霓 (駆逐艦)
霓 | |
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基本情報 | |
建造所 | ヤーロー社[1] |
運用者 | 大日本帝国海軍 |
艦種 |
水雷艇駆逐艇[2] → 駆逐艦[3] |
建造費 | 44,500ポンド[4] |
艦歴 | |
計画 | 第二期拡張計画[5](明治30年度[6]) |
発注 | 1898年6月24日契約[7] |
起工 | 1899年1月[6] |
進水 | 1899年12月16日[8][9] |
竣工 | 1900年1月1日[6][10] |
最期 | 1900年7月29日座礁、8月3日放棄[6] |
除籍 | 1901年4月8日[6] |
要目 | |
排水量 | 340英トン[8] |
長さ | 220 ft 8 in (67.259 m)[1][11] |
幅 | 20 ft 6+11⁄16 in (6.266 m)[11] |
深さ | 13 ft 08 in (4.166 m)[11] |
吃水 | 計画:5 ft 2+3⁄8 in (1.584 m)[1][11] |
ボイラー | ヤーロー式缶 4基[12] |
主機 | 直立3段4筒レシプロ 2基[13] |
推進 | 2軸[13] |
出力 | 計画:6,000馬力[1][12] |
速力 |
計画:31ノット[1][12] 公試成績:31.16ノット(3時間平均)[9] |
燃料 | 計画:石炭100英トン(全量)[14] |
乗員 | 竣工時定員:52名[15] |
兵装 |
40口径安式12ポンド速射砲[16] 1門[12] 57mm山内速射砲[17] 5門[12] 朱式[13]18インチ(45.7cm)発射管 2門[12] |
霓(にじ)は、大日本帝国海軍の駆逐艦[8]。 「霓」は「虹」と同じ意味[18]。 一説には「虹」が雄、「霓」が雌という[8]。 遭難艦は艦名を引き継がないという原則があったために、同名艦はない[18]。
艦歴
[編集]建造
[編集]発注時の艦名は第十二号水雷艇駆逐艇[19]。
1898年(明治31年)
1月に起工[8]、
8月27日に「第十二号水雷艇駆逐艇」を「
6月22日、駆逐艇(水雷艇籍)は軍艦籍の駆逐艦に変更となり[25]、 「霓」は軍艦籍に編入され駆逐艦に類別された[6][3]。 6月23日から「霓」は大島沖と小柴沖で大砲公試発射、水雷公試発射を行い[26][27]、 結果は良好だった[28]。
喪失
[編集]同1900年に北清事変が起こり、7月22日、「霓」は「朧」と共に清国へ出勤し清国での警備を「薄雲」「陽炎」と交代することを命じられた[18]。 「霓」と「朧」は7月26日に呉港を出港、「霓」は済州島での「薩摩丸」座礁を報じるために一旦引き返して、7月28日に対馬の竹敷に到着、再び清国へ向かった[18]。 しかし7月29日、清国山東省南東岬沖で濃霧のため座礁した[6]。 遭難の原因は艦位置の誤認であった[6][18]。 船体の破壊が進み、8月3日午前8時45分に軍艦旗降下、「霓」は放棄された[18]。 乗員は救援に来た「豊橋」に収容され、8月3日に佐世保に帰着した[18]。 その後船体は水中に没した[18]。 1901年(明治34年)4月8日除籍[6]。
艦長
[編集]※艦長等は『日本海軍史』第9巻・第10巻の「将官履歴」に基づく。
- 回航委員長
- 財部彪 大尉:1899年7月25日 - 1899年10月6日
- 艦長
- 財部彪 少佐:1900年6月22日 - 1900年7月4日
- 荒川仲吾 大尉:1900年7月4日 - 1900年8月10日
脚注
[編集]出典
[編集]- ^ a b c d e #日本近世造船史明治(1973)p.466
- ^ a b #M32達/10月画像6-7、明治32年10月18日達第178号「明治三十一年達第三十五號軍艦及水雷艇類別等級表中別紙ノ通追加ス」
- ^ a b #M33達/6月画像47-48、明治33年6月22日達第122号
- ^ #公文備考別輯雷電他/水雷艇駆逐艇製造(1)画像57
- ^ #海軍制度沿革8(1971)p.9
- ^ a b c d e f g h i j 『日本海軍史』第7巻、285頁。
- ^ #公文備考別輯雷電他/水雷艇駆逐艇製造(1)画像58
- ^ a b c d e f g 日本海軍艦船名考 1928, p. 101「112 霓 にじ Nizi.」
