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吉野 (防護巡洋艦)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
吉野
基本情報
建造所 アームストロング・アンド・ミッチェル会社[1]エルスウィック造船所(Armstrong. Michell & Co. Elswick yard)[2]
運用者  大日本帝国海軍
艦種 防護巡洋艦[2]
級名 吉野型
艦歴
計画 1891年度計画
発注 1891年11月21日製造契約[3]
起工 1892年3月1日[2]
進水 1892年12月20日[2]
竣工 1893年9月30日[2]
最期 1904年5月15日沈没
除籍 1905年5月21日
要目(計画[1]
常備排水量 計画:4,200英トン
竣工時:4,158英トン[4]
全長 118.261m
垂線間長 109.727m
最大幅 14.173m
深さ 8.687m(キール上部から甲板舷側まで)
吃水 平均:5.15m
推進 2軸
速力 22.5ノット
燃料 石炭:定量350英トン、庫量1,000英トン
航続距離 8,500 カイリ / 10ノット
兵装
装甲
  • 甲板水平部:44.5mm
  • 甲板傾斜部:114mm
  • 司令塔:102mm
  • 防盾:115mm[要出典]
搭載艇 9.75m小蒸気艇1隻、9.75mピンネース1隻、9.14mカッター2隻、8.534mギグ1隻、8.230mギグ1隻、4.877mディンギー1隻
その他 信号符字:GQFR[6]
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吉野(よしの)は、日本海軍巡洋艦二等巡洋艦[7][8]吉野型防護巡洋艦1番艦である。設計はフィリップ・ワッツが手掛けた。艦名は奈良県の吉野山に由来する[9]日清戦争で活躍[9][10]日露戦争に従事中の1904年(明治37年)5月15日、味方艦「春日」と衝突して沈没[11][12][13]

概要

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完成当時、世界最速の軍艦だった[14][15]

日本海軍において初めて無煙火薬の導入と測距儀(バー・アンド・ストラウド社製(海軍呼称:武式)1.5メートル測距儀)を搭載した艦であった[16][17]

艦型

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製造要領

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製造契約時の要領は以下の通り[18]

  • 垂線間長:360 ft (109.728 m)
  • 最大幅:46 ft (14.021 m)

46ft

  • 深さ:31 ft 6 in (9.601 m)(キール上部から甲板舷側まで)
  • 平均吃水:17 ft (5.182 m)
  • 排水量:約3,900英トン
  • 兵装
    • 6インチ速射砲4門(艦首1門、艦尾に1門、船首楼後端の両舷に各1門)
    • 4.7インチ速射砲8門(上甲板に配置、艦尾に2門)
    • 3ポンド速射砲23門(前後檣楼に各2門、艦橋上に1門、船首楼下の上甲板に2門、船尾楼下の上甲板に2門、釣床入れの上に片舷4門ずつ、中甲板に6門)
    • 魚雷発射管6門(艦首と艦尾に各1門、機関室前後の中甲板に2門ずつ)
  • 装甲
    • 防御甲板水平部は水線上12 in (0.305 m)、傾斜部は水線下4 ft (1.219 m)の位置
    • 機関と火薬庫の傾斜部厚さ3+12 in (88.9 mm)から4+12 in (114.3 mm)
    • 平坦部両端の厚さ1+34 in (44.5 mm)
  • 石炭庫容積:約1,000英トン
  • 速力:強圧通風22.5ノット[19]

兵装

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砲は全て防盾付きで上甲板に置かれており、アームストロング 40口径15.2cm単装速射砲は司令塔の前に1基、司令塔両脇の船橋の横に片舷1基ずつ両舷で2基、艦後部に1基。アームストロング 40口径12cm単装速射砲は片舷4基ずつ両舷で8基。片舷に5基並んでいる砲の内、先頭が15.2cm砲である。

