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元帥 (日本)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
元帥徽章。菊花紋桐花紋を上下中央に配し、旭日旗である陸軍軍旗(右)および、海軍軍艦旗(左)を意匠化している。

日本における元帥(げんすい[1])は、日本軍における最高位の階級または称号である。

元帥を超える階級もしくは称号は、天皇が称した大元帥のみである。1871年明治4年)並びに1872年(明治5年)から1873年(明治6年)までにおいては大元帥及び元帥大将以下の階級と同じく相当表あるいは官等表に掲載する官名であり勅任官とされた[注 2]。このときの陸軍元帥については実際に任官の例があるが[10]、大元帥や海軍元帥(かいぐんげんすい[11][8]の任官の例は見つけられない。1898年(明治31年)以降は元帥府に列せられた陸軍大将または海軍大将に与えられた称号元帥陸軍大将)及び(元帥海軍大将)である[12]。現在の自衛隊にはこれに相当する称号は存在しない。

概要

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階級

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日本軍海軍)における元帥の制度は、1871年(明治4年8月)の兵部省相当表[5] [6]や1872年(明治5年10月)の海軍省官等表[8]に現れ[3] [4]、実際に任官した例としては1872年8月22日(明治5年7月19日)に参議西郷隆盛陸軍元帥を兼任させて参議兼陸軍元帥の西郷隆盛に近衛都督を命じた[10]。同年9月1日(7月29日)に参議兼陸軍元帥西郷隆盛を改めて陸軍元帥兼参議に任じている[10] [13]。 そして、1872年10月9日(明治5年9月7日)の太政官布告第252号により大元帥及び元帥の服制を制定している[14] [注 3]。同布告によって定められたのは大元帥と元帥の階級章であるが、天皇が大元帥となった場合の階級章と釦も大元帥とは別に定められていた[14][注 4]。このことから、当時は天皇以外の者が大元帥となることも想定されていたと指摘されている[18]。 1873年(明治6年)3月19日の陸軍武官俸給表で元帥の俸給を定めており、俸給表では少将以上の俸給を官名並びに近衛または鎮台の配置の組み合わせに応じて俸給を定めたが、元帥は近衛の場合の俸給だけを規定した[19]。大元帥の俸給は定めていない[19]。 1873年(明治6年)5月8日の官制改正で大元帥及び元帥を廃止したため[4] [9]、その時点で西郷隆盛は陸軍元帥兼参議から陸軍元帥が外れ、同年5月12日に改めて参議西郷隆盛を陸軍大将兼参議に任じた[20] [注 5]。階級としての元帥制度の運用は、このように極めて短期間で終了した[注 6]

称号

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1898年(明治31年)に元帥府条例が制定され、「陸海軍大将ノ中ニ於テ老功卓抜ナル者」[注 7]に軍務の顧問としての元帥の称号を与えることになった[12]。この際に称号を与えられたのは、小松宮彰仁親王山縣有朋大山巌及び西郷従道(陸軍3名・海軍1名)だった。また、同年の明治31年勅令第96号「元帥徽章ノ制式及装著ニ関スル件」で、元帥徽章の制式及び着装方法について定められた[23]。さらに、1918年に大正7年勅令第331号「元帥佩刀制式」が定められ、元帥佩刀元帥刀)の制度が設けられた[24](他国の元帥杖に相当)。元帥は天皇の最高軍事顧問として元帥府に列し、陸海軍大将以下とは異なり終身現役[注 8]であった。

この元帥は前述のそれと異なり、「元帥府に叙された陸海軍大将への称号」であり、諸外国のような個別の階級ではないため、「陸軍(海軍)元帥」とは呼ばず[25][26]、また階級章も陸海軍大将のものをそのまま佩用した。山本五十六について例示すると、「元帥海軍大将 山本五十六」または「山本元帥」と呼称するのが正しく、「海軍元帥 山本五十六」「山本海軍元帥」などと呼称するのは誤りである[25][26]

