千坂智次郎
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生誕 | 1868年3月8日 |
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死没 | 1936年2月23日(67歳没) |
所属組織 | 大日本帝国海軍 |
軍歴 | 1889年 - 1923年 |
最終階級 | 海軍中将 |
千坂 智次郎(ちさか ちじろう、1868年3月8日(慶応4年2月15日)- 1936年(昭和11年)2月23日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。
経歴
[編集]米沢藩士・千坂高雅の二男として生まれる。米沢中学校、攻玉社を経て、明治20年(1887年)7月に海軍兵学校(14期)を卒業し、同22年(1889年)9月に海軍少尉任官。練習艦「館山」分隊長などを経て、日清戦争では「扶桑」分隊長として出征した。
練習艦「満珠」航海長、「高雄」航海長、「須磨」航海長、皇族(有栖川宮威仁親王)付武官、「松島」航海長、「八雲」回航委員、同航海長、「夕霧」艦長などを歴任。日露戦争には「初瀬」航海長として出征したが、明治37年(1904年)5月に乗艦が触雷により沈没した。その後、佐世保鎮守府参謀、「出雲」副長、「磐城」艦長、「大和」艦長などを勤めた。
明治40年(1907年)12月、東宮武官となり、「津軽」艦長、「生駒」艦長、「八雲」艦長、舞鶴鎮守府参謀長を経て、大正2年(1913年)12月、海軍少将に進級。佐世保水雷戦隊司令官、佐世保鎮守府参謀長、練習艦隊司令官、教育本部第1部長、第2戦隊司令官などを歴任し、大正6年(1917年)12月に海軍中将となった。さらに馬公要港部司令官、第2遣外艦隊司令官、鎮海要港部司令官、海兵校長、将官会議議員を経て、大正12年(1923年)7月、予備役に編入された。米沢海軍武官会会員。
栄典
[編集]- 1891年(明治24年)12月14日 - 正八位[1]
- 1894年(明治27年)2月28日 - 従七位[2]
- 1896年(明治29年)12月21日 - 正七位[3]
- 1898年(明治31年)10月31日 - 従六位[4]
- 1908年(明治41年)12月11日 - 従五位[5]
- 1914年(大正3年)1月30日 - 正五位[6]
- 1917年(大正6年)12月28日 - 従四位[7]
- 1923年(大正12年)2月10日 - 正四位[8]
親族
[編集]- 妻・千坂文子(山崎直胤(山梨県知事・三重県知事・宮内省調度局長を歴任)の二女)
- 弟・千坂洋三郎(陸軍中佐)
- 姉・千坂光子
- 娘・美代子は大倉喜八郎の孫・大倉彦一郎に、千恵子はアポロインターナショナル社長・ヤナセ取締役の藤田稔に嫁ぐ[9]。