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アラーハーバード条約

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ディーワーニーロバート・クライヴに授けるシャー・アーラム2世

アラーハーバード条約(アラーハーバードじょうやく、英語:Treaty of Allahabad)は、1765年8月16日インドアラーハーバードにおいて、イギリス東インド会社ムガル帝国との間に結ばれた条約。

概要

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1764年10月ムガル帝国アワド太守・前ベンガル太守の連合軍はブクサールの戦いイギリス東インド会社の軍勢に完敗を喫し、1765年8月16日ロバート・クライヴは帝国の皇帝シャー・アーラム2世に以下の条項を認めさせた[1][2][3]

  • 皇帝はイギリス東インド会社に(ベンガル太守の統治する)ベンガルビハールオリッサの三州に対し、ディーワーニー(州財務大臣の職務・それに付随する権限)あるいは領土に対する行政権及び徴税権を与える。
  • そのかわり、イギリスは皇帝に対して、年額260万ルピーを歳幣(年金)として与える。
  • 皇帝は年額280万ルピーの価値があるアラーハーバードコラーの両区域をイギリス東インド会社から割譲される。
  • アワド太守はその領土を保証されるが、イギリス東インド会社にアラーハーバードとコラーの両区域を割譲しなければならない。
  • アワド太守は戦時賠償としてイギリス東インド会社に500万ルピーを支払う。

ディーワーニーをアルタムガー[4](免租地)してイギリスに授与することに関しては、8月12日の勅令ですでに認められていた[2][5]。また、すでにイギリスがベンガル太守からザミーンダーリーが与えられていたカルカッタ周辺の24郡と収祖権を与えられていたチッタゴンバルダマーンミドナープルの三郡を、改めてアルタムガーとして与える旨の勅令も出された[6]

その後の経過

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同年9月30日、ベンガル太守ナジュムッディーン・アリー・ハーンはこの条約を受けて、イギリスに三州のディーワーニーを授与した[7]。イギリスがこの条約で獲得した三州のディーワーニーの存在は大きかった。これは三州を割譲されたわけではなかったが、イギリスが帝国の州財務長官としての諸税の徴収・支出の職務・権限を皇帝により認められたということである[2][8]。また、ディーワーニーをアルタムガーとして与えたことは、三州の収祖権を獲得したも同然であった[2]

3州の行政権に関してはイギリス任命の副太守が行うこととなっており、それを通して司法権を行使することも可能であったが、ベンガル太守が存続していたためこれらの地域は二重統治となった[9][10]。イギリスは最初は間接統治を行い、ベンガル、ビハール、オリッサにはインド人の代理ディーワーンを配置して収祖権を行使した[11]。1772年、ウォーレン・ヘースティングスがベンガル知事となると、徴税・行政・司法が直接統治に移行されることとなった[11]

オリッサに関しては、ベンガル太守やナーグプルのボーンスレー家ニザーム王国フランスなど勢力の支配が混在していたが、1766年からイギリスはフランスの支配していた北サルカールに侵入、これを併合した。その後、イギリスとニザーム王国との間に友好条約が締結され、北サルカールをイギリスに割譲するかわり、その税収の一部を軍事援助費用に充てることが定められた[9]

皇帝はアワド太守の保護を離れたため、アラーハーバードでイギリスからの年金受給者となった。また、このときから帝国に支払われるようになった年金は1857年に帝国でインド大反乱が勃発するまで続いた[6]。イギリスもまた、皇帝から与えられたディーワーニーを1858年まで手放すことはせず、名目上はこの三州の財務長官であり続けた[8]

ベンガル太守はイギリスにディーワーニーが与えられたことにより租税収入がなくなり、彼もまたイギリスからの年金受給者となった。イギリスはベンガル太守に内廷費として年額540万ルピーの支払いを行ったが、代替わりの度に減額され、1772年からは160万ルピーに固定され、1880年にベンガル太守の称号が廃止されるまで支払われた[11]

その一方でアワド太守シュジャー・ウッダウラは過重な賠償を課せられ、その後に結ばれた同盟条約ヴァーラーナシー条約ではイギリスに対して駐在官や軍隊の駐留を認めるなど従属的な立場に追いやられた。こののち、従属的な立場はさらに増して行き、1801年には軍事保護条約を結ばされて藩王国化した。

脚注

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  1. ^ Treaty of Allahabad
  2. ^ a b c d 小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、pp.272-273
  3. ^ ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.260
  4. ^ アルタムガーはトルコ語で「紺色の印章(玉璽)」を意味するが、インドでは免租地を意味した。
  5. ^ 小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』年表、p.44
  6. ^ a b 小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p.273
  7. ^ Murshidabad 8
  8. ^ a b メトカーフ『ケンブリッジ版世界各国史 インドの歴史』、p.81
  9. ^ a b 小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p.276
  10. ^ チャンドラ『近代インドの歴史』、p.68
  11. ^ a b c 小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p.274

参考文献

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  • 小谷汪之『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』山川出版社、2007年。 
  • ビパン・チャンドラ 著、栗原利江 訳『近代インドの歴史』山川出版社、2001年。 
  • バーバラ・D・メトカーフ、トーマス・D・メトカーフ 著、河野肇 訳『ケンブリッジ版世界各国史 インドの歴史』創士社、2009年。 
  • フランシス・ロビンソン 著、月森左知 訳『ムガル皇帝歴代誌 インド、イラン、中央アジアのイスラーム諸王国の興亡(1206年 - 1925年)』創元社、2009年。 

関連項目

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