伏見宮貞愛親王
伏見宮 | |
元帥陸軍大将 伏見宮貞愛親王 | |
続柄 | |
称号 | 敦宮 |
身位 | 親王 |
敬称 | 殿下 |
出生 |
1858年6月9日 日本 山城国 京都 |
死去 |
1923年2月4日(64歳没) 日本、千葉県海上郡高神村 (現・銚子市) |
埋葬 |
1923年 豊島岡御陵 |
配偶者 | 穗宮利子女王 |
河野千代子 | |
增山奈越子 | |
子女 |
博恭王 邦芳王 昭徳王 禎子女王 |
父親 | 伏見宮邦家親王 |
母親 | 鷹司景子(東山天皇玄孫) |
栄典 |
大勲位菊花章頸飾 大勲位菊花大綬章 功二級金鵄勲章 功三級金鵄勲章 勲一等旭日大綬章 |
役職 |
元帥陸軍大将 軍事参議官 恩賜財団済生会総裁 財団法人理化学研究所総裁 他多数 |
称号:親王 | |
---|---|
伏見宮 貞愛親王(ふしみのみや さだなるしんのう、1858年6月9日〈安政5年4月28日〉 - 1923年〈大正12年〉2月4日)は、日本の皇族、陸軍軍人、帝国軍人後援会総裁(初代)。官位は元帥陸軍大将大勲位功二級。伏見宮邦家親王の第14王子。母は鷹司政煕の娘の鷹司景子。世襲親王家の伏見宮第22代および第24代当主。
生涯
[編集]幼名は敦宮(たつのみや)。初め妙法院を相続したのち孝明天皇の養子となるが、伏見宮貞教親王薨去のため、1862年(文久2年)旧暦11月に還俗し家督を継いだ。1864年(元治元年)、いったん伏見宮を離れ家督を父の邦家親王に渡す。そして1872年(明治5年)、再度伏見宮を継承し第24代当主となる[1]。同年にフランス語研究のため大学南校に入る[1]。1873年(明治6年)に陸軍入りを志願し、陸軍幼年学校、陸軍士官学校に入学、1875年(明治8年)に任官した[1][2]。
1877年(明治10年)に西南戦争が勃発すると、自ら出征を懇願し、3月に征討参軍の山県有朋に随行、4月には征討総督本営付として熊本城に入城、以後第4旅団に属し鹿児島での戦闘に参加した[1]。
1884年(明治17年)から高等戦術研究のため陸軍大学校へ通い、このころ英語とドイツ語および欧州各国の事情研究を行う[1]。1885年(明治18年)8月からは1年間にわたって欧州各国を歴訪、うち約半年はベルリン大学で政治と憲法を研究した[1]。
日清戦争では歩兵第4旅団長として1895年(明治28年)2月の威海衛の戦いに参加、同年8月には混成第4旅団長として台湾平定に赴いた[1]。
日露戦争では、第1師団長として出征、第2軍の指揮下に入り、南山の戦いで勲功をあげた[1]。1904年(明治37年)6月に陸軍大将となり、第1師団は乃木希典大将率いる第3軍の指揮下に入ったが、旅順攻略に先立つ7月に大本営から転任の命を受ける[1]。日本に帰国した後、セントルイス万国博覧会に参列のため米国に行き、翌年1月まで米国の主要都市を訪問して交歓に努めた[1]。1906年(明治39年)にはガーター勲章答礼使として渡英した[1]。
貞愛親王は明治天皇の信任厚く、以後も名代としての任務を多く任された[1]。1912年(大正元年)からの約3年間は内大臣府出仕として大正天皇を輔佐した[1]。
1915年(大正4年)年には元帥陸軍大将に就任した[1]。在郷軍人会をはじめ大日本武徳会、大日本農会、大日本蚕糸会、理化学研究所、恩賜財団済生会などの総裁も歴任した[1]。
貞愛親王は馬術・囲碁・音楽・弓術・撞球・書道・書画刀剣・木石花卉などを趣味とし、銚子犬吠埼の別邸・瑞鶴荘には矢場・撞球場が設けられた(『貞愛親王逸話』)。親王は福岡県宗像市の宗像大社を厚く崇敬し、記紀にある神勅の言葉を揮毫している。
経歴
[編集]- 1858年(安政5年) 誕生、敦宮と命名
- 1860年(万延元年) 妙法院相続、孝明天皇養子
- 1862年(文久2年) 伏見宮復籍・継承(第22代)
- 1864年(元治元年) 伏見宮を離れる
- 1871年(明治4年) 親王宣下、元服。諱を貞愛と賜り二品に叙せられる
- 1872年(明治5年) 東京へ移住、伏見宮継承(第24代)
- 1873年(明治6年) 陸軍幼年学校入学
- 1875年(明治8年) 陸軍士官学校入学、第一王子博恭王誕生
- 1876年(明治9年) 有栖川宮熾仁親王の妹・利子女王と結婚
- 1877年(明治10年) 西南戦争に出征
- 1878年(明治11年) 陸軍大尉に昇進、陸軍士官学校出仕