艦歴

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建造

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1892年明治25年)3月1日、起工[9]。 8月30日、「吉野」と命名される[7][20]。 12月20日、進水[9]1893年(明治26年) 7月11日と18日の2日間、公試運転を行った。 竣工期日は10月8日だったが、9月に入り注文した魚雷発射管の製造が期日に間に合わないことが判明、9月30日に発射管を未搭載のまま引渡し、発射管はプリマスで取り付けてポートランドで試験を行うことにした[21]。 9月30日引渡[22][23] (竣工[9])。 午前9時45分にアームストロング社代理造船部長ワット、造船掛ブラック、機関掛サンジソンと山木監督官、松尾監督官が乗艦、9時55分に総員が正装で甲板に整列、10時に時鐘を鳴らして軍艦旗を掲揚、天皇礼式を吹奏し、衛兵隊が捧銃を行った[24]。 吹奏終了後に艦を受領したことを総員に伝えて解散、その後、士官以上の乗員は士官室でアームストロング社社員と祝杯をあげた[24]。 10月5日に魚雷発射管工事が完成した[5]

回航

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1893年11月26日に日本へ向けイギリスを出港した[25]。 この時は後に艦長となる河原要一とともに回航委員として秋山真之も同行した。 1894年(明治27年)1月28日コロンボ[26]、 2月8日シンガポール[27]、 3月6日呉軍港に到着、「吉野」は軍艦吉野回航委員長から艦長へ引き渡された[28]。 「吉野」はその後神戸港に寄港、神戸市民の歓迎を受けた[29]

日清戦争

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日清戦争においては、第一遊撃隊(司令官坪井航三少将)の旗艦であった(吉野艦長河原要一大佐)[9][10]1894年7月25日の豊島沖海戦や9月17日に起きた黄海海戦で活躍[9]。『吉野桜に武士の姿』と謳われたという[10]

1898年

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1898年(明治31年)3月21日、日本海軍は海軍軍艦及び水雷艇類別標準を制定し、3,500トン以上7,000トン未満の巡洋艦を「二等巡洋艦」と定義[30]。該当する9隻(浪速高千穂厳島松島橋立吉野高砂笠置千歳)が二等巡洋艦に類別された[31][8]

1903年

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1903年(明治36年)4月、神戸沖で挙行された大演習観艦式に参列、第二列に配置された[32]。12月28日、常備艦隊が解隊され、戦艦を中心とする第一艦隊(司令長官:東郷平八郎海軍中将、旗艦:戦艦三笠)と巡洋艦が主体の第二艦隊(司令長官:上村彦之丞海軍中将、旗艦:装甲巡洋艦出雲)が設置される。第一・第二艦隊で連合艦隊(司令長官:東郷中将)を構成した。吉野は第一艦隊隷下の第三戦隊(司令官:出羽重遠海軍少将、防護巡洋艦《千歳笠置吉野高砂》)に配属される[33]

日露戦争

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日露戦争においては、第三戦隊所属艦として旅順口攻撃旅順港閉塞作戦)に従事し、任務を終えて旅順沖から裏長山列島へ向かう途中の1904年(明治37年)5月15日午前1時40分[34][10]千歳(出羽少将旗艦)・吉野春日八雲富士という編制の日本艦隊は濃霧に遭遇し、「春日」が「吉野」左舷後部に衝突する[9][10]。 本艦は吉野艦長佐伯誾大佐以下三百余名(将校31名、下士官以下286名、他)を乗せたまま沈没した[11][10]。戦死者319名、生存者約90名(計104名)[35][11][10]。 同日には戦艦2隻(初瀬八島)も機雷により沈没[36][37][12]、5月15日は日本海軍厄災の日となった[38][39]

1905年(明治38年)6月15日、「吉野」および「高砂」等は軍艦籍[40]および艦艇類別等級表(軍艦及び水雷艇類別等級表)より除籍された[41][42]

