ディフェンス (装甲巡洋艦)
ディフェンス | |
艦歴 | |
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発注 | 1904-05年海軍計画 |
起工 | 1905年2月25日 |
進水 | 1907年4月24日 |
就役 | 1909年2月9日 |
退役 | |
その後 | 1916年5月31日ユトランド沖海戦で戦没 |
除籍 | |
性能諸元 | |
排水量 | 14,600 トン |
全長 | 490.0 ft(149.4 m) |
全幅 | 74.5 ft(22.7 m) |
吃水 | 26 ft(7.9 m) |
機関 | ヤーロー式水管缶24基 4気筒三段膨張式機関2基2軸 27,000 hp |
最大速 | 22.9ノット |
乗員 | 903名(士官54名、下士官兵849名) |
兵装 | 9.2インチ(234 mm)砲4門(連装2基) 7.5インチ(191mm)砲10門 12ポンド砲16門 18インチ(457mm)魚雷発射管5門 |
ディフェンス (HMS Defence) は、1907年進水のイギリス海軍の装甲巡洋艦。マイノーター級。最後に建造されたイギリス海軍の装甲巡洋艦である。
艦歴
[編集]1905年2月25日起工。1907年4月24日進水。1909年2月9日就役。
1914年初頭に地中海に配備される。第一次世界大戦開戦時、ゲーベン追跡戦に関与する。それから、ドイツのシュペー艦隊の捜索に参加するため南大西洋へ向かうよう命じられた。しかし「ディフェンス」が到着する前にフォークランド沖海戦が生じ、この海戦でシュペー艦隊は壊滅した。
ユトランド沖海戦
[編集]1916年5月31日、第1巡洋艦戦隊の旗艦としてユトランド沖海戦に参加した[1]。「ディフェンス」にはロバート・アーバスノット少将が将旗を掲げて坐乗した[1]。他にこの戦隊には「ウォーリア」、「デューク・オブ・エジンバラ」、「ブラック・プリンス」が属していた。
「ディフェンス」は英独両艦隊の間を大破・漂流する独軽巡洋艦「ヴィースバーデン」に止めを刺しに向かったが[1]、この際に大洋艦隊の戦艦及び巡洋戦艦の射線に入り込み、戦艦「カイザー」から致命傷となる命中弾を受けた[2]。このため主砲弾薬庫付近で火災が生じた。さらに7.5インチ副砲弾薬庫に延焼・誘爆を引き起こして爆発を起こした[3][4]。「ディフェンス」は18時20分に大爆発を起こして沈没、アーバスノット提督を含む乗組員全員が戦死した[1]。戦死者数は893人~903人とされる[3]。
1984年、「ディフェンス」の残骸がクライブ・カッスラーにより発見された。「ディフェンス」は爆発・轟沈したにもかかわらず状態良く残っていた。現在、「ディフェンス」の残骸は1986年戦跡保護法によって保護されている。
脚注
[編集]注釈
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出典
[編集]- ^ a b c d Halpern, Paul G. "Arbuthnot, Sir Robert Keith, fourth baronet". Oxford Dictionary of National Biography (英語) (online ed.). Oxford University Press. doi:10.1093/ref:odnb/30432。 (要購読、またはイギリス公立図書館への会員加入。)
- ^ 宮永, 忠将 著、市村 弘 編『世界の戦艦プロファイル ドレッドノートから大和まで』大日本絵画、東京都千代田区、2015年、49頁。ISBN 9784499231527。
- ^ a b Burt, R. A. (1987). “Minotaur: Before the Battlecruiser”. Warship (London: Conway Maritime Press) 42: 91-92. ISSN 0142-6222.
- ^ Brown, David K.『The Grand Fleet: Warship Design and Development 1906–1922』(reprint of the 1999)Caxton Editions、London、2003年、167頁。ISBN 1-84067-531-4。