- 1879年(明治12年) (神田区西小川町、麹町区富士見を経て)麹町区紀尾井町4番地に転居
- 1880年(明治13年) 博愛社(後の日本赤十字社)社員
- 1881年(明治14年) 陸軍歩兵少佐に昇進、大日本山林会総裁
- 1883年(明治16年) 亜細亜協会名誉会員、東京地学協会名誉会員
- 1884年(明治17年) 陸軍歩兵中佐に昇進
- 1886年(明治19年) 大勲位菊花大綬章受章
- 1887年(明治20年) 女子教育奨励会(のちの東京女学館)会員、近衛歩兵第4連隊長、任陸軍歩兵大佐、伏見宮邸で天覧試合、「最後の剣客」榊原鍵吉による兜割りを観覧
- 1889年(明治22年) 陸軍少将に昇進、第3回内国勧業博覧会総裁
- 1890年(明治23年) 2月 貴族院皇族議員[3]
- 1892年(明治25年) 京都美術協会総裁、日本体育会名誉賛成員、陸軍少将・歩兵第4旅団長
- 1894年(明治27年) 日清戦争で遼東半島へ出征、金州城攻略戦を指揮
- 1895年(明治28年) 貞愛親王率いる陸軍歩兵第4旅団、台湾の嘉義布袋港に上陸、歩兵第1旅団長
- 1896年(明治29年) ロシア皇帝ニコライ2世の戴冠式に明治天皇の名代として参列
- 1898年(明治31年) 陸軍中将・姫路第10師団長
- 1900年(明治33年) 神戸商業講習所移転開校式典台臨、大日本帝国水難救済会名誉会員、海事協会名誉会員
- 1901年(明治34年) 第1師団長
- 1903年(明治36年) 大日本武徳会総裁、銚子犬吠埼灯台台臨、銚子別邸瑞鶴荘起工
- 1904年(明治37年) 日露戦争で再び遼東半島へ出征、社団法人大日本農会総裁、陸軍大将、大本営附、米国へ出発
- 1905年(明治38年) 帰国、大日本蚕糸会総裁、瑞鶴荘の竣工、軍事参議官
- 1907年(明治40年) 遣英答礼大使として英国へ向けて1月27日出航し、エドワード7世 (イギリス王)と会見、7月14日帰国。途中フランスでアルマン・ファリエール大統領とも昼食会。英国からの帰途、ハワイ・ホノルルに寄港、同地の日系人社会に200ドルを下賜(これを基金として後に「伏見宮記念奨学会」を設立)、帰国、日本大博覧会総裁、剣橋会名誉会員
- 1909年(明治42年) 日仏協会名誉総裁、清国へ出発、帰国、日英博覧会名誉総裁
- 1910年(明治43年) 英国へ出発。途次、上海の東亜同文書院を見学。帰国後、英国協会総裁
- 1911年(明治44年) 恩賜財団済生会総裁
- 1912年(大正元年) 明治天皇崩御により大喪使総裁、内大臣府出仕
- 1914年(大正3年) 国産奨励会総裁
- 1915年(大正4年) 免軍事参議官 元帥府に列し元帥の称号拝受、東京偕行社総裁、大正天皇即位による大礼使総裁、明治神宮造営局総裁、明治神宮奉賛会総裁
- 1917年(大正6年) 財団法人理化学研究所創設時に総裁に就任[4]
- 1923年(大正12年) 銚子別邸・瑞鶴荘にて突如違例、次いで重体。2月4日、薨去。 国葬、墓所は豊島岡御陵
栄典
[編集]- 1875年(明治8年)12月31日 - 勲一等旭日大綬章[5]
- 1886年(明治19年)12月29日 - 大勲位菊花大綬章[6]
- 1889年(明治22年)11月29日 - 大日本帝国憲法発布記念章[7]
- 1895年(明治28年)11月20日 - 功三級金鵄勲章[8]
- 1906年(明治39年)4月1日 - 功二級金鵄勲章・明治三十七八年従軍記章[9]
- 1915年(大正4年)
- 1916年(大正5年)1月19日 - 菊花章頸飾[12]
- 1920年(大正9年)11月1日 - 金杯一組・大正三年乃至九年戦役従軍記章[13]
- 外国勲章佩用允許
- 1907年5月7日 - バス勲章ナイト・グランド・クロス[14]、ロンドン市よりフリーダム・オブ・ザ・シティ(ロンドン市名誉市民)[15]
血縁
[編集]- 父母:伏見宮邦家親王 - 妃鷹司景子
- 兄弟:晃親王 - 嘉言親王 - 譲仁親王 - 朝彦親王 - 男子 - 貞教親王 - 男子 - 彰仁親王 - 能久親王 - 男子 - 男子 - 博経親王 - 智成親王 - 貞愛親王 - 清棲家教 - 載仁親王 - 依仁親王(女子省略)
- 妻:利子女王(有栖川宮幟仁親王王女)
- 女房河野千代子
- 女房增山奈越子
系図
[編集]93代天皇 後伏見天皇 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
