笠置 (防護巡洋艦)
艦歴 | |
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計画 | 第一期拡張計画[1] |
発注 | |
建造所 | ウィリアム・クランプ・アンド・サンズ造船フィラデルフィア造船所 |
起工 | 1897年2月13日 |
進水 | 1898年1月20日 |
竣工 | 1898年10月24日 |
喪失 | 1916年7月20日 座礁 同年8月10日 船体破壊 |
除籍 | 1916年11月5日 |
要目[2] | |
排水量 | 常備:4,862トン[3] |
全長 | 114.15m(垂線間長) |
全幅 | 14.91m |
吃水 | 5.44m |
機関 | 円缶12基 直立型4気筒3段膨張レシプロ2基 2軸、15,500馬力 |
速力 | 22.5ノット |
航続距離 | 10ノットで4,000海里 |
燃料 | 石炭1,000トン |
乗員 | 405名 |
兵装 | 45口径20.3cm単装速射砲2門 40口径12cm単装速射砲10門 40口径7.6cm単装速射砲12門 4.7cm単装速射砲6門 35.6cm水上魚雷発射管5門 |
装甲 | 甲板傾斜部:89mm(千歳) |
信号符字 | GQJT(1898年~)[4] |
笠置(かさぎ/かさき)[5] は、大日本帝国海軍の防護巡洋艦。笠置型の1番艦である。艦名は京都府の笠置山による[6]。兵装は同時期にイギリスへ発注された「高砂」とほぼ同じである。
艦歴
[編集]日清戦争後の1896年(明治29年)、六六艦隊計画の第一期拡張計画では3隻の防護巡洋艦が計画され、1隻がイギリス、2隻がアメリカに発注された。アメリカへの発注は外交上の配慮からと言われている。アメリカに発注された2隻は笠置型と呼ばれ、1番艦の本艦はクランプ社に発注され「第一号二等巡洋艦」として建造が開始された。日本海軍はイギリスとアメリカで建造される軍艦4隻の艦名を検討、第一号二等巡洋艦は「千早」または「白根」を予定していた[7]。1897年(明治30年)3月26日、第一号二等巡洋艦は「笠置」と命名される[5]。「笠置」は第二号二等巡洋艦に予定されていた名称であった[7] が、同艦は「千歳」と命名された[5]。
1898年(明治31年)3月21日、日本海軍は海軍軍艦及び水雷艇類別標準を制定し、3,500トン以上7,000トン未満の巡洋艦を「二等巡洋艦」と定義[8]。4,862トンの笠置は二等巡洋艦に類別された[9][10]。
同年10月24日、フィラデルフィア造船所にて竣工[6]、翌日デラウェアで挙行された米西戦争凱旋記念観艦式に参列した。同年11月2日にアメリカを出発、イギリス・アームストロング社にて兵装を搭載した。1899年(明治32年)3月16日、ポーツマスを出港[11]。5月16日、横須賀に到着した[12]。
1900年(明治33年)の義和団の乱により5月30日に横須賀を出港[13]、6月4日に大沽に進出した[14]。同日士官5名と水兵69名を陸戦隊として天津に派遣した[14]。9月に帰国。
1902年7月、アメリカ政府からマーカス島(南鳥島)占領許可を得たアンドリュー・A・ローズヒルという者が島へと向かった[15]。これを受けて日本政府は「笠置」を派遣[16]。「笠置」はローズヒル一行が着く前の7月27日に南鳥島に着き、陸戦隊を上陸させて横須賀に戻った[17]。島に着いたローズヒル一行は、結局引き返すこととなった[18]。
1903年(明治36年)4月、神戸沖で挙行された大演習観艦式に参列、第二列に配置された[19]。12月28日、常備艦隊が解隊され、戦艦を中心とする第一艦隊(司令長官:東郷平八郎海軍中将、旗艦:戦艦三笠)と巡洋艦が主体の第二艦隊(司令長官:上村彦之丞海軍中将、旗艦:装甲巡洋艦出雲)が設置される。第一・第二艦隊で連合艦隊(司令長官:東郷中将)を構成した。笠置は第一艦隊隷下の第三戦隊(防護巡洋艦《千歳・笠置・吉野・高砂》)に配属される[20]。
1904年(明治37年)からの日露戦争では旅順攻略作戦、黄海海戦等に参加、翌年5月27日の日本海海戦にも参加した。戦勝後の10月23日、横浜沖で挙行された凱旋観艦式に参列、第二列に配置された[21]。