- ^ a b c #公文備考別輯 水雷艇駆逐艇 2/霓回航(1)画像25、明治32年12月31日電報「霓十二月十六日滞ナク進水済ム十二月二十一日公試運転結果良好3時間平均速力三一、一六」
- ^ a b #公文備考別輯 水雷艇駆逐艇 2/霓回航(1)画像33、明治33年1月1日電報「霓受取」
- ^ a b c d #日本近世造船史明治(1973)p.319、英国製造駆逐艦設計要領表
- ^ a b c d e f #帝国海軍機関史(1975)別冊、表12
- ^ a b c #帝国海軍機関史(1975)下巻p.114-115(第三巻 九四~九五頁)
- ^ #帝国海軍機関史(1975)下巻p.142(第三巻 一二二頁)
- ^ #海軍制度沿革10-1(1972)pp.313-314。明治三十一年六月二十九日(内令四九)
- ^ #M34公文雑輯12/34年8月1日 供用兵器亡失届の件 元霓画像2
- ^ #M34公文雑輯12/34年8月1日 供用兵器亡失届の件 元霓画像5
- ^ a b c d e f g h #銘銘伝(2014)p.408、霓(にじ)。
- ^ 『官報』第4550号、明治31年8月29日。
- ^ #明治31年達/8月画像7、明治31年8月27日達第116号
- ^ #公文備考別輯 水雷艇駆逐艇 2/霓回航(1)画像37
- ^ #公文備考別輯 水雷艇駆逐艇 2/霓回航(1)画像39
- ^ #公文備考別輯 水雷艇駆逐艇 2/霓回航(1)画像41
- ^ a b #S9.12.31恩給叙勲年加算調査(下)/駆逐艦(4)画像6、「霓」
- ^ #M33達/6月画像45-46、明治33年6月22日達第121号
- ^ #M33公文雑輯7/33年6月16日 軍艦常磐魚形水雷公試発射成績表進達の件画像4、明治33年6月21日電話報告「霓及朧大砲及水雷公試発射来二十三日大島及小柴沖ニ於テ施行」
- ^ #M33公文雑輯7/33年6月16日 軍艦常磐魚形水雷公試発射成績表進達の件画像5-6、「駆逐艦霓水雷公試発射成績報告」
- ^ #M33公文雑輯7/33年7月4日 駆逐艦霓大砲公試発射成績報告の件画像1-2、「駆逐艦霓大砲公試発射成績報告」
参考文献
[編集]- 浅井将秀/編『日本海軍艦船名考』東京水交社、1928年12月。
- アジア歴史資料センター(公式)(防衛省防衛研究所)
- 「水雷艇駆逐艇雷、電、東雲、叢雲、曙、漣、夕霧、不知火、陽炎、薄雲、朧、霓製造に関する件(1)」『公文備考別輯 新艦製造書類 雷 電 東雲 叢雲 曙 漣 夕霧 不知火 陽炎 薄雲 朧 霓 1 明治29~32』、JACAR:C11081491600。
- 「水雷艇駆逐艇霓本邦へ回航に関する件(1)」『公文備考別輯 新艦製造書類 雷 電 東雲 叢雲 曙 漣 夕霧 不知火 陽炎 薄雲 朧 霓 2 明治29~32』、JACAR:C11081494000。
- 「33年7月4日 駆逐艦霓大砲公試発射成績報告の件」『明治33年 公文雑輯 巻7 兵器1』、JACAR:C10127023500。
- 「33年6月16日 軍艦常磐魚形水雷公試発射成績表進達の件」『明治33年 公文雑輯 巻7 兵器1』、JACAR:C10127028600。
- 「34年8月1日 供用兵器亡失届の件 元霓」『明治34年 公文雑輯 巻12 兵器2止』、JACAR:C10127399300。
- 「10月」『明治32年 達 完』、JACAR:C12070042900。
- 「6月」『明治33年 達 完』、JACAR:C12070044300。
- 「除籍艦艇/駆逐艦(4)」『恩給叙勲年加算調査 下巻 除籍艦艇 船舶及特務艇 昭和9年12月31日』、JACAR:C14010006200。
- 海軍省/編『海軍制度沿革 巻八』 明治百年史叢書 第180巻、原書房、1971年10月(原著1941年)。
- 海軍省/編『海軍制度沿革 巻十の1』 明治百年史叢書 第182巻、原書房、1972年4月(原著1940年)。
- 海軍歴史保存会『日本海軍史』第7巻、第9巻、第10巻、第一法規出版、1995年。
- 片桐大自『聯合艦隊軍艦銘銘伝<普及版> 全八六〇余隻の栄光と悲劇』潮書房光人社、2014年4月(原著1993年)。ISBN 978-4-7698-1565-5。
- 『写真日本海軍全艦艇史 Fukui Shizuo Collection』資料編、KKベストセラーズ、1994年。
- 造船協会/編『日本近世造船史 明治時代』 明治百年史叢書 第205巻、原書房、1973年(原著1911年)。
- 日本舶用機関史編集委員会/編『帝国海軍機関史』 明治百年史叢書 第245巻、原書房、1975年11月。