北朝初代天皇 光厳天皇 | 北朝2代天皇 光明天皇 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
北朝3代天皇 崇光天皇 | 北朝4代天皇 後光厳天皇 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
初代伏見宮 栄仁親王 | 北朝5代天皇 後円融天皇 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
2代伏見宮 治仁王 | 3代伏見宮 貞成親王 | 100代天皇 後小松天皇 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
101代天皇 称光天皇 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
102代天皇 後花園天皇 | 4代伏見宮 貞常親王 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
5代伏見宮 邦高親王 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
6代伏見宮 貞敦親王 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
7代伏見宮 邦輔親王 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
8代伏見宮 貞康親王 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
9代伏見宮 邦房親王 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
10代伏見宮 貞清親王 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
11代伏見宮 邦尚親王 | 13代伏見宮 貞致親王 | 12代伏見宮 邦道親王 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
14代伏見宮 邦永親王 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
116代天皇 桃園天皇 | 15代伏見宮 貞建親王 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
118代天皇 後桃園天皇 | 17代伏見宮 貞行親王 | 16代伏見宮 邦忠親王 | 18代伏見宮 邦頼親王 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
19代伏見宮 貞敬親王 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
20/23代伏見宮 邦家親王 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
晃親王 〔山階宮家〕 | 朝彦親王 〔久邇宮家〕 | 21代伏見宮 貞教親王 | 彰仁親王 〔小松宮家〕 | 能久親王 〔北白川宮家〕 | 博経親王 〔華頂宮家〕 | 22/24代伏見宮 貞愛親王 | 載仁親王 〔閑院宮家〕 | 依仁親王 〔東伏見宮家〕 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
3代華頂宮 25代伏見宮 博恭王 | 邦芳王 | 昭徳王 | 禎子女王 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
博義王 | 恭子女王 | 華頂宮 博忠王 | 博信王 〔華頂侯爵家〕 | 敦子女王 | 知子女王 | 博英王 〔伏見伯爵家〕 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
光子女王 | 26代伏見宮 博明王 | 令子女王 | 章子女王 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
朗子 | 宣子 | 雅子 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