明治時代には陸軍5名・海軍3名(西郷隆盛を除く)、大正時代には陸軍6名・海軍6名、昭和時代には陸軍6名・海軍4名に元帥の称号が与えられた。第二次世界大戦および太平洋戦争中は、陸軍で3名(寺内寿一杉山元畑俊六)、海軍で3名(永野修身山本五十六古賀峯一)が元帥に叙されたが、うち海軍の2名(山本と古賀)は死後追贈であり、永野が唯一生前に叙された。

1926年(大正15年)4月26日には、元帥礼遇が大勲位昌徳宮李王坧に対して与えられている。

1945年の昭和20年勅令第669号「元帥府条例等廃止ノ件」により、日本の元帥制度は廃止された[27]。この時点で元帥であった存命者は、梨本宮守正王伏見宮博恭王、寺内、畑および永野の5名だった。

元帥一覧

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陸軍元帥

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  1. 西郷隆盛 - 1872年(明治5年7月[10] - 1873年(明治6年)5月
    階級としての「陸軍元帥」に任官したのは、日本の近代軍隊史上西郷ただ一人であり、「大元帥」や「海軍元帥」[8]の任官の例は見つけられない[注 5]

元帥陸軍大将

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  1. 小松宮彰仁親王 - 1898年(明治31年)1月20日受
  2. 山縣有朋 - 1898年(明治31年)1月20日受
  3. 大山巌 - 1898年(明治31年)1月20日受
  4. 野津道貫 - 1906年(明治39年)1月31日受
  5. 奥保鞏 - 1911年(明治44年)10月24日受
  6. 長谷川好道 - 1915年(大正4年)1月9日受
  7. 伏見宮貞愛親王 - 1915年(大正4年)1月9日受
  8. 川村景明 - 1915年(大正4年)1月9日受
  9. 寺内正毅 - 1916年(大正5年)6月24日受
  10. 閑院宮載仁親王 - 1919年(大正8年)12月12日受
  11. 上原勇作 - 1921年(大正10年)4月27日受
  12. 昌徳宮李王坧 - 1926年(大正15年)4月26日受[注 9]
  13. 久邇宮邦彦王 - 1929年(昭和4年)1月27日受 (病死後追贈
  14. 梨本宮守正王 - 1932年(昭和7年)8月8日受
  15. 武藤信義 - 1933年(昭和8年)5月3日受
  16. 寺内寿一 - 1943年(昭和18年)6月21日受
  17. 杉山元 - 1943年(昭和18年)6月21日受
  18. 畑俊六 - 1944年(昭和19年)6月2日受

元帥海軍大将

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  1. 西郷従道 - 1898年(明治31年)1月20日受
  2. 伊東祐亨 - 1906年(明治39年)1月31日受
  3. 井上良馨 - 1911年(明治44年)10月31日受
  4. 東郷平八郎 - 1913年(大正2年)4月21日受
  5. 有栖川宮威仁親王 - 1913年(大正2年)7月7日受(死後追贈)
  6. 伊集院五郎 - 1917年(大正6年)5月26日受
  7. 東伏見宮依仁親王 - 1922年(大正11年)6月27日受(死後追贈)
  8. 島村速雄 - 1923年(大正12年)1月8日受(死後追贈)
  9. 加藤友三郎 - 1923年(大正12年)8月24日受(死後追贈)
  10. 伏見宮博恭王 - 1932年(昭和7年)5月27日受
  11. 山本五十六 - 1943年(昭和18年)4月18日受(死後追贈)
  12. 永野修身 - 1943年(昭和18年)6月21日受
  13. 古賀峯一 - 1944年(昭和19年)3月31日受(死後追贈)

ギャラリー

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関連法令

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  • 元帥府条例(明治31年勅令第5号)[12]
  • 元帥徽章ノ制式及装著ニ関スル件(明治31年勅令第96号)[23]
  • 元帥佩刀制式(大正7年勅令第331号)[24]
  • 元帥府条例等廃止ノ件(昭和20年勅令第669号)[27]