艦長

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※『日本海軍史』第9巻・第10巻の「将官履歴」及び『官報』に基づく。

回航委員長
艦長
  • 河原要一 大佐:1893年6月7日 - 1895年6月4日
  • 諸岡頼之 大佐:1895年6月4日 - 1896年11月26日
  • 島崎好忠 大佐:1896年11月26日 - 1897年12月1日
  • 植村永孚 大佐:1897年12月1日 - 1898年6月13日
  • 丹治寛雄 大佐:1898年6月13日 - 1899年6月17日
  • 大井上久麿 大佐:1899年6月17日 - 1900年2月13日
  • 酒井忠利 大佐:1900年2月13日 - 1901年1月21日
  • 寺垣猪三 大佐:1901年2月4日 - 1901年3月13日
  • 松本有信 大佐:1901年4月23日 - 1902年4月22日
  • 佐伯誾 大佐:1903年4月12日 - 1904年5月15日戦死

公試成績

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実施日 種類 排水量 回転数 出力 速力 場所 備考 出典
1893年7月11日 竣工時公試 23.03ノット 強圧通風 [43]
1893年7月18日 竣工時公試 40rpm余り 21.614ノット 自然通風 [44]

同型艦

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脚注

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  1. ^ a b #公文備考別輯/軍艦吉野製造一件(2)画像21-25
  2. ^ a b c d e #日本の戦艦(上)2001p.27
  3. ^ #公文備考別輯/軍艦吉野製造一件(1)画像12
  4. ^ #公文備考別輯/軍艦吉野製造一件(5)画像14-15,18
  5. ^ a b #公文備考別輯/軍艦吉野製造一件(5)画像38
  6. ^ 公文類聚・第十六編・明治二十五年・第三十八巻・交通四・運輸鉄道・船車/海軍艦船吉野ヘ点附ノ信号符字ヲ定ム」 アジア歴史資料センター Ref.A15112544900  画像1「九月二十日 逓信省告示第二百十三號 海軍艦船吉野ヘ點附ノ信號符字ハ左記ノ如シ 明治二十五年九月二十日 逓信大臣伯爵黒田清隆 信號符字 艦名 GQFR 吉野 Yoshi-no」
  7. ^ a b #達明治25年8月p.8『達第六十四號 英國ニ於テ製造ノ巡洋艦ヲヨシト命名セラル 明治二十五年八月三十日 海軍大臣 子爵仁禮景範』
  8. ^ a b #達明治31年3月(1)pp.16-17『達第三十五號 軍艦及水雷艇類別等級別紙ノ通定ム 明治三十一年三月二十一日 海軍大臣侯爵 西鄕從道|軍艦|巡洋艦|二等|浪速 高千穗 嚴島 松島 橋立 吉野 高砂 笠置 千歲』
  9. ^ a b c d e f g h #幕末以降帝国軍艦写真と史実第40コマ(原本53頁)『吉野(よしの) 艦種巡洋艦 二檣(戰闘檣あり)
    艦名考山名に採る、吉野山は大和國吉野郡吉野村に在り、吉野川の南、金峰山の下、川名に採る、夾地に據り一郷邑を爲す、吉野山とは此山地の總稱なり。
