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戦艦「初瀬」と「八島」の撃沈

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
戦艦 初瀬
戦艦 八島(1897年撮影)
触雷した八島を描いた絵
アムール

戦艦「初瀬」と「八島」の撃沈では日露戦争における旅順港閉塞作戦に従事中の1904年(明治37年)5月15日、ロシア海軍が敷設した機雷により2隻の戦艦が撃沈された出来事を書く。

概要

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1904年(明治37年)5月15日、「初瀬」は第一戦隊司令官梨羽時起少将の旗艦として旅順港閉塞作戦に従事していた[1][2]。 旅順港外の老鉄山沖を初瀬敷島八島笠置龍田等で行動中[3][4]ロシア海軍機雷に触雷した(敷設艦アムールによる)。午前11時頃、「初瀬」は左舷艦底に触雷し、航行不能となる(舵機故障、左舷傾斜、艦後部沈下)[5][6]。 当時は好天で、初瀬乗組員達は全く警戒していなかった[5]。 続いて初瀬救援中の僚艦「八島」も触雷する(夕刻になり沈没、戦死者なし)[7][8][9]。 「敷島」は戦場を離脱[10]。日本側は機雷もしくは潜水艦に襲撃されたと判断していた[11][12]。 救援のためかけつけた「笠置」が曳航準備をほとんど終えた午後0時33分、2回目の触雷があり「初瀬」は後部火薬庫の大爆発を起こして艦後部より沈没した[13][6]

八島」における触雷は午前11時10分頃で、最初に触雷した「初瀬」救援のため停止してボートを降ろしている最中だった[7]

