アヨーディヤー
アヨーディヤー | |
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都市 | |
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愛称: | |
座標:北緯26度47分57秒 東経82度12分16秒 / 北緯26.7992度 東経82.2044度座標: 北緯26度47分57秒 東経82度12分16秒 / 北緯26.7992度 東経82.2044度 | |
国 | インド |
州 | ウッタル・プラデーシュ州 |
地方 | アヨーディヤー |
県 | アヨーディヤー |
政府 | |
• 種別 | インドの地方自治体 |
• 議会 | アヨーディヤー市営公社 |
• 市長 | ギリッシュ パティ トリパティ[4] (インド人民党) |
• サバ州国会 議員 | アワデシュ・プラサド (SP)[5] |
• ウッタル・プラデーシュ 州議会 | ヴェド・プラカシュ・グプタ (BJP) |
面積 | |
• 合計 | 120.8 km2 |
標高 | 93 m |
人口 (2011[6]) | |
• 合計 | 55,890人 |
• 密度 | 460人/km2 |
族称 |
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言語 | |
• 公用語 | ヒンディー語[7] |
• 追加 公用語 | ウルドゥー語[7] |
• 地域的 | アワディ語[8] |
等時帯 | UTC+05:30 (IST) |
郵便番号 |
224001, 224123, 224133, 224135 |
市外局番 | +91-5278 インドの電話番号 |
ナンバープレート | UP-42 |
ウェブサイト |
ayodhya |
アヨーディヤー(ヒンディー語: अयोध्या, ラテン文字転写: Ayodhyā, 英語: Ayodhya, アヨーデャーとも)はインドの古都。ウッタル・プラデーシュ州北部のファイザーバード県に位置し、7 km西にファイザーバードの街がある。アヨーディヤとも表記されるが、現地語の名称では最後の音節は長母音である。
アヨーディヤーの名は「難攻不落の都城」を意味し、古代コーサラ国の初期の首都とされ、叙事詩『ラーマーヤナ』の主人公ラーマ王子の故郷としても知られる。
歴史
[編集]古代にはサーケータという名でも知られ、ヒンドゥー教ではインドの七つの聖なる町の筆頭とされてきた。
この町を中心とした地域はかつて、アヨーディヤーの名をとって「アワド」という歴史的名称で呼ばれ、古来より数々の王朝がこの地を領して栄えた。
13世紀にデリー・スルターン朝が成立したのちも、アワドは重要な地域とされ、一時はデリーから独立したジャウンプル・スルターン朝が成立した。
16世紀以降、この地域がムガル帝国の支配下にはいるとアワド太守が設置され、18世紀初頭に帝国が衰退すると、アワド太守はこの地に地方政権を樹立した。
日本ではパープル・モスクの名でも知られたバーブリー・マスジド(モスク)はムガール帝国初代皇帝のバーブルが建てたものだったが、この当時既にヒンドゥー団体に管理され、ラーマ神像があり、実質ヒンドゥー寺院であった[9]。ヒンドゥー教伝説のラーマ神誕生の聖地とされ、ヒンドゥー教徒らは以前ここにヒンドゥー寺院がありそれが壊された瓦礫の上にモスクが建てられたと信じ、ヒンドゥー至上主義団体の「世界ヒンドゥー協会」(VHP)はモスクのあった場所にラーマ寺院を建設する運動を始めていた[10]。1992年7月、世界ヒンドゥー協会とインド人民党(BJP)が信者を動員してモスク敷地内でヒンドゥー寺院の基礎工事を強行、国論を二分する争いとなった[11]。連邦政府の仲介でいったん中断したものの、ヒンドゥー、イスラーム両派の話し合いは不調に終わった[11]。世界ヒンドゥー協会は工事再開を宣言、12月6日にヒンドゥー教強硬派はついにモスクを破壊した(バーブリー・マスジド倒壊事件)[9]。当時、州政府はインド人民党の手にあった。その夜からイスラーム教徒の暴動が始まり、ムンバイやジャイプールなどイスラーム教徒の多い都市を中心に全国に波及し、両教徒間の衝突も続発、独立後最大の宗教暴動となった[12]。ムンバイではイスラーム教徒居住地区では無期限の外出禁止命令が出され、警官・兵士には視野に入った者は射殺してよいとの命令が出され[12]、ムンバイだけでも死者は1,700人以上になったとされるが、虐殺者が起訴されたという話はほとんど聞かれないという[13]。その後も、宗教対立が再燃、暴動が続発した[14]。ヒンドゥー至上主義勢力の指導者らや最大のヒンドゥー至上主義団体でありインド人民党の選挙支持母体でもあった民族義勇団(RSS)は傘下の世界ヒンドゥー協会や青年組織とともに非合法化された[12]が、その後、傘下団体の過激行動であることからRSS等は根拠不十分として特別法廷で処分が取消された[15][13]。