    艦歴明治26年9月30日英國に於て竣工、同年10月英國出發、同27年3月呉到着。同27・8年戰役從軍:同27年7月25日豊島海戰に参加(艦長大佐河原要一、第一遊撃隊旗艦司官少将坪井航三)、同8月威海衛砲撃に参加、同9月17日黄海々戰に参加、同11月大連及び旅順港占領に從事、同28年2月威海衛總攻撃及び同地占領に從事、同31年3月二等巡洋艦に列す。同33年北清國事變從軍:同37・8年戰役に從軍(第三戰隊):同年5月15日旗艦千歳(出羽第三戰隊司令官座乗)吉野・春日・八雲・富士と編隊航行中、深夜遽然濃霧に遭遇し、變針の際、後續艦春日に衝かれ沈没、艦長大佐佐伯誾、副長少佐廣渡目頁一其の他准士官以上30名、下士卒284名、傭人3名殉難。
    ―要目― 長350呎/幅46.5呎/吃水20呎/排水量4,160噸/機關 縦置汽關隻螺旋高圓罐12/馬力15,000/速力23/乗組人員385/船材 鋼/兵装 15拇安砲4/12拇安砲8/47粍砲22/發射管5/起工 明治25-3-1/進水 同25-12-20/竣工 同26-9-30/建造所 英國エルスウィック安社』
  10. ^ a b c d e f g #日露戦争史(1906)コマ124-125(原本223-225頁)『吉野も初瀬も、其の沈没は同じく五月十五日の事なりき、吉野は第三戰隊と共に、深夜旅順口封鎖の任務より歸航の途に就き、艦上少数の哨兵を殘して、艦員皆眠につきぬ。此の日午前一時四十分頃、恰も山東角の北方海面に來りし時、濃霧の爲めに咫尺を辧せず。将に針路を轉ぜむとする時、忽ち一大響音を聞く、是れ春日が其の左舷艦尾に衝突したるなり。前艦橋に在りし佐伯艦長は、依りて直に衝突防水を命じ、全力を擧げて、之が防水に努めしも其の効なく、浸水益々甚しくして「總員上へ」の命下りし時は、潮水既に甲板に及び、艦長が「總端艇卸し方」を命じ次いで「總員乗艇退去」を命じたる時は、後部○に浸入を見ざるのみなりき。斯くて佐伯艦長は、御眞影を奉じて、廣渡副長と共に、天皇陛下萬歳を發聲するや。總員は之に和して、萬歳の聲は波間に響きぬ。第二唱未だ唱へ終らざるに、吉野は早や右舷に傾斜して、佐伯艦長、廣渡副長以下、三百の将校下士卒は、既に其の艦に殉じて、皆水底に沈みぬ。殊に佐伯艦長が、廣渡副長、竹内航海長と共に最後に至るまで、吃然として司令塔に卓立し、從容迫らず、音吐朗々、號令整然たりし最後の威厳は、以て帝國海軍の模範となすに足る。救助されし者は将校六名、准士官一名、下士以下九十七名にて、戰死せしは、佐伯艦長以下将校三十一名、下士以下二百八十六名なりき。
    顧れば去る二十七年、花の吉野と歌はれて、英國より回航せし當時、我が、國民が、花の姿に比べしも、短かヽりき十年の夢となりぬ。殊に日清戰争の際、最も快速なる堅艦として、第一遊撃隊の旗艦となり、坪井少将を頂きて、勇壮活溌なる行動をなし、吉野櫻に武士の姿など謡はしめたるは、今猶吾人の記憶を新たならしむ。爾來十年を經て、日露戰開戰以來、敵地に出入せし事前後十六回、あはれ暗夜濃霧の裡、舷燈を許さぬ戰場に於いて、空しく悲惨の最後を遂げたるは、惜しむべく、悼むべきにこそ。』
