コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

アラン・ロアン (1853-1914)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
アラン・ロアン
Alain Rohan
ロアン侯
ゲメネ公
ブイヨン公
ロアン侯アラン・ロアン、ヨーゼフ・クリーフーバーのリトグラフ、1870年
在位 1892年 - 1914年

出生 (1853-01-08) 1853年1月8日
オーストリア帝国の旗 オーストリア帝国
ハンガリー王国の旗 ハンガリー王国ブダペスト
死去 (1914-02-23) 1914年2月23日(61歳没)
オーストリア=ハンガリー帝国の旗 オーストリア=ハンガリー帝国
ボヘミアの旗ボヘミア王国プラハ
配偶者 ヨハンナ・フォン・アウエルスペルク
子女 一覧参照
家名 ロアン家
父親 アルトゥール・ロアン
母親 ガブリエーレ・フォン・ヴァルトシュタイン=ヴァルテンブルク
テンプレートを表示

アラン・ベンヤミン・アルトゥール・フュルスト・ロアンAlain Benjamin Arthur Fürst Rohan, 1853年1月8日 - 1914年2月23日)は、オーストリア=ハンガリー(二重帝国)ボヘミアの貴族・大土地所有者。ロアン家家長。オーストリア貴族としてロアン侯、フランス貴族としてモントーバン公爵、ブイヨン公爵、ロシュフォール公及びゲメネ公の爵位を有した。

生涯

[編集]

二重帝国陸軍少将の肩書を持つ軍人アルトゥール・ロアン侯子(1826年 - 1885年)と、その妻の伯爵令嬢ガブリエーレ・フォン・ヴァルトシュタイン=ヴァルテンブルク(1827年 - 1890年)の間の第2子・次男。末の妹マリア・ベルタは、1894年スペインのカルリスタ王位請求者マドリード公カルロス・マリアの後妻となった。

1882年5月1日付で第7竜騎兵連隊ドイツ語版所属の予備役騎兵大尉の肩書を授けられた[1]

1892年に大伯父カミーユ・ロアンからロアン侯その他の称号、北ボヘミアの広大な土地で構成される家族世襲財産、シフロフ城ドイツ語版などを相続した。同時に、世襲のオーストリア貴族院議員席を引き継いだ[2]。議員としてはリベラル派に近い大土地所有者立憲派ドイツ語版に属した。1908年、金羊毛騎士団騎士に任じられた。

子女

[編集]

1885年10月10日にプラハで、オーストリア首相を務めた政治家アドルフ・フォン・アウエルスペルクドイツ語版侯子の娘ヨハンナ(1860年 - 1922年)と結婚。夫婦の間には6人の子があった。

  • ガブリエーレ・ベルト・ヨハンナ・エルネスティーネ・マリー・ジュヌヴィエーヴ(1887年 - 1917年)
  • ベルタ・エルネスティーネ・アレー・セフェリーネ・ヨハンナ・マリア(1889年 - 1977年) - 1920年オットカール・フォン・ヘルツォーゲンベルク男爵と結婚
  • ヨハンナ・マリー・ベルト・ガブリエーレ・エルネスティーネ・ダニエーラ(1890年 - 1961年) - 1922年ルドルフ・フォン・コロレード=マンスフェルト伯爵と結婚
  • アラン・アントン・ヨーゼフ・アドルフ・イグナーツ・マリア(1893年 - 1976年) - ロアン侯
  • マリー・アンナ・アントーニア・ヨハンナ・エルネスティーネ・ガブリエーレ(1893年 - 1966年)
  • カール・アントン・アドルフ・ユーリアン・ヴィクトル・マリア(1898年 - 1975年)

引用・脚注

[編集]
  1. ^ Schematismus für das kaiserliche und königliche Heer und für die kaiserliche und königliche Kriegs-Marine für 1891. S. 581. https://archive.org/stream/schematismusfrd02kriegoog#page/n603/mode/1up
  2. ^ http://alex.onb.ac.at/cgi-content/alex?aid=sph&datum=0011&page=11&size=45
先代
カミーユ
ロアン侯
1892年 - 1914年
次代
アラン