逸話
[編集]- 大学南校に入学すると上原勇作と友人になる。上原を洋行に誘ったが、野津道貫が「行かん方がよか」と同意しなかったため上原は断念した。晩年、上原は「野津さんの言うことを聞かずに随行していたら宮内省の一官吏で終わっていたかもしれぬ。」と述べている。後年、ニコライ2世の戴冠式に出席した際は親王は上原を随行員に指名している。
- 上原に長女が誕生すると、自らの一字をとって「愛子」と命名している。愛子が就学すると上原親子を私邸に招き祝っている。
- 死の直前、愛馬「高管」を上原に下賜している。上原は官馬制度が施行された後も高管に乗馬し続けた。
脚注
[編集]- ^ a b c d e f g h i j k l m n o 朝日新聞社 朝日日本歴史人物事典『貞愛親王』コトバンク 。
- ^ 講談社 デジタル版 日本人名大辞典+Plus『伏見宮貞愛親王』コトバンク 。
- ^ 『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』2頁。
- ^ 理化学研究所「沿革」
- ^ 中野文庫 - 旧・勲一等旭日大綬章受章者一覧(戦前の部)
- ^ 『官報』第1051号「叙任及辞令」1887年1月4日。
- ^ 『官報』第1928号「宮廷錄事」「彙報 - 大日本帝国憲法発布記念章送付」1889年11月30日。
- ^ 『官報』第3737号「叙任及辞令」1895年12月11日。
- ^ 『官報』号外「叙任及辞令」1906年12月30日。
- ^ 『官報』第730号「叙任及辞令」1915年1月11日。
- ^ 『官報』第1187号「叙任及辞令」1916年7月15日。
- ^ 『官報』第1038号「叙任及辞令」1916年1月20日。
- ^ 『官報』第2612号「叙任及辞令」1921年4月19日。
- ^ "No. 28019". The London Gazette (英語). 7 May 1907. p. 3079. 2016年1月8日閲覧。
- ^ 第八回「Freedom of the City of London―ロンドン市名誉市民になる―」岡部芳彦、神戸学院大学「連載コラム 岡部准教授のブリストル・ダイアリー」
参考文献
[編集]- 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
戦時資料
[編集]- 帝国軍人後援会『社団法人帝国軍人後援会史』、1940年。
関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- 『親王・諸王略傳』貞 [貞愛] - ウェイバックマシン(2019年1月1日アーカイブ分)
- 伏見宮家御家族の写真アルバム
- 『大英遊記』本記-英 随与記-1907年英国訪問時の歓迎の様子を杉村楚人冠が記したもの
伏見宮貞愛親王
伏見宮家
| ||
先代 貞教親王 邦家親王 |
伏見宮 第22代:1862年 - 1864年 第24代:1872年 - 1923年 |
次代 邦家親王 博恭王 |
軍職 | ||
---|---|---|
先代 - |
第10師団長 初代:1898年10月1日 - 1901年4月2日 |
次代 川村景明 |
先代 川村景明 |
第1師団長 第5代:1901年4月2日 - 1904年7月10日 |
次代 松村務本 |
公職 | ||
先代 桂太郎 |
内大臣 第4代:1912年 - 1915年 |
次代 大山巌 |
- 伏見宮貞愛親王
- 伏見宮
- 日本の親王
- 幕末の男性皇族
- 孝明天皇の子女
- 貴族院皇族議員
- 明治時代の貴族院議員
- 大正時代の貴族院議員
- 在職中に死去した日本の貴族院議員
- 19世紀日本の皇族
- 20世紀日本の皇族
- 皇族陸軍軍人
- 日本の元帥陸軍大将
- 大日本帝国陸軍第1師団長
- 大正時代の内大臣
- 19世紀アジアの軍人
- 20世紀アジアの軍人
- 日本の在郷軍人会の幹部
- 帝国軍人後援会の幹部
- 大日本武徳会の幹部
- 大日本農会の人物
- 大日本山林会の人物
- 東京地学協会の人物
- 興亜会の人物
- 大勲位菊花章頸飾受章者
- 大勲位菊花大綬章受章者
- 勲一等旭日大綬章受章者
- 功二級金鵄勲章受章者
- 功三級金鵄勲章受章者
- バス勲章
- 陸軍士官学校 (日本)出身の人物
- 京都市出身の人物
- 国葬された人物
- 1858年生
- 1923年没