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飛龍丸

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
飛龍丸
基本情報
建造所 (アメリカニューヨーク[1])
艦種 運送船[2]
建造費 買価:83,000ドル(小倉藩)[3]
艦歴
竣工 1858年[4]
または元治元年[5](1864年[1])
就役 1865年小倉藩購入[3]
その後 1871年にイギリス人へ交付[6]
要目([注釈 1]
排水量 380英トン[3]
トン数 1,700[5]
明治4年時:約591トン[7]
長さ 170 ft (51.82 m)[4]
または26.5間[1](約48.2m)
あるいは全長:160尺[2](48.49m)
27 ft (8.23 m)[4]
または5間[1](約9.10m)
あるいは27尺[2](8.18m)
吃水 12尺[2](3.64m)
推進 スクリュー[8][1]
出力 90馬力[4][1]
または75実馬力[2]
帆装 2[8][2]
燃料 炭団:300,000[2]
航続距離 燃料消費:17,000斤/日[2]
乗員 慶応4年6月8日総員:76名[9]
兵装 第二次長州征伐時:砲 2門[10]
戊辰戦争時:砲[11]
その他 船材:[4]
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飛龍丸(ひりょう[12]まる)は、小倉藩江戸幕府及び日本海軍(軍務官直轄[4]兵部省所管[13])の運送船[5][6](運輸船[4])。

飛龍は「上空を行く」のこと[12]。 龍が空を飛ぶ時は雲を起こし雨を降らす徳があるという[3]。 『易経』の乾掛に「飛龍在天利見大人」の句がある[3]

船歴

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小倉藩時代

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元は1858年(安政5年)[4]、 または1864年に建造された[1] 木造汽船[4] アメリカ商船PROMISE[6](プロミス[3]) [注釈 2]慶応元年(1865年)にイギリス人から小倉藩が83,000ドルで購入して飛龍丸と命名した[3]

二檣の帆装と蒸気機関を有し、推進装置スクリュープロペラ方式であった[8]。 蒸気の昇騰には時間を要したが、速力は速く、行動は俊敏だったという[10]

第二次長州征伐

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元来商船であったが、第二次長州征討に際して小倉藩砲術方・門田栄の献策により砲2門を搭載[10]。船将・丹村六兵衛の指揮で慶応2年(1866年)7月(旧暦、以下同様)の門司・赤坂の戦いに参戦し[14]、上陸した長州軍勢への砲撃や、長州側策源地と見られた彦島への砲撃を行っている[10][15]。 この戦いに参戦した幕府所属艦(富士山丸回天丸等)は総指揮官の老中・小笠原長行が陸上砲台との交戦の不利を回避する姿勢だったのに対し、自領に侵攻されている小倉藩は独自に本船を使用して機動的に反撃を実施した。幕府所属艦の艦長らから本船に対し、命令に従うよう申し入れがなされるほどだったという[16]

第二次長州征討の敗戦により小倉藩は極度の財政難に陥り、本船の修理費・年賦購入代金残金を負担できなくなったことから、小倉藩は本船を幕府に献上し、これらの費用も幕府が代わって負担することとなった[17][18]。幕府側では80,000ドルで購入として取り扱われた[3][1]

江戸幕府時代

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江戸幕府は慶応3年6月29日(1867年)に長崎で受領[1]御用船として使用した。その後、摂津国嘉納屋次郎作に貸与し、後に払い下げられた。更にそれを仙台藩借用して使用した[6]

明治政府時代

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戊辰戦争

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慶応4年5月23日(1868年7月12日)[3]浦賀新政府軍に捕獲され、軍務官が嘉納屋次郎作から借用した形で使用された[6]。 同年8月(新暦9月から10月)に購入[6]、 運送船に編入された[3]。 同年から翌年の戊辰戦争に参加し[6]、 明治元年9月18日(1868年11月2日)に富士山武蔵飛龍丸清水港咸臨丸を捕獲した[19][20]。 翌明治2年3月8日(1869年4月19日)、甲鉄陽春丸春日丸飛龍丸第一丁卯戊辰丸晨風丸豊安丸の7隻が品川を出港、函館へ向かった[21]明治2年4月9日(1869年5月20日)の北海道乙部(音部)への上陸戦では陸兵250名を輸送した[22]。更に陸兵増派のために青森との間を航行していたが同年4月12日(新暦5月23日)には福山の海岸砲台から攻撃を受けた。本船に被害は無く、搭載砲で反撃している[11]

その後

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『日本近世造船史 明治時代』によるとその後山口藩熊本藩に管理させた[4]明治5年(1872年)の時点で「明治元年の春夏頃に山口藩の預けた」という記録の写しが海軍省に残っていないという[23]

明治3年

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明治3年5月(1870年6月頃)にイギリス海軍のシルビア号が南海を測量することになり日本側からは第一丁卯が測量艦として行動[24]、 そのための石炭300,000の輸送に飛龍丸が使用された[25]。 同年7月(新暦8月頃)、開拓使からの要請で樺太まで航海することになり[26]、 10月2日(1870年11月13日)午後8時15分品海に帰港した[27]。 この10月(新暦11月頃)の時点で船体の腐敗などで修理が必要との申し出が船長から出された[28]