1910年(明治43年)に海軍兵学校38期(栗田健男・五藤存知・三川軍一ら)の少尉候補生を載せハワイ方面に航海。
辛亥革命中の1911年11月25日から12月3日にかけて砲艦「鳥羽」を入れた浮きドックを佐世保から上海まで曳航した[22]。
第一次世界大戦では青島攻略作戦に参加、その後は南支方面の警備に従事した。1915年(大正4年)12月4日、横浜沖で挙行された御大礼特別観艦式に参列[23]。
大戦中の1916年(大正5年)、日露戦争の戦利艦である戦艦「相模」は「ペレスヴェート」(ロシア語: Пересвет)に艦名を戻し、ウラジオストクで引き渡された。ペレスヴェートは5月23日、同港外で座礁[24]。笠置が横須賀海軍工廠と舞鶴海軍工廠の職工を遭難現場まで移送した[25][26][27]。同年7月2日、給油船志自岐丸が秋田県土崎港に入港の際、風や波に流され坐洲[28]。同船を曳航するため、18日に横須賀を出港して秋田に向かうが20日に函館市女那川町尻岸内川沖にて座礁、8月10日に船体が破壊された。同年11月5日除籍[29][30]、12月12日に売却された。
艦長
[編集]※『日本海軍史』第9巻・第10巻の「将官履歴」及び『官報』に基づく。
- 回航委員長
- 柏原長繁 大佐:1898年3月1日 -
- 艦長
- 柏原長繁 大佐:不詳 - 1899年6月9日
- 永峰光孚 大佐:不詳 - 1900年12月6日
- 矢島功 大佐:1900年12月6日 - 1901年10月1日
- 坂本一 大佐:1901年10月1日 - 1902年10月23日
- 佐伯誾 大佐:1902年10月25日 - 1903年4月12日
- 西紳六郎 大佐:1903年5月14日 - 9月11日
- 井手麟六 大佐:1903年9月11日 - 1905年1月7日
- (心得)山屋他人 中佐:1905年1月7日 - 1月12日
- 山屋他人 大佐:1905年1月12日 - 6月14日
- 有馬良橘 大佐:1905年6月14日 - 12月12日
- 西山保吉 大佐:1905年12月12日 - 1907年8月5日
- 山縣文蔵 大佐:1907年8月5日 - 1908年4月20日
- 東郷吉太郎 大佐:1908年9月15日 - 12月10日
- (兼)築山清智 大佐:1908年12月10日 - 1909年2月14日
- (兼)久保田彦七 大佐:1909年2月14日 - 4月7日
- (兼)臼井幹蔵 大佐:1909年11月1日 - 12月1日
- (兼)北野勝也 大佐:1910年2月16日 - 3月19日
- 山路一善 大佐:1910年3月19日 - 1911年4月12日
- 近藤常松 大佐:1911年5月23日 - 12月1日
- 志摩猛 大佐:1911年12月1日 - 1912年12月1日
- 岡田三善 大佐:1913年5月24日 - 12月1日
- 飯田久恒 大佐:1913年12月1日 - 1914年5月27日
- 馬場祐内 大佐:1914年5月27日 -
- (心得)古川鈊三郎 中佐:1914年11月10日 - 12月1日
- 古川鈊三郎 大佐:1914年12月1日 - 1915年7月19日
- (心得)松村菊勇 中佐:1915年9月25日 - 12月13日
- 桜井真清 大佐:1915年12月13日 - 1916年9月25日
同型艦
[編集]- 千歳 [I]
脚注
[編集]- ^ #海軍制度沿革8(1971)p.9、明治二十九年
- ^ 要目は主に『日本巡洋艦物語』による。
- ^ 『写真 日本の軍艦第5巻』による。『日本巡洋艦物語』によると常備排水量4,900トン。
- ^ 明治31年4月15日『官報』第4434号。国立国会図書館デジタルコレクション コマ1 『|信號符字|艦艇名|GQJT|笠置 Kasagi|』
- ^ a b c 「明治30年 達 完/3月(4)」 アジア歴史資料センター Ref.C12070038100 p.3『達第三十三號 英國ニ於テ製造ノ第一號甲鐡戰艦及第三號二等巡洋艦米國ニ於テ製造ノ第一號及第二號二等巡洋艦ニ左ノ通命名セラル|明治三十年三月二十六日 海軍大臣侯爵 西郷從道|第一甲鐡戰艦
