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アネマス (971年没)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
アン=ヌウマーン・イブン・アブドゥルアジーズ・イブン・シュアイブ・イブン・ウマル・アル=クルトゥビー
アネマス

死亡 971年7月24日ごろ
ドロストポリ
父親 アブドゥルアジーズ・イブン・シュアイブ英語版
信仰 イスラーム、後に東方正教会
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アン=ヌウマーン・イブン・アブドゥルアジーズ・イブン・シュアイブ・イブン・ウマル・アル=クルトゥビー971年没)は、クレタ島イスラーム政権最後のアミールであったアブドゥルアジーズ・イブン・シュアイブ英語版の息子。後にビザンツ帝国アネマス (ギリシア語: Ἀνεμᾶς)の名で知られるようになった。

生涯

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カンダクス包囲戦英語版の末に、クレタ島はビザンツ帝国に再征服された。アネマスと父アブドゥルアジーズは将軍ニケフォロス(後の皇帝ニケフォロス2世フォカス)の捕虜となり、コンスタンティノープルでの凱旋式で引き回された[1]

コンスタンティノープルに住むことになったアネマスはキリスト教に改宗し、ビザンツ軍に参加して、皇帝の護衛として仕えるようになった[2][3]

971年、皇帝ヨハネス1世ツィミスケスによるキエフ・ルーシとの戦争に同行し、ドロストポリ包囲戦英語版でたびたび戦闘に身を投じた[3]。歴史家レオン・ディアコノス英語版によれば、籠城するルーシ軍が城外へ出撃してきたとき、アネマスはみずから第二位の敵将イクモルを討ち取ったという[4]。翌日(レオーン・ディアコノスは「7月24日金曜日」と記録しているが、この年の7月24日は月曜日である)日没ごろ、ルーシ軍は包囲突破を目指して全軍出撃してきた。アネマスはルーシ軍の長スヴャトスラフのもとへ突撃し、首に一撃を与えて落馬させた。しかしスヴャトスラフは鎧のおかげで一命をとりとめた。すぐに周囲から集まってきたルーシ兵に追い詰められたアネマスは、そのうち数人を倒したものの、ついには自殺して果てた[5]。ルーシ軍は自信を取り戻して再度攻勢に出たが、結局膨大な犠牲を出して城へ推し戻された。最終的にスヴャトスラフはビザンツ軍に降伏し、ヨハネス1世と和平を結んだ[6]

11世紀から12世紀にかけて活躍したビザンツ貴族アネマス家は、このアネマスの子孫である可能性がある[3]

脚注

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  1. ^ Kaldellis 2017, p. 37.
  2. ^ Talbot & Sullivan 2005, p. 192.
  3. ^ a b c PmbZ, Anemas (#20421).
  4. ^ Talbot & Sullivan 2005, pp. 192–193.
  5. ^ Talbot & Sullivan 2005, p. 196.
  6. ^ Talbot & Sullivan 2005, pp. 196–199.

参考文献

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  • Kaldellis, Anthony (2017). Streams of Gold, Rivers of Blood: The Rise and Fall of Byzantium, 955 A.D. to the First Crusade. Oxford University Press. ISBN 978-0190253226 
  • Lilie, Ralph-Johannes; Ludwig, Claudia; Pratsch, Thomas; Zielke, Beate (1998–2013). Prosopographie der mittelbyzantinischen Zeit (German). Berlin and Boston: De Gruyter.
  • Talbot, Alice-Mary; Sullivan, Dennis F., eds (2005). The History of Leo the Deacon: Byzantine Military Expansion in the Tenth Century. Washington, DC: Dumbarton Oaks. ISBN 978-0-88402-324-1. https://books.google.com/books?id=RCDsV41k8A0C