中野信陽
中野 信陽 | |
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生誕 | 1856年2月4日 |
死没 | 1895年2月11日(39歳没) |
所属組織 | 大日本帝国海軍 |
軍歴 | 1879年 - 1895年 |
最終階級 | 海軍大尉 |
中野 信陽(なかの しんよう、1856年2月4日(安政2年12月28日)[1] - 1895年(明治28年)2月11日)は、日本の海軍軍人。日清戦争で戦死した海軍大尉である。
生涯
[編集]佐賀藩士。旧姓は副島。戊辰戦争における今市の戦いで討死した中野次郎助の後嗣。神奈川県知事などを務めた中野健明は義理の伯父にあたる。
攻玉社に学び、海兵士官学校へ進むが在校中に廃校となり、速成教育を受け卒業。酒井忠利、武富邦鼎らが同期生である[2]。1877年(明治10年)2月海軍少尉補。同時に運用、砲術などを学ぶため海軍兵学校への通学を命じられた。1879年(明治12年)9月、海軍少尉。「鳳翔」、「富士山」、「浅間」乗組みとして測量、砲術などの実務を学ぶ。1883年(明治16年)11月、中尉へ進級した。「龍驤」分隊長を経て、再度海兵通学を命じられ、在校中の1886年(明治19年)7月、大尉へ進級。12月に海兵の卒業証書を授与された[3]。同時に卒業証書を授与された大尉は3名おり、少尉として授与されたのが石橋甫、八代六郎、名和又八郎、伊地知彦次郎などである[4]。
「清輝」及び「葛城」各分隊長を経て、海軍大学校甲号学生2期を卒業。甲号学生はのちの甲種学生に相当するもので、同期にのちの「信濃丸」艦長・成川揆がいる。海兵の卒業クラスがない海大卒業生は、中野と海兵士官学校同期生・真崎宏治[2]の2名のみである[5]。 中野は砲術長適任詔書を授与された。
海兵教官、同監事などを務め「金剛」砲術長として斎藤七五郎ら海兵20期[6]の練習航海に参加。1894年(明治27年)6月にハワイへ入港し、日清戦争の開戦を迎えた。「金剛」は同地で在留邦人保護の任を果たして8月に日本へ戻り、西海艦隊旗艦となる。中野は同年11月に「天龍」副長に転じた。清国北洋艦隊は黄海海戦などで打撃を受けたが、威海衛を基地に抗戦を続けていた。連合艦隊は陸上砲台や残艦の攻撃を図り、「天龍」は第三遊撃隊の先導艦として威海衛攻撃に向かった。しかし劉公島砲台からの反撃を受け「天龍」は被弾。中野は戦死した。北洋提督・丁汝昌から降伏書がもたらされたのはその翌日のことであった[7]。
栄典
[編集]出典
[編集]- ^ 『海軍兵学校出身者戦死者芳影録』15頁
- ^ a b 『海軍七十年史談』pp,250-251
- ^ 『死者略伝 巻9』
- ^ 『海軍兵学校沿革』「明治19年12月23日」
- ^ 『陸海軍将官人事総覧 海軍篇』「海軍大学校卒業者名簿」
- ^ 『海軍兵学校物語』p.235
- ^ 『大海軍を想う』p.113
- ^ 『官報』第183号「叙任」1884年2月12日。
- ^ 『贈位諸賢伝 増補版 上』 特旨贈位年表 p.12
参考文献
[編集]- アジア歴史資料センター『死者略伝 巻9』(ref:C08040600700)
- 伊藤正徳『大海軍を想う』文藝春秋新社
- 海軍軍令部編『二十七八年海戦史』春陽堂
- 鎌田芳朗『海軍兵学校物語』原書房
- 実松譲『海軍大学教育』光人社NF文庫 ISBN 4-7698-2014-3
- 澤鑑之丞『海軍七十年史談』文政同志社
- 外山操編『日本陸海軍将官人事総覧 海軍篇』芙蓉書房出版
- 明治百年史叢書第74巻『海軍兵学校沿革』原書房