰隊司令官 第七戰隊/R方面護衛隊 第十八戦隊司令官 第十八戰隊(竜田欠)/「ウエワク」攻略部隊 第十駆逐隊司令 第十駆逐隊(秋雲欠)清澄丸/「マダン」飛行場攻略部隊 愛國丸船長 駆逐艦四隻 愛國丸護國丸/母艦航空部隊 第二航空戰隊司令官 第二航空戰隊(飛鷹欠)第十戰隊(駆逐艦欠)駆逐艦三隻/二.各部ノ任務 (イ)主隊及支援隊ハ敵情ニ應ジ出撃作戰支援 (ロ)RZ方面護衛隊 x+2日「ラボール」発「アドミラウテイ」島北方ケイマンヲ迂回シ1800及2100頃夫々「ウエワク」「マダン」ニ入泊揚陸ヲ開始X+1日出迄ニ揚陸完了出港 (ロ)母艦航空部隊ハ「ウエワク」北方海面ヲ機宜行動「ウエワク」攻略部隊ノ上空直衛ニ任ジ状況ニ依リ「ウエワク」敵軍ヲ攻撃』
  95. ^ #S1712四水戦日誌(2)p.20『十三日2145AdB指揮官(宛略)2Fキデ132145 AdB電令作第92号 GF電令作第413号ニ依リ一時南東方面部隊ニ編入スベキdヲ磯風浜風及2dg(春雨五月雨欠)ニ指定ス AdB軍隊区分中ヨリ2sf(飛鷹欠)10S(dg欠)17dg2D及2dg(春雨五月雨欠)ヲ除ク』
  96. ^ #S1712四水戦日誌(2)p.20『十三日1520(長官)GF(宛略)GFキデ131520 GF電令作第413號 2sf(飛鷹欠)10S(dg欠)AdB d×3愛國丸護王丸及清澄丸ヲ一時南東方面部隊ニ編入ス』
  97. ^ a b c #叢書83ガ島戦476-477頁『実施』
  98. ^ #S1712四水戦日誌(2)p.67『一六(天候略)一.夕暮0630ショートランド帰着/二.村雨1030トラック出撃(隼鷹警戒)|一.春雨1500横須賀第四船渠ニ入渠』
  99. ^ #S1711七戦隊日誌(5)p.41『二十日1815前進部隊指揮官(宛略)前進部隊機密第20181532番電 前進部隊電令作第100号 一.第二航空戰隊(飛鷹欠)ヲ以テ前進部隊航空部隊ヲ編成シ第十戰隊(駆逐隊欠)第二駆逐隊(春雨五月雨欠)第十駆逐隊(秋雲欠)磯風舞風ヲ前進部隊本隊ニ編入ス/二.第十駆逐隊(秋雲欠)ハ当面ノ任務終了次第「トラック」ニ回航スベシ』
  100. ^ #S1712四水戦日誌(2)p.30『二〇日1855(指揮官)AdB(以下同文)』
  101. ^ #S1712四水戦日誌(2)p.52『四.参考(イ)麾下艦船部隊ノ行動』
  102. ^ #S1712四水戦日誌(2)p.12『二十一日旗艦ヲ村雨ニ變更ス』
  103. ^ #S1712四水戦日誌(2)p.43『二四日〇八三〇高雄(宛略)高雄五月雨「トラツク」着』
  104. ^ #S1712四水戦日誌(2)p.50『三〇日一三四八(宛略)本十二月三十日司令駆逐艦ヲ五月雨ニ変更セリ』
  105. ^ #S1712四水戦日誌(3)p.6『一月九日(司令官)4sdハ2dg(村雨)19dg(浦波)ヲ併セ指揮シ冲鷹警戒任務ニ従事(AdB電令作第一一八號)/一月二十七日(司令官)4sdハ2dg(村雨)19dg(浦波)冲鷹ヲ指揮シ冲鷹警戒任務ニ従事(GF電令作第四六四號(AdB電令作第一三六號)』
  106. ^ #S1712四水戦日誌(3)p.10『(司令)朝雲(司令)時雨ハ前月ヨリ引續キ冲鷹警戒任務ニテ横須賀ニ在リシ處二日同地發右警戒任務ニ任ジツツ八日「トラツク」着任務ヲ終了ス』
