元帥 (日本)
日本における元帥(げんすい[1])は、日本軍における最高位の階級または称号である。
元帥を超える階級もしくは称号は、天皇が称した大元帥のみである。1871年(明治4年)並びに1872年(明治5年)から1873年(明治6年)までにおいては大元帥及び元帥は大将以下の階級と同じく相当表あるいは官等表に掲載する官名であり勅任官とされた[注 2]。このときの陸軍元帥については実際に任官の例があるが[10]、大元帥や海軍元帥(かいぐんげんすい[11])[8]の任官の例は見つけられない。1898年(明治31年)以降は元帥府に列せられた陸軍大将または海軍大将に与えられた称号(元帥陸軍大将)及び(元帥海軍大将)である[12]。現在の自衛隊にはこれに相当する称号は存在しない。
概要
[編集]階級
[編集]日本軍(陸・海軍)における元帥の制度は、1871年(明治4年8月)の兵部省相当表[5] [6]や1872年(明治5年10月)の海軍省官等表[8]に現れ[3] [4]、実際に任官した例としては1872年8月22日(明治5年7月19日)に参議西郷隆盛に陸軍元帥を兼任させて参議兼陸軍元帥の西郷隆盛に近衛都督を命じた[10]。同年9月1日(7月29日)に参議兼陸軍元帥西郷隆盛を改めて陸軍元帥兼参議に任じている[10] [13]。 そして、1872年10月9日(明治5年9月7日)の太政官布告第252号により大元帥及び元帥の服制を制定している[14] [注 3]。同布告によって定められたのは大元帥と元帥の階級章であるが、天皇が大元帥となった場合の階級章と釦も大元帥とは別に定められていた[14][注 4]。このことから、当時は天皇以外の者が大元帥となることも想定されていたと指摘されている[18]。 1873年(明治6年)3月19日の陸軍武官俸給表で元帥の俸給を定めており、俸給表では少将以上の俸給を官名並びに近衛または鎮台の配置の組み合わせに応じて俸給を定めたが、元帥は近衛の場合の俸給だけを規定した[19]。大元帥の俸給は定めていない[19]。 1873年(明治6年)5月8日の官制改正で大元帥及び元帥を廃止したため[4] [9]、その時点で西郷隆盛は陸軍元帥兼参議から陸軍元帥が外れ、同年5月12日に改めて参議西郷隆盛を陸軍大将兼参議に任じた[20] [注 5]。階級としての元帥制度の運用は、このように極めて短期間で終了した[注 6]。
称号
[編集]1898年(明治31年)に元帥府条例が制定され、「陸海軍大将ノ中ニ於テ老功卓抜ナル者」[注 7]に軍務の顧問としての元帥の称号を与えることになった[12]。この際に称号を与えられたのは、小松宮彰仁親王、山縣有朋、大山巌及び西郷従道(陸軍3名・海軍1名)だった。また、同年の明治31年勅令第96号「元帥徽章ノ制式及装著ニ関スル件」で、元帥徽章の制式及び着装方法について定められた[23]。さらに、1918年に大正7年勅令第331号「元帥佩刀制式」が定められ、元帥佩刀(元帥刀)の制度が設けられた[24](他国の元帥杖に相当)。元帥は天皇の最高軍事顧問として元帥府に列し、陸海軍大将以下とは異なり終身現役[注 8]であった。
この元帥は前述のそれと異なり、「元帥府に叙された陸海軍大将への称号」であり、諸外国のような個別の階級ではないため、「陸軍(海軍)元帥」とは呼ばず[25][26]、また階級章も陸海軍大将のものをそのまま佩用した。山本五十六について例示すると、「元帥海軍大将 山本五十六」または「山本元帥」と呼称するのが正しく、「海軍元帥 山本五十六」「山本海軍元帥」などと呼称するのは誤りである[25][26]。
明治時代には陸軍5名・海軍3名(西郷隆盛を除く)、大正時代には陸軍6名・海軍6名、昭和時代には陸軍6名・海軍4名に元帥の称号が与えられた。第二次世界大戦および太平洋戦争中は、陸軍で3名(寺内寿一、杉山元、畑俊六)、海軍で3名(永野修身、山本五十六、古賀峯一)が元帥に叙されたが、うち海軍の2名(山本と古賀)は死後追贈であり、永野が唯一生前に叙された。
1926年(大正15年)4月26日には、元帥礼遇が大勲位昌徳宮李王坧に対して与えられている。