2002年2月、世界ヒンドゥー協会が中断していたヒンドゥー寺院建設に翌3月半ばまでに再着工すると宣言したところ、2月27日にインド西部のグジャラート州で運動参加者の乗った列車が放火され、多数の焼死者が出た[16]。これにより、グジャラート州を中心にヒンドゥー教徒がイスラーム教徒を犯人として報復襲撃、多数の死者が出る暴動事件が続発した(グジャラート暴動)[16]。この事件にはインド側からはパキスタンのイスラーム至上主義団体やパキスタン軍情報機関の関与も主張されたが、イギリス政府の調査によれば、イスラーム教徒襲撃暴動はおそらく事前に計画された政治的なものであるとされた[17]。この事件では、当時、中央政府から任命されて州政府首相を務めていたヒンドゥー至上主義者のモディ首相が、ヒンドゥー教徒に支持され政治的支持を高めることになった。この調査では、イスラーム教徒を中心に2千人以上が殺害され[18]、イスラーム教徒女性が広範組織的にレイプされ、13万8千人が避難民となり、アフマダーバードの両教徒の混在地域では、イスラーム教徒の店舗だけが狙い撃ちにされてすべて破壊されたという[17]。
2019年に最高裁は跡地をヒンドゥー教徒側に引き渡し、イスラーム教徒側には代替の土地を割り当てる判断を下した[18]。この場所にはヒンドゥー寺院のラーム・マンディール寺院が建てられ、2024年1月22日には全国的な厳戒態勢が敷かれる中で落成式を挙行。約8,000人が招かれ、首相のナレンドラ・モディも出席した[19]。
またタイの古都アユタヤ、更にはインドネシアの古都ジョグジャカルタもアヨーディヤーの名に由来する。
脚注
[編集]- ^ “Ayodhya decked up for 'Vikas Deepotsav'; over 9 lakh earthen lamps to illuminate temple town” (November 2021). 3 November 2021時点のオリジナルよりアーカイブ。3 November 2021閲覧。
- ^ “Frenzied spiral grips Ayodhya, temple town turns festive burlesque ahead of Ram Mandir consecration”. The Telegraph. (21 January 2024). オリジナルの21 January 2024時点におけるアーカイブ。 21 January 2024閲覧。
- ^ “The Voices Of Ayodhya - Watch NDTV Special Episode From Temple Town”. NDTV. (20 January 2024). オリジナルの22 January 2024時点におけるアーカイブ。 21 January 2024閲覧。
- ^ “Meet Ayodhya's new mayor: A former UPSC aspirant and Mahant of a city mandir”. Hindustan Times (13 May 2023). 20 May 2023時点のオリジナルよりアーカイブ。21 May 2023閲覧。
- ^ “Ayodhya, Kanpur, Gorakhpur and Gonda seats results LIVE updates: SP leads in Ayodhya as BJP's Lallu Singh falls behind”. Hindustan Times. (4 June 2024) 4 June 2024閲覧。
- ^ “AYODHYA in Faizabad (Uttar Pradesh)”. .citypopulation.de. 12 August 2020時点のオリジナルよりアーカイブ。1 August 2020閲覧。
- ^ a b “52nd Report of the Commissioner for Linguistic Minorities in India”. nclm.nic.in. Ministry of Minority Affairs. p. 49. 25 May 2017時点のオリジナルよりアーカイブ。12 February 2019閲覧。
- ^ “Awadhi”. Ethnologue. 6 June 2019時点のオリジナルよりアーカイブ。7 May 2019閲覧。
- ^ a b 「アヨディヤはヒンズー教徒の「屈辱の聖地」」『朝日新聞』1992年12月9日、朝刊。
- ^ 「対イスラムでヒンドゥー主義台頭」『朝日新聞』2002年4月9日、朝刊。
- ^ a b 「宗教対立・カースト問題が再燃」『朝日新聞』1992年12月4日、朝刊。
- ^ a b c 「インドの宗教暴動 ヒンズー至上主義の高まり」『AERA』、朝日新聞社、1992年12月22日、63頁。
- ^ a b 「宗教暴動の「元凶」を合法化」『AERA』1993年7月6日。
- ^ 「インド西部の暴動死傷者、600人超す」『朝日新聞』1993年1月10日、朝刊。
- ^ 「ヒンズー2団体の非合法化取り消す」『朝日新聞』1993年6月5日、朝刊。
- ^ a b 「聖地の争い、憎しみ連鎖」『朝日新聞』2002年3月2日、朝刊。
- ^ a b 湊一樹『「モディ化」するインド 大国幻想が生み出した権威主義』中央公論新社〈中公選書 151〉、2024年5月10日、66-67頁。ISBN 978-4-12-110152-5。
- ^ a b “モスクの跡地にヒンズー教寺院、総選挙控えモディ首相が成果アピール”. ロイター. (2024年1月22日) 2024年1月25日閲覧。
- ^ “モスク跡地にヒンズー教寺院 印モディ首相、総選挙へ成果誇示”. 中日新聞Web (2024年1月22日). 2024年1月22日時点のオリジナルよりアーカイブ。2024年1月22日閲覧。
外部リンク
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