アネマス (971年没)
アン=ヌウマーン・イブン・アブドゥルアジーズ・イブン・シュアイブ・イブン・ウマル・アル=クルトゥビー アネマス | |
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死亡 |
971年7月24日ごろ ドロストポリ |
父親 | アブドゥルアジーズ・イブン・シュアイブ |
信仰 | イスラーム、後に東方正教会 |
アン=ヌウマーン・イブン・アブドゥルアジーズ・イブン・シュアイブ・イブン・ウマル・アル=クルトゥビー(971年没)は、クレタ島のイスラーム政権最後のアミールであったアブドゥルアジーズ・イブン・シュアイブの息子。後にビザンツ帝国でアネマス (ギリシア語: Ἀνεμᾶς)の名で知られるようになった。
生涯
[編集]カンダクス包囲戦の末に、クレタ島はビザンツ帝国に再征服された。アネマスと父アブドゥルアジーズは将軍ニケフォロス(後の皇帝ニケフォロス2世フォカス)の捕虜となり、コンスタンティノープルでの凱旋式で引き回された[1]。
コンスタンティノープルに住むことになったアネマスはキリスト教に改宗し、ビザンツ軍に参加して、皇帝の護衛として仕えるようになった[2][3]。
971年、皇帝ヨハネス1世ツィミスケスによるキエフ・ルーシとの戦争に同行し、ドロストポリ包囲戦でたびたび戦闘に身を投じた[3]。歴史家レオン・ディアコノスによれば、籠城するルーシ軍が城外へ出撃してきたとき、アネマスはみずから第二位の敵将イクモルを討ち取ったという[4]。翌日(レオーン・ディアコノスは「7月24日金曜日」と記録しているが、この年の7月24日は月曜日である)日没ごろ、ルーシ軍は包囲突破を目指して全軍出撃してきた。アネマスはルーシ軍の長スヴャトスラフのもとへ突撃し、首に一撃を与えて落馬させた。しかしスヴャトスラフは鎧のおかげで一命をとりとめた。すぐに周囲から集まってきたルーシ兵に追い詰められたアネマスは、そのうち数人を倒したものの、ついには自殺して果てた[5]。ルーシ軍は自信を取り戻して再度攻勢に出たが、結局膨大な犠牲を出して城へ推し戻された。最終的にスヴャトスラフはビザンツ軍に降伏し、ヨハネス1世と和平を結んだ[6]。
11世紀から12世紀にかけて活躍したビザンツ貴族アネマス家は、このアネマスの子孫である可能性がある[3]。
脚注
[編集]- ^ Kaldellis 2017, p. 37.
- ^ Talbot & Sullivan 2005, p. 192.
- ^ a b c PmbZ, Anemas (#20421).
- ^ Talbot & Sullivan 2005, pp. 192–193.
- ^ Talbot & Sullivan 2005, p. 196.
- ^ Talbot & Sullivan 2005, pp. 196–199.
参考文献
[編集]- Kaldellis, Anthony (2017). Streams of Gold, Rivers of Blood: The Rise and Fall of Byzantium, 955 A.D. to the First Crusade. Oxford University Press. ISBN 978-0190253226
- Lilie, Ralph-Johannes; Ludwig, Claudia; Pratsch, Thomas; Zielke, Beate (1998–2013). Prosopographie der mittelbyzantinischen Zeit (German). Berlin and Boston: De Gruyter.
- Talbot, Alice-Mary; Sullivan, Dennis F., eds (2005). The History of Leo the Deacon: Byzantine Military Expansion in the Tenth Century. Washington, DC: Dumbarton Oaks. ISBN 978-0-88402-324-1