1945年の昭和20年勅令第669号「元帥府条例等廃止ノ件」により、日本の元帥制度は廃止された[27]。この時点で元帥であった存命者は、梨本宮守正王、伏見宮博恭王、寺内、畑および永野の5名だった。
元帥一覧
[編集]陸軍元帥
[編集]元帥陸軍大将
[編集]- 小松宮彰仁親王 - 1898年(明治31年)1月20日受
- 山縣有朋 - 1898年(明治31年)1月20日受
- 大山巌 - 1898年(明治31年)1月20日受
- 野津道貫 - 1906年(明治39年)1月31日受
- 奥保鞏 - 1911年(明治44年)10月24日受
- 長谷川好道 - 1915年(大正4年)1月9日受
- 伏見宮貞愛親王 - 1915年(大正4年)1月9日受
- 川村景明 - 1915年(大正4年)1月9日受
- 寺内正毅 - 1916年(大正5年)6月24日受
- 閑院宮載仁親王 - 1919年(大正8年)12月12日受
- 上原勇作 - 1921年(大正10年)4月27日受
- 昌徳宮李王坧 - 1926年(大正15年)4月26日受[注 9]
- 久邇宮邦彦王 - 1929年(昭和4年)1月27日受 (病死後追贈)
- 梨本宮守正王 - 1932年(昭和7年)8月8日受
- 武藤信義 - 1933年(昭和8年)5月3日受
- 寺内寿一 - 1943年(昭和18年)6月21日受
- 杉山元 - 1943年(昭和18年)6月21日受
- 畑俊六 - 1944年(昭和19年)6月2日受
元帥海軍大将
[編集]- 西郷従道 - 1898年(明治31年)1月20日受
- 伊東祐亨 - 1906年(明治39年)1月31日受
- 井上良馨 - 1911年(明治44年)10月31日受
- 東郷平八郎 - 1913年(大正2年)4月21日受
- 有栖川宮威仁親王 - 1913年(大正2年)7月7日受(死後追贈)
- 伊集院五郎 - 1917年(大正6年)5月26日受
- 東伏見宮依仁親王 - 1922年(大正11年)6月27日受(死後追贈)
- 島村速雄 - 1923年(大正12年)1月8日受(死後追贈)
- 加藤友三郎 - 1923年(大正12年)8月24日受(死後追贈)
- 伏見宮博恭王 - 1932年(昭和7年)5月27日受
- 山本五十六 - 1943年(昭和18年)4月18日受(死後追贈)
- 永野修身 - 1943年(昭和18年)6月21日受
- 古賀峯一 - 1944年(昭和19年)3月31日受(死後追贈)
ギャラリー
[編集]-
元帥陸軍大将閑院宮載仁親王(1919年)。元帥徽章と元帥佩刀を佩用。
-
元帥海軍大将永野修身(1943年(昭和18年)、軍令部総長)。元帥徽章と元帥佩刀を佩用。
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元帥陸軍大将杉山元(1944年(昭和19年)1月、参謀総長)。元帥徽章と元帥佩刀を佩用。
-
元帥陸軍大将畑俊六(1945年(昭和20年)、第2総軍司令官)。元帥徽章を佩用。
関連法令
[編集]- 元帥府条例(明治31年勅令第5号)[12]
- 元帥徽章ノ制式及装著ニ関スル件(明治31年勅令第96号)[23]
- 元帥佩刀制式(大正7年勅令第331号)[24]
- 元帥府条例等廃止ノ件(昭和20年勅令第669号)[27]
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 大元帥に官等が無いのと同様に、明治4年8月の官制等級改定では太政大臣・左右大臣・参議の三職は天皇を輔翼する重官であって諸省長官の上になるため等を設けなかった[2]。
- ^ 明治4年8月に兵部省に大元帥及び元帥を置きその官等は大元帥は等無し[注 1]、元帥は一等とされ、このときの大元帥及び元帥は明治5年1月に廃止している[3] [4] [5] [6] [7]。明治5年10月の海軍省官等表に再び大元帥及び元帥を置くが明治6年5月に廃止している[4] [8] [9]。
