アラー・ウッディーン・マスウード・シャー
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アラー・ウッディーン・マスウード・シャー | |
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奴隷王朝第7代君主 | |
アラー・ウッディーン・マスウード・シャーのコイン | |
在位 | 1242年 - 1246年 |
死去 |
1246年以降 |
王朝 | 奴隷王朝 |
父親 | ルクヌッディーン・フィールーズ・シャー |
アラー・ウッディーン・マスウード・シャー(Ala ud din Masud Shah, 生年不詳 - 1246年以降)は、北インド のデリー・スルターン朝、奴隷王朝の第7代君主(在位:1242年 - 1246年)。第4代君主であるルクヌッディーン・フィールーズ・シャーの息子にあたる。
生涯
[編集]1242年5月、ムイズッディーン・バフラーム・シャーを殺害したチェハルガーニーらトルコ系貴族らは、デリーの「白の宮殿」と呼ばれる場所から三人の王子を解放した[1]。協議と妥協の結果、バフラーム・シャーの甥アラー・ウッディーン・マスウード・シャーを擁立した[2][1]。
だが、マスウード・シャーの治世もまたトルコ系貴族が実権を握っており、ワズィール(宰相)であるニザームル・ムルク・フワージャ・ムハッザブッディーンが事実上の支配者であった[3]。
しかし、ムハッザブッディーンが対立するトルコ系アミールの一派に殺害されると、マスウード・シャーの残忍で放蕩とした性格も相まって、その王座は危うくなった[4][2]。
1246年6月、マスウード・シャーは貴族らに幽閉され、獄中で一生を終えたという[4]。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 荒松雄『インドの「奴隷王朝」 中世イスラム王権の成立』未来社、2006年。
- フランシス・ロビンソン 著、月森左知 訳『ムガル皇帝歴代誌 インド、イラン、中央アジアのイスラーム諸王国の興亡(1206年 - 1925年)』創元社、2009年。