清輝
清輝 | |
---|---|
基本情報 | |
建造所 | 横須賀造船所[2] |
運用者 | 大日本帝国海軍 |
艦種 | 砲艦[3]、またはスループ[4] |
母港 | 横須賀(1886年12月28日時点)[5] |
艦歴 | |
発注 | 1873年2月10日[6] |
起工 | 1873年11月20日[7] |
進水 | 1875年3月5日[2][8] |
竣工 | 1876年6月20日[9]、または6月21日[10] |
最期 | 1888年12月7日、触礁破壊[7] |
要目 | |
排水量 |
897 英トン[4] または898英トン[11] |
トン数 | 489 トン[11] |
長さ | 211 尺86[11](64.200 m) |
垂線間長 | 61.150 m[4] |
幅 |
30尺756[11](9.320m) または9.300 m[4] |
深さ | 16尺93[11](5.130m) |
吃水 | 13尺365[11](4.050 m[4]) |
ボイラー | 片面戻火缶(または円缶[2])×2基[3] |
主機 | 横置2段3気筒還働式レシプロ×1基[3] |
推進 |
青銅製4翼[12] スクリュー・プロペラ[11] 1軸[13] 直径:14 ft 10 in (4.521 m)[12] ピッチ:11 ft 2 in (3.404 m)[12] |
出力 |
720実馬力(180名馬力)[11] または700実馬力[3] |
帆装 |
3檣バーク型[11] 帆面積:6,699平方フィート (622.4 m2)1[13] |
速力 | 9.6ノット (17.8 km/h)[3][14] |
燃料 |
炭団:218,400斤[11](約168.4英トン) または130ロングトン (132 t)[13] |
航続距離 |
1,676海里 (3,104 km)[13] 燃料消費:31,900斤/日[11] または28,000斤(21.6英トン)/日[2] |
乗員 |
士官21名 兵員119名 雇人19名 合計159名[14] 1875年:136名[11] 1876年6月時定員:236名[15] |
兵装 |
15cmクルップ砲 1門 12cmクルップ砲 4門 16斤アームストロング砲 1門 短4斤山砲 2門[2] |
搭載艇 | 最終時:5隻[16] |
その他 | 船材:木材[11] |
清輝 (せいき) は、日本海軍の軍艦[7]。清輝は「輝く清い光」の意味で[17]、易経に「輝光日新其徳」とあるという[7]。
概要
[編集]明治維新後の初めての国産軍艦として横須賀造船所で建造された(それまでの建造艦船は何れも運送船や御召船などになる)[17]。設計はフランス人技術者レオンス・ヴェルニー、建造は日本人の職工であった[14]。また日本艦船として初めてヨーロッパへ遠征したことでも特筆すべき艦である[17]。
艦型
[編集]3檣バーク型[11]の砲艦[3]、またはスループ[4] になる。
機関
[編集]日本で製造された機関の中で初めて2段膨張式機械を備えた[3]。ボイラーは片面戻火缶(または円缶[2])2基を備えた[3]。蒸気圧力は45ポンド/平方インチ[19]。また触面復水器が設置された[2]。
1876年11月29日の試運転届出によると、回転数60rpmで速力8ノット、75rpmで11.2ノットを記録した[2]。
1886年頃、新しいボイラーに換装した[3]。
要目
[編集]船体主要寸法については、文献によって色々な単位で数値が残されている。右表の寸法は主に『海軍省報告書』の値となる[11]。他の文献の値も以下に示す。
出典 | 海軍省報告書[11] | 大日本軍艦帖(1894)[4] | 帝国海軍機関史(経歴)[20] | 帝国海軍機関史(沿革)[21] |
---|---|---|---|---|
長さ | 211尺86(64.200m) | 61.150m | 60.07m(36間5尺)* | 垂線間長:200 ft 7+1⁄2 in (61.151 m) |
幅 | 30尺756(9.320m) | 9.300m | 9.032m(5間7寸)* | 30 ft 6 in (9.296 m) |
深さ | 16尺93(5.130m) | |||
吃水 | 13尺365(4.050m) | 4.050m | ||
排水量 | 898トン | 897噸 | 897噸 |
- 括弧内はmに変換した値。ただし*の値は記載のママを転載。
艦歴
[編集]建造
[編集]当時の主船頭が2,600噸の木造軍艦の製造をヴェルニーに命じたが[13][注釈 1]、 資材不足のため計画を改めた[17]。最終的に「清輝」(897トン)と「天城」(926トン) が建造されたと言われる[17]。1873年(明治6年)2月10日、ヴェルニーに対し排水量800英トン、出力180馬力、大砲5門の艦の設計が命じられた[6]。11月20日、横須賀造船所にて起工[7]。12月4日、新造の180馬力艦は「清輝」と命名された[22]。1875年(明治8年)3月5日、明治天皇臨席の下、「清輝」は進水した[8]。