脚注

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注釈

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  1. ^ 大元帥に官等が無いのと同様に、明治4年8月の官制等級改定では太政大臣・左右大臣参議の三職は天皇を輔翼する重官であって諸省長官の上になるため等を設けなかった[2]
  2. ^ 明治4年8月に兵部省に大元帥及び元帥を置きその官等は大元帥は等無し[注 1]、元帥は一等とされ、このときの大元帥及び元帥は明治5年1月に廃止している[3] [4] [5] [6] [7]。明治5年10月の海軍省官等表に再び大元帥及び元帥を置くが明治6年5月に廃止している[4] [8] [9]
  3. ^ 海軍でも海軍武官服制の案に元帥服を記載していたが海軍省が太政官へ伺い出る前に元帥が廃止となったため、海軍省は大将を1等繰り上げて元帥服を大将の服とみなしたいと伺い出たが許可されなかった[15]
  4. ^ 天皇の陸軍式御服はその後、 明治8年7月31日に夏御服は差し掛かりにつき当分のところ陸軍省調書の通りとし[16]、明治13年10月11日太政官達第55号によって定めた[17]
  5. ^ a b 1873年(明治6年)1月調べの職員録によれば陸海軍の大元帥や海軍の元帥[8]として掲載された者はいない[21]
  6. ^ 台湾出兵後、清国政府との交渉中の1874年(明治7年)9月に海軍大輔河村純義より太政大臣及び左右大臣へ上陳があり、その中で海陸元帥を選任して両軍を統括させることや両軍統括の人選についてその元帥には陸軍大将の西郷隆盛が適任になるなどの申し入れがあったが[22]、清国政府との交渉が合意に至り沙汰止みとなっている。
  7. ^ 「大将昇進後に卓抜の功績を挙げた者」と言う意味であるため、大将昇進前に卓抜の功績を挙げても元帥叙任要件には含まれない事となる。現に秋山好古日露戦争ロシアコサック騎兵に勝利を収めた当時は少将)のように、著名な功績があっても元帥に叙されなかった大将も存在する。
  8. ^ そのため、後述の山本五十六古賀峯一のように、要件を満たしながら元帥に叙されず、かつ現役のまま死去した大将には、死亡日付で死後追贈される事もあった。また終身現役だけに、最高軍事顧問としての職務自体は(他の新補職との兼任を伴わない限り)老齢や病身でも堪えうる閑職で、奥保鞏が高齢に伴う聴力低下を理由に元帥辞任を願い出た際にも、体調への配慮がされず却下となっている。
  9. ^ 大韓帝国皇帝。李王となって後、陸軍大将の礼遇を受けていた。4月26日に元帥の礼遇を受ける[28]。李王坧はこの前日に没しているが、追贈という形ではなく、その死が正式に報告される前のことであった[29]

