酒井忠利 (海軍軍人)
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酒井 忠利 | |
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生誕 | 1857年6月3日 |
死没 | 1943年2月8日(85歳没) |
所属組織 | 大日本帝国海軍 |
軍歴 | 1879年–1906年 |
最終階級 | 海軍少将 |
除隊後 | 帝国水難救済会理事[1] |
酒井 忠利(さかい ただとし、安政4年5月12日(1857年6月3日) - 昭和18年(1943年)2月8日)は、日本の海軍軍人。出羽庄内藩主・酒井左衛門尉家の一門で、米津政明の次男、酒井忠発の養子(三男)。伯爵・酒井忠良の養大叔父[2]、子爵・米津政賢の叔父にあたる。備中松山藩主で、子爵・板倉勝定(勝貞)[3]、陸軍大将・西尾寿造は女婿。従四位勳三等功四級。最終階級は海軍少将。
人物
[編集]1872年(明治5年)、海兵士官学校に入校。同校は海軍兵学校とは別個の存在で、明治初年のみに存在した海兵隊育成を企図した学校である。しかし在校中に廃校となり、すでに4年在校していた酒井は、3か月の速成教育を受けて卒業した。同じ履歴を有する者に武富邦鼎、中野信陽がいる[4]。少尉補となった酒井は砲術や運用術を学ぶため海兵に通学し[5]、「金剛」乗組みを経て少尉に任じられた。日清戦争においては「橋立」副長として、艦長・日高壮之丞を補佐して黄海海戦を戦った[6]。以後7艦で艦長を務める。1901年(明治34年)ロシア公使館附武官に補され、3年あまり在任した。武官補佐官は広瀬武夫である。日露戦争中は軍令部出仕、佐世保海兵団長、元山防備隊司令官を務める。1905年(明治38年)9月に少将へ昇進し、翌年予備役編入となった。
年譜
[編集]- 1872年(明治5年)5月 - 海兵士官学校入寮
- 1877年(明治10年)2月 - 海軍少尉補・海軍兵学校通学
- 1878年(明治11年)6月 – 「金剛」乗組
- 1879年(明治12年)9月 - 海軍少尉
- 1883年(明治16年)11月 - 海軍中尉
- 1886年(明治19年)6月 - 海軍大尉
- 1888年(明治21年)11月 - 海軍兵学校運用術教官兼「天竜」 副長
- 1891年(明治24年)1月 - 海軍少佐、「迅鯨」副長
- 1893年(明治26年)1月25 - 免 千代田副長、待命[7]
- 1893年(明治26年)2月14 - 補 大和副長[8]
- 1894年(明治27年)4月 - 「橋立」副長
- 1895年(明治28年)2月 - 横須賀水雷隊攻撃部司令
- 1896年(明治29年)4月 - 「満珠」艦長
- 8月 - 「摩耶」艦長
- 1897年(明治30年)4月 - 海軍大佐、「大和」 艦長
- 1898年(明治31年)3月 - 「八重山」艦長
- 9月 - 「高雄」艦長
- 1900年(明治33年)2月 - 「吉野」艦長
- 1901年(明治34年)1月 - ロシア公使館附武官
- 1904年(明治37年)2月 - 軍令部出仕
- 4月 - 佐世保海兵団長
- 1905年(明治38年)1月 - 兼佐世保鎮守府附
- 2月 - 元山防備隊司令官
- 9月 - 海軍少将
- 11月 - 待命
- 1906年(明治39年)11月 - 休職
- 1914年(大正3年)3月1日 - 後備役[10]
- 1918年(大正7年)5月12日 - 退役[11]
系譜
[編集]- 父:米津政明(1830年 - 1899年)
- 母:不詳
- 養父:酒井忠発
- 妻:辰(1868年4月 - 不明) - 栗田正直養女
- 長男:酒井忠二郎(1889年5月 - 不明)