10月15日付で井上良馨少佐が艦長に任命された[23]。10月28日、日本周辺を東部と西部に分け、東部指揮官には中牟田倉之助少将、西部指揮官には伊東祐麿少将が任命され[24]、10月31日、「清輝」は東部指揮官所轄予定[23]となった[24]。
1876年(明治9年)6月20日 (または21日[2]) に「清輝」は竣工した[9]。
1870年代
[編集]1876年(明治9年)奥羽巡幸が行われ、「清輝」(竣工前) は5月25日に横浜港を出港、青森港に回航していた[25]。6月6日、「春日」と「清輝」「高雄丸」が奥羽巡幸の護衛として青森を出港した[25]。6月27日、「清輝」は常備艦とされた[25]。8月1日、入渠してボイラーなどを修理した[2]。10月30日に再入渠し[26]、スクリュー翼の折損を修理した[27]。11月6日に出渠し[28]、11月29日に試運転の結果が報告されている[29][30]。
1877年(明治10年)1月12日スクリュー翼1枚を失ったため、横須賀で修理したいと申し出があり[30]、1月16日に横須賀港へ入港し[31]、同日入渠した[32]。1月19日に出渠し横浜に回航した[33]。1月24日から同27日にかけて、明治天皇の大和行幸に供奉艦として横浜から神戸まで同行した[17][34]。
鹿児島の情勢不安(後に西南戦争)のため[17]、2月13日22時、「春日」と「清輝」は神戸港を出港し、鹿児島に向かった[35]。2月21日、熊本で偵察のため上陸した士官・兵が攻撃され7名が死亡した[36]。3月26日、長崎で機関部の修理の届出があった[30]。修理は4月4日に完了した[30]。9月1日、下関で機関が故障し、同地に午後8時投錨、翌2日に博多港に寄港した[30]。9月5日、長崎港に回航し、修理と決定した[30]。同月、城山の戦いに参加[37]。「清輝」は10月10日午前1時30分に横浜港に帰港した[38][39][40]。
10月29日、横浜港から横須賀港に回航し[41]、修理を受けた[42]。この当時は各港に常備艦を置いており、そのため損傷からの修理が増加して現用の艦が「春日」1隻になってしまった[43]。そのため「清輝」の修理が急がれ[42]、12月26日に出渠した[44]。
ヨーロッパ遠征
[編集]1878年(明治11年)から翌1879年(明治12年)にかけて「清輝」はヨーロッパ遠征を行った[14][45]。
1877年12月14日、欧州回航が命ぜられ[30]、翌1878年1月17日14時45分に横浜を出港した[46][47]。金田湾 - 下田 - 長崎を経て日本を離れ、香港(2月3日)、シンガポール(2月17日)、コロンボ(3月1日)、アデン(3月18日)、エジプト(3月29日スエズ~同30日イスメリヤ~同31日ポートサイド)へ寄港し、4月13日からマルタ島の造船所で修理を受けた[46][48]。
5月4日にマルタ島を離れ、シチリア島(5月4日シラキュース~同7日メッシーナ)、イタリア本土(5月10日ナポリ~同18日ラ・スペツィア~同20日ジェノバ)、フランス(5月24日ツーロン~同29日マルセイユ)、イベリア半島(6月5日バルセロナ~同9日カルタヘナ~同12日ジブラルタル~同15日リスボン~同20日フェロル)、イギリス(6月26日プリマス~7月4日ポートランド~同6日ポーツマス~同18日グリーンハイス)に寄港した[48]。「清輝」乗組の川村正介少尉はイギリスで退艦し、3年間の自費留学を行った[49]
7月29日にイギリスを発ち、フランスのセルフル(7月30または31日)[46]、ジブラルタル(8月21日)を巡り[48]、8月26日にツーロンに再寄港して修理を受け[46]、イタリアとシチリア島(10月3日ジェノバ~同8日ナポリ~14日パレルモ~同18日メッシーナ)を巡り、10月20日にマルタ島バレッタに寄港し、ここでスクリュー翼1枚の交換などの修理を行った[48][46]。修理完了後はトルコの各地(11月3日ベシカベー~同4日チャナク~同6日ガリボリ~同7日アルタッキ~11月9日コンスタンティノープル)を訪れた[48]。
以後帰国の途につき、チャナク、ポートサイド、グレートビター湖、スエズを経由し12月8日にアデン着[48]。12月26日ボンベイに到着し[48]、翌年1月6日より同地でで上甲板の修理を受けた[46]。1月11日にボンベイを発し、コロンボ(1月17日)、ポイントデガール(1月21日)、ベナン(1月31日)、シンガポール(2月6日)、マニラ(3月2日)、ランマ島西湾(3月9日)、香港(3月10日)、厦門(3月21日)を経て3月29日に長崎へ帰国した[50][46]。
4月4日に長崎を発し、大辺浦、神戸、鳥羽に寄港し[50]、4月18日横浜に帰港した[50][46]。4月23日、品川に帰着した[50]。