  107. ^ #S1712四水戦日誌(3)p.78『10日|一.(将旗)4sdハ2dg(村雨)及19dg(浦波)ヲ併セ指揮シ1500トラック出撃AdB電令作第118号ニ依ル冲鷹警戒任務ニ従事カビエン北方ニ向フ』
  108. ^ #S1712四水戦日誌(3)p.9『旗艦《村雨》ハ前月中ニ引続キ「トラツク」ニ在リシ處中旬AdB電令作第一一八號ニ依リ冲鷹(GF電令作第一一八號ニ依ル飛行機輸送任務ニ従事(司令官)4sdハ村雨(司令2dg)浦波(司令19dg)ヲ併セ指揮シ冲鷹警戒ニ任ジ十日一五〇〇「トラツク」出撃對潜警戒ヲ厳ニシツツ十二日朝「カビエン」ノ十五度二〇〇浬ノ地点ニ到リ秋風ト合同秋風ハ冲鷹ヨリ基地人員物件等ヲ移載シ(秋風ハ〇九〇〇分離「カビエン」ニ向フ)』
  109. ^ #S1712四水戦日誌(3)p.81『14日|一.村雨浦波冲鷹トラック入泊駆逐艦燃料補給及冲鷹揚陸残リ戦闘機1機ヲ揚陸シタル後横須賀ニ回航ス(略)』
  110. ^ #S1712四水戦日誌(3)p.54『20日0830(将旗)4sd→各長官|村雨浦波横須賀着』
  111. ^ #S1712四水戦日誌(3)p.73『四.参考 麾下艦船部隊ノ行動』
  112. ^ a b c #S1712四水戦日誌(4)p.8『旗艦(村雨)ハ前月中旬ヨリ引続キAdB電令作第一一八號同第一三六號ニ依ル冲鷹(横須賀「トラツク」間陸海軍飛行機輸送任務))警戒任務ニ従事19dg(浦波)及冲鷹ヲ併セ指揮シ横須賀方面ニ在リ(村雨三日浦賀船渠出渠横須賀ニ回航)此ノ間各艦船戦隊兵器機関ノ修理改装整備ニ任ジ(村雨機関修理完成四十粍機銃ヲ二十五粍二聯装機銃ニ換装等實施)七日右兵力ノ外朝潮ヲモ併セ指揮シ(GF機密第〇五二〇〇〇番電SNB電令作第六四號)横須賀発對潜警戒ヲ厳ニシツツ途中浦波ヲ一時分離「サイパン」ニ於テ燃料ヲ補給セシメタル後合同十二日「トラツク」着同日旗艦ヲ長良ニ変更ス』
  113. ^ #S1712四水戦日誌(3)pp.9-10『冲鷹搭載機ヲ發艦セシメントセシモ天候不良ノ爲發艦不能翌十三日朝「カビエン」ノ五〇度一〇〇浬ノ地点ニ於テ戰斗機一機ノ外發艦輸送終了「トラツク」ニ回航十四日一三〇〇「トラツク」着駆逐艦燃料補給冲鷹残留戰斗機一着揚陸後同日二一〇〇横須賀ニ向ケ發途中浦波ヲ一時分離シ「サイパン」ニ於テ燃料ヲ補給セシメタル後合同二十日〇九〇〇横須賀着尓後冲鷹輸送機搭載出港迄同地ニ在リテ待機此ノ間村雨ハ訓令工事其ノ他船体機関兵器修理改装整備ニ従事二十八日浦賀船渠ニ入渠ス』
  114. ^ #S1712四水戦日誌(4)p.5『(一)軍隊区分及主要任務 前進部隊 南東方面作戰支援敵艦艇撃滅 二月十四日迄 AdB電令作第一一八號同一三六號ニ依ル冲鷹警戒任務/指揮官(司令官)4sd/兵力(旗艦)村雨《司令2dg》浦波《司令19dg》朝潮(横須賀ヨリ「トラツク」回航中)冲鷹』
  115. ^ #S1712四水戦日誌(4)p.62『7日|(将旗)4sd、2dg(村雨)19dg(浦波)朝潮及冲鷹ヲ指揮シ横須賀発トラックニ回航ス 二.9dg(朝雲)五月雨「ガ」島撤収任務ニ従事』