明治4年

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明治4年1月(1871年2月から3月)、横須賀に回航しドック入りし修理の予定だった[29]。 15日(新暦3月5日)昼から機関を起動したが運転できなかった[30]。 16日(新暦3月6日)夕方に再試行したところ運転が出来、直ちに出港[31]、 17日(新暦3月7日)午前1時30分、横須賀に到着[32]、 24日(新暦3月14日)修船架に引き揚げられた[33]。 修理には甲板等を全て取り払う必要があり、莫大な修理費が掛かるとされた[34]

同年7月12日(1871年8月27日)に「東京丸」の購入代金(60,000円+飛龍丸飛隼丸行速丸の3隻で80,000円相当[35])の一部としてイギリス人に交付された[6]。 その後アメリカ人所有となりYOKOHAMA-MARUと改名された[6]。 明治6年(1873年)に再び日本に売られたという[3]

船長

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船長
  • 岡啓三郎:慶応4年6月8日時[9]
船将
  • 岡正忠(啓三郎):明治2年3月8日時[21]
船長

脚注

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注釈

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  1. ^ 『日本海軍史 第7巻』によると排水量1,700トン、長さ53.0m、幅8.4m、90馬力。
  2. ^ #M1-M9海軍省報告書画像7、明治元年戊辰艦船総数では原名ウィンドラスッコ、製造1856年となっている。
  3. ^ #M1-M9海軍省報告書画像14-15によると、明治3年12月19日(1871年2月8日)から。

出典

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  1. ^ a b c d e f g h i #海軍歴史23船譜(1)画像4、政府洋製諸船
  2. ^ a b c d e f g h #M1-M9海軍省報告書画像7、明治元年戊辰艦船総数表
  3. ^ a b c d e f g h i j k #銘銘伝(2014)pp.184-185
  4. ^ a b c d e f g h i j #日本近世造船史明治(1973)p.172
  5. ^ a b c #近世帝国海軍史要(1974)p.883
  6. ^ a b c d e f g h i 中川努「主要艦艇艦歴表」#日本海軍全艦艇史資料篇p.32飛龍(初代)『ひりょう』
  7. ^ #M4公文類纂26/東京丸御買入の件弁官再申出画像13、売渡証書。
  8. ^ a b c 北九州市立歴史博物館所蔵の本船の絵画(『豊前市史 上巻』1034頁掲載)による。
  9. ^ a b #M1公文類纂拾遺/兵部省書類鈔録 飛龍艦乗組人員調画像1、士官9名、外に水夫賄方小使共67人。
  10. ^ a b c d 『愁風小倉城』214頁、235頁。
  11. ^ a b 『補訂 戊辰役戦史』下巻780頁。
  12. ^ a b #艦船名考(1928)p.15「飛龍 ひりよう Hiryô.」
  13. ^ #日本近世造船史明治(1973)p.190
  14. ^ 『北九州市史 近世』896-901頁。
  15. ^ 『小倉藩の終焉と近代化』23頁。
  16. ^ 世界の艦船』2007年9月号(NO.679)114-117頁。
  17. ^ 『小倉藩の歴史ノート』154頁。
  18. ^ 『北九州の歴史』154頁。
  19. ^ #明治元年兵部省書類鈔録1/東海道報知記 10月9日 戊辰 軍務官画像1-3
  20. ^ #M1-M9海軍省報告書画像4-6、明治元年戊辰(慶応4年9月8日改元)軍防事務局 軍務官。
  21. ^ a b #M1-M9海軍省報告書画像8-9、明治二年己巳 軍務官 兵部省、3月。
  22. ^ 『補訂 戊辰役戦史』下巻745頁。
  23. ^ #M5公文類纂25/山口藩へ御貸付飛竜艦達文廻送の件他1件画像3、明治5年8月2日丙1019号「戊辰春夏之比飛龍艦山口藩エ御預相成候御達全文当省記録ニ有之候ハ丶写取迅速可差出旨様知致候右取調候所書留無之候此段御回答申進候也 申八月二日 海軍省 史官御中 追テ飛龍艦ハ飛龍丸ニ可有之候也」
  24. ^ #M3公文類纂9/南海測量として英国軍艦一同被差越旨御達画像3
  25. ^ #M3公文類纂9/飛龍丸にて測量用の石炭差送云々画像1-2
  26. ^ #M3公文類纂9/樺太辺に被差越旨飛龍丸へ達画像1「飛龍丸 御用有是樺太辺江被差越候事 庚午七月十九日 兵部省」。#M3公文類纂9/右一応返却の儀開拓使へ掛合画像1、「過日巳未御掛合有之候樺太運航入費調飛龍丸之分調相付装総艦御廻シ申候也ハ未タ取調中ニ付追テ相廻シ可申候此段申入候也 庚午七月廿日 兵部省 開拓使御中 別紙飛龍取調書相副差廻シ候事」。
  27. ^ #M3公文類纂9/飛龍丸品海着艦届画像1「飛龍丸今二日午後八字十五分品海着仕候猶明日参省委細可申上候得トモ不取敢此段御達仕候以上 庚午十月二日 船長磯部乕之助 兵部省」
  28. ^ #M3公文類纂10/飛龍丸損所の義に付同船長より申出画像1-5、飛龍丸損所目的。
  29. ^ #M4公文類纂25/飛龍丸修復廉等申出画像9、「御省管轄ドック此度御開ニ付飛龍丸為修復差廻シ候間損所御改之上修復之義宜御頼申上候也 辛亥正月十三日 兵部省 工部省御中」
  30. ^ #M4公文類纂25/飛龍丸修復廉等申出画像15-16、海軍所届留第11号、第10号。
  31. ^ #M4公文類纂25/飛龍丸修復廉等申出画像19
  32. ^ #M4公文類纂25/飛龍丸修復廉等申出画像23、海軍所届留第15号、第14号。
  33. ^ #M4公文類纂25/飛龍丸修復廉等申出画像27、海軍所届留第18号、第17号。
  34. ^ #M4公文類纂25/飛龍丸修復廉等申出画像31-32。
  35. ^ #M1-M9海軍省報告書画像18、明治4年7月。
  36. ^ #M1-M9海軍省報告書画像9、明治二年己巳 軍務官 兵部省、6月。
  37. ^ 『日本海軍史』第9巻、665頁。