5月19日、品川から横須賀に回航した[50]。6月21日に横浜に回航、6月23日に艦隊訓練を行い、横須賀に戻った[50]。8月26日、品海に回航した[50]。9月18日、横須賀に回航した[50]。
9月10日(または9月12日[51])、「清輝」は修復艦と定められ[46]、9月22日より横須賀造船所で修理が開始され[52][53]、9月30日にボイラーが陸揚げされた[21]。1881年(明治14年)7月7日に修理は完了した[54]。
1880年代
[編集]1881年(明治14年)7月1日、造船所所轄修復艦の「清輝」は東海鎮守府常備艦とされた[55]。 7月28日、「清輝」は横須賀港を出港し、兵庫港を経て、8月7日に朝鮮の釜山港に到着した[56]。以降、仁川と豊島に寄港し、対馬・厳原を経て9月12日に竹敷に回航された[56]。9月14日、竹敷から釜山に移動し、10月2日に長崎へと回航され[56]、長崎工作分局で10月9日から10月15日まで修理を受けた[54]。 10月24日、長崎を出港し、元山津~松田湾~内湖湾~元山津と回航し、12月3日に釜山港へ入港[56]。12月18日より統営、絶景島西岸、釜山を回航した[56]。12月25日に長崎へ入港した[56]。
1882年(明治15年)1月27日、釜山、巨文島、仁川を回り、2月26日に仁川へ戻る[56]。3月14日仁川を出港、3月16日に釜山に到着し、釜山沖で射撃訓練を行った[56]。3月25日、帰国して長崎工作分局で修理を受け[54]、4月14日に出港し、彦島、門司、伊予ヲベハト、兵庫港に寄港し、5月1日に横浜港に寄港した[56]。5月17日から6月9日まで横須賀造船所で修理を受けた[54]。
8月9日に横須賀港を出港し、神戸、門司を経て8月16日に仁川港に入る[57]。8月22日、豊浦~牙山浦~南陽と回航し、仁川港に戻った[57]。8月31日から9月2日にかけて南陽~豊浦を回航し仁川に戻る[57]。9月10日から14日にかけて豊浦~芝罘を回り、仁川に戻る[57]。9月19日に仁川を発ち、門司に帰国[57]。兵庫を経て10月5日に品川に帰着した[57]。11月7日から横須賀造船所で修理を受け[58]、翌年5月21日に完了した[59]。7月2日に試運転の成績が報告された[60]。
中艦隊
[編集]同年(1882年)10月12日「扶桑」「金剛」「比叡」「龍驤」「日進」「清輝」「天城」「磐城」「孟春」「第二丁卯」「筑波」の11隻で中艦隊が再度編成された[61]。
1883年(明治16年)4月19日、機関学校生徒1名が実地演習のために「清輝」に乗組み、12月まで乗務した[62]。7月6日、「清輝」は品川を出港して館山湾に回航、同地で大砲射撃を行った[63]。その後、浦賀~鳥羽~兵庫~厳島湾~門司を経由し、8月24日に仁川港に到着した[63]。9月19日から10月16日にかけて、長崎港~平戸河内湾に回航し、仁川に戻った[63]。11月16日に仁川を発ち、長崎を回航して12月14日に釜山港に入る[63]。12月20日、仁川を目指して出港したが暴風の為に前に進めず、12月24日、伊万里に到着した[63]。12月28日に伊万里から長崎に回航した[63]。
常備小艦隊
[編集]1885年(明治18年)12月28日中艦隊は解隊[64]、同日「春日」を除く中艦隊に所属していた8隻(「扶桑」「金剛」「比叡」「海門」「筑紫」「清輝」「磐城」「孟春」)で改めて常備小艦隊が編成された[64]。
1886年(明治19年)8月7日「清輝」は常備小艦隊から除かれ[65]、 12月28日横須賀鎮守府所轄常備艦に指定された[5]。
最後
[編集]1888年(明治21年)12月7日午前2時頃、駿河湾にて触礁[18]。12月10日午後2時頃、船体が破壊された[18]。
艦長
[編集]※『日本海軍史』第9巻・第10巻の「将官履歴」及び『官報』に基づく。
- 井上良馨 少佐:1875年10月15日[24] - 12月15日
- 井上良馨 少佐:1876年3月22日[66] - 1879年8月19日
- 磯辺包義 少佐:1880年6月17日 - 1882年8月3日
- 磯辺包義 中佐:1882年8月6日 - 1883年3月2日
- 隈崎守約 中佐:不詳 - 1884年6月16日
- 伊地知弘一 少佐:1884年6月16日 - 1885年6月22日
- 野村貞 少佐:1885年6月22日 - 1886年4月12日
- 松岡方祇 少佐:1886年4月12日 - 8月4日
- 河原要一 少佐:1886年12月28日 - 1887年10月27日
- 田尻唯一 少佐:1887年10月27日[67] -
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ #日本近世造船史明治(1973)p.293によると1873年(明治6年)2月。
出典
[編集]- ^ 日本海軍全艦艇史 1994, p. 上490.