  11. ^ a b c #日露戦役海軍写真集(1)p.18『軍艦吉野艦長以下士官 嗚呼是れ明治三十七年五月十五日午前一時四十分、山東角の北方海面に於て、濃霧に遭ひ、春日と衝突して沈没したる吉野の艦長以下士官諸氏にして、前方第二列の中央なるは、艦長大佐佐伯誾君なり。また艦と共に沈みぬ。吉野は四千二百二十五噸速力廿五哩の巡洋艦、明治廿五年の進水にて、日進戰役の當時功績最も多かりしに、今や此の災厄に遭ひ、乗組員中救助艇にて収容せられたる者は、機關長以下約九十名、恨は黄海の底よりも深し。』
  12. ^ a b #旅順附近海戦一覧p.5『五月十五日|夜|港口封鎖任務中濃霧ニ會シ我吉野ハ春日ト衝突ス|艦長以下三百十八名艦ニ殉セリ/敵驅逐艦「ウエマテリスイ」渤海灣ニテ坐礁放棄/晝|我「初瀬」及「八島」ハ敵監視中老鐡山ノ南東約十海里ノ地点ニテ敵機雷ニ觸レ此時敵驅逐艦十六隻大擧我艦隊ヲ襲撃セシモ我巡洋艦ノ爲撃退サル|初瀬八島沈没|五月初旬ヨリ海軍ノ援護ニヨリ續々我陸軍關東半島ニ上陸開始』
  13. ^ #亡失表p.2『二・三等巡洋艦|吉野|四,一五〇|春日ト衝突沈没|(濃霧中)五月十五日|』
  14. ^ Evans, Kaigun, p. 34.
  15. ^ Elleman, Modern Chinese Warfare, p. 102.
  16. ^ #幕末以降帝国軍艦写真と史実第237コマ(原本82頁)『一、初めて六吋(十五拇)速射砲及び紐状無煙火藥を採用す―明治二十五年(一八九二)「吉野」に之を装備す』
  17. ^ #幕末以降帝国軍艦写真と史実第237コマ(原本83頁)『一、保式十四吋魚雷及びB・S式距離測定器採用―明治二十六年(一八九三)「吉野」以降之を使用す』
  18. ^ #公文備考別輯/軍艦吉野製造一件(1)画像4-11、「迅速鋼鉄防御巡洋艦要領」
  19. ^ #公文備考別輯/軍艦吉野製造一件(1)画像22
  20. ^ #海軍制度沿革(巻8、1940)コマ198番『◎巡洋艦吉野命名ノ件 明治二十五年八月三十日(達六四)英國ニ於テ製造ノ巡洋艦ヲヨシト命名セラル』
  21. ^ #公文備考別輯/軍艦吉野製造一件(5)画像21-22、「本艦領収並ニ回航之件ニ付御届」
  22. ^ #公文備考別輯/軍艦吉野製造一件(5)画像25
  23. ^ 明治26年10月3日官報第3080号。国立国会図書館デジタルコレクション コマ3「◯陸海軍 ◯軍艦旗掲揚 兼テ英國ニ於テ製造ノ軍艦吉野去月三十日請取濟帝國軍艦旗ヲ掲揚セリ(海軍省)
  24. ^ a b #公文備考別輯/軍艦吉野製造一件(5)画像27-28、吉野第65号の3「安社ヨリ本艦領収儀式ノ義ニ付報告」
  25. ^ #公文備考別輯/軍艦吉野製造一件(5)画像47
  26. ^ #公文備考別輯/軍艦吉野製造一件(4)画像40
  27. ^ #公文備考別輯/軍艦吉野製造一件(4)画像41
  28. ^ #公文備考別輯/軍艦吉野製造一件(5)画像45
  29. ^ #公文備考別輯/軍艦吉野製造一件(5)画像48-49
  30. ^ #達明治31年3月(1)pp.14-15『達第三十四號 海軍大臣ニ於テ別表ノ標準ニ據リ軍艦及水雷艇ノ類別及等級ヲ定メ若ハ其ノ變更ヲ行フコトヲ得セシメラル 明治三十一年三月二十一日 海軍大臣侯爵 西鄕從道』
  31. ^ #海軍制度沿革(巻8、1940)コマ50番『◎軍艦及水雷艇類別等級 明治三十一年三月二十一日(達三五)軍艦及水雷艇類別等級別紙ノ通定ム(別紙)軍艦|巡洋艦|二等|浪速 高千穗 嚴島 松島 橋立 吉野 高砂 笠置 千歲|』
