アマーヌッラー・ハーン
アマーヌッラー・ハーン امان الله خان | |
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アフガニスタン首長 アフガニスタン国王 | |
アマーヌッラー・ハーン | |
在位 |
1919年2月28日 - 1926年6月7日(アフガニスタン首長) 1926年6月7日 - 1929年1月14日(アフガニスタン国王) |
全名 |
امان الله アマーヌッラー |
出生 |
1892年6月1日 アフガニスタン、パグマン |
死去 |
1960年4月25日(67歳没) スイス、チューリッヒ |
配偶者 | ソラヤ・タルズィー |
王朝 | バーラクザイ朝 |
父親 | ハビーブッラー・ハーン |
母親 | サルワル・スルタナ・ベグム |
宗教 | イスラム教スンナ派 |
アマーヌッラー・ハーン(パシュトゥー語: امان الله خان, ラテン文字転写: Amānullāh Khān、1892年6月1日 - 1960年4月26日)は、アフガニスタンの首長・国王(在位:1919年2月28日 - 1929年1月14日)。ハビーブッラー・ハーンの三男。
生涯
[編集]1919年2月21日の国王ハビーブッラー・ハーンの死後、2月27日、叔父のナスルッラー・ハーンを追い出して国王(アミール)を宣言した。2月28日、アフガニスタンの独立を宣言した。
対外的には、5月にイギリスに対してジハードを宣言し、イギリス領インドのパンジャーブ州のパシュトゥーン人に蜂起を煽動した。これにより、第三次アフガン戦争が勃発した。イギリスは、アフガニスタンに1ヶ月間部隊を投入したが、顕著な軍事的及び政治的成果を収められずに退却し、アングロ・アフガン条約(ラーワルピンディー条約)によってアフガニスタンの独立が承認された。また、ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国と外交関係を樹立した。
アフガニスタンの聖職者階級は、当初新国王を支持していたが、すぐに積極的な敵対派に変わった。聖職者の特別な不満を引き起こしたのは、多妻制及び未成年者との結婚の禁止、チャードルを被る義務の撤廃、並びに女学校の開校及び教育に対する聖職者階級の監督の廃止等、オスマン帝国で行われたような改革の実施だった。そして1923年以降、改革に不満を持った保守派の蜂起が頻発した。1923年、ハザラジャート州で、1924年、パクティヤー州でそれぞれパシュトゥーン人の蜂起が起こったが、これらを鎮圧した。
1926年6月7日、国王の称号をアミールからシャーに変更した。同年、ソビエト連邦と中立及び相互不可侵条約を締結した。
1928年、カーブルの男性に洋服の着用を義務付ける命令を公布するも、この命令は結果的にアマーヌッラーの致命傷となった。同年、シンワラ等の地で反乱(「バッチャ・サカオの乱」)が起こった。これを好機と見たイギリスは、タジク人の反乱指導者ハビーブッラー・カラカーニーに資金と武器を手渡してアマーヌッラーの打倒に乗り出した。ハビーブッラー・カラカーニーの部隊がカーブルを占領すると、 1929年1月14日、兄のイナーヤトゥッラーに王位を譲り、空路カンダハールを経て[1]イタリアに亡命した。
なお、イナーヤトゥッラーも数日後ハビーブッラー・カラカーニーによって王位を追われた。その後も混乱は続き、1929年10月にアマーヌッラーのもとで国防相を務めた経験を持つムハンマド・ナーディル(バーラクザイ朝王家の分家出身)がハビーブッラー・カラカーニーを処刑して王位を継いだ(ムハンマド・ナーディル・シャーに続く王朝をナーディル・シャー朝とも称する)。
1929年、アマーヌッラーはインド経由でイタリアに亡命し、さらにスイスで私人として暮らし、政治から退いた。1960年、チューリッヒで死去。 亡命後に生まれた娘、ナジア・ドアンは成長してトルコ人実業家と結婚。トルコでは「アフガンの王女」と呼ばれた。生まれてから長らくアフガニスタンを訪れたことはなかったが、2019年、独立100年を記念して招請を受け同国を訪問した[2]。
脚注
[編集]- ^ 国王アマヌラ・カーンが退位、兄に譲位『東京日日新聞』昭和4年1月16日夕刊(『昭和ニュース事典第2巻 昭和4年-昭和5年』本編p7 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)
- ^ “「アフガンの王女」祖国を憂う タリバン変化に期待―トルコ”. 時事通信 (2021年10月18日). 2021年10月18日閲覧。
関連項目
[編集]- ヴィタリー・プリマコフ
- グレート・ゲーム
- マフムード・タルズィー - 妻ソラヤ・タルズィーの父であり、アマーヌッラーの下で外相などを務めた。
- ダルラマン宮殿 - アマーヌッラー・ハーンにより建設。