- 長女:恵子(1891年3月 - 1960年)- 東京女子高等師範学校附属高校卒業、板倉勝貞妻。
- 次男:酒井忠三郎(のち忠礼)(1892年10月 - 不明) - 慶応義塾大学理財科卒業、第一銀行員。
- 三男:酒井小三郎(1893年 - 不明)
- 四男:酒井清(1895年3月 - 不明)- 東京大学法学科卒業。
- 次女:敏子(1898年 - 不明)- 学習院女学院専修科卒業、西尾寿造の妻。
- 三女:利子(1898年3月 - 不明)- 内閣官僚大達茂雄の妻。
- 四女:歌子(1899年8月 - 不明)
- 五女:徳子(1901年 - 不明)
- 五女:千代子(1906年 - 不明)
栄典・授章・授賞
[編集]- 位階
- 1883年(明治16年)12月25日 - 従七位[12]
- 1886年(明治19年)11月27日 - 正七位[13]
- 1891年(明治24年)12月16日 - 従六位[14]
- 1898年(明治31年)3月8日 - 従五位[15]
- 1903年(明治36年)4月20日 - 正五位[16]
- 1906年(明治39年)12月27日 - 従四位[17]
- 勲章等
- 1889年(明治22年)11月22日 - 勲六等瑞宝章[18]
- 1894年(明治27年)11月24日 - 勲五等瑞宝章[19]
- 1895年(明治28年)
- 1899年(明治32年)5月9日 - 勲四等瑞宝章[22]
出典
[編集]- ^ 『大衆人事録 東京篇』「酒井忠利」
- ^ 『大衆人事録 東京篇』「酒井忠利」、『大正人名事辞Ⅱ 下巻』「酒井忠良」
- ^ 『大衆人事録 東京篇』「板倉勝豪」、「酒井忠利」
- ^ 『海軍兵学校物語』p.30,p.235
- ^ 『履入266 兵学校より酒井少尉補在校の義伺』
- ^ 『ロシヤにおける広瀬武夫』(下)p.150
- ^ 『官報』第2872号「叙任及辞令」1893年1月27日。
- ^ 『官報』第2887号「叙任及辞令」1893年2月16日。
- ^ 『官報』第7028号「叙任及辞令」1906年12月1日。
- ^ 『官報』第476号「彙報 - 陸海軍 - 後備役編入」大正3年3月3日。
- ^ 『官報』第1734号、大正7年5月16日。
- ^ 『官報』第183号「叙任」1884年2月12日。
- ^ 『官報』第1033号「叙任」1886年12月8日。
- ^ 『官報』第2541号「叙任及辞令」1891年12月17日。
- ^ 『官報』第4402号「叙任及辞令」1898年3月9日。
- ^ 『官報』第5937号「叙任及辞令」1903年4月21日。
- ^ 『官報』第7051号「叙任及辞令」1906年12月28日
- ^ 『官報』第1925号「叙任及辞令」1889年11月27日。
- ^ 『官報』第3430号「叙任及辞令」1894年12月3日
- ^ 『官報』第3676号「叙任及辞令」1895年9月28日
- ^ 『官報』第3838号・付録「辞令」1896年4月18日。
- ^ 『官報』第4754号「叙任及辞令」1899年5月10日。
参考文献
[編集]- アジア歴史資料センター「履入266 兵学校より酒井少尉補在校の義伺」(ref:C09100112400)
- 海軍歴史保存会『日本海軍史』(10巻)第一法規出版
- 鎌田芳朗『海軍兵学校物語』原書房、1979年。
- 島田謹二『ロシヤにおける広瀬武夫(上)』朝日選書、1976年。
- 島田謹二『ロシヤにおける広瀬武夫(下)』朝日選書、1976年。
- 外山操編『陸海軍将官人事総覧 海軍篇』芙蓉書房出版、1981年。ISBN 4-8295-0003-4。
- 帝国秘密探偵社『大衆人事録 東京篇』1939年。
- 『大正人名辞典Ⅱ下巻』東京図書センター。