これにより日本海軍は当時保有していた主力戦艦6隻中2隻を失った。

脚注

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  1. ^ #幕末以降帝国軍艦写真と史実第60コマ(原本87頁)『初瀬(はつせ) 艦種戰艦 二檣(戰闘檣あり)
    艦名考川名に採る、初瀬川は大和國磯城郡上之郷の山中に發し、南流長谷寺の傍を過ぎ西流、朝倉三輪を過ぎ、西北に屈折し、山邊郡二階堂村に至りて佐保川となる、長さ凡そ十里。
    艦歴明治37・8年日露戰役に從軍:第一戰隊司令官少将梨羽時起の旗艦として行動中、同37年5月15日旅順口外に於て2回に亙り敵の機械水雷に觸れて沈没、副長中佐有森元吉外准士官以上35名、下士卒443名、傭人12名殉難。司令官及び艦長大佐中尾雄以下337名救助せらる。
    ―要目― 長400呎/幅75呎/吃水27呎/排水量15,000噸/機關 三聯成汽罐2基、ベルビル罐25臺/馬力1,000/速力18/乗組人員741/船材 鋼/兵装 12吋砲4/6吋砲14/3吋砲20/3听砲8/2.5听砲6/發射管4/起工 明治31-1-10/進水 同32-6-27/竣工 同34-1-18/建造所 英國エルスウィック安社』
  2. ^ #旅順附近海戦一覧p.5『五月十五日|夜|港口封鎖任務中濃霧ニ會シ我吉野ハ春日ト衝突ス|艦長以下三百十八名艦ニ殉セリ/敵驅逐艦「ウエマテリスイ」渤海灣ニテ坐礁放棄/晝|我「初瀬」及「八島」ハ敵監視中老鐡山ノ南東約十海里ノ地点ニテ敵機雷ニ觸レ此時敵驅逐艦十六隻大擧我艦隊ヲ襲撃セシモ我巡洋艦ノ爲撃退サル|初瀬八島沈没|五月初旬ヨリ海軍ノ援護ニヨリ續々我陸軍關東半島ニ上陸開始』
  3. ^ #日露戦争大本営公報集コマ36(原本51頁)『二、本艦は海軍に在て最大不幸の日にして茲に又最も不幸なる報告を通達するの止むを得ざるに遭遇せり、初瀬、敷島、八島、笠置、竜田は本日午前11頃旅順口沖にて敵を監視中初瀬は敵の水雷に罹り先づ舵機を破られ初瀬より曳船送れの電信に接したるを以て将に之を發送せんとする時更に敷島より初瀬は第二の水雷に罹り沈没せりとの悲報來れりも本職は之を報告するに臨み只遺憾至極と云ふの外なし善後の處置に就ては夫々出來る丈けの手段を盡し災厄を増大せざるに努め居れり當地付近濃霧未だ霽れず(五月十五日午後六時大本營着電)』
  4. ^ #戦袍余薫懐旧録第2輯コマ78-79(原本115-116頁)『龍田の遭難附初瀬八島の爆沈(龍田艦長海軍中佐)海軍中将釜屋忠道』
  5. ^ a b #戦袍余薫懐旧録第2輯コマ90(原本140-142頁)『初瀬の遭難(初瀬水雷長海軍少佐)海軍大佐小林惠吉郎』
  6. ^ a b #戦袍余薫懐旧録第2輯コマ106-107(原本170-174頁)『笠置より見たる初瀬八島の遭難(笠置航海長海軍少佐)海軍中将内田虎三郎』
  7. ^ a b #戦袍余薫懐旧録第2輯コマ97-98『八島の遭難(八島艦長海軍大佐)海軍中将坂本一』
  8. ^ #戦袍余薫懐旧録第2輯コマ98(原本154-155頁)
  9. ^ #日露役旅順港海海戦戦死者p.2『明治三七-五-一五|晝|八島|同上|/|初瀨ト共同動作中敵機雷ニ觸レ沈没』
  10. ^ #日露戦争大本営公報集コマ36-37(原本51-52頁)『三、敷島は初瀬遭難状況報告の爲め今當地に歸港しつヽあり驅逐隊全部及二個水雷艇は敵の驅逐隊に當り溺者救助の爲め午後一時三十分當地を發して旅順口方面に向へり霧未だ霽れず(五月十五日午後十時三十分大本營着電)』
  11. ^ #日露戦争大本営公報集コマ36-37(原本51-52頁)『三、初瀬が敵の水雷に罹りしは老鐡山の南東約十海里の所にして當時同方面には霧なく又其附近に敵の驅逐艦もあらざりしと云ふ此事實より判断するときは敵は其附近に機械水雷を沈置したるか或は又潜水艇を利用したるものならん初瀬は約三十分間を隔て二回の被害にて瞬時に沈没したるも敷島、八島、笠置、龍田等にて梨羽少将中尾大佐以下三百名を救助収容せり初瀬沈没の頃的の驅逐艦十六隻旅順口内より出で來り我を追尾せしが會々其他に來りし明石、千代田、秋津洲、大島、赤城、宇治及高砂は前記諸艦と協力して之を撃退し初瀬生存者の収容を果たすことを得たり以上の報告は混信の爲め文意不明瞭なる無線電信と今朝遭難報告の爲め來し龍田の少尉並に八島の艦載水雷艇指揮官の口頭報告等を綜合して制作したるものなり當地近傍霧未だ霽れず(五月十六日午後四時三十七分大本營着電)』
  12. ^ #戦袍余薫懐旧録第2輯コマ81-82(原本121-123頁)『(略)収容した人の中には梨羽司令官もあり、頭の光るので著しく判つてゐた。此に於て龍田の檣頭には梨羽司令官の将旗を掲揚した。幕僚は一人も助かつてゐなかつた。孰れも墨水の中から出て來た人の如く、顔と云はず手足と云はず黒く染まつて、目玉計りピカゝすると云ふ有様で、地獄の黒鬼も斯くやと許りに思はれた。初瀬の機關長佐藤亀太郎君は龍田の艦橋に上り來て、『艦長残念』と叫んで落涙した。予も思はず落涙した。(略)龍田に収容した初瀬の乗員は梨羽司令官、中尾初瀬艦長、外准士官以上十五名、下士官卒百九十八名で、其の中重傷者十九名、輕傷者二十六名であつた。』
  13. ^ #戦袍余薫懐旧録第2輯コマ104(原本166-167頁)

参考文献

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  • 国立国会図書館デジタルコレクション - 国立国会図書館
    • 海軍有終会編『幕末以降帝国軍艦写真と史実』海軍有終会、1935年11月。 
    • 河村貞編「初瀬、吉野の二艦沈没」『日露戦争大本営公報集 info:ndljp/pid/774421』立誠堂、1906年1月。 
    • 藤田定市編『戦袍余薫懐旧録.第2輯 info:ndljp/pid/1447099』財団有終會、1926年12月。 
  • アジア歴史資料センター(公式)(防衛省防衛研究所)
    • 『日露役旅順附近海戦一覧表(明治37年)』。Ref.C14120009300。 
    • 『日露役(旅順附近黄海海戦)に於ける沈没艦船並戦死者一覧表(昭和10年6月7日旅順要港部港務部調製)』。Ref.C14120009400。