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住山徳太郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
住山 徳太郎
渾名 海軍女子学習院
生誕 1886年5月1日
日本の旗 日本 東京府
死没 (1962-01-20) 1962年1月20日(75歳没)
所属組織 日本海軍
軍歴 1907年 - 1942年
最終階級 海軍中将
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住山 徳太郎(すみやま とくたろう、1886年明治19年)5月1日 - 1962年昭和37年)11月20日)は、日本海軍軍人。最終階級は海軍中将

経歴

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東京府出身。住山宗次郎の長男として生まれる。学習院中等科を経て、1906年(明治39年)11月、海軍兵学校34期)を卒業し、翌年12月に海軍少尉任官。海軍大学校で乙種学生、同専修学生として学び、水上機母艦「若宮丸」分隊長、通報艦「」航海長、海兵教官、第三艦隊参謀東郷平八郎元帥副官などを経て、1919年大正8年)12月、海軍大学校(甲種17期)を卒業。以後、巡洋戦艦「鞍馬」航海長、第三艦隊参謀、横須賀海兵団分隊長、戦艦「敷島」航海長、第二艦隊参謀、海軍省人事局第1課局員などを歴任。

1926年(大正15年)12月、東宮侍従武官、侍従武官、戦艦「榛名艦長呉鎮守府参謀長などを歴任し、1932年(昭和7年)12月、海軍少将に進級。以後、第8戦隊司令官、教育局長などを経て、1936年(昭和11年)12月に海軍中将となる。その後、海兵校長、海軍次官佐世保鎮守府司令長官、軍事参議官などを歴任し、1942年(昭和17年)3月、予備役に編入された。その後、秩父宮別当を勤めた。戦後の1947年(昭和22年)11月、公職追放仮指定を受けた[1]

温厚な人柄から、「海軍女子学習院長」のニックネームがあった[2]

親族

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栄典

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外国勲章佩用允許

脚注

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  1. ^ 総理庁官房監査課 編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、69頁。NDLJP:1276156 
  2. ^ 生出寿『凡将山本五十六』、1983年、現代史出版会、20頁。
  3. ^ 赤堀鉄吉外十四名外国勲章記章受領佩用の件」 アジア歴史資料センター Ref.A10113504500 

参考文献

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  • 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。
  • 外山操編『陸海軍将官人事総覧 海軍篇』芙蓉書房出版、1981年。
  • 福川秀樹『日本海軍将官辞典』芙蓉書房出版、2000年。


先代
平田昇
佐世保鎮守府司令長官
第38代:1940年10月15日 - 1941年11月20日
次代
谷本馬太郎