  116. ^ #S1712四水戦日誌(4)p.63『12日|一.村雨浦波朝潮冲鷹「トラック」着冲鷹警戒任務ヲ終了ス』
  117. ^ #S1712四水戦日誌(4)p.10『春雨ハ「ウエワク」ニ於テ船体應急工事ノ上十七日天津風浦波雄島ノ曳航警戒ノ下ニ同地發二十三日「トラツク」着尓後工作艦明石ニ横付内地回航ニ必要ナル應急工事ニ従事ス』
  118. ^ #S1712四水戦日誌(4)p.70『二三(天候略)一.春雨〇七三〇トラツク着(略)|一.長良村雨峯雲一二〇〇出動訓練(礁内)有明一七〇〇ヨリ参加二〇三〇皈着/二.春雨(浦風曳航)〇七三〇トラツク着水道通過一四〇〇明石ニ横付修理ニ着手ス/三.9dg(朝雲)五月雨〇四四〇船団ヲ護衛シ「ウエワク」ニ回航ス(略)』
  119. ^ a b c #ソロモン海「セ」号作戦50頁
  120. ^ #S1712四水戦日誌(4)p.10『峯雲ハ横浜及横須賀ニ於テ修理ニ任ジ十二日修理完成横須賀發途中武庫丸護衛ニ任ジ二十二日「トラック」着 (司令)村雨峯雲二十七日NTBニ編入二十八日「トラック」出撃「ラボール」ニ回航ス』
  121. ^ a b クラ湾の悪夢、64ページ
  122. ^ クラ湾の悪夢、64-65ページ
  123. ^ a b c d e f g #戦史叢書96ガ島撤収後74-75頁『三月五日の輸送(村雨、峰雲の沈没)』
  124. ^ #S1712四水戦日誌(5)p.32『四(天候略)一.(司令)村雨峯雲1600ラボール発|一.2dg(村雨)峯雲コロンバンガラ輸送作戰ノ為ラボール出撃』
  125. ^ a b #S1712四水戦日誌(5)p.33『五(天候略)一.(司令)朝雲0640ラボール着/二.(司令)村雨峯雲0830「ブイン」沖着1600発2130コロンバラ基地着2230発|一.(司令)村雨、峯雲2310コロンバンガラ沖クラ湾ニテ敵C×3 d×2以上及大型爆撃機10機以上ト遭遇交戰村雨2315峯雲2330沈没ス|一.村雨峯雲沈没』
  126. ^ #S1709八艦隊日誌(6)pp.27-28『第二駆(村雨)峯雲|三-五|補給ノ為2130「コロンバンガラ」着2230揚陸完了同地發「クラ」湾北上中「コロンバンガラ」砲撃ニ來レル敵水上艦艇ト遭遇交戦更ニ敵B17十數機ノ雷撃ヲ受ケ峯雲2315村雨2330沈没敵ニ與ヘタル損害不明』
  127. ^ #ソロモン海「セ」号作戦52頁『はじめて知る米軍レーダーの威力』
  128. ^ a b c d #ソロモン海「セ」号作戦55-56頁
  129. ^ a b c d #戦史叢書96ガ島撤収後76-77頁
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  131. ^ #ソロモン海「セ」号作戦57-58頁
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  133. ^ 日本水雷戦史 1986, pp. 306–307.
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  136. ^ 日本水雷戦史 1986, pp. 308a-309.