- ^ 海軍でも海軍武官服制の案に元帥服を記載していたが海軍省が太政官へ伺い出る前に元帥が廃止となったため、海軍省は大将を1等繰り上げて元帥服を大将の服とみなしたいと伺い出たが許可されなかった[15]。
- ^ 天皇の陸軍式御服はその後、 明治8年7月31日に夏御服は差し掛かりにつき当分のところ陸軍省調書の通りとし[16]、明治13年10月11日太政官達第55号によって定めた[17]。
- ^ a b 1873年(明治6年)1月調べの職員録によれば陸海軍の大元帥や海軍の元帥[8]として掲載された者はいない[21]。
- ^ 台湾出兵後、清国政府との交渉中の1874年(明治7年)9月に海軍大輔河村純義より太政大臣及び左右大臣へ上陳があり、その中で海陸元帥を選任して両軍を統括させることや両軍統括の人選についてその元帥には陸軍大将の西郷隆盛が適任になるなどの申し入れがあったが[22]、清国政府との交渉が合意に至り沙汰止みとなっている。
- ^ 「大将昇進後に卓抜の功績を挙げた者」と言う意味であるため、大将昇進前に卓抜の功績を挙げても元帥叙任要件には含まれない事となる。現に秋山好古(日露戦争でロシアのコサック騎兵に勝利を収めた当時は少将)のように、著名な功績があっても元帥に叙されなかった大将も存在する。
- ^ そのため、後述の山本五十六と古賀峯一のように、要件を満たしながら元帥に叙されず、かつ現役のまま死去した大将には、死亡日付で死後追贈される事もあった。また終身現役だけに、最高軍事顧問としての職務自体は(他の新補職との兼任を伴わない限り)老齢や病身でも堪えうる閑職で、奥保鞏が高齢に伴う聴力低下を理由に元帥辞任を願い出た際にも、体調への配慮がされず却下となっている。
- ^ 元大韓帝国皇帝。李王となって後、陸軍大将の礼遇を受けていた。4月26日に元帥の礼遇を受ける[28]。李王坧はこの前日に没しているが、追贈という形ではなく、その死が正式に報告される前のことであった[29]
出典
[編集]- ^ 国立国会図書館 2007, p. 91.
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- ^ a b c d 「単行書・大政紀要・下編・第六十六巻」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.A04017113000、単行書・大政紀要・下編・第六十六巻(国立公文書館)(第9画像目から第10画像目まで)
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- ^ a b 大蔵省印刷局「元帥佩刀制式(大正7年8月29日勅令第331号)」『官報』大正第1823号、日本マイクロ写真、東京、1918年8月29日、599-600頁、NDLJP:2953936/1。
- ^ a b 半藤 2013, 位置No. 134-159, 第一章 大将と元帥-元帥府の誕生
- ^ a b 半藤(2009) p24-25
- ^ a b 大蔵省印刷局「元師府条例等廃止ノ件(昭和20年11月30日勅令第669号)」『官報』昭和第5666号、日本マイクロ写真、東京、1945年11月30日、225頁、NDLJP:2962171/1。
- ^ 「元帥ノ礼遇ヲ賜フ」 アジア歴史資料センター Ref.A10110717300
- ^ 新城道彦『朝鮮王公族 ―帝国日本の準皇族』中公新書、2015年3月。ISBN 978-4-12-102309-4。、Kindle版、位置No.全266中 181 / 68%
参考文献
[編集]- 刑部芳則『洋服・散髪・脱刀 : 服制の明治維新』講談社、2010年4月。ISBN 978-4-06-258464-7。
- 半藤一利 他『歴代海軍大将全覧明治篇』中央公論新社、2009年。ISBN 978-4-12-150303-9。
- 半藤一利 他『歴代海軍大将全覧』(Amazon Kindle)中央公論新社、2013年。
- 国立国会図書館 (2007年1月). “ヨミガナ辞書” (PDF). 日本法令索引〔明治前期編〕. ヨミガナ辞書. 国立国会図書館. 2023年1月9日閲覧。