紀尾井町
紀尾井町 | |
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北緯35度40分53.68秒 東経139度44分2.02秒 / 北緯35.6815778度 東経139.7338944度 | |
国 | 日本 |
都道府県 | 東京 |
特別区 | 千代田区 |
地域 | 麹町地域 |
人口 | |
• 合計 | 452人 |
等時帯 | UTC+9 (日本標準時) |
郵便番号 |
102-0094[2] |
市外局番 | 03[3] |
ナンバープレート | 品川 |
紀尾井町(きおいちょう)は、東京都千代田区の町名。「丁目」の設定のない単独町名である。住居表示実施済みの地域。郵便番号は102-0094[2]。
概要
[編集]東京都千代田区の西部に位置し、港区(赤坂・元赤坂)・新宿区(四谷)との区境に当たる。
かつて紀州徳川家・尾張徳川家・彦根井伊家中屋敷などが並んでいた武家町で、各家から1文字ずつとって町名とした。現在はオフィスビル街となっている。
区内では東部に平河町、南部は永田町、北部は麹町にそれぞれ接する。オフィスと住宅の複合型ビルである紀尾井町ビルや、ホテル御三家の一つであるホテルニューオータニ、上智大学四谷キャンパスなどが所在する。ホテルニューオータニの向かい側にあたる清水谷公園は、千代田区では珍しい自然の崖斜面を残し、池泉も設けられて、清水谷と呼ばれた昔の風景を残している。1980年ごろまでは公園の前の歩道に清水の湧出口が設けられ、地名の由来を伝えていた。園内中央には、近くの食違見附で暗殺された大久保利通を記念する巨大な石碑「大久保公哀悼碑」が置かれている。
バブル期に赤プリの愛称で親しまれていたグランドプリンスホテル赤坂(旧称赤坂プリンスホテル)の跡地は、2016年7月27日、西武グループによって「東京ガーデンテラス紀尾井町」に再開発された。プリンスホテルの最高級グレードの「ザ・プリンスギャラリー 東京紀尾井町」、オフィス、商業施設「紀尾井タワー」と、全室賃貸マンションの「紀尾井レジデンス」、旧李王家東京邸(旧グランドプリンスホテル赤坂旧館)を移設して「赤坂プリンス クラシックハウス」の複合型施設となった。
- 坂名
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- 紀尾井坂
- 清水谷坂
歴史
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1872年(明治5年)に武家地を整理して麹町紀尾井町と命名。1911年(明治44年)に紀尾井町となる。1934年(昭和9年)に区画整理により北側の一部を麹町五・六丁目に編入。かつては番町と並ぶ山の手の一つとして緑多き優雅な佇まいの住宅街であった[注釈 1]。町内に居住した有名人としては、大久保利通の孫にあたる大久保利春(ロッキード事件の時の丸紅専務)、松田トシ(声楽家、自邸で歌唱教室を開く)、尾上松緑 (2代目)(歌舞伎俳優。「紀尾井町」の掛け声で呼ばれた)、幸田延(幸田露伴の妹、日本の女流バイオリニストの草分け)、高島徳右衛門(実業家・易学家の高島嘉右衛門の弟、里見弴『多情仏心』の主人公のモデル)、小林蹴月(作家・俳人)らがいた。政治家の利用で知られた料亭・福田家もここに立地する。 1975年以降は顕著なまでにオフィスビルが目立つようになり、前述のホテル群、レストラン、更には上智大学の拡大、企業の本社ビルや紀尾井ホール、議員宿舎が拡大して一般住宅地は縮小し、かつての住宅街の面影は薄れていった。
1990年代には、バブル経済の影響もあり、さらに多くの高層ビルが建設された。これにより、紀尾井町は東京のビジネスの中心地の一つとしての地位を確立した[要出典]。また、文化施設や高級ホテルも増え、国内外から多くのビジネスマンや観光客が訪れるようになった[要出典]。2000年代以降も再開発プロジェクトが進行中であり、新たな商業施設やオフィスビルが次々と建設されている。また、環境保護の観点から、緑地の整備やエコビルの導入も進められている。
地名の由来
[編集]地名はこの地にかつてあった紀州徳川家中屋敷、尾張徳川家中屋敷、彦根井伊家中屋敷に由来しており(それぞれ紀州家、尾張家、井伊家と呼ばれた)、各家の文字を1文字ずつとって町名とした。
紀州徳川家の中屋敷跡は現在の東京ガーデンテラス紀尾井町・清水谷公園、尾張徳川家の屋敷跡は現在の上智大学、井伊家の屋敷跡は現在のホテルニューオータニ付近にそれぞれあたっている。
世帯数と人口
[編集]2020年(令和2年)4月1日現在の世帯数と人口は以下の通りである[1]。
町丁 | 世帯数 | 人口 |
---|---|---|
紀尾井町 | 289世帯 | 508人 |
小・中学校の学区
[編集]区立小・中学校に通う場合、学区は以下の通りとなる[4]。なお、千代田区の中学校では学校選択制度を導入しており、区内全域から選択することが可能[5]。
番地 | 小学校 | 中学校 |
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全域 | 千代田区立番町小学校 | 千代田区立麹町中学校 千代田区立神田一橋中学校 |
交通
[編集]施設
[編集]- 行政機関
- 教育
- 公園
- 企業
- 建物等
- 外国公館