  137. ^ #S1709八艦隊日誌(6)p.28『9dg(朝雲)16dg(雪風)長月|三 八|(長月30屯其ノ他50屯)ヲ「コロンバンガラ」ニ揚陸ス』
  138. ^ #戦史叢書96ガ島撤収後77-78頁『その他の三月中の中部ソロモン方面輸送』
  139. ^ #S1709八艦隊日誌(6)p.28『九駆(朝雲)十六駆(雪風)長月|三 一三|「コロンバンガラ」輸送ヲ實施ス揚陸物件Y7Lg本部及銃隊一個中隊(二個小隊缺)弾薬糧食110屯』
  140. ^ #S1712四水戦日誌(5)pp.16-17『八日1420(司令)2dg(宛略)2dg機密第081420番電 六日早朝ヨリ八聯特協力ヲ得テ「コロンバンガラ」基地ニ収容セラレタル生存者左ノ通リニシテ引續キ行方不明者ノ捜索ヲNGBニ依頼生存者ハ今夜入港予定ノ駆逐艦ニ便乗「ラボール」皈投ノ予定 生存者村雨准士官以上本職艦長砲術長水雷長通信士小西候補生掌砲長掌水雷長缶長計9名下士官兵41(内重傷4名軽傷6名)兵84名(内重傷5名軽傷6名)合計134名 峯雲巡士官以上砲術長航海長計2名下士官14名兵29名(内重傷1名)合計45名』
  141. ^ #S1712四水戦日誌(5)pp.22-23『十四日0735(司令)2dg(宛略) 八通機密第140735番電 村雨峯雲生存者ハ十五日「ラバウル」発予定ノ立石初鳥ニ便乗「トラック」経由横須賀ニ送還セシム 司令ハ「ラバウル」ニ待機近日「ラボール」着ノ五月雨ニ乗艦ノ予定』
  142. ^ #S1712四水戦日誌(5)pp.15-16『七日0958(司令)2dg(宛略)2dg機密第070958番電 村雨ヲ率ヰ5日2130「コロンバンガラ」航空基地2230揚陸完了シ同地初「クラ」湾北上中2310敵C三隻以上ト遭遇交戰更ニB-17十数機ノ来爆撃ヲ受ケ各艦航行不能トナリ峯雲交戰直後大火災2315沈没村雨2315機械室浸水相次イデ全缶室及一番砲火災2325航行不能ニ陥リ2330沈没セリ敵ニ与ヘタル損害不明現在迄ニ判明セル生存者村雨巡士官以上8名下士官兵44名』
  143. ^ #S1712四水戦日誌(5)pp.4-5『尚上旬生起セシ「コロンバンガラ」沖ニ於ケル我ガ村雨、峯雲ニ対スル戦斗及二十七日ノ対5Fノ戦斗或ハ敵潜水艦ノ攻撃等ニ於ケル戦斗情況ヨリ察スルニ優秀ナル電波探信儀及夜間無照明射撃ニ関スル新兵器又ハ磁気魚雷ノ磁気機雷等ヲ充分ニ使用シアルモノノ如ク戒心ヲ要スルモノアリ』
  144. ^ #S1712四水戦日誌(5)p.30『四.参考(イ)麾下艦船部隊ノ行動』
  145. ^ #内令昭和18年4月(1)p.26『内令第五百七十九號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル 昭和十八年四月一日 海軍大臣 嶋田繁太郎|第二驅逐隊ノ項中「村雨、」ヲ削ル|第九驅逐隊ノ項中「朝雲、峯雲」ヲ「朝雲、薄雲、白雲」ニ改ム|第十一驅逐隊ノ項中「白雪、」ヲ削ル|第十六驅逐隊ノ項中「、時津風」ヲ削ル|第八驅逐隊、第二十九驅逐隊及第三十四驅逐隊ノ各項ヲ削ル』
  146. ^ #内令昭和18年4月(1)pp.28-29『内令第五百八十二號|横須賀鎮守府在籍 驅逐艦 村雨、驅逐艦 朝潮、驅逐艦 大潮、驅逐艦 荒潮、驅逐艦 峯雲|呉鎮守府在籍 驅逐艦 白雪、驅逐艦 時津風|右帝國驅逐艦籍ヨリ除カル|横須賀鎮守府在籍 伊號第一潜水艦、伊號第十八潜水艦 右帝國潜水艦籍ヨリ除カル|昭和十八年四月一日 海軍大臣 嶋田繁太郎』
  147. ^ #内令昭和18年7月(1)p.37『内令第千三百十一號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル 昭和十八年七月一日 海軍大臣 嶋田繁太郎 第二驅逐隊ノ項ヲ削ル』
  148. ^ 海軍辞令公報(部内限)第391号 昭和14年10月16日」 アジア歴史資料センター Ref.C13072076400 
  149. ^ 海軍辞令公報(部内限)第555号 昭和15年11月15日」 アジア歴史資料センター Ref.C13072079500 

参考文献

[編集]
  • アジア歴史資料センター(公式)(防衛省防衛研究所)
    • Ref.A10110010100『第八輯 観兵式及観艦式 第二編 紀元二千六百年特別観艦式 第二章 実施』。 