出典

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  1. ^ 国立国会図書館 2007, p. 91.
  2. ^ 内閣官報局 編「太政官第400 官制等級ヲ改定ス(8月10日)」『法令全書』 明治4年、内閣官報局、東京、1912年、317頁。NDLJP:787951/195 
  3. ^ a b 「単行書・大政紀要・下編・第六十五巻・官職八・陸軍武官」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.A04017112800、単行書・大政紀要・下編・第六十五巻・官職八・陸軍武官(国立公文書館)(第7画像目から第9画像目まで)
  4. ^ a b c d 「単行書・大政紀要・下編・第六十六巻」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.A04017113000、単行書・大政紀要・下編・第六十六巻(国立公文書館)(第9画像目から第10画像目まで)
  5. ^ a b 内閣官報局 編「兵部省第57 兵部省職員令、官位相当表、兵部省陸軍部内条例書(7月)」『法令全書』 明治4年、内閣官報局、東京、1912年、715頁。NDLJP:787951/394 
  6. ^ a b 「兵部省官等改定・二条」国立公文書館 、請求番号:太00424100、件名番号:001、太政類典・第二編・明治四年~明治十年・第二百二巻・兵制一・武官職制一
  7. ^ 内閣官報局 編「太政官第16号官等表(正月20日)」『法令全書』 明治5年、内閣官報局、東京、1912年、45−47頁。NDLJP:787952/78 
  8. ^ a b c d e 内閣官報局 編「太政官第305号海軍省官等表(10月13日)」『法令全書』 明治5年、内閣官報局、東京、1912年、205頁。NDLJP:787952/159 
  9. ^ a b 内閣官報局 編「第154号陸海軍武官官等表改定(5月8日)(布)」『法令全書』 明治6年、内閣官報局、東京、1912年、200−201頁。NDLJP:787953/175 
  10. ^ a b c d 「第20号壬申7月19、20、21、22、23、24、25、27、29、晦日」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C08010381400、明治5年 陸軍省日誌 坤 坤丙 第16号従6月同年第36号至12月(防衛省防衛研究所)(第1画像目、第15画像目)
  11. ^ 国立国会図書館 2007, p. 29.
  12. ^ a b c 大蔵省印刷局「元帥府条例(明治31年1月20日勅令第5号)」『官報』明治第4362号、日本マイクロ写真、東京、1898年1月20日、161頁、NDLJP:2947651/1 
  13. ^ 「参議西郷隆盛任陸軍元帥兼参議」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C04025036200、明治5年 「大日記 壬申8月 太政官之部 戊」(防衛省防衛研究所)
  14. ^ a b 内閣官報局 編「明治5年9月7日太政官第252号陸軍元帥服制ヲ定ム(布)」『法令全書』 明治5年、内閣官報局、東京、1912年、190頁。NDLJP:787952/152 
  15. ^ 「海軍武官及文官服制改定」国立公文書館、請求番号:太00452100、件名番号:019、太政類典・第二編・明治四年~明治十年・第二百三十巻・兵制二十九・徽章三(第2画像目から第3画像目まで)
  16. ^ 「夏御軍衣」国立公文書館、請求番号:太00272100、件名番号:056、太政類典・第二編・明治四年~明治十年・第五十巻・儀制五・諸儀式三
  17. ^ 内閣官報局 編「太政官第55号達 御服並御馬具制御改定(10月11日 輪廓附)」『法令全書』 明治13年、内閣官報局、東京、1912年、530−550頁。NDLJP:787960/314 
  18. ^ 刑部 p 67
  19. ^ a b 「陸軍武官俸給表」国立公文書館、請求番号:太00455100、件名番号:003、太政類典・第二編・明治四年~明治十年・第二百三十三巻上・兵制三十二上・会計一上(第2画像目)
  20. ^ 「太政官日誌明治6年第67号」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C07040156400、明治6年自4月25日至7月8日 太政官日誌 自第60号至第130号(防衛省防衛研究所)(第1画像目)
  21. ^ 「職員録・明治六年一月・袖珍官員録改」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.A09054280400、職員録・明治六年一月・袖珍官員録改(国立公文書館)(第100画像目、第148画像目)
  22. ^ 「河村海軍大輔ヨリ三大臣ヘ海陸軍折衝ノ順次元帥撰任戦艦准備等四個条上陳」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.A03031141000、単行書・処蕃提要後編・第四巻(国立公文書館)
  23. ^ a b 大蔵省印刷局「元帥徽章ノ制式及装著ニ関スル件(明治31年5月25日勅令第96号)」『官報』明治第4468号、日本マイクロ写真、東京、1898年5月25日、317頁、NDLJP:2947757/1 
  24. ^ a b 大蔵省印刷局「元帥佩刀制式(大正7年8月29日勅令第331号)」『官報』大正第1823号、日本マイクロ写真、東京、1918年8月29日、599-600頁、NDLJP:2953936/1 
  25. ^ a b 半藤 2013, 位置No. 134-159, 第一章 大将と元帥-元帥府の誕生
  26. ^ a b 半藤(2009) p24-25
  27. ^ a b 大蔵省印刷局「元師府条例等廃止ノ件(昭和20年11月30日勅令第669号)」『官報』昭和第5666号、日本マイクロ写真、東京、1945年11月30日、225頁、NDLJP:2962171/1 
  28. ^ 元帥ノ礼遇ヲ賜フ」 アジア歴史資料センター Ref.A10110717300 
  29. ^ 新城道彦『朝鮮王公族 ―帝国日本の準皇族』中公新書、2015年3月。ISBN 978-4-12-102309-4 、Kindle版、位置No.全266中 181 / 68%

参考文献

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関連項目

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