コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

磯辺包義

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
磯辺包義

磯辺 包義(いそべ かねよし、1842年7月30日天保13年6月23日[1][2][3] - 1917年大正6年)6月4日[4][5][3][6])は、明治から大正時代前期の大日本帝国海軍軍人政治家。最終階級は海軍少将貴族院勅選議員。幼名は虎之助[1][6]

経歴

[編集]

熊本藩士磯辺謙叟の長男として、豊後国大分郡鶴崎村(鶴崎町、鶴崎市を経て、現在の大分市鶴崎)に生まれる[1]1856年(安政3年)5月、家督を相続する[2]。のち本籍を東京府に置いた[4]。幼年より海軍を志し、1868年(明治元年)「摂津艦」乗組となり、翌年艦長代理に進んだ[1]。ついで「飛龍丸」艦長を経て[2]1871年(明治4年)海軍大尉に進み、「千代田形」艦長となる[7]。間もなく「第一丁卯」艦長に転じ、1873年(明治6年)「大坂丸」艦長を経て、1874年(明治7年)4月[5]、少佐に進んだ[8]。さらに翌年の1875年(明治8年)「春日丸」艦長に転じ、1877年(明治10年)西南戦争で軍功を挙げ、1880年(明治13年)「清輝」艦長に補され、中佐に進級する[8]

1882年(明治15年)「迅鯨」艦長を経て、1883年(明治16年)海軍省規程局出勤を発令され、1884年(明治17年)「海門」艦長となる[8]1885年(明治18年)横須賀屯営長兼予備艦総理、1886年(明治19年)「金剛」艦長を経て、同年4月[5]、大佐に進んだ直後の6月に[5]浪速」艦長を発令され、1888年(明治21年)4月[5]、「高千穂」艦長兼常備小艦隊参謀長、1889年(明治22年)4月[5]、佐世保軍港司令官兼佐世保鎮守府造船部長に任ぜられた[8]

翌年の1890年(明治23年)9月[5]フランスにて起工した「厳島」の回航事務取扱委員長となり、竣工とともに初代艦長となった[8]1891年(明治24年)5月からのフランス出張ののち、同年11月に帰朝すると、呉軍港司令官に転じ、1893年(明治26年)5月26日[5][3]、海軍少将に進み、同時に予備役編入となった[8]。この間、軍法会議判士長などを務めた[4]

予備役編入後の同年、日本郵船取締役に推挙され、さらに1896年(明治29年)1月31日[5]、貴族院議員に勅選された[9]。ほか、摂津航業社長を務めた[6]。その後、1900年(明治33年)後備役に編入し、1905年(明治38年)退役した[9]。晩年は神奈川県足柄下郡小田原町十字(現在の小田原市)に住んだ[1]。貴族院議員在任中に死去した[10]

栄典

[編集]
位階
勲章等

親族

[編集]

脚注

[編集]

参考文献

[編集]
  • 大分県人士録』大分県人士録発行所、1914年https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/908965 
  • 人事興信所 編『人事興信録 第4版』人事興信所、1915年https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1703995 
  • 衆議院、参議院 編『議会制度七十年史 第1』大蔵省印刷局、1960年https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3034963 
  • 外山操 編『陸海軍将官人事総覧 海軍篇』芙蓉書房出版、1981年。ISBN 4829500034 
  • 福川秀樹 編著『日本海軍将官辞典』芙蓉書房出版、2000年。ISBN 482950272X 
  • 上田正昭ほか 監修『講談社日本人名大辞典』講談社、2001年。ISBN 4062108496