- ^ a b c d e f g h i j 帝国海軍機関史 1975, p. 上482.
- ^ a b c d e f g h i 帝国海軍機関史 1975, p. 上486.
- ^ a b c d e f g 大日本帝国軍艦帖 1894, p. 17.
- ^ a b #M19公文類聚15/大和艦外四艦々隊編入及所轄ヲ定ム。
- ^ a b 横須賀海軍船廠史 1973, p. 1巻227.
- ^ a b c d e 艦船名考 1928, pp. 39–40.
- ^ a b #M1-M9海軍省報告書画像62-63、明治8年3月。
- ^ a b 横須賀海軍船廠史 1973, p. 2巻60.
- ^ 帝国海軍機関史 1975, p. 482, 上巻.
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p #M1-M9海軍省報告書画像74-75、明治八年艦船総数表
- ^ a b c 帝国海軍機関史 1975, p. 上491.
- ^ a b c d e #日本近世造船史明治(1973)pp.293-294
- ^ a b c d 大井昌靖『初の国産軍艦「清輝」のヨーロッパ航海』芙蓉書房出版、2019年。ISBN 978-4-8295-0753-7
- ^ #M1-M9海軍省報告書画像108-109、艦船表(明治9年6月30日現在)
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- ^ a b c d e f g 片桐 2014, pp. 197–198.
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参考文献
[編集]- アジア歴史資料センター(公式)
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- 「往入117 清輝艦甲板鑿の為入湾の件横須賀造船所届」『公文類纂 明治10年 前編 巻12 本省公文 艦船部2』、JACAR:C09112324100。
- 「往出1557 春日并右2艦横浜帰港の件 太政官へ御届」『公文類纂 明治10年 後編 巻14 本省公文 艦船部』、JACAR:C09112499400。
- 「衝突触礁(3)」『明治22年 公文備考 演習 艦船 水路 巻3』、JACAR:C06090881500。
- 浅井将秀 編『日本海軍艦船名考』東京水交社、1928年12月。
- 大井昌靖『初の国産軍艦「清輝」のヨーロッパ航海』芙蓉書房出版、2019年。ISBN 978-4-8295-0753-7
- 海軍省/編『海軍制度沿革 巻四の1』 明治百年史叢書 第175巻、原書房、1971年11月(原著1939年)。
- 海軍歴史保存会(編)『日本海軍史 第1巻 通史第一・二編』海軍歴史保存会、1995年
- 海軍歴史保存会『日本海軍史』第7巻、第9巻、第10巻、第一法規出版、1995年。
- 片桐大自『聯合艦隊軍艦銘銘伝』光人社、1993年。
- 片桐大自『聯合艦隊軍艦銘銘伝<普及版> 全八六〇余隻の栄光と悲劇』潮書房光人社、2014年4月(原著1993年)。ISBN 978-4-7698-1565-5。
- 『大日本帝国軍艦帖』共益商社書店、1894年。
- 造船協会 編『日本近世造船史 明治時代』 明治百年史叢書、原書房、1973年(原著1911年)。
- 日本舶用機関史編集委員会 編『帝国海軍機関史』 明治百年史叢書 第245巻、原書房、1975年11月。
- 福井静夫『写真 日本海軍全艦艇史』ベストセラーズ、1994年。ISBN 4-584-17054-1。
- 横須賀海軍工廠 編『横須賀海軍船廠史』 明治百年史叢書 第170巻、原書房、1973年3月(原著1915年)。
- 『官報』
関連項目
[編集]- 千代田形 - 幕末に江戸幕府が建造した日本初の国産蒸気軍艦。