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上智大学
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文藝春秋新館
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文藝春秋本館
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赤坂見附址
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清水谷公園にある大久保利通公哀悼碑
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バングラデシュ大使館
観光
[編集]- 名所・ホテル等
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- 東京ガーデンテラス紀尾井町
- ザ・プリンスギャラリー 東京紀尾井町
- 赤坂プリンスクラシックハウス(旧グランドプリンスホテル赤坂 旧館)
- ホテルニューオータニ
- 東京ガーデンテラス紀尾井町
- 旧跡
-
- 赤坂見附跡
時系列
[編集]- 1872年(明治5年):前年の1871年(明治4年)に廃藩置県が進められ、麹町区麹町紀尾井町として生まれ変わる[6]。
- 1874年(明治7年)1月14日:喰違の変(くいちがいのへん) 午後8時頃、当時右大臣の岩倉具視に対する暗殺未遂事件が発生。土佐の士族9人が赤坂仮御所から自邸(馬場先門北側)への帰還途上の馬車を喰違い見附の坂で襲われた。馬車から外濠(現上智大グラウンド)に落ち、難を逃れた。
- 1878年(明治11年):麹町区に所属する。当時の紀尾井町は、政府用地、北白川宮邸(のちの李王(りおう)邸、現・赤坂プリンスホテル)や伏見宮邸、行政裁判所(現・城西大学)、尾張徳川邸(現・上智大学)などになった。
- 1878年(明治11年)5月14日:紀尾井坂の変 明け方、霞が関の自宅から赤坂仮皇居内(現在の東宮御所)の太政官へ出任する途中、現在の清水谷公園前の通りにて馬車に乗った大久保利通が襲撃・暗殺された。
- 1889年(明治22年):赤坂見附外濠に京風な木橋「弁慶橋」が初めて架けられた。元々は神田お玉ヶ池(今の岩本町)付近にかつてあった藍染川に架かっていた橋の名で、川の埋立てによって取り壊され、その廃材を使用した。
- 1890年(明治23年):東京市によって整備され、清水谷公園が開園。
- 1911年(明治44年)5月:町名変更により麹町区から紀尾井町に改められた。
- 1913年(大正2年):日本で最初のカトリック系大学としてかつて尾張徳川邸があった場所に上智大学が開学。
- 1955年(昭和30年)10月1日:西武グループにより赤坂プリンスホテルが開業された。
- 1964年(昭和39年)9月1日:伏見宮邸跡に日本初の高層ホテルとして、ホテルニューオータニが開業。東京オリンピック開催に向けて多くの外国人客を迎えるために、国の要請を受けた大谷米太郎が1962年よりホテル建設に着手した。当時、その規模は東洋一と称された。
- 1985年(昭和60年)12月18日:弁慶橋が架け替えされ、現在のコンクリート橋が開橋された。
- 2016年(平成28年)7月27日:西武グループにより赤坂プリンスホテル跡地の再開発事業として東京ガーデンテラス紀尾井町が正式オープン。
ギャラリー
[編集]-
「紀尾井タワー」「紀尾井レジデンス」「赤坂プリンス クラシックハウス」(2016年7月30日撮影)
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「赤坂プリンス クラシックハウス」 東側から見る(2016年7月30日撮影)
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「赤坂プリンス クラシックハウス」 南側から見る(2016年7月30日撮影)
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グランドプリンスホテル赤坂旧館
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グランドプリンスホテル赤坂新館
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ a b “町丁別世帯数および人口(住民基本台帳)”. 千代田区 (2017年12月6日). 2018年1月2日閲覧。
- ^ a b “郵便番号”. 日本郵便. 2019年8月30日閲覧。
- ^ “市外局番の一覧”. 総務省. 2018年1月2日閲覧。
- ^ “区立小学校の通学区域”. 千代田区 (2017年8月17日). 2018年1月2日閲覧。
- ^ “区立中学校の通学区域と学校選択”. 千代田区 (2017年10月26日). 2018年1月2日閲覧。
- ^ “千代田区ホームページ - 町名由来板:紀尾井町(きおいちょう)”. www.city.chiyoda.lg.jp. 2022年12月18日閲覧。
関連項目
[編集]- 紀尾井坂
- 尾上松緑 (2代目) - 生前の自宅が当地にあったため、大向こうの掛け声がしばしば「紀尾井町」とかかった。