参考文献

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  • アジア歴史資料センター(公式)(防衛省防衛研究所)
    • 『記録材料・海軍省報告書第一』。Ref.A07062089000。 (国立公文書館)
    • 『明治元年 公文類纂 拾遺完 本省公文/兵部省書類鈔録 飛龍艦乗組人員調』。Ref.C09090004000。 
    • 『公文類纂 明治3年 巻9 本省公文 艦船部/諸達並雑記 7月 樺太辺に被差越旨飛龍丸へ達』。Ref.C09090113100。 
    • 『公文類纂 明治3年 巻9 本省公文 艦船部/神祇 集議 開拓 大学 往復 7月 右一応返却の儀開拓使へ掛合』。Ref.C09090113300。 
    • 『公文類纂 明治3年 巻9 本省公文 艦船部/諸届 10月 飛龍丸品海着艦届』。Ref.C09090115900。 
    • 『公文類纂 明治3年 巻9 本省公文 艦船部/ 外務省神奈川県往復 5月 南海測量として英国軍艦一同被差越旨御達』。Ref.C09090119200。 
    • 『公文類纂 明治3年 巻9 本省公文 艦船部/海軍往復 5月 飛龍丸にて測量用の石炭差送云々石田鼎蔵外2名へ文通』。Ref.C09090120500。 
    • 『公文類纂 明治3年 巻10 本省公文 艦船部/諸願伺 10月 飛龍丸損所の義に付同船長より申出』。Ref.C09090130700。 
    • 『公文類纂 明治4年 巻25 本省公文 艦船部/海軍願伺 飛龍丸修復廉等申出』。Ref.C09090395300。 
    • 『公文類纂 明治4年 巻26 本省公文 艦船部/弁官諸達 東京丸御買入の件弁官再申出』。Ref.C09090403800。 
    • 『公文類纂 明治5年 巻25 本省公文 艦船部2止/甲2号大日記 史官申入 山口藩へ御貸付飛竜艦達文廻送の件他1件』。Ref.C09110655700。 
    • 『海軍創業之際兵部省書類鈔録1 明治元年慶応4年戊辰2月より/東海道報知記 10月9日 戊辰 軍務官』。Ref.C11081515100。 
    • 『海軍歴史 巻之23 船譜(1)』。Ref.C10123646500。 (勝海舟『海軍歴史』巻23。)
  • 大山柏『補訂 戊辰役戦史』時事通信社、1988年。 ISBN 4-7887-8840-3
  • 小田富士雄、有川宜博、米津三郎、神崎美夫『北九州の歴史』葦書房、1979年。
  • 海軍有終会/編『近世帝国海軍史要(増補)』 明治百年史叢書 第227巻、原書房、1974年4月(原著1938年)。 
  • 海軍歴史保存会『日本海軍史』第7巻、第9巻、第一法規出版、1995年。
  • 片桐大自『聯合艦隊軍艦銘銘伝<普及版> 全八六〇余隻の栄光と悲劇』潮書房光人社、2014年4月(原著1993年)。ISBN 978-4-7698-1565-5 
  • 北九州市史編さん委員会『北九州市史 近世』 1990年。
  • 造船協会/編『日本近世造船史 明治時代』 明治百年史叢書 第205巻、原書房、1973年(原著1911年)。 
  • 玉江彦太郎『小倉藩の終焉と近代化』西日本新聞社、2002年。
  • 原田茂安『愁風小倉城』自由社会人社、1960年。
  • 福井静夫『写真 日本海軍全艦艇史』ベストセラーズ、1994年。ISBN 4-584-17054-1 
  • 豊前市史編纂委員会『豊前市史 上巻』 1991年。
  • 米津三郎『小倉藩の歴史ノート』美夜古郷土史学校、1977年。

関連項目

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