原敢二郎
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生誕 |
1880年11月22日 日本・岩手県 |
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死没 | 1948年4月23日(67歳没) |
所属組織 | 大日本帝国海軍 |
軍歴 | 1900年 - 1931年 |
最終階級 | 海軍中将 |
除隊後 | 東亜研究所理事 |
原 敢二郎(はら かんじろう、1880年(明治13年)11月22日[1][2] - 1948年(昭和23年)4月23日[1][注釈 1])は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。
経歴
[編集]岩手県出身[1][2][3]。旧盛岡藩士・原勝多の三男として生れる[1]。盛岡中学校中退を経て、1900年12月、海軍兵学校(28期)を卒業し、1902年1月、海軍少尉任官[1]。日露戦争では「筑紫」分隊長心得として出征した[2]。「千代田」航海長などを経て、海軍大学校乙種学生、専修学生として学ぶ[1]。第1艦隊参謀、「壱岐」航海長、呉鎮守府参謀などを歴任し、1911年5月、海軍大学校(甲種9期)を卒業した[1][3]。
「三笠」航海長、舞鶴鎮守府参謀、海軍省軍務局員、オランダ駐在、「千早」艦長、欧州出張、軍務局第1課付、「出雲」艦長、教育局第1課長、「陸奥」艦長、第1艦隊兼連合艦隊参謀長などを経て、1924年12月、海軍少将に進級[1][2]。軍令部第1班長、第5戦隊司令官などを務め、1928年12月、海軍中将となった[1][2][3]。軍令部出仕、鎮海要港部司令官、軍令部出仕などを歴任し、1931年3月、予備役に編入された[1][2][3]。
のち、1938年9月1日に発足した企画院東亜研究所理事に就任[1][4]1945年9月まで務めた。1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた[5]。
栄典
[編集]- 位階
- 1902年(明治35年)4月11日 - 正八位[6]
- 1903年(明治36年)12月19日 - 従七位[7]
- 1905年(明治38年)2月14日 - 正七位[8]
- 1910年(明治43年)3月22日 - 従六位[9]
- 勲章等
親族
[編集]脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 『日本海軍将官辞典』305頁では4月26日。
出典
[編集]- ^ a b c d e f g h i j k 『日本陸海軍総合事典』第2版、243頁。
- ^ a b c d e f 『日本海軍将官辞典』305頁。
- ^ a b c d 『陸海軍将官人事総覧 海軍篇』93頁。
- ^ 東亜の人文・自然を研究、会長は近衛首相『東京朝日新聞』1938年(昭和13年)9月2日夕刊
- ^ 総理庁官房監査課編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、「昭和二十二年十一月二十八日 仮指定者」12頁。
- ^ 『官報』第5628号「叙任及辞令」1902年4月12日。
- ^ 『官報』第6142号「叙任及辞令」1903年12月21日。
- ^ 『官報』第6494号「叙任及辞令」1905年2月25日。
- ^ 『官報』第8021号「叙任及辞令」1910年3月23日。
- ^ 『官報』第1189号・付録「叙任及辞令」1916年7月18日。
- ^ 『官報』第2978号「叙任及辞令」1922年7月6日。