住山徳太郎
表示
住山 徳太郎 | |
---|---|
渾名 | 海軍女子学習院長 |
生誕 |
1886年5月1日 日本 東京府 |
死没 | 1962年1月20日(75歳没) |
所属組織 | 日本海軍 |
軍歴 | 1907年 - 1942年 |
最終階級 | 海軍中将 |
住山 徳太郎(すみやま とくたろう、1886年(明治19年)5月1日 - 1962年(昭和37年)11月20日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。
経歴
[編集]東京府出身。住山宗次郎の長男として生まれる。学習院中等科を経て、1906年(明治39年)11月、海軍兵学校(34期)を卒業し、翌年12月に海軍少尉任官。海軍大学校で乙種学生、同専修学生として学び、水上機母艦「若宮丸」分隊長、通報艦「淀」航海長、海兵教官、第三艦隊参謀、東郷平八郎元帥副官などを経て、1919年(大正8年)12月、海軍大学校(甲種17期)を卒業。以後、巡洋戦艦「鞍馬」航海長、第三艦隊参謀、横須賀海兵団分隊長、戦艦「敷島」航海長、第二艦隊参謀、海軍省人事局第1課局員などを歴任。
1926年(大正15年)12月、東宮兼侍従武官、侍従武官、戦艦「榛名」艦長、呉鎮守府参謀長などを歴任し、1932年(昭和7年)12月、海軍少将に進級。以後、第8戦隊司令官、教育局長などを経て、1936年(昭和11年)12月に海軍中将となる。その後、海兵校長、海軍次官、佐世保鎮守府司令長官、軍事参議官などを歴任し、1942年(昭和17年)3月、予備役に編入された。その後、秩父宮別当を勤めた。戦後の1947年(昭和22年)11月、公職追放仮指定を受けた[1]。
温厚な人柄から、「海軍女子学習院長」のニックネームがあった[2]。
親族
[編集]栄典
[編集]- 外国勲章佩用允許
- 1944年(昭和19年)6月23日 - 満州国国勢調査紀念章[3]
脚注
[編集]- ^ 総理庁官房監査課 編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、69頁。NDLJP:1276156。
- ^ 生出寿『凡将山本五十六』、1983年、現代史出版会、20頁。
- ^ 「赤堀鉄吉外十四名外国勲章記章受領佩用の件」 アジア歴史資料センター Ref.A10113504500
参考文献
[編集]
先代 平田昇 |
佐世保鎮守府司令長官 第38代:1940年10月15日 - 1941年11月20日 |
次代 谷本馬太郎 |