アムタイ・コンタイジ
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出身氏族 | |
---|---|
ボルジギン氏
(チャハル左翼アラグチュドalaγčud営) | |
名字称諡 | |
明代音写 | |
清代音写
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出生死歿 | |
出生年 | 明嘉靖年間? |
死歿年 | 明萬曆年間? |
親族姻戚 | |
高祖父 | ダヤン・カアン |
伯祖父 | ボディ・アラク・カアン |
又従兄弟 | トゥメン・ジャサクトゥ・カアン |
アムタイ・コンタイジ (ナムタイ-とも)[注 1]は、明朝後期の蒙古 (北虜)で、チャハル部の酋長の一。
略歴
[編集]元は薊門[注 2]の撫夷[注 3]であったが、隆慶6年1572から東進し始め、萬曆年間にはトゥメン・ジャサクトゥ・カアンやチャハルの諸酋長、およびハルハ・バリン部のスバハイらと連れ立って明辺塞を度々掠奪した[2]。
トゥメン・ジャサクトゥ・カアンを補佐しながら海西女直のイェヘと結び、建州女直を統一したヌルハチ勢力に対抗したが、老齢のために自らはそれ以上の勢力拡大も果たせず、子孫も栄えなかった[5]。
一族
[編集]*本章は基本的に森川哲雄(1976)[1]に準拠し、仮名表記については転写を参考した。
- 高祖父・ダヤン・カアンdayan qaγan:バトゥ・モンケ。モンゴル帝国第34代カアン。
- 曾祖父・トロ・ボラトtörö bolad
- 伯祖父・ボディ・アラク・カアンbodi alaγ qaγan:第36代カアン。[注 4]
- 従伯父・ゴデン・カアンgödeng qaγan:第37代カアン。
- 又従兄・トゥメン・ジャサクトゥ・カアンtümen ǰasaγtu qaγan:第38代カアン。
- 従伯父・ゴデン・カアンgödeng qaγan:第37代カアン。
- 祖父・ネメグ・ノヤンnemeg noyan
- 父・アイダビシ・タイジayidabiš tayiǰi
- アムタイ・コン・タイジ
- 叔父・ボイマ・タイジboyima tayiǰi
- 父・アイダビシ・タイジayidabiš tayiǰi
- 伯祖父・ボディ・アラク・カアンbodi alaγ qaγan:第36代カアン。[注 4]
- 曾祖父・トロ・ボラトtörö bolad
脚注
[編集]典拠
[編集]- ^ a b 三. Dayan qaγan の諸子分封とチャハル. “チャハル・八オクトとその分封について”. 東洋学報 58 (1): 136-149.
- ^ a b “東三邊一 (腦毛大列傳)”. 萬曆武功錄. 10
- ^ “列傳第126 (李成梁)”. 明史. 238
- ^ “隆慶6年1572 4月15日/段57968”. 穆宗莊皇帝實錄. 69
- ^ a b c “92. 拱兔及び腦毛大”. 内蒙古諸部落の起源. pp. 376-387
- ^ “額納特珂克土伯特䝉古汗等源流”. 欽定蒙古源流. 6
注釈
[編集]文献
[編集]史書
[編集]- 瞿 九思『萬曆武功錄』(明萬曆40年1612) 國學文庫 (漢)
- 和田 淸『内蒙古諸部落の起源』(大正6年1917) 奉公會
論文
[編集]- 『東洋学報』(1958) 41-1, 和田 清「〈論説〉察哈爾部の變遷 (上)」
- 『東洋学報』(1976) 58-1, 森川 哲雄「チャハル・八オクトとその分封について」