コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

清水光美

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
清水 光美
生誕 1888年3月16日
日本の旗 日本 長野県
死没 1971年5月5日
所属組織  大日本帝国海軍
軍歴 1910年 - 1944年
最終階級 海軍中将
テンプレートを表示

清水 光美(しみず みつみ、1888年明治21年)3月16日 - 1971年昭和46年)5月5日)は、日本海軍軍人。最終階級海軍中将

経歴

[編集]

長野県東筑摩郡島立村(現・松本市)生まれ、旧制松本中学(現・長野県松本深志高等学校)を経て海軍兵学校第36期卒業。同期に南雲忠一沢本頼雄塚原二四三などがいる。海軍省人事局第一課長や人事局長といった人事畑を歩み、局長時代に大学の法学部経済学部高等商業学校等の卒業生を主計科士官に採用する「短期現役士官制度」を発案[1]。周囲の反対を押し切って導入した。その後、練習艦隊司令官や第三遣支艦隊司令長官を務めた後、潜水艦隊である第六艦隊司令長官となり太平洋戦争を迎えた。

太平洋戦争劈頭の真珠湾攻撃では先遣部隊指揮官として麾下の潜水艦隊を指揮して特殊潜航艇による真珠湾突入を敢行した。1942年2月には、マーシャル諸島クェゼリン環礁マーシャル・ギルバート諸島機動空襲に遭遇、空母エンタープライズ」の艦載機による攻撃を受けて負傷している。その後、治療のため軍令部出仕となった後に第一艦隊司令長官に親補される。しかし、戦艦中心の第一艦隊には出撃の機会はなく、前線に出ることはなかった。1943年6月8日呉港沖柱島泊地にて停泊中の戦艦「陸奥」が原因不明の爆沈事故を起こし、責任を取らされる形で第一艦隊司令長官を罷免され、翌年予備役に編入された。

1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた[2]

年譜

[編集]

栄典

[編集]

出典

[編集]
  1. ^ 『回想の日本海軍』p.558
  2. ^ 総理庁官房監査課編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、「昭和二十二年十一月二十八日 仮指定者」69頁。
  3. ^ 『官報』第8021号「叙任及辞令」1910年3月23日。
  4. ^ 『官報』第757号「叙任及辞令」1915年2月12日。

参考文献

[編集]

関連項目

[編集]