敷 島 |第一號二等巡洋艦笠 置 |第二號二等巡洋艦千 歲 |第三號二等巡洋艦高 砂 』 - ^ a b 海軍有終会編『幕末以降帝国軍艦写真と史実』1935年 国立国会図書館デジタルコレクション コマ55
- ^ a b 『海軍制度沿革 巻8』国立国会図書館デジタルコレクション コマ222『●水雷艇ノ命名ヲ海軍大臣ニ御委任ノ件 明治三十年三月十三日(官房八二五)(海軍大臣ヨリ侍從長宛) 第一期海軍擴張費トシテ製造スヘキ軍艦ノ內工事ニ著手シ追ミ其歩ヲ進メタルモノモ有之候ニ付此際左記四艘ノ艦名御治定相成候様致度亦水雷艇ノ義ハ多數ノ義ニ付其艇名ハ本職ヘ御委任相成候様共ニ御執奏相成度此段及御照會候也 追テ御參考ノ爲メ艦名左ニ付記致候也
第一號甲鐡戰艦敷 島 白 根
第一號二等巡洋艦千 早 利 根
第二號二等巡洋艦笠 置 矢 作
第三號二等巡洋艦鞍 馬 千 歳
【編者註】三月十八日尚三四ノ參考艦名可差出御沙汰ニヨリ岩倉侍從職漢字マデ差出タルモノ左ノ如シ朝 日 生 駒 高 砂 高 嶺 』 - ^ 「明治31年 達 完/3月(1)」 アジア歴史資料センター Ref.C12070040500 pp.14-15『達第三十四號 海軍大臣ニ於テ別表ノ標準ニ據リ軍艦及水雷艇ノ類別及等級ヲ定メ若ハ其ノ變更ヲ行フコトヲ得セシメラル 明治三十一年三月二十一日 海軍大臣侯爵 西郷從道』
- ^ 巻8』国立国会図書館デジタルコレクション コマ50『◎軍艦及水雷艇類別等級 明治三十一年三月二十一日(達三五)軍艦及水雷艇類別等級別紙ノ通定ム(別紙)』
- ^ #達明治31年3月(1)pp.16-17『達第三十五號 軍艦及水雷艇類別等級別紙ノ通定ム 明治三十一年三月二十一日 海軍大臣侯爵 西郷從道|軍艦|巡洋艦|二等|浪速 高千穂 嚴島 松島 橋立 吉野 高砂 笠置 千歲』
- ^ 明治32年3月18日『官報』第4711号。国立国会図書館デジタルコレクション コマ5 『○軍艦發著 …同笠置ハ一昨十六日ジプローㇽターㇽニ向ヒポーㇽツマスヲ、水雷艇驅逐艇雷ハ同日ジプローㇽターㇽニ向ヒプリマスヲ孰モ拔錨、同叢雲ハ同日コロンボヘ投錨セリ(海軍省)』
- ^ 明治32年5月17日『官報』第4760号。国立国会図書館デジタルコレクション コマ4 『○軍艦發著 …同富士、八島、鎭遠、高砂、嚴島、橋立、秋津洲及須磨ハ 一昨十五日館山ヘ投錨昨十六日八島ヲ除キ同所拔錨、同笠置ハ橫須賀ヘ、同武藏ハ根室ヘ、同日孰モ投錨、…』
- ^ 「明治33年 清国事変海軍戦史抄 巻1/艦船の準備、附人員の補充(1)」 アジア歴史資料センター Ref.C08040834400 pp.303-304(画像3・4)『事變始マリテ笠置ハ五月三十日橫須賀發ヲ以テ第一ニ北淸に派遣セラレ次ヲ六月七日ニ至リ常磐吉野高砂秋津州須磨ノ五艦淸韓露領沿岸巡航ノ件裁可セラレ內須磨ハ六月七日馬公發ニテ先ンシテ北淸ニ派遣セラレ吉野ハ出羽司令官ヲ載セテ六月十六日徳山發ニテ北淸に派遣セラレ常磐以下殘三艦ハ東鄕司令長官親ラ之ヲ率ヒテ六月十九日佐世保ヲ發シ北淸ニ向ヘリ』
- ^ a b 「明治33年 清国事変海軍戦史資料 巻1:清国事変に関する上奏」 アジア歴史資料センター Ref.C08040773000 画像4『按 左記ノ諸件御執奏相成度候也 明治三十三年六月七日 海軍大臣 侍従長宛 …六月四日 午前九時四十五分帝國軍艦笠置大沽ニ着ス 軍艦笠置ヨリ陸戦隊トシテ士官五名及水兵六十九名ヲ天津ニ派遣セリ』
- ^ 地図から消えた島々、167ページ
- ^ 地図から消えた島々、168ページ
- ^ 地図から消えた島々、168-169ページ
- ^ 地図から消えた島々、169ページ
- ^ 「「極秘 明治37.8年海戦史 第11部 戦局日誌 巻1」/第1編 開戦前誌(明治36年4月8日より37年2月5日に至る)」 アジア歴史資料センター Ref.C05110200200 画像3(p.5)『第二列、千歲、笠置、高砂、吉野、浪速、高千穗、秋津洲、明石、須磨、扶桑、和泉、千代田、鎭遠』
- ^ 「戦時日誌 明治36.12.28~38.10.14/戦時日誌(1)」 アジア歴史資料センター Ref.C09050281400 画像3『開戰前誌 明治三十六年十二月二十八日(月) 一聯合艦隊左ノ通リ編制セラル |聯合艦隊(司令長官東鄕中將)|第一艦隊(長官東鄕中將)|第三戰隊|千歲、笠置、吉野、高砂|』
