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アブー・バクル・バーキッラーニー

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

アブー・バクル・バーキッラーニーアラビア語: أبو بكر محمد بن الطيب الباقلاني‎, ラテン文字転写: Abū Bakr Muḥammad b. al-Ṭayyib al-Bāqillānī; 940年頃生 - 1013年6月14日頃歿) は、イスラーム教スンナ派神学者法学者、論理学者。アシュアリー派の神学理論を発展させた。修辞弁論に優れ、同時代人よりカラーム(神学)フィクフ(聖法学)の諸問題に関する議論に精通しているとみなされた。バーキッラーニーのラカブを含む尊号(尊敬を込めて呼ぶ呼び名)としては、 Shaikh as-Sunnah (スンナのシャイフ), Lisān al-Ummah (ウンマの舌), Imād ad-Dīn (信仰の柱), Nāsir al-Islām (イスラームの守護者), Saif as-Sunnah (スンナの剣) などがある。

情報源

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ハティーブ・バグダーディー英語版カーディー・アイヤード英語版イブン・ハッリカーン英語版らがバーキッラーニーの伝記を書いており、これらが彼の生涯に関する情報源になっている(al-Khatīb al-Baġḍāḍī, Taʾrīḫ Baġḍāḍ; al-Qāḍī ‘Ayyāḍ, Tartīb al-mandārik; Ibn Khallikān, Wafayāt al-aʿyān wa-anbāʾ abnāʾ al-zamān[1][2]。バーキッラーニーの議論は当時多くの人を魅了したと言われ、その論争や弁駁の技術の巧みさを伝える逸話が多い[1]。カーディー・アイヤードはそのような逸話を収集している[1]。しかし、その中には情報源としては不適切な逸話もある[1]

生涯

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バーキッラーニーの正確な生年についてはまったく手掛かりがなく、不明である[1][2]。伝記の記述を基にした「ヒジュラ暦338年頃」という推定もあるが、根拠は弱い[2]バスラで生まれたとされており、ほとんどの情報源が彼のことを Ibn al-Bāqillānī と呼んでいるため、バーキッラーニーはバスラの青果商の息子であったと推測されている[1][2]al-Bāqillānī は字義通りには青果商を意味するためである[1]。しかし、イブン・ハッリカーンは al-Bāqillānī が誤記によって生じた呼び名であると指摘し、元来は Baqlā’ という地名のニスバであったに違いないと結論付けている[2]。いずれの説が正しいにせよ、ナサブではなくニスバにより、「バーキッラーニー」と呼ばれることが定着している[1][2]

バーキッラーニーは成人してからは生涯のほとんどをバグダードで過ごした[1]。バグダードではアシュアリー派の神学者イブン・ムジャーヒド・ターイーアラビア語版から法源学(ウスール)を、マーリキー派の法学者アブー・ハサン・バーミリーアラビア語版から法解釈学(フィクフ)を学んだ[2]

また、聖法学をマーリキー派の法学者アブー・アブディッラー・ シーラーズィー Abu 'Abdillah ash-Shirazi とイブン・アビー・ザイド・カイラワーニー英語版から学んだ。それぞれの師からイジャーザを承けると、バグダードでアシュアリー派法学とマーリキー派聖法学を教え始めた。バグダードや 'Ukbara (バグダードからそう遠くないところにあった町)の法官長(カーディーの長)を務めた。バーキッラーニーの説教は非常に評判を呼び、同時代の高名な学者がよく討論に訪れた。あまりに弁論・討論に巧みであったので、ブワイフ朝アミールアドゥドゥッダウラ英語版コンスタンティノープルのビザンチン宮廷への遣使にバーキッラーニーを立て、ビザンツ皇帝の前で正教会キリスト教徒と議論させた。ヒジュラ暦371年(グレゴリオ暦981年頃から982年頃)のことである。

バーキッラーニーはヒジュラ暦403年ズルカアダ月26日(グレゴリオ暦1013年6月14日前後)に亡くなった[1]

バーキッラーニーは、クルアーンの模倣不能性(イゥジャーズル・クルアーン英語版)こそが預言者ムハンマド預言者性ヌブッワ)を証明するとする説、クルアーンが永遠の神の言葉であるとする説(ジャフミー派への反駁)、執り成しの問題、神の可視性の問題について論じた。

イブン・タイミーヤは、最もすぐれたアシュアリー派神学者はバーキッラーニーであるとし、バーキッラーニーは空前絶後の存在であると評した[1][2]

著作

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カーディー・アイヤードがバーキッラーニーの著作リストを作成している[1][2]。このリストは全部で42の論文・著作からなるが、現代の研究者はさらに多くの著作があることを発見している[1][2]。ただし、これらの著作のうち、現代にまで伝世されているのは、以下の6タイトルのみである[1][2]

  • al-Inṣāf fīmā Yajib I'tiqāduh
  • I‘jāz al-Qur’ān
  • al-Intiṣār lil-Qur’ān
  • al-Taqrīb wal-Irshād aṣ-Ṣaghīr
  • Kitāb Tamhīd al-Awāʼil wa-Talkhīṣ ad-Dalāʼil
  • Manāqib al-A’immah al-Arba‘ah

出典

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n McCarthy, R. J. (1960). "al-Bāḳillānī". In Gibb, H. A. R.; Kramers, J. H. [in 英語]; Lévi-Provençal, E. [in 英語]; Schacht, J. [in 英語]; Lewis, B.; Pellat, Ch. [in 英語] (eds.). The Encyclopaedia of Islam, New Edition, Volume I: A–B. Leiden: E. J. Brill. pp. 958–959.
  2. ^ a b c d e f g h i j k IBISH, YUSUF (1965). “LIFE AND WORKS OF AL-BĀQILLĀNĪ”. Islamic Studies (Islamic Research Institute, International Islamic University, Islamabad) 4 (3): 225–236. http://www.jstor.org/stable/20832805.