アマブル=ギヨーム=プロスペ・ブルジエール・ド・バラント
バラント男爵アマブル=ギヨーム=プロスペ・ブルジエール(フランス語: Amable-Guillaume-Prosper Brugière, baron de Barante、1782年6月10日 - 1866年11月22日)は、フランスの政治家、外交官、歴史家。中道左派とされたバラント男爵[1]はフランスで自身を「自由主義者と称することに恥じる必要もなければ、制約もない」(without any embarrassment or restriction, a Liberal)人物の第一人者である[2]。
生涯
[編集]クロード=イニャス・ブルジエール・ド・バラント男爵の息子として、1782年6月10日にリオンで生まれた。16歳のときにパリのエコール・ポリテクニークに入学した後、20歳のときに公務員になった[3]。以降は昇進をつづけ、1806年には国務大臣の監査役を務めるようになった[3]。ドイツ、ポーランド、スペインに相次いで派遣された後、ヴァンデ県知事に就任した[3]。1815年の百日天下が始まったときにはナント知事を務めていたが、すぐに辞任、第二次王政復古の後に国務大臣と内務省の事務局長に任命された[3]。間接税局の事務総長を数年間務めた後、1819年にフランスの貴族に叙された[3]。同時期には自由主義者の間でも目立った存在になっていた[3]。
1830年の七月革命の後、トリノ駐在フランス大使に任命され、1835年にはサンクトペテルブルク駐在フランス大使に任命された[3]。以降国王ルイ・フィリップの治世に一貫して政府を支持、1848年のフランス革命で王政が崩壊すると、同年2月に政界を引退してオーヴェルニュにある領地に戻った[3]。政界引退の直前、レジオンドヌール勲章グランクロスを授与された[3]。1866年11月22日に死去した[3]。
著作
[編集]- Tableau de la littérature française au dixhuitième siècle(1809年)
- Des communes et de l'aristocratie(1821年) - フリードリヒ・フォン・シラーの著作のフランス語翻訳[3]
- Histoire des ducs de Bourgogne de la maison de Valois(1824年 - 1828年) - バラントはこの著作によりアカデミー・フランセーズ会員に選出された[3]
- Questions constitutionnelles(1850年)[3]
- Histoire de la Convention Nationale(1851年 - 1853年、6巻)[3]
- Histoire du Directoire de la République française(1855年)[3]
- Études historiques et biographiques(1857年)[3]
- La Vie politique de M. Royer-Collard(1861年)[3]
- Souvenirs(1890年 - 1899年、パリ) - 孫により出版[3]
脚注
[編集]- ^ Takeda, Chinatsu (2018). Mme de Staël and Political Liberalism in France. Springer. p. 182
- ^ Crăiuțu, Aurelian (2003). Liberalism Under Siege: The Political Thought of the French Doctrinaires. Lexington Books. p. 30
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r Chisholm, Hugh, ed. (1911). . Encyclopædia Britannica (英語). Vol. 3 (11th ed.). Cambridge University Press. pp. 379–380.
前任 レーモン・ド・セーズ |
アカデミー・フランセーズ 席次33 第10代:1828年 - 1866年 |
後任 ジョゼフ・グラトリー |