- ^ 明治三十七・八年海戦史. 下巻 国立国会図書館デジタルコレクション コマ370
- ^ 戦史叢書第72巻 中国方面海軍作戦<1>昭和十三年四月まで、102ページ
- ^ 『御大礼記録』 国立国会図書館デジタルコレクション コマ255 『同時に艦隊の編成は行はれたり、左の如し。…第三艦隊 第七戰隊 津輕、平戸、筑摩、笠置、千歲…』
- ^ 「外国ノ部:17.露国軍艦(旧名相模)座礁ノ件」 アジア歴史資料センター Ref.B07090406200 画像2『露國軍艦口坐礁ニ関スル件』
- ^ 「大正5年6月1日(木)海軍公報 第1133号 p.2」 アジア歴史資料センター Ref.C12070250600 『○艦船所在○六月一日午前十時調【航海中】笠置(五月三十一日舞鶴發浦鹽斯徳へ)』
- ^ 「大正5年6月3日(土)海軍公報 第1135号 p.6」 アジア歴史資料センター Ref.C12070250600 『○艦船所在○六月三日午前十時調【浦鹽斯徳】笠置』
- ^ 「大正5年6月9日(金)海軍公報 第1140号 p.21」 アジア歴史資料センター Ref.C12070250600 『○艦船所在○六月九日午前十時調【航海中】笠置(八日浦鹽斯徳發函館ヘ)』
- ^ 「大正5年 公文備考 巻32 艦船9/遭難に関する調査書類(1)」 アジア歴史資料センター Ref.C08020775600 画像8-11
- ^ 「大正5年 達 完:11月」 アジア歴史資料センター Ref.C12070071300 画像8『達第百五十四號 佐世保鎭守府在籍 軍艦笠置 右帝國軍艦籍ヨリ除カル 大正五年十一月五日 海軍大臣 加藤友三郎』
- ^ #大正5年達完 画像8『達第百五十五號 艦艇類別等級別表中「、笠置」ヲ削ル 大正五年十一月五日 海軍大臣 加藤友三郎』
参考文献
[編集]- 海軍省/編『海軍制度沿革 巻八』 明治百年史叢書 第180巻、原書房、1971年10月(原著1941年)。
- 海軍歴史保存会『日本海軍史』第7巻、第9巻、第10巻、第一法規出版、1995年。
- 長谷川亮一『地図から消えた島々 幻の日本領と南洋探検家たち』吉川弘文館、2011年、ISBN 978-4-642-05722-6
- 福井静夫『福井静夫著作集第4巻 日本巡洋艦物語』(光人社、1992年)ISBN 4-7698-0610-8
- 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書第72巻 中国方面海軍作戦<1>昭和十三年四月まで』朝雲新聞社
- 雑誌「丸」編集部『写真 日本の軍艦 第5巻 重巡I』(光人社、1989年) ISBN 4-7698-0455-5
- 『官報』
- 国立国会図書館デジタルコレクション - 国立国会図書館
- 朝日新聞社 編『御大礼記録』朝日新聞合資会社、1916年。
- 軍令部 編『明治三十七・八年海戦史. 下巻』内閣印刷局朝陽会、1934年。
- 海軍有終会 編『幕末以降帝国軍艦写真と史実』海軍有終会、1935年。
- 海軍大臣官房『海軍制度沿革 巻8』1940年。
- アジア歴史資料センター(公式)(防衛省防衛研究所)
- 『明治30年 達 完:3月(4)』。Ref.C12070038100。
- 『明治31年 達 完:3月(1)』。Ref.C12070040500。
- 『明治33年 清国事変海軍戦史抄 巻1:艦船の準備、附人員の補充(1)』。ref.C08040834400。
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- 『「極秘 明治37.8年海戦史 第11部 戦局日誌 巻1」:第1編 開戦前誌(明治36年4月8日より37年2月5日に至る)』。ref.C05110200200。
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- 『外国ノ部:17.露国軍艦(旧名相模)座礁ノ件』。ref.B07090406200。
関連項目
[編集]- 笠置 [II](航空母艦、未成)