  32. ^ 「極秘 明治37.8年海戦史 第11部 戦局日誌 巻1」/第1編 開戦前誌(明治36年4月8日より37年2月5日に至る)」 アジア歴史資料センター Ref.C05110200200  画像3(p.5)「第二列、千歲、笠置、高砂、吉野、浪速、高千穗、秋津洲、明石、須磨、扶桑、和泉、千代田、鎭遠」
  33. ^ 戦時日誌 明治36.12.28~38.10.14/戦時日誌(1)」 アジア歴史資料センター Ref.C09050281400  画像3「開戰前誌 明治三十六年十二月二十八日(月) 一聯合艦隊左ノ通リ編制セラル |聯合艦隊(司令長官東鄕中將)|第一艦隊(長官東鄕中將)|第三戰隊|千歲、笠置、吉野、高砂|」
  34. ^ #日露戦争大本営公報集コマ36(原本51頁)『一、本職は茲に三度不幸なる變災の報告を進達するを遺憾とす十五日午前五時千歳出羽司令官よりの無線電信報告によれば本日午前一時四十分頃第三戰隊は旅順口封鎖の任務より歸航中山東角の北方海面に於て濃霧に遭ひ春日は吉野の左舷艦尾に衝突し浸水甚しく吉野は終に沈没せり春日より出したる救助艇にて収容されたる者機關長以下約九百十名なりと濃霧未だ霽れず痛心に堪へず(五月十五日午前十時五分大本營着電)』
  35. ^ #日露役旅順港海海戦戦死者p.2『(三七)〃-五-一五|夜|吉野|同上|三一九|港口封鎖任務中濃霧ニ會シ我春日ト衝突沈没 乗員四二七名ノ内艦長佐伯大佐外三一九名戰死』
  36. ^ #亡失表p.1『戰艦|初瀬|一五,〇〇〇|敵機雷ニ觸レ沈没|五月十五日|』
  37. ^ #亡失表p.1『戰艦|八島|一二,三二〇〇|敵機雷ニ觸レ沈没|五月十五日|』
  38. ^ #戦袍余薫懐旧録コマ101『初瀬八島の遭難(敷島艦長海軍大佐)海軍中将寺垣猪三』
  39. ^ #大戦余響コマ28-30(原本35-39頁)『〔十一〕吉野初瀬八島の沈没』
  40. ^ #達明治38年6月p.7『達第八十二號 横須賀鎮守府在籍 軍艦 愛宕|呉鎮守府在籍 軍艦 八島/軍艦 高砂|佐世保鎮守府在籍 軍艦 大島|舞鶴鎮守府在籍 逐驅艦 速鳥 右帝國軍艦籍ヨリ除カル|横須賀鎮守府在籍 水雷艇 第六十九號|佐世保鎮守府在籍 水雷艇 第三十四號/水雷艇 第三十五號 右帝國水雷艇籍ヨリ除カル|明治三十八年六月十五日 海軍大臣男爵 山本権兵衛』
  41. ^ #海軍制度沿革(巻8、1940)コマ52番『明治三十八年六月十五日(達八三)軍艦及水雷艇類別等級別表中軍艦ノ欄内八島、初瀨、吉野、高砂、濟遠、海門、平遠、愛宕、大島、宮古、速鳥ヲ、水雷艇ノ欄内第三十四號、第三十五號、第四十二號、第四十八號、第五十一號、第五十三號、第六十九號ヲ削ル』
  42. ^ #達明治38年6月p.7『達第八十三號 軍艦及水雷艇類別等級別表中軍艦ノ欄内八島、初瀨、吉野、高砂、濟遠、海門、平遠、愛宕、大島、宮古、速鳥ヲ、水雷艇ノ欄内第三十四號、第三十五號、第四十二號、第四十八號、第五十一號、第五十三號、第六十九號ヲ削ル 明治三十八年六月十五日 海軍大臣男爵 山本権兵衛』
  43. ^ #公文備考別輯/軍艦吉野製造一件(5)画像3,9-11
  44. ^ #公文備考別輯/軍艦吉野製造一件(5)画像12-13