    • Ref.A10110010200『第八輯 観兵式及観艦式 第二編 紀元二千六百年特別観艦式 第三章 実施』。 
    • Ref.C13071974300『昭和12年12月1日現在10版内令提要追録第3号原稿/ 巻1追録/第6類機密保護』。 
    • Ref.C13072003500『昭和16年12月31日現在10版内令提要追録第10号原稿巻2.3/巻3追録/第13類艦船(1)』。 
    • Ref.C05022877900『第4231号 8.9.25駆逐艦村雨主機械製造の件』。 
    • Ref.C14121165400『昭和16年度(1941) 帝国海軍戦時編制(案)昭和10年2月12日』。 
    • Ref.C08051772000『昭和16年~昭和20年 戦隊 水戦輸送戦隊 行動調書』。 
    • Ref.C08030043000『昭和17年3月11日~昭和17年5月17日 第5戦隊戦時日誌戦闘詳報(1)』。 
    • Ref.C08030043100『昭和17年3月11日~昭和17年5月17日 第5戦隊戦時日誌戦闘詳報(2)』。 
    • Ref.C08030110600『昭和17年2月8日~昭和17年3月10日 第4水雷戦隊戦闘詳報(1)』。 
    • Ref.C08030110700『昭和17年2月8日~昭和17年3月10日 第4水雷戦隊戦闘詳報(2)』。 
    • Ref.C08030110800『昭和17年2月8日~昭和17年3月10日 第4水雷戦隊戦闘詳報(3)』。 
    • Ref.C08030110900『昭和17年2月8日~昭和17年3月10日 第4水雷戦隊戦闘詳報(4)』。 
    • Ref.C08030110000『昭和17年2月8日~昭和17年3月10日 第4水雷戦隊戦闘詳報(5)』。 
    • Ref.C08030110100『昭和17年2月8日~昭和17年3月10日 第4水雷戦隊戦闘詳報(6)』。 
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    • Ref.C08030111600『昭和17年3月1日~昭和17年4月1日 第4水雷戦隊戦時日誌(1)』。 
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    • Ref.C08030047500『昭和17年4月1日~昭和18年8月31日 第7戦隊戦時日誌戦闘詳報(4)』。 
    • Ref.C08030022500『昭和17年9月14日~昭和18年8月15日 第8艦隊戦時日誌(1)』。 
    • Ref.C08030022600『昭和17年9月14日~昭和18年8月15日 第8艦隊戦時日誌(2)』。 
    • Ref.C08030022700『昭和17年9月14日~昭和18年8月15日 第8艦隊戦時日誌(3)』。 
    • Ref.C08030022800『昭和17年9月14日~昭和18年8月15日 第8艦隊戦時日誌(4)』。 
    • Ref.C08030022900『昭和17年9月14日~昭和18年8月15日 第8艦隊戦時日誌(5)』。 
    • Ref.C08030113800『昭和17年10月1日~昭和17年10月31日 第4水雷戦隊戦時日誌(1)』。 
    • Ref.C08030113900『昭和17年10月1日~昭和17年10月31日 第4水雷戦隊戦時日誌(2)』。 
    • Ref.C08030114000『昭和17年10月1日~昭和17年10月31日 第4水雷戦隊戦時日誌(3)』。 
    • Ref.C08030114100『昭和17年10月1日~昭和17年10月31日 第4水雷戦隊戦時日誌(4)』。 
    • Ref.C08030114700『昭和17年11月1日~昭和17年11月31日 第4水雷戦隊戦時日誌(1)』。 
    • Ref.C08030114800『昭和17年11月1日~昭和17年11月31日 第4水雷戦隊戦時日誌(2)』。 
    • Ref.C08030114900『昭和17年11月1日~昭和17年11月31日 第4水雷戦隊戦時日誌(3)』。 