参考文献

[編集]
  • アジア歴史資料センター(公式)
    • 『公文類聚・第十六編・明治二十五年・第三十八巻・交通四・運輸鉄道・船車/海軍艦船吉野ヘ点附ノ信号符字ヲ定ム』。JACAR:A15112544900 
    • 防衛省防衛研究所
    • 『「極秘 明治37.8年海戦史 第11部 戦局日誌 巻1」/第1編 開戦前誌(明治36年4月8日より37年2月5日に至る)』。JACAR:C05110200200 
    • 『戦時日誌 明治36.12.28~38.10.14/戦時日誌(1)』。JACAR:C09050281400 
    • 『公文備考別輯 完 新艦製造部 大島 秋津洲 吉野 明治21~27/軍艦吉野製造一件(1)』。JACAR:C11081480700 
    • 『公文備考別輯 完 新艦製造部 大島 秋津洲 吉野 明治21~27/軍艦吉野製造一件(2)』。JACAR:C11081480800 
    • 『公文備考別輯 完 新艦製造部 大島 秋津洲 吉野 明治21~27/軍艦吉野製造一件(4)』。JACAR:C11081481000 
    • 『公文備考別輯 完 新艦製造部 大島 秋津洲 吉野 明治21~27/軍艦吉野製造一件(5)』。JACAR:C11081481100 
    • 『明治25年 達 完/8月』。JACAR:C12070029900 
    • 『明治31年 達 完/3月(1)』。JACAR:C12070040500 
    • 『明治32年 達 完/10月』。JACAR:C12070042900 
    • 『明治38年 達 完/6月』。JACAR:C12070053000 
    • 『日露役旅順附近海戦一覧表(明治37年)』。JACAR:C14120009300 
    • 『日露役(旅順附近黄海海戦)に於ける沈没艦船並戦死者一覧表(昭和10年6月7日旅順要港部港務部調製)』。JACAR:C14120009400 
    • 『日露役旅順陥落迄の両国艦船勢力並亡失表(明治37年)』。JACAR:C14120009500 
  • 国立国会図書館デジタルコレクション - 国立国会図書館
    • 海軍有終会編『幕末以降帝国軍艦写真と史実』海軍有終会、1935年11月。 
    • 海軍大臣官房『海軍制度沿革. 巻4(1939年印刷) info:ndljp/pid/1886711』海軍大臣官房、1939年。 
    • 海軍大臣官房『海軍制度沿革. 巻8(1940年印刷) info:ndljp/pid/1886716』海軍大臣官房、1940年。 
    • 海軍大臣官房『海軍制度沿革. 巻11(1940年印刷) info:ndljp/pid/1886713』海軍大臣官房、1940年。 
    • 河村貞編「初瀬、吉野の二艦沈没」『日露戦争大本営公報集 info:ndljp/pid/774421』立誠堂、1906年1月。 
    • 川俣馨一編『日露戦争史 info:ndljp/pid/774407』尚文社、1906年4月。 
    • 坪谷善四郎編『日露戦役海軍写真集. 第1輯』博文会、1905年9月。 
    • 藤田定市編『戦袍余薫懐旧録.第2輯 info:ndljp/pid/1447099』財団有終會、1926年12月。 
    • 鳳秀太郎編『日露戰役話集 大戰餘響 info:ndljp/pid/954055』博文館、1917年3月。 
  • 泉江三『軍艦メカニズム図鑑 日本の戦艦 上』グランプリ出版、2001年4月。ISBN 4-87687-221-X 
  • 海軍歴史保存会『日本海軍史』第7巻、第9巻、第10巻、海軍歴史保存会、1995年。
  • 雑誌「丸」編集部『写真 日本の軍艦 第5巻 重巡I』(光人社、1989年) ISBN 4-7698-0455-5
  • 官報

関連項目

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