    • Ref.C08030115000『昭和17年11月1日~昭和17年11月31日 第4水雷戦隊戦時日誌(4)』。 
    • Ref.C08030115400『昭和17年10月31日~昭和17年11月18日 第4水雷戦隊戦闘詳報(1)』。 
    • Ref.C08030115500『昭和17年10月31日~昭和17年11月18日 第4水雷戦隊戦闘詳報(2)』。 
    • Ref.C08030115600『昭和17年10月31日~昭和17年11月18日 第4水雷戦隊戦闘詳報(3)』。 
    • Ref.C08030115700『昭和17年10月31日~昭和17年11月18日 第4水雷戦隊戦闘詳報(4)』。 
    • Ref.C08030768800『昭和17年11月~昭和17年12月 第7戦隊戦時日誌(5)』。 
    • Ref.C08030116000『昭和17年12月1日~昭和18年4月30日 第4水雷戦隊戦時日誌(1)』。 
    • Ref.C08030116100『昭和17年12月1日~昭和18年4月30日 第4水雷戦隊戦時日誌(2)』。 
    • Ref.C08030116200『昭和17年12月1日~昭和18年4月30日 第4水雷戦隊戦時日誌(3)』。 
    • Ref.C08030116300『昭和17年12月1日~昭和18年4月30日 第4水雷戦隊戦時日誌(4)』。 
    • Ref.C08030116400『昭和17年12月1日~昭和18年4月30日 第4水雷戦隊戦時日誌(5)』。 
    • Ref.C12070097600『昭和8年達完/12月』。 
    • Ref.C12070176200『昭和18年1月~4月 内令1巻/内令昭和18年4月(1)』。 
    • Ref.C12070178900『昭和18年7~8月 内令3巻/昭和18年7月(1)』。 
  • 小板橋孝策『海軍操舵員よもやま物語 艦の命運を担った"かじとり魂"』光人社NF文庫、2015年1月(原著1995年)。ISBN 978-4-7698-2868-6 
  • 外山操『艦長たちの軍艦史』光人社、2005年。ISBN 4-7698-1246-9
  • 種子島洋二『ソロモン海「セ」号作戦―コロンバンガラ島奇蹟の撤収』光人社、2003年9月。ISBN 4-7698-2394-0 
  • 原為一『帝国海軍の最後』河出書房新社、2011年7月(原著1955年)。ISBN 978-4-309-24557-7 
  •  淵田美津雄奥宮正武『機動部隊』朝日ソノラマ、1992年12月。ISBN 4-257-17269-X 
  • 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書26 海軍進攻作戦 蘭印・ベンガル湾方面』朝雲新聞社、1969年5月。 
  • 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書83 南東方面海軍作戦(2) ガ島撤収まで』朝雲新聞社、1975年8月。 
  • 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書96 南東方面海軍作戦(3) ガ島撤収後』朝雲新聞社、1976年8月。 
  • 防衛庁防衛研修所 戦史室『戦史叢書第24巻 比島・マレー方面海軍進攻作戦』朝雲新聞社
  • 三神國隆『海軍病院船はなぜ沈められたか 第二氷川丸の航跡』光人社NF文庫、2005年1月(原著2001年)。ISBN 4-7698-2443-2 
  • 雑誌「丸」編集部『ハンディ版 日本海軍艦艇写真集17 駆逐艦 初春型・白露型・朝潮型・陽炎型・夕雲型・島風』光人社、1997年。
  • 海軍歴史保存会『日本海軍史』第7巻、第9巻、第10巻、第一法規出版、1995年。
  • 鹿山誉「クラ湾の悪夢 駆逐艦「村雨」の最期」『丸別冊 太平洋戦争証言シリーズ1 空白の戦記 中・北部ソロモンの攻防戦』潮書房、1985年